ネリダは仰向けに寝転んだまま、ただ会話だけを求めた。
彼女は食事を求めず、他の要求も助命も一切口にすることはなかった。
「大穴ができたのは、さあどうだかね。百年も前じゃないが、私が生まれるよりは前だったのは間違いない。ある日大きな揺れが起きて、空から土くれがパラパラと降って……気がつくと荒野の真ん中には、あんたらの国が迷い込んでいたのさ」
喋るごとに水を一口含み、潤す。会話をするのに不便はしなかった。
「最初は恐ろしい地形が生まれたと大騒ぎだったらしい。瘴気のせいで近づくことも容易じゃないんだ。魔境扱いされていたよ。……最初の命知らずが、大穴から金銀財宝を持ち帰ってくるまではね」
ネリダの話によれば、大穴の付近にはいくつかの小さな出入り口があるのだという。
アリの巣の断面のように各所に存在するその小さな穴は、古き坑道の跡なのだろうと考えられていた。
事実、その穴もまた坑道や地下水道の名残であるのだろう。それは大穴の壁面に続くものもあれば、かなり下の方にまで続くものもある。
大穴の地上付近、いわゆる“成功の財宝窟”は比較的整備されており、バビロニア時代の遺構も生きている。
中には家族の隠れ家のような地下室もあるらしく、それはネリダたち採掘師にとって最大の目当てであった。
そしてごく稀に、大穴の中層にまで続く通路が存在する。
それは死の底に近い採掘用の坑道であり、“忍耐の地下坑道”と呼ばれていた。
目立つ場所に金銀財宝などは見られないが、崩落の際に紛れ込んだ金目のものが手付かずで転がっている場合もある。
ただし瘴気が強すぎるためにアンデッドも多く、採掘師にとっては忍耐の地下坑道こそが魔境であると呼ばれているらしかった。
「けど、それより下の……ずっと叫び声やうめき声が聞こえてくる“憎しみの埋没殿”よりは、安全だと言われていた。私はこうして、落ちちゃったけどね」
『……グールですか』
「ああ」
防護服の中でネリダの顔が歪む。
「忍耐の地下坑道で、ヴァンパイアに出くわした。長年私らを恐れさせてきた、血に飢えた厄介な奴だった。昔調子に乗って視察に来たお貴族様か何かだと言われてるが、今となっちゃただの獣だ。瓦礫の中に潜んでいた奴は、犬のように四つ足で飛び跳ねながら、休憩中の私たちを襲撃した。ほとんどが殺されたり、噛まれたりした。……私たちは、どうすることもできずに逃げた……」
武装はあった。遠くから安全にアンデッドを仕留められる長い槍だ。
しかし近距離から突然襲われた時、その武装はあまりにも取り回しが悪く、腰のナイフを抜き放つ頃には吸血鬼の膂力が数人を屠っていた。
「無我夢中で逃げて、地面があるかもわからない場所へ飛び降りて、それがこのザマさ。……一緒に逃げた仲間の一人もグールになって、それで……」
震える手で管を掴み、水を飲む。
熱量はないが、腹は膨れた気がした。
「……あのヴァンパイアは、血に飢えている。私たちが見つけた時も、坑道のゾンビの腐った血を啜っているみたいだった。賢いヴァンパイアだとか言われてるけど、きっとあいつにはもう理性なんてない。……きっとレヴィ、あんたも見つかれば、あいつに殺されるだろうよ。気を付けなよ」
不死者の血さえ啜るほどの飢え。
レヴィはあまりにも恐ろしいヴァンパイアの姿を想像し、身震いした。
『地上は。地上には人の営みがあるのですか』
「ええ? ああ、そりゃあもちろんあるとも……あんたらのような喋るアンデッドなんてほとんど知らないけどね……」
『国などもあるのですか?』
「さあ、国? どうだろうね、昔は……フンボルト城だとか、色々あったっていうけど……地上に出たいのかい? パトレイシアさん、だっけね」
『はい』
パトレイシアは真面目な表情で頷いた。
『我々はどうにか地上へ出る方法を探しています。ネリダさん、あなたやそのお仲間がやってこられたように……どこかにある坑道を使って、この埋没殿から脱出したいのです』
「……はは。石を投げ落としても音のしない、底なしと呼ばれた大穴から、地上へ、か……」
ネリダは力なく笑った。
「……私はもう、地上へ戻れない」
『……』
「足もこんなだ。仲間も……見捨てて、殺してしまった。こんな私でも、自警団の話も来ていたのさ。でも、酒場で連中が楽しそうに大盤振る舞いするのを見て、それに憧れて……」
ネリダは次第に、取り留めもない自身の半生を語り始めた。
ぽつぽつと、繋がりなく。パトレイシアやルジャはその意味や感情的な繋がりもわからないことが多かったが、それでも口を挟まずに黙っていた。
ネリダを取り囲む不死者には、彼女が次第に命を失いつつあることに気付いていたのである。
「ああ……なぁ、お願いがあるんだ。レヴィ、ほら、これを」
「……はい」
ネリダは懐から一枚の金貨を取り出し、レヴィの手に握らせた。
「拾い物で悪いね。けど、お願い。それしかないんだ。それをあげるから……もしもあんたが地上に出ることがあれば……モルドゥナのワイアームってお人に、伝えてもらえないかな」
咳き込み。
薬草で満たされたマスクの中に血が混じり、鉄の香りが漂う。
「ごめんなさい、ネリダは貴方を愛してます……って……」
「……」
レヴィはネリダを手を包み込むように握りしめ、頷いた。
彼女はモルドゥナもワイアームも、それらが何を示すのかも知らなかったが、言葉だけは心に刻み込んだ。
「あと……私、アンデッドはやだな。もしも私が死んだら……な、お願い。綺麗に始末して、灰にしておくれよ」
「……死んじゃう」
「お願い」
死んでも、埋没殿に満ちる瘴気の中にあれば骸は速やかにアンデッドになり得るだろう。
しかしネリダはそれを望まないという。
「……ありがとう」
ネリダは感謝の言葉を述べた。
何に対してかとレヴィたちが振り向くと、後ろには木札を手にしたリチャードの姿があった。
彼は札に簡潔な肯定の言葉を書き記し、それをネリダに見せていたのだった。
パトレイシアはリチャードに意味ありげな目を向けている。作品の力があれば彼女を再び生かすこともできるのにと。
だがリチャードは無言で首を横に振るだけで、取り合わなかった。
血の混じった咳が続く。
風の掠れたような呼吸が響く。
不死者たちは死にゆくネリダに寄り添い、見守り続けている。
「……私だけ、囲まれたまま死ねるなんて……ズルいよなぁ……でも、許して……」
やがてネリダは何度か咳き込み、疲れたように眠り……その最中に、呼吸することをやめた。
『……亡くなられました』
体の表面に揺らいでいた魔力の流れが途絶えたのを、パトレイシアとリチャードだけが知覚できた。
リチャードは、もう動くことのないネリダと、手をさすり続けるレヴィの背中を眺めていたが、そう時間も経たないうちにすぐさま道具を拾い上げ、部屋を去っていった。
“意欲が湧いた”
不死者になって初めて垣間見ることになった、生者の死。
命が終わる間際の魔力の揺らぎは、彼に新たなインスピレーションを与えたのだった。