陽菜乃に他の寝巻きを用意しようとしたが、貸しているパーカーで大丈夫だと言う。
「そう言えば天野さんって何時に仕事に行くんですか?」
「そうね、大体7時半時くらいね。上野くんは?」
「俺もそのくらいの時間ですよ。帰ってくるは何時ごろですか?」
「ん〜、多分8時過ぎちゃうかもしれないわね」
「8時過ぎ…ですか」
護は思ったよりも遅い時間で少し驚いてしまった。
今二人の住んでいるマンションは都内で、駅も近い。
それに広さも十分あるので、家賃もかなり高い。
そんなここに一人暮らしをしているのだから、それなりに稼いでいるとは思ってはいたが、それ以上に忙しい様だ。
「もしかして、何か都合悪かったりする?」
「いえ、思ったよりも遅かったので大丈夫かなと」
「大丈夫よ。別にブラック企業じゃないわ。たまたま今時期が忙しいだけで、いつもは5時くらいには帰ってこれるわ」
「そうですか。それなら安心ですね」
もしかしたらと心配だったが、早とちりだった様だ。
「心配してくれてありがとう。それよりも、私ってどこで寝たら良いのかしら」
「そうですね、僕の部屋で寝てください。そこしかベッドないので」
「上野くんは?」
「ここのソファで寝ますよ」
「それは、上野くんに悪いわ」
「良いんですよ。美味しい物食べさせてもらったので」
「だから、それは泊まらせてもらうお礼だって言ったのに」
護は、このままでは陽菜乃が引きそうになかったと感じたので、少し奥の手を使う。
「なら、ちゃんともてなさないとダメですね」
「む、上野くんって意外と強情なの?」
「さぁ、どうでしょうね」
「分かったわ。それじゃありがたく使わせてもらうわね」
陽菜乃はそのまま「おやすみなさい」と言いながら護の部屋に入っていった。
その日護は、慣れないソファでの雑魚寝でなかなか寝付けなかった。ついでに言うと、体のあちこちが少し痛んだそうで…
護が目を覚ましたのは、何か良い匂いがした朝の6時。
目を開け、体を起こす。そしてチッキンを見ると、パーカー姿の陽菜乃が何かを作っている様だった。
その様子を見ていると、陽菜乃が護に気づく。
「あ、おはよう上野くん。ベッドありがとうね?よく眠れたわ」
「それは良かったです。それにしても、何してるんですか?」
「朝ごはんを作ってるのよ。冷蔵庫に卵もないんだもん。びっくりしたわ」
それはそうだ。護は例の「魔法のゼリー」しか冷蔵庫に入れてなかった。
しかしキッチンから漂ってくる匂いから察するに、陽菜乃が焼いているのは
「天野さん、その卵どこから持ってきたですか?」
「ん?買ってきたのよ。5時くらいに目が覚めてね。泊まらせてもらっている以上はちゃんとお礼をしなきゃ。それにしても、まな板が無いと不便ね」
「それじゃ今日買ってきますよ」
「ありがとう。それより顔洗ってきたら?もうすぐできるから」
「そうですね。にしても、天野さん順応するの早いですね」
昨日から思ってはいたが、年下とは言え初対面の男の家に上がってこれだけ緊張しない人も珍しい。
まぁ、こっちも変に遠慮されても困るが、逆にここまで来ると清々しい。
「上野くんと一緒に居るのが楽しいから。私だって上野くんみたいな人じゃなかったら、ちゃんと警戒してるわ」
「それは、男として喜んでも良いのか悪いのか。それじゃ顔洗ってきますね」
護は苦笑いしながら顔を洗いに向かう。
そんな洗面所に向かっていった護を見つめながら、陽菜乃は護に聞こえない声で
「まー君は、本当に優しい子だね」
いつもは一人分しか作る事のない朝食を、今回は二人分作っている。
そして、そのもう一人の分は自分にとっては特別な人。
そんな些細な事に、陽菜乃から笑みが溢れていた。
「幸せだなぁ〜。鍵を無くして、こんな良い事があるなんてやっぱり運命なのかな」
「運命って?何だか嬉しそうですね、天野さん」
陽菜乃は、護がいつの間にか戻っていたのに気付かなかった。
「なんでもないわ。それじゃご飯にしましょ?」
二人にとってはこれが、二人で食べる久々の朝食、そして、この先もよく見かける光景があった。
陽菜乃と護は、途中にある駅まで一緒に歩いていく。
今日も相変わらずの雨。近所のコンビニで傘をもう一つ買おうとしたが、陽菜乃に断られてしまった。
「本当に買わなくて良かったんですか?」
「ええ、夕方からは止むみたい大丈夫よ」
陽菜乃は昨日洗濯したワイシャツの上に、護に借りた黒のカーディガンを着ている。
仕事先は、スーツや指定の服装がない為、きちんとしていれば何でも良いそうだ。
ズボンも黒のスキニーを護に借りている。
「それじゃ私は電車で行くからここで」
「はい、仕事頑張ってください」
「ありがとう、護くんも頑張ってね」
陽菜乃は駅に向かいながら護に手を振る。護も手を振り、それに満足した様に笑いながら駅の中に入っていった。
「さて、俺も行くか」
学校に足を向ける護の横から、知っている声が聞こえてきた。
「よう、護。おは〜」
「祐樹、おはよう」
「おう。それにしても、こんな所で会うなんてな。何かあったのか?」
「何もないよ。ちょっと気分転換にね」
流石に陽菜乃の事を言う訳にはいかず、テキトーな言い訳をする。
「そっか、いつも同じ道だと飽きちまうもんな」
「そう言う事。それじゃ行こうか」
祐樹もどうやら良い感じに解釈してくれた様で助かった。
二人で学校に向かう中で、護はある事に気がついた。
(そう言えば、天野さんの連絡先教えてもらってないな。まぁ良いか)
陽菜乃との連絡手段のない事に、少し不安はあるが気にしない事にした。
護と別れた後、電車に揺られる事20分。駅から歩いて5分ほどの場所に陽菜乃が
「おはよう、みんな」
「「おはよう御座います社長!」」
「皆んな元気な様でよかったわ。今日も1日頑張りましょう」
「「はい!」」
出来てまだ3年と言う若い会社だが、この通り陽菜乃は社員全員に信頼されている。
それに実績もある為、最近では雑誌などに時折上げられる事もある程だ。
「おはよう陽菜乃」
「
「ええ。早速だけど、これから営業先に向かうんだけど…」
「ん?何かあったの?」
彼女ほど陽菜乃を理解している人物は、両親を除けばいないだろう。
そんな真理が、今日の陽菜乃を見て少し違和感を感じた。
「陽菜乃ってそんなカーディガン持ってたっけ?」
これを言われて陽菜乃は少しだけ焦る。真理なら気づくかもれないと思っていた陽菜乃は、予め考えておいたセリフを言う。
「着る機会が無かっただけよ。今日は少し肌寒いし、ちょうど良いかなって思って」
「そう、いつも着ている服とは少し傾向が違ったら気になって」
「さすが真理ね。私の事をよく分かってるわ」
「何年一緒にいると思っているのよ」
それもそうだ。二人の付き合いは今年で丁度10年になる。
そんな真理だから気付けるのだ。そう、10年も共にいる。
些細な変化は、真理にとって違和感として感じられる。
些細な違い。
そう、それは見た目に限った話ではない。
「それじゃ行きましょうか」
「ええ、それより真理はお昼ご飯何食べたい?」
「陽菜乃に任せるわ」
この違和感はまだ言わない方がいいだろう。そう思った真理はスケジュール通り、陽菜乃と一緒に会社を出るのだった。
「ついに春がきたかな?」
「ん?春ならもう3ヶ月前に入ってるでしょ?」
「そう言う意味じゃないわよ」
「ん??」
真理の知る陽菜乃、それは容姿端麗、頭脳明晰、少し天然ではあるが人に優しく、人を引き寄せる。
そして
12年もの間、ただ一人の男の子に思いを寄せる一人の女性
これが天野 陽菜乃という人なのだ