エバンスが殺された。
レヴィの目の前で。
パトレイシアがレヴィにとって母のような存在であるとするならば、温厚で優しかったエバンスはレヴィにとっての兄や姉のような存在であった。
楽しい歌を聞かせてくれて、何かと気にかけてくれる人。
それがドラゴンゾンビに噛み砕かれ、消え去った。
大切な人が目の前で喪われた衝撃に、レヴィはただ悲鳴をあげることしかできない。
「さあパトレイシア、交渉内容の変更だ。さっさと選べ。支配を受けるか、そのうるさいガキを惨たらしく殺すか」
『この……このような幼子にまで! 手を下すと言うのですか!? それが為政者たるあなたのやり方なのですか!?』
「そうだが? こんなものはただの手段よ。目的ではない」
ノールが指を立て、そこに瘴気を集める。
禍々しい黒い球体は一瞬にして破局的な力を増し、赤黒い雷光を迸らせた。
「貴様を駒にすれば多少は統治が楽になる。新たなるバビロニアの建国に貢献できるのだ。理解できるだろう? ん?」
『……私が支配を受ければ、レヴィさんを生かすと?』
「誰が生かすと言った? 楽に殺してやるだけだ。勘違いするなよパトレイシア。我はそこのガキに生かす価値など認めていない」
『……!』
ノールは絶対的な有利を確信している。事実、パトレイシアがどう足掻いたところでノールやドラゴンゾンビには太刀打ちできないだろう。
生殺与奪も主導権も全てはノールが握っているのだ。これは決して交渉などではない。
パトレイシアにできるのはもはや、レヴィを楽に死なせてやるか、苦しませて死なせてしまうかの選択だけなのだ。
「パ、パトレイシア、さん……!」
恐怖に染まった目がパトレイシアに向けられる。
パトレイシアは彼女を救えない。縋られたとしても触れることさえ叶わない。
ならばいっそのこと、ノールの支配を受けて苦痛のない終わりを願うしか……。
「はぁ、またネズミが来たのか」
ノールが呆れた声を出す。
少し間を開けてパトレイシアも気が付いた。
一歩一歩と、このような状況下にも関わらずゆったりとした歩みが玉座の間に近づいていることを。
いったい誰なのか。
その神経質そうな静かな足音は、パトレイシアとレヴィには親しみがある。知らないのはノールただ一人。
「果たして今度はどのような──」
ノールは見た。
そして、思わず玉座の背もたれから前のめりになる。
扉の奥からやって来たのは、一人の骸骨。
拘束用の無骨なベルトを各所にあしらった罪人のローブを着込み、歪んだ黒い魔剣を手にした物静かなリッチ。
「……リチャードさん!」
ノールはその男を知っていた。
骸骨と成り果ててもどうしてか一瞬でわかった。その男は、かつで自分が処刑したはずのリチャードであると。
「……死の底から蘇ったか、貴様も」
ノールの重苦しい言葉に、リチャードは言葉を返さない。
言葉を発さないことはノールも理解している。それを不敬であるとは思わないが、焦ったさは募る。
『ルジャさんは……』
パトレイシアはリチャードが握る剣の意味を察していた。
ルジャという言葉に、リチャードは魔剣に掛けた指で二回柄を叩く仕草で返す。ルジャは死に、これだけが残ったのだと。
だがルジャを悼む暇はない。
彼らの目の前には、今にも全ての不死者を打ち壊そうと目論むノーライフキングがいるのだから。
「死想の彫刻家リチャード……ふむ、リッチとなったか。死に取り憑かれた貴様が死霊術師となるのは納得がいく……が。その剣は、どういうつもりだ? よもやその程度の武器で、」
ノールが言い切る前に、魔剣は音を立てて床に転がった。
リチャードは一瞬も躊躇することなく、己の武器を手放したのである。
「……ハ。殊勝なことよ」
ノールが嗤う。
「その褒美として、貴様も我が直々に……」
その嗤いは、リチャードが懐より取り出した品を見て凍り付いた。
「……どういうつもりだ?」
リチャードが取り出したのは、生前に作り上げた作品の一つ。
ノールにも献上された傑作の一つである、一見すると立方体の塊でしかない彫刻だ。
“苔むした壁”。
ノールの明晰な頭脳はもちろん、それを覚えている。
その作品をきっかけにリチャードを処刑にかけたこともだ。
「くだらぬ芸術だ。貴様は何を知った風でいる」
「……」
「その外側にあしらった煉瓦はバビロニア最初期の組み方。王家の建築にのみ許された様式。それが破損している。貴様の作品の揶揄するところは、我ら支配者への侮辱である。これが許されるとでも思ったのか?」
「……」
