影大名~徳川家康の影武者、主君の跡を継ぎ天下を臨む 作:ひいちゃ
時は1590年1月。乱世は風雲児・織田信長とその配下の豊臣秀吉、そして織田の同盟者・徳川家康の三者の力によって、終わりを告げようとしていた。
だが、その乱世の終息はかりそめの幻に過ぎなかった。信長のあまりにも過激なやり口についていけなくなった秀吉が、自分の持ち城ごと織田家を離脱、家康も織田と手を切った。織田家が分裂したことで窮地を脱した本願寺と鈴木、そして松永の三家も、三強の勢力争いの間隙をうかがって天下をとろうとしていた。
そんなある日……
所は浜松城。その居間で、徳川家康は、これからの戦いについて戦略をまとめようとしていた。
考えの方向がまとまったのか、家康は組んでいた腕を解き、ふすまのほうに目を向けた。自らを狙う一対の目に気づかぬまま……。
「我が家が天下をとるには、織田家との対決は不可避か……。おい、誰か、筆をとって……」
チクッ!!
その時だった。家康の首筋に鋭い痛みが走ったのは。
それと同時に、体がしびれ、力が抜けてゆく。致死の毒矢を受けたのか。
倒れこむ家康の目に映ったのは、天井裏から自分を見つめる黒ずくめの男の姿だった。
「た、他家の忍びか……。お、織田かそれとも豊臣か……む、無念……許せ、皆の者……」
* * * * *
徳川家康死す―――。
その事態は、徳川家に少なからぬ動揺を与えた。時を経てなお、家康暗殺犯については多くの書物が世に出て、諸説飛び出しているが、このことだけはどの書物にも共通して記されている。
だが、徳川家は揺らいでばかりはいなかった。
その翌日、徳川家の重臣たちによる、緊急の会議が行われる。
その席上で、まっさきに口を開き、怒号を発する男がいた。
「おのれ、これは我が家を混乱させんとする他家の仕業に違いあるまい。絶対に許せぬ!」
たくましいという言葉すら生ぬるい体格と、見事なあごひげを持ち、顔の各所に傷跡を持つ男。
彼の名は本多忠勝。後の世に、「家康に過ぎたるもの」と謳われた、徳川随一の猛将である。
そこに。
「待て! 怒りを発するのはたやすいこと。今は、この事態をどう対処するか、今の徳川家をどうまとめるかが大切だろう!」
忠勝を制止したのは徳川家康。いや、そんなはずはない。家康は先日暗殺され、今は棺に安置されているはずだ。
その家康の一喝にうなずき、言葉を発する者がいた。他の重臣より若いが、その視線の鋭さは劣らない男。彼は井伊直政。後に徳川四天王の一人に数えられる若武者である。
「うむ、二郎三郎の言う通りだ。ここで冷静さを欠き、道を誤れば、それこそ敵の思うつぼ。冷静に今後を見据え、考えなければなるまい」
そう、家康と思われた男の名は世良田二郎三郎。家康の影武者である。
かつては野武士として各地を旅し、ある時はただ気の向くままに流れ、ある時は傭兵として戦いに参加するなど、自由気ままに過ごしていたが、最後に参加した一向一揆が信長に滅ぼされた時、その戦いに参加していた家康に見いだされた。
最初のころこそ、二郎三郎も、そして徳川家臣団も相手を信頼していなかったが、時がたつに連れて、家康を補佐する二郎三郎の手腕に、家臣団も彼を評価し、信頼するようになり、二郎三郎のほうも徳川家を新しい居場所と思うようになり、今では二郎三郎は徳川家になくてはならないものとなっていた。
さて。
直政の言葉を受け、重臣の一人、榊原康政が動揺を抑えきれない表情で言葉を発した。
「二郎三郎、そして直政の言う通りじゃ。じゃがどうしたら……」
その会議で、いまだ会話を発していない者がいた。腕を組んだまま黙しているその男は、本多正信。
主君と強い絆で結ばれ家康股肱の臣と言われ、その一方、その頭脳極めて明晰で、勝つためならばその主君すらも利用するという恐るべき策略の持ち主である。また彼は、二郎三郎の昔からの親友でもあった。
そんな彼が、腕を解き、口を開いた。
「一つだけ手がある……二郎三郎」
そう言って、正信は二郎三郎のほうを見た。その瞳に、影武者への信頼と、知略の鋭き光を秘めて。
「大殿の代わりを務めてはくれぬか?」
驚愕の表情を浮かべる二郎三郎。いや、彼だけではない。徳川四天王どころか、会議の場にいるすべての者が、大きな衝撃を受けていた。
やがて、直政が口を開く。
「なるほど。二郎三郎を影武者ではなく、新たな徳川家の当主に戴くというのか……」
「二郎三郎の手腕、人柄、そして徳川への忠誠、いずれも我が家全ての者が認めるところ……いけるかもしれぬ……」
康政もそう言ってうなずくが、当の二郎三郎は、いまだ衝撃と迷いを顔に浮かべていた。
「だが、皆は、それでいいのか……?」
そうつぶやく。
影武者でしかない自分が、この大恩ある徳川家を我が手に収めてもいいのか? 徳川家に命をささげてきた者たちの想いを踏みにじることになるのではないか? そもそも自分に、徳川を導き、数ある強豪を倒し、天下をとれる力があるのか?
それらの疑問と不安に、二郎三郎は親友の提案にうなずけずにいた。
だが、それを察したかのように、正信は彼を真摯に見つめ、口を開いた。
「大殿の志を誰よりも受け継ぐお前だからこそ頼めることだ。私も、お前がただの影武者ならこんなことは頼まん」
そしてさらに、忠勝もうなずき、二郎三郎に頭を下げた。あの武の象徴、本多忠勝が、である。
「徳川家のため……いや、殿の遺志を継ぐため、平安な世を作るため、引き受けてくれぬか、二郎三郎!」
そしてそれと同時に、その場にいた全ての者が、二郎三郎に頭を下げた。
それが彼に、言葉にならぬ言葉で告げていた。
徳川家康の遺志を継げるのは、二郎三郎しかいない、と。
この後の徳川家を導いていけるのは、二郎三郎しかいない、と。
その言葉を受け取り、胸に刻んだ二郎三郎は決然と立ち上がり、そして宣言した。
「みんなの想い、確かに受け取った。これから俺は徳川家を継ぐ! みんな、俺に力を貸してくれ!」
『おーーーー!!』
本多忠勝が
本多正信が
井伊直政が
榊原康政が
そして、その他の徳川家臣が。
二郎三郎の名乗りに応じて、一斉に鬨の声を上げた。
こうして、徳川家康のあとと心を継いだ、一人の影武者の戦いが始まる……!