埋没殿のサイレントリッチ   作:ジェームズ・リッチマン

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守るべき物事

 

 

 そこは暗闇。なにも見えず、ただ闇だけが漠然と続くだけの広大な空間。

 闇の中には所々に点々と蝋燭よりも儚い灯りが灯っていたが、存在するものといえばそれだけだ。他には何もない。

 前後も上下も曖昧な、鳥籠のような闇の中で、パトレイシアは長い間ずっと彷徨い続けていた。

 

 虚無の闇。そこは常人であれば数時間もあれば発狂するような場所であったに違いない。

 それでも彼女が我を失わずにいたのは、彼女が既に思考のほとんどを失っていたこともあるが、僅かに残った自我の奥底で抗い続けていたからであろうか。

 

 埋没殿の血の染みのひとつに成り果て、レイスと化して、人としての思考は大きく削がれていた。

 だが、彼女は諦めていなかった。僅かな自我は闇の中にあっても尚、何かを見出そうと目を伏せることなく、膝を付かなかった。

 

 何年も。何十年も。闇の中で……。

 

 

 

 その果てに見つけたのは、灯りの集う場所。

 燭台に灯り、身を震わせる死者。その中央に佇む悲嘆に暮れた花嫁。

 

 パトレイシアは闇の中に取り残されたその花嫁を見た瞬間、己の魂が強く震えるのを自覚した。

 恐怖。悲しみ。怒り。人だった頃の持ち合わせていたさまざまな情念に火がつき、連鎖的に様々な想いが呼び覚まされてゆく。

 

 身体や本能はその恐怖の象徴から目を背けろと叫んでいたが、パトレイシアの奥底に残っていた幽かな魂はそれを無理やり押し留めた。

 パトレイシアは彫像と向き合い、打ち寄せる感情の波を浴び続けることを選んだのだ。

 

 そして、やがて闇に囚われていた世界に色がつき、鮮やかになる。

 

 そこは燭台が並び立つ瓦礫の荒野。闇の向こうにようやく見えたものは、闇とそう変わらぬ惨憺たる現実でしかない。

 

「助けて……!」

 

 それでも助けを求める声が聞こえた。

 鳥籠の中で悲鳴を聞くことしかできなかった生前とは違う。

 今この時はまだ、伸ばせばその手が届くのだ。

 

『“レッサーフレア”』

 

 彼女は迫り来る死神の顔に向けて、容赦のない火球を叩きつけたのだった。

 

 

 

 煤けたグリムリーパーは跳び退き、距離を置いた。

 致命傷ではないが、火はほぼ全てのアンデッドの弱点だ。自我が希薄であっても、危険を避けるだけの戦闘センスを彼は持ち合わせていた。

 

 グリムリーパーは宙に浮かぶレイスを見た。

 レイスはレヴナントの前に立ちふさがり、魔力の渦巻く手をグリムリーパーに差し向けている。グリムリーパーの操る刀剣には魔力がこもっているので幽体を傷付けることも可能だったが、高く飛ばれては成す術がない。上空から魔法を連発されれば厳しい戦いになるだろう。

 

『……ッ』

 

 連発がそう何度もできれば、だが。

 

 パトレイシアは自分の内在魔力が酷く希薄であることに気付いていた。

 一発のレッサーフレアを放っただけで酷く消耗している。まるで魔法を学びたての子供のような魔力量であった。

 もう一発でも放てば高く飛ぶことも難しくなるだろう。そして、その一発でグリムリーパーを仕留める自信が彼女にはなかった。

 

「ギシッ……」

 

 だが、グリムリーパーは身を引いた。

 空を飛んで一方的な攻撃ができる相手を前に苦戦を悟ったのだろう。

 彼は悔しそうな歯軋りを鳴らすと、あっけなくどこかへと走り去っていくのだった。

 

「……」

 

 遠ざかり、グリムリーパーが見えなくなると、レヴィは思わずその場にへたり込んでしまった。

 容赦なく迫り来る死の恐怖。それは一度死んだからといって慣れるものではないようだ。

 

『大丈夫ですか。怪我は、していませんか』

「あ……」

 

 泣きそうな顔のレヴィの前に、レイスのパトレイシアが舞い降りる。

 幽体である彼女はレヴィに触れることは叶わなかったが、嫋やかな手は優しげにレヴィの頰に添わされている。

 

