埋没殿のサイレントリッチ   作:ジェームズ・リッチマン

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遺ったもの

 

 ドラゴンゾンビが腐った吐息を漏らし、わずかに開いた口から粉々になった人骨が散らばり落ちる。

 かつてバビロニアの狂王と恐れられたノールの最期はあまりにも呆気なく、子飼いの竜に噛み殺されるという哀れなものであった。

 

『ノールが死んだ……支配が、解けている……!』

 

 最も大きな脅威が去ったはずである。王の打倒は悲願だった。

 しかし、パトレイシアはドラゴンゾンビから放たれる禍々しい魔力を感じ取ってしまった。

 

 精神を操るノールは死に、枷は解かれ、その上ノールを殺したことによって莫大な力を獲得したドラゴンゾンビ。

 

「ォオオオオオッ!」

 

 天に向かって吼えるその威容は、新たな暴君の誕生に他ならなかったのである。

 

『レヴィさん、リチャードさん、階下に……!』

 

 ドラゴンゾンビが尻尾を振るい、薙ぎ払う。

 ほとんど骨を剥き出しにした尻尾による殴打は玉座の間の堅牢な壁を大きく半円状に抉り、崩壊させた。

 

「きゃっ……! い、入り口、が……」

『……しまった』

 

 ドーム状の天蓋が崩れ落ち、入り口の門を塞ぐ。重厚な壁面はレヴィの強化された筋力であっても持ち上げることは叶わず、ビクともしない。

 

 ドラゴンゾンビは空に吠え、暴れていた。

 穴だらけの翼を広げ、口から黒い煙のようなブレスを漏らし、猛り狂っている。

 

 だがその怒りはレヴィやパトレイシアなどに向けられたものではない。

 己を縛り付けていたこの玉座の間そのものに向けられているかのようであった。

 

 少なくとも、ドラゴンゾンビの吠える様を観察していたリチャードにはそう見えた。

 

『他の脱出口を……床! 床を魔剣で突き崩せば……いや、この部屋の強度は高すぎる……そう簡単にはできない……!?』

 

 だがドラゴンゾンビに直接狙われていなくとも、その怒りの片鱗に煽られた瞬間に終わりはやってくる。

 ドラゴンゾンビは狂ったように壁を、主に黄金の柱を執拗に殴りつけ、ブレスを浴びせていたが、崩壊に巻き込まれれば殺されるのと何ら変わりはない。

 

『“アトラ・トランプル”……くっ、駄目。もう私が、残されていない……!』

 

 パトレイシアは腕を捥がれた上に、高度な魔法を乱発しすぎた。

 今の彼女の力はレイスとして覚醒した当初と同じかそれ以下にまで落ち込んでいる。重厚な玉座の間の瓦礫を消し飛ばすほどの力が残されていない。あと数発の魔法を使えば、高度を保つことすらままならない状態であった。

 

「えいっ……う、硬、い……」

 

 レヴィもルジャが遺した魔剣を拾い上げて掘削を試みるが、床も壁も分厚く頑丈で、彼らの力による脱出は上手くいかない。

 そうする間にも怒り狂うドラゴンゾンビは長い首を振り回し、瘴気のブレスをあちこちに振り撒いている。

 

『! あれは、鎖……どこへ……いえ、もしや、あれを使えば!?』

 

 窮地の最中、パトレイシアは崩落寸前の穴だらけの壁の向こう側に、外へと続く鎖が伸びているのを見つけた。

 大きく頑丈な鎖である。魔法によって伸縮し、目的のものを縛り続けるというバビロニアに伝わる神器。

 それは遠く瘴気で霞む果てにまで続いているかのように見えた。

 

『レヴィさん! この鎖です! この鎖に捕まって! これを伝っていけば、地上へと戻れるはず!』

「地上……!?」

『きっとノールによって