埋没殿のサイレントリッチ   作:ジェームズ・リッチマン

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虚無

 

 

 エバンスは荒事に向いていない。

 バンシーは物理的に干渉できない幽体であるし、機動性に欠けた種族である。それが探索においても度々を足を引っ張っていたのはわかっている。

 

 役立てるものがあるとすれば、生前の頃よりも更に力を伴うようになった歌声だけだ。

 レヴィと共に防音室で検証を重ね、不死者に影響するメロディや歌詞についてある程度理解が深まったのは幸運であろう。

 

 自分が皆の役に立てるのは今しかない。

 そう思い、彼は坑道の奥より歌声を響かせた。

 

 歌の内容は劇中歌。

 暗く恐ろしげな旋律に闇夜の礼讃を乗せた、不届きもの達の登場曲。

 それは人間としての理性を取り戻したレヴィ達にとってはどこか重苦しい歌でありながら、感じさせる不気味さが不死者としての感性を惹きつける魔力を備えていた。

 

「来た……」

 

 歌が始まってすぐ、パトレイシアを襲っていたヴァンパイアはその動きを止め、坑道内に身を翻した。

 明らかに歌によって誘引されており、遠くから響く足音からは急ぐ気配も感じられる。

 

「くそっ……俺が囮になれないなんて……」

「……」

 

 レヴィとルジャは己の無力に歯噛みしつつも、部屋の片隅で置物のようにじっとしていることしかできなかった。

 

「コカカカッ」

 

 歌に惹かれた色白の獣が姿を見せる。

 溶けた顔と剥き出しの牙。恐ろしい姿にエバンスは声色を乱しそうになったが、プロとしての矜持故か、歌を止めることはない。

 今、歌をやめるわけにはいかない。パトレイシアは坑道になくてはならない人だ。

 彼女を守るためならば、自分が犠牲になることも……。

 

 ヴァンパイアが迫り来る。

 灼けて濁った目がエバンスを捉え、跳躍する。

 

 そのまま音源に向かって、魔力を帯びた爪が振るわれ……。

 

 

 

 “うるさい”

 

 横合いから、小言の刻まれた鋭い鉄杭がヴァンパイアの側頭部を貫いた。

 

『えっ……!?』

 

 エバンスは瞠目した。

 気がつけば目の前にはリチャードが立ち、ヴァンパイアを槍で貫いたまま壁に縫い付けている。

 彼が手にしているのは魔金属製の頑強な鉄柵。それを鋭く削り出しただけの無骨な槍だ。

 

「キィイイイァアアアッ!」

 

 ヴァンパイアが悲鳴をあげる。

 人外の膂力は獣じみた本気の抵抗も相まって、リチャードの力ではすぐさま押し返されそうになる。

 

「すまねえリチャードさん! 俺も加勢するッ!」

 

 そこに機を窺っていたルジャが飛び込み、魔剣を突き立てる。

 同素材でできた魔剣はルジャの成長した腕力もあり、ヴァンパイアの心臓を背部の壁面ごと穿ってみせた。

 

「キィイイイ! ガァアアッ!」

「死ね! いや死んでるか! じゃあもう一度死ね!」

 

 剣を捩り、傷口を広げる。殴りつける。もう一本の剣で腕を貫く。

 ルジャはリチャードと共に抑え込むが、それでもヴァンパイアに弱る気配は見られない。

 急所を複数貫かれても暴れ続けるヴァンパイアに、次第に二人が力負けしそうになる。

 

『どう、どうすれば……』

 

 このままではいずれ押し返される。

 そんな光景を見ていることしかできなかったエバンスが、リチャードの首に巻かれた襤褸生地のスカーフを見つけた。

 

 普段スカーフなど身につけない彼が纏うそれには、先程書き殴ったばかりの荒々しい文字が書かれている。

 

 

 “無響室に誘え”

 

 

『……! 任せてください!』

 

 リチャードに何か考えがある。

 理由を考えるよりも先に、エバンスは動き出した。

 

 歩みの遅いバンシーの身体。それでも彼は必死に動き、無響室に急ぐ。

 

 

『──新たな月の彼方より 暗い影が忍び寄る』

 

 闇夜の歌はヴァンパイアの魂を揺さぶり、誘引する。

 間近で杭や剣を突き立てる邪魔者のことなどすぐさま忘却させ、抗いがたい魅力によって行動が上書きされる。

 

『──長い夜を楽しもう 合わせた手だけが観える温もり』

 

 やがてヴァンパイアが拘束を跳ね返し、雄叫びをあげて自由となる。

 リチャードとルジャは乱雑に弾き飛ばされ、壁面に身体を打ち付けた。

 

 そしてヴァンパイアはそこで、トドメを刺そうとはしない。

 見えざる彼にとって、最も耳障りでいて惹かれるものは、坑道の奥から響いているから。

 

 エバンスの声がする方へ、ヴァンパイアが走ってゆく。

 

 なぜこうも執着するのか、それは音を追いかける彼ですらわかっていない。

 

 貴族であった頃の栄華の片鱗がその歌声から感じられていたのか。

 見えざる世界で唯一己の心に与えられる安らぎがその旋律にあったからなのか。

 

 答えはパイル自身にもわからなかった。

 

 

「コカカカッ」

 

 歌が止んだ。洞窟は真っ直ぐ続いている。遮蔽物はなく、獲物も立っていない。

 

 歌が止んでしまった。歌声の主が、消えてしまった。

 

 一体どこにいる? あの蠱惑的な音律はどこへいった? 

 

 焦燥に駆られたヴァンパイアは己のすぐ傍にいたバンシーを素通りし、そのまま直進する。

 何もない直線通路を突き進む。

 

 そして、そこへ躍り出たのだ。

 

「コカカカ……コカカ……」

 

 何の音も響かない、静寂の空間へ。

 

「……!」

 

 背後からレヴィがやってきて、入り口を楔の扉で封じ込め、それは完成する。

 ヴァンパイアは背後で起こったそんなことにも気づかないほど、困惑の只中に取り残されていた。

 

 ヴァンパイアのパイルにとって、音が全てであった。

 周りのものは全て音によって捉えられ、音によって色がつく。

 

 だが、今の彼には音が視えない。

 周囲にクリック音を振り撒いても何も返ってこない。

 それはまるで、静寂の青空の中に自分だけが浮かんでいるかのような感覚であった。

 

 彼は事実として、決して広くはない密室にいる。

 しかしパイルの感覚は、どこまでも無限に続く広い空間に投げ出されている錯覚を覚えていた。

 

 何もない。どこまでも虚無だけが続く真の闇。

 

「……ゥルルル……」

 

 やがてパイルは静かにその身を網の地面に横たえ、沈黙した。

 

 

 生者のいない洞窟とは違った、より静かなる完成された世界。

 終わることのなかった自分の苦しみがたどり着いた、何も無い場所。

 

 そこには物陰に潜むこちらを狙う何かも、追うべき何かもいない。

 

 そうして、パイルはただ穏やかな心地で、静かに活動を停止した。

 

 

 


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