リチャードは最下層地区の孤児院で生まれた。
親はいない。自身のルーツを気にしていた時期もあったが、同じ孤児院の子供たちも似たような境遇であることを知ってからは気に留まることも無くなっていった。
不確かな親の存在よりも、当時の幼いリチャードにとって重要なのはその日の飢えの凌ぎ方であった。
彼のいた孤児院は決して善意で運営されていたわけではなく、幼い子供たちに労働を課すための施設である。
彼らの扱いは奴隷よりも粗雑だ。小金を稼いでくればそれは儲けになるし、死んだら死んだで口減らしになるという院長の思惑は子供の目にも見え透いたものであった。
死ぬ間際になれば、病気になった子供を街角に立たせ、物乞いをさせる。そしていくら小金を恵まれようとも、そうなった子供が救われることはなかった。
自分と数年間を共にした親友が冷たくなって集団墓地に棄てられた時、リチャードは孤児院から脱することを決意したのである。
リチャードは十二歳の頃になって、軍に志願する。
院長は自分の支配から手駒が剥がれてゆくことに難色を示したが、周辺諸国との多面戦争のために常に志願兵を欲していたバビロニアの軍部はリチャードの入隊を許可した。
こうしてリチャードは劣悪な孤児院から脱出できたのだが、軍での扱いも決して生易しいものではなかった。
まだまだ幼く、栄養不足のために戦力足り得ないリチャードは、衛生兵団付きの雑用として働かされることになったのである。
衛生兵団と言えば聞こえは悪くなさそうだが、リチャードに割り当てられたその実態は汚物の処理であった。
駐屯地に山積する糞尿の始末、死体の片付け、血糊に汚れた武装の整備。
舞い込むのはありとあらゆる汚れ仕事ばかりであり、それらが全て厄介な仕事の押し付けであったことは、当時のリチャードにも理解できた。
それでもリチャードは、脱走することも不満をこぼすこともなく仕事にあたった。
幸いと呼ぶべきかは難しいところだが、孤児院の劣悪な環境も似たようなものだったために、常人には獲得し得ない耐性を持ち合わせていたのである。
むしろ飢えと病を放置される孤児院よりは、汚物と向き合ってさえいれば人並みの衣食住が許される軍の中の方が、遥かに居心地はマシだったのだ。
十四歳の頃、寡黙なリチャードの活躍が
執刀団は重篤患者の緊急処置を専門とする衛生兵団のひとつであり、荒っぽい外科手術や前線に向かう兵士を“動けるようにする”ことに定評のある部署であった。
任地は専ら最前線。敵よりも味方に恐れられるその部署の長が、黙々と汚物と向き合うリチャードの胆力を偶然に見かけたのだそうである。
リチャードは職務の内容に興味はなかったが、給金が増えるという一点だけで転属を快諾することとなる。
そして、この執刀団での活動こそが、後々のリチャードの死生観により大きな影響を及ぼすことになるのだった。
“……”
リチャードは不死者の群れが蠢く大空洞まで足を運んでいた。
常ならば騒々しさに自ら避けていた場所だったが、ふと気が向いてやってきたのである。
そこで見かけたのは、見覚えのある石像。
両目から血のような赤錆の涙を流す天使の彫像が、彼の足下に転がっている。
リチャードは自分よりも大きな天使像の裏面に回り込み、べったりと赤黒く染まりきったそこを見て、思案する。
“最下層の作品だ。世界を支える者……何故ここに? いや、この様子だと……”
大空洞を見上げれば、そこには所々破断した魔金柱や、黄金色の建材が垣間見える。
そして、坑道と呼ぶには明らかに巨大すぎる縦穴。
導き出される結論は、信じがたい事だが一つであった。
“バビロニアが崩れたとでもいうのか”
滅びることのない巨塔の大国が滅びる。それは、長年バビロニアで過ごしてきたリチャードを素直に驚かせるものであった。
“……なるほど。涙腺が柱まで繋がっていたのか。遠目からはわからない造りだな。内部の空洞に蓄積した錆び水が、ここから流出していたと。なるほど……さすがは巨匠の仕事だ。面白い工夫を施す”
孤児院にいた頃、リチャードも何度となく像を見上げたものだった。
それが今や、崩落によって手の届く場所でじっくりと観察できる。
物悲しい時の流れを感じさせるが、古の巨匠の仕事を間近で見られる機会などそうはない。
彼はしばらく、瓦礫の周囲で作品探しに没頭した。
「グァ、ァアアアアア……」
白亜の石片を探し回っていたリチャードだったが、少し離れた場所からうめき声が聞こえてきた。
小高い黄金の丘に立っていたのは、赤っぽい豪奢な儀礼服を身に纏った白骨死体。
それは折れ曲がって鎌のように成り果てた長剣を手に、辺りを見回している。やがてそれは所在なさげにうろつくスケルトンを見つけると、静かに歩み寄っていった。
そして、鎌持ちのアンデッドはスケルトンに斬りかかった。
袈裟斬りにされたスケルトンは胴の半ばまで剣に切り砕かれ、悶える。よく目を凝らしてみれば、スケルトンから溢れ出る負のエネルギーを鎌持ちのアンデッドが吸収しているようだった。
同族のアンデッドから力を奪う。
それは決して珍しい現象ではない。アンデッドの格に大きな差があれば、連中は感慨もなく共食いをする存在なのだ。
“グリムリーパー。珍しいな。高位のアンデッドだ”
それは執刀団に所属していた頃、遠目に見ることもあったアンデッドだ。
何人もの騎士がその鎌の餌食となり、救えなかった者が多かったのを覚えている。
このまま目をつけられれば、リチャードもその犠牲となるだろう。
彼は厄介ごとは嫌だったので、あくまでも他人事でその場から離れることにした。
結局、リチャードは再び入り乱れる坑道へ戻ることになった。
しかし、大空洞に足を運んだのも気まぐれでしかない。リチャードは崩落したバビロニアにも、さまよう危険なグリムリーパーにも大して思うところは残っていない。
彼の内にあるのは、少しだけ再燃した創作意欲。ただそれだけである。
“アーティマ・ログセンドロン。近くで見ると荒さは目立つが、やはり力強い造形だ”
リチャードの頭にあるのは、天使像の纏う力強い神秘性。自分とは別方向の芸術。それへの惜しみない賞賛と、湧き溢れる意欲だ。
“それにあのギミック。意図したものかはわからないが、良いな。やはり彼には遊び心がある”
坑道の奥までやってくると、次第に壁面にリチャードの作品が見えてくる。
彼が様々な場所で作り上げた、死想の芸術作品たちである。
複雑な坑道の各所に配置されたそれらは、辺りをさまようアンデッドたちを悶えさせていた。
アンデッドに心はないとされているが、そんな彼らがリチャードの作品から逃げるように振舞っているのである。
それが各所にあるものだから、リチャードの工房が近付くにつれて坑道内では、アンデッドが苦しみ続けているようにも見えた。
“作ろう。更なる作品を。より、不死者の心を揺さぶるような作品を”
前評判無しに作品に反応する不死者たちは、リチャードにとって非常に都合の良い“鑑賞者”であった。
生前は的外れに高騰し続ける自分の作品を、それを求める人々の長々しい賞賛を冷めた目でしか見れなかったリチャードだが、今はそれなりに観衆の存在をありがたく思っている。
彼の創作活動は奇妙なことに、死後になってより生き生きと輝いていたのだった。