埋没殿のサイレントリッチ   作:ジェームズ・リッチマン

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終わりのない世界

 

 

 時は二十年近く遡り、埋没殿がミミルドルスに呑まれて間もない時代のことである。

 

 突如荒野に現れた大穴は、その濃密な瘴気によって、すぐさま一帯の生態系を混乱させた。

 無数に張り巡らされた坑道、尽きることなく湧き続ける不死者の群れ。

 人ばかりでなく魔物ですら恐れる魔境の出現に、種族間の争いすら止まるほどであったという。

 

 しかし時が経つにつれ、人はその大穴に無数の財宝が眠っていることを嗅ぎつける。

 洗練された遺構、世界の全てが集約されたかの如き莫大な富。大穴がもたらす脅威は依然変わることはなかったが、それでも命懸けの冒険の末に目も眩む財宝があるならば、人はどこまでも愚かになれるのであった。

 

 パイルの家は、そうした危険を顧みない冒険心によって築かれた富を元手に貴族位を得た、紛う事なき成り上がりである。

 不死者に対して一方的優位に立てる長槍と、スミスの隠し武器庫より見つけ出した強靭な防護服のセットが、彼ら探窟団の成功の秘訣であった。

 

 パイルは年若い男で、嫡男でもなかったが、その家柄故に出世欲と名誉欲は高く、自ら進んで坑道に踏み入るだけの精神力があった。

 彼は財宝さえ見つけ出せれば生まれの順序など容易く覆せることを知っていたし、腕っ節の強い自分が兄弟の誰よりも探索に優れていることを疑っていなかった。

 

 実際、パイルの指揮する長槍部隊は損耗率も低く、探索ごとに挙げる成果も目覚ましい。

 当時から今日まで続く、“不死者には長槍と聖水”の定石や戦法を盤石なものとしたのは、彼の活躍も関わっているだろう。

 

 危険そうな場所にはまず囮の奴隷を突っ込ませる。

 遭遇した不死者に対しては必ず二人以上で対処する。

 負の瘴気に呑まれそうになった死に損ないは私兵であっても容赦なくトドメを刺し、アンデッド化する前に迅速に処理する。

 

 パイルの判断は時に残酷だが、しかし的確ではあった。

 本人は腕っぷしが強いだけで武の心得があったわけではないが、運用は秀でている。だからこそ勝ち馬となり得ていたし、兵もよくパイルに従っていたのである。

 

 その時までは。

 

 

 

 ある日、パイルは奇妙な不死者に噛まれた。

 力強く、素早く、青白い肌の不死者であった。

 

 遭遇したことに気付いた瞬間には、既にパイル自身が真っ先に噛み付かれ、うめき声をあげていた。

 それからは、死闘である。部隊は突如現れた謎のアンデッドと闘い、多数の犠牲を出しつつもどうにか撃退する。

 その不死者が常識外の治癒能力と膂力を備えたアンデッド、ヴァンパイアであることに気付いたのは、敵が逃げ去り、一息つけたからのことである。

 

 多くの兵は爪や打撃によって殺されたが、唯一パイルだけが噛まれていた。

 彼は真っ先に襲われ、肩を噛み砕かれた後は壁際に背を預け、息を整えている。なぜ生きているのかわからないほど血を流したし、深手を負っていた。だというのにパイルは己が段々と痛みを感じなくなりつつあることに気付くと、自分自身が恐ろしかった。

 

 パイルはアンデッドになりかけていた。

 それがヴァンパイアなのか、グールなのかはわからない。どちらにせよ、それが人間としての自分の終わりであることには変わらない。

 

 パイルの暮らす町は埋没殿の富によって栄えていたが、それ故にアンデッドは不倶戴天の敵である。彼らのほとんどはアンデッドによって家族を失い、アンデッドによって友を失っていたからだ。

 そして彼らは皆、アンデッドを殺すことに長けている。もしもパイルが人外であることがバレたならば、生きてはいられないだろう。

 

 “パイル様”

 

 蒼白な顔のパイルは、生き残った隊長に声をかけられた。

 彼は心配そうな顔でパイルを見ている。その手には、煤けた金属製のコップが握られていた。

 

 ああ、そうだ。喉が渇いている。

 どうにかしてこの男を騙し、人間の振りをしなくては。

 そして、この喉の渇きを潤さなければならない。

 

 パイルが薄く笑みを浮かべた時、向き合った隊長は見た。

 彼の口の中に、鋭く伸びた牙が潜んでいるのを。

 

 “これも、あんたがしつこく言い聞かせた規則ですぜ”

 

 コップの中身がぶちまけられる。

 顔にかけられ、熱さと、鋭い痛みが襲う。

 視界は瞬く間に白く濁り、自分のものとは思えない絶叫が発せられ、狭い坑道の中で何度も反響する。

 

 “四人で突き殺せ! ”

 

 誰も足の折れた勝ち馬に用はない。

 

 “もっと聖水をかけろ! 銀の武器を構えろ! ”

 

 誰も人望によって集まったわけではない。

 

 “ダメだ! 力が強すぎて……”

 “こいつ、グールじゃないぞ! ”

 

 パイルはただただ、痛みから逃げるように暴れ、走り、叫び続けた。

 既に彼の目は何も映すことはなく、喉の中まで焼けている。

 人らしい言葉を出すこともできず、目で見て意思疎通を図ることもできない。

 

 気がつけば彼は坑道のどこか隅の方でうずくまっており、近くには誰もいなかった。

 自分の率いていた部隊がどうなったかなどわからないし、今や興味もない。

 

 彼はただただ暗闇の中で孤独で、喉が渇いていた。

 

 

 

 パイルが人らしい自我を喪うのに長い時間はかからなかった。

 なにも見えない世界と、人間に襲われることへの恐怖。そして癒されることのない飢えと渇き。

 人ならば数日もそうしていれば発狂する前に静かに行儀よく死ぬが、パイルはヴァンパイアだ。渇いても死ぬことはなく、ただただ終わりのない苦しみだけが続いてゆく。

 

 彼は己が血に飢えていることを自覚していたが、もはや味わってきた苦しみはただその場しのぎの血で贖えるものではなく、苦しみから永遠に解き放ってくれる安寧の死をこそ望んでいた。

 

 もはや世界に希望などない。

 全てを終わりにしてほしい。

 

 だがパイルの望みは叶わない。叶わないまま、時だけが過ぎ、苦しみだけが続いてゆく。

 

 そうして彼は、自我を失った。

 

 

 

「……ゥロロロロ」

 

 彼は今、音を追っている。

 宙に向けて放った音波。そこで微かに跳ね返ってきた、空を飛ぶ布の塊のようなものの存在。

 パトレイシアが片手間で採取してしまった、薄い布。

 

 動くもの。追いかけ、壊し、牙を刺すべき存在がそこにある。

 思考はない。彼はただ本能に従い、反射として動くだけ。

 

 パイルは何も考えなかったし、何も感じることはない。

 彼は無感情なままに、パトレイシアが入り込んでいった坑道の入り口へと近づいてゆく。

 

「ロロロロロ……コカカカ……」

 

 狭い坑道の中に、不気味なクリック音が鳴り響いた。

 

 


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