「バビロニアは崩れぬ。内側の腐食した魔金柱も馬鹿馬鹿しい。我の統治に間違いなどない。塔が崩れ去ったのは、先代までの怠慢の累積に過ぎん。我はもっと上手くやれる。今度は一から積み上げるのだ」
「……」
ノールは饒舌に語り出した。
ただただリチャードを見据え、熱を増したように。まるでリチャードの沈黙と、差し出された四角い彫刻を罵るように。
「土台を固める。強化に幾重にも、水にも風にも侵されぬよう堅牢に。我は不死者である。ノーライフキングのノールである。永遠の命だ。我は滅びない。故にこそ永遠の国と永遠の支配が成り立つのだ」
「……」
「永遠はある。不死はある! 馬鹿め! 我は滅びぬぞ! 絶対に滅びてなるものか! 百年でも千年でも、バビロニアは続くのだ! 終わらないのだ!」
「……」
「何故否定する!? 朽ち果てないものはないだと!? くだらぬ哲学だ! 永遠になり損ねた連中が斜に構えているだけの戯言だ! それ以上……それ以上我を侮辱するな!」
ノールがひとりでに激昂する。
指先の魔力球を掲げ、リチャードを威嚇する。
だがリチャードは動じない。
そもそも、リチャードは死に恐怖を感じていない。
ただ彼は作品を見せているだけ。
魔力球を叩きつけられれば死ぬことは理解しているが、それはリチャードにとって重要なことではないのだ。
重要なのは、ただ目の前で喚く王に作品を見せてやることのみ。
「何故恐れない! 何故終わるなどと!」
リチャードは狂王ノールが“苔むした壁”を正しく理解できる優れた鑑賞者であることを知っている。
他の者は誰もその作品の真意に近づくこともできず、死を想うことができなかった。
理解できたのはノールだけ。理解できたからこそ、リチャードを処刑したのだ。
おそらくはこの作品が示唆する“滅び”を受け入れることができなかったから。
だが、リチャードが死んでも作品は消えない。
作品によってもたらされた衝撃や感情は無かったことにはならない。
それは今再びリチャードを葬ったところで、決して覆らないのだ。
ノールが己の内に“滅び”の未来を夢想した時点で、絶対に。
「いつかは必ず滅びるなど……ありえてたまるものか……!」
ノールは認めたくなかった。
自らの存在が消え去ることを。己の打ち立てるものが風化することを。
だから強く、誰よりも強く願い、実行に移してきた。
他の全てを犠牲に、不変の国を作るために尽力した。
だがリチャードの作品は語るのだ。
たとえ国が数千年生きようとも、必ずいつか全ては無味乾燥なものとなって消えゆく定めなのだと。
苔むした壁の最奥にある無機質で平らな面は、全ての果ての虚無を意味していた。
「み、見たくない! 見たくないぞ、我は! 来るな、近づけるなぁ!」
ノールは錯乱した。
魔力球は集中を保てず霧散し、彼は玉座の傍に置かれていた細剣を掴み取ると、それを遠くから振り回してリチャードを牽制している。
だがリチャードは入り口に立ったまま動いていない。
ノールがただ一人、幻影でも相手にするかのように暴れているだけである。
パトレイシアとレヴィはその奇妙な光景を見て、意味はわからなかったが、どこか言い知れない恐怖を感じていた。
「死にたくない! 我は消えたくない!」
狼狽え喚くノールの背後で、ドラゴンゾンビも同じように苦しんでいる。
支配者のノールと共有した魂は狂った苦悩さえも分かち合う。
根源的な死への恐怖。滅び行く原初の畏れ。
ノールの明晰な頭脳が導き出す鮮明な恐怖は増幅され続け、両者をどこまでも深い狂乱に陥れた。
「グオ、ァ、グァアアアアアッ!」
やがて、ドラゴンゾンビの魂が限界を迎えた。
混乱の最中にあるノールはドラゴンゾンビの支配を保ちきれず、ドラゴンゾンビもまた極度の恐怖によって自我を取り戻したのだ。
穴だらけの翼が天蓋を超えて大きく広がり、腐った顎から咆哮が響き渡る。
「きゃあっ……!」
『レヴィさん! “レイ・プロテクション”! この盾から出ないで!』
力の限りを尽くした咆哮に、塔が揺れる。
崩れかけた天蓋から石が降り注ぐ。
パトレイシアは残った片腕から防御魔法を展開し、レヴィの身を守るので精一杯だった。
「ああ、崩れる? また、我が国が……! 終わる……!?」
「ゥルルルルル……」
歪んだ頭蓋を抱えて苦悩するノールの頭上から、顎を開いた腐竜の顔が迫る。
ノールは捕食者たるドラゴンゾンビの鋭い牙を見ても尚、それさえ霞む恐怖に取り憑かれたまま……。
「終わりたくなど……」
無慈悲に顎が閉じ、ノールは呆気なく噛み砕かれた。