深い闇の底で、鈍い音を立てて骨が砕け散った。
脊椎の破片は岩肌を転げ、埃被った地面に落ちて沈黙する。
「……」
鋭い爪と牙を持つアンデッド、スケルトンハウンドである。
彼は永らく出会うことのなかった生者に襲いかかったが、リチャードのステッキによって返り討ちにあったのだ。
もちろん、右腕以外を縛られた状態で無傷とはいかない。リチャードの方も手傷を負っていた。
しかし幸いというべきか、体に巻かれた頑丈なロープが守りとなって、致命的な傷を負うことはなかった。
スケルトンハウンドの切れ味のいい爪牙によっていい塩梅にロープが千切れたおかげで、体は自由に動かせるようにもなった。
リチャードは彫刻家である。
それ以前は軍属であったし、墓守としての経験もある。アンデッドとの戦いには慣れていたのだ。スケルトンハウンドとの戦いは久しぶりだったが、彼の慣れた対処はブランクを感じさせるものではない。
狂王ノールにとっても、この展開は見通せなかったに違いない。
直近の脅威は排除した。体は自由だ。千切れているがロープもある。
ならばどうするか?
まともな人間ならば、様々な工夫を凝らして死の底からの脱出をくわだてるだろう。
しかしリチャードは、それを良しとしなかった。
彼は自ら死の底での死を望んでからずっと、この時を待っていたのである。
「!」
しばらく静かにしていると、上から何か硬質な物が落ちてきた。
拳大の石か何かであろうか。それはリチャードの足下に転がっているようだ。
穴の上で鉄扉が閉まる音が聞こえる。
明かりが消え、死の底に真の暗闇が訪れる。
常人ならば発狂しかねない負の暗闇。
リチャードはそこで……微笑んだ。
“死の底に入れるとは……私は幸運だ”
彼は死の芸術家。死を想起させる作品作りに魅せられた男。
彼はもとより、死の底で生涯を終えるつもりだったのだ。
バビロニアのどこよりもずっと、濃密な死の気配の漂うここで、新たな“着想”を得るために。
己の生涯最期の傑作を、静かなここで作り上げるために。
リチャードは千切れたロープの破片に、ステッキの石突きから散った火花で火を灯した。
ぐらぐら揺れる不安定な灯りが唯一の光源だった。
「……」
足下に落ちてきたものが何だったのかを見てみると、それは自分が仕上げた作品であったようだ。
ノールが大穴に捨てたのだろう。粗雑な扱いをされたが、材料そのものが頑強であったのと、作りが繊細ではなかったのが幸いしたのか、驚くべきことに目立った破損は無かった。
“苔生した壁”。
立方体の小さな作品であり、リチャードにとっては近年でも珍しく会心の出来と言えるものであった。
ノールはこの作品を見て、リチャードの処刑を決定したのである。
そう考えると、リチャードにとってこの作品は、己の死のきっかけであると言えるのだろう。
そう思うとリチャードは不思議と仕上げきったその作品が愛おしく思え、まじまじと見つめてしまった。
完成した作品にはあまり思い入れを残さないタイプの作家ではあったのだが。
「……!」
骨の足音が聞こえた。
リチャードはステッキを手に、そちらに燃えたロープをかざす。
暗がりの中からぬっと現れた白い影。
それは極々一般的なアンデッド、スケルトンであった。
よく耳をすませてみれば、足音は一つだけではない。
坑道は果てしなく続いており、その先から続々と気配が近づいているのだ。
大昔の力あるバビロニアでさえ、武力制圧しきれなかったアンデッドの巣窟、死の底。
「……」
リチャードは自分に歩み寄る死の足音に耳をそばだて、味わった。
自分自身の生の終焉。凄惨な終わり。弔われることのない死の底での永遠……。
……待ち望んでいた終わりのはずだった。
甘美な死の実感が得られるはずであった。
“……陳腐だ”
だが、違う。それはリチャードが求めていたものではない。
死の底でならば己が追求し続けた死の恐怖を手に入れられると思っていたが、どうにも違う。
朝霧に煙った戦場を彷徨うゾンビウォリアーの一団を見たときほどの衝撃でしかない。
それはつまり、彼にとって……地上世界でもありふれているような、極々普通の、陳腐な恐怖でしかなかったのだ。
“奥に行けば、あるだろうか?”
ならばまだ死ぬわけにはいかない。
死の恐怖を、その真髄を啜る時までは、無駄な死を得たくない。
リチャードはステッキを巧みに操り、スケルトンの群れへと飛びかかっていった。
死闘は長く続いた。
リチャードはアンデッドとの戦闘に慣れていたが、それでも百体に近い個体を相手取るのは無謀であったらしい。
近くのアンデッドは全て排除したが、リチャードは既に満身創痍である。
スケルトンソルジャーが突き立てた切れ味の悪い鉄剣は左足に刺さり、出血を強いた。今はロープできつく縛って止血しているが、もう走ることはできないだろうし、強力なアンデッドが来ればなすすべも無くなるに違いない。
リチャードは結局、死の底の奥に行くことはできなかった。
求めていた死の恐怖を味わうこともなかったし、緩やかに死にゆく今でさえ、得られる心境にはない。
これが絶望であれは死の恐怖を高めるために一役買ったのかもしれないが、リチャードが今感じているのは失望に近かった。
普遍的で陳腐な死。それが己に向けられた、相応のものなのだと。
彼はあたりに散らばる人骨を組み上げてロープで要所を縛り、椅子を作り上げた。
背凭れと肘掛のある、豪奢だが悪趣味な骨の椅子。
彼はそこに腰を落とし、静かな鼻息をついて、手元に残された己の作品を眺め……やがて火を消して、目を閉じた。
静寂な死の底。
穏やかに流れる、死までのひと時。
足音が近づいてくる。
正面で僅かに立ち止まる。
そして、胸元を貫く錆びた鉄剣。
肺に溢れ、満たされてゆく血。
心なきアンデッドが執拗に3回目の刺突を突き立てたあたりで、リチャードはその意識を闇の中に落とした。