『恐ろしい思いをしたのでしょう。辛い思いをされたのでしょう。けど……安心して。私がいます。私が守ります。今度は、必ず……』

「……お貴族様」

『パトレイシア』

 

 パトレイシアは穏やかに微笑み、レヴィの頭を撫でた。

 

『私のことは、どうかパトレイシアと呼んでください』

「……パトレイシアさん」

『はい。パトレイシアです。貴女の名前は?』

「……レヴィ」

『良い名前ですね』

 

 パトレイシアは笑い、それにつられてレヴィも微笑んだ。

 レヴィは自分の母を知らなかったが、彼女と話す時はとても満たされた心地になれたのであった。

 

 

 

 しばらくして二人が落ち着くと、パトレイシアは自身の置かれた状況を見つめ直した。

 

 辺りは荒野だが、散らばる瓦礫の一つ一つには人工物の名残があり、量は極めて膨大であった。

 そして遠くに聳え立つそれを見上げれば、理解は早かった。

 

『……バビロニア……そして、死の底……そう。やはり、そうなってしまったのね』

 

 空をさまようゴーストや、燭台から離れていくウィスプたち。

 それら全てはきっと、バビロニアで暮らしていた住民たちなのだろう。

 

『本当に、根元から滅んでしまっただなんて……』

 

 パトレイシアは良家に生まれたが、妾のエルフとの間に設けられた子であった。

 ハーフエルフはその種族柄、人間よりも長命である。パトレイシア自身は非常に優秀であり、バビロニアの民に献身する精神性さえ持ち合わせていたのだが、長命な者が影響力を持つことは禁じられているために政治闘争からは遠ざけられていた。

 それでも「実務であれば」と研鑽を積み宮廷魔法士となったのだから、彼女の不屈さは相当なものである。

 

 だが狂王ノールの統治下にあって、バビロニアの民が抱える不安と恐怖はパトレイシアにはどうすることもできなかった。

 宮廷魔法士も所詮は一介の兵に過ぎない。神輿にすらならないパトレイシアは、このままノールの恐怖政治の中で鬱屈とした気持ちを抱え続けるのだろうと諦めていた。

 

 それが、まさかバビロニアの崩壊という形で終焉を迎えるとは。

 

 ノールの統治下も散々であったが、王ごと国が滅んでは元も子もない。

 確かに、ノールを排するには殺すしかないと考える者は多かっただろうが……。

 

『まさか、ね……』

「? パトレイシアさん、どうしたの?」

『いいえ、なんでもありませんわ』

 

 バビロニアの崩壊。それは果たして偶然だったのか、人為的なものだったのか。

 死んだ今となっては無意味な思索かもしれないが、それはパトレイシアにとって捨て去れる疑問ではなかった。

 

「こっち……多分ですけど……」

 

 今、パトレイシアはレヴィの先導で移動している最中であった。

 レヴィは口数が少なく、また口下手でもあったので、説明は曖昧なところがあったが、彼女が言うには恩人の一人であるのだという。

 

 パトレイシアはレヴィがアンデッドのレヴナントであることは一目見て看破している。

 レヴナントがこうして明確な自我を持って動けていることが疑問であったが、そう考えるとレイスである自分の存在にも謎が生まれる。

 

 死の底特有の現象なのか、ネクロマンサーの影響なのか。

 移動中、様々な仮説を思い浮かべていたパトレイシアであったが、レヴィが目的地に着いた時、その答えは明らかになった。

 

「しー……」

 

 レヴィが口の前に指を立て、パトレイシアに沈黙を促す。

 

 遠目に見える瓦礫の丘では、一体のリッチが石柱と向き合っていた。

 

 罪人のローブ。手にしたノミとハンマー。

 こちらを一顧だにすることもなく、黙々と続けられる作業。

 

 そして、石柱に刻まれつつある、心をざわつかせる恐ろしい芸術作品。

 

『……リチャード』

 

 そのアンデッドの肉体に人としての面影はなかったし、パトレイシア自身も面識はない。

 だが、パトレイシアはそのアンデッドがリチャードという男であることを確信できた。

 

 パトレイシアが小さく言葉を零したからであろうか。

 丘の上のリチャードがこちらに顔を向け、歯列の前に指を立てていた。

 

 “静かに”

 

 一度注意を促すと、リチャードは再びハンマーを振るい始めた。

 

 

 燭台の荒野に作業音が響き渡る……。

 

 

 

 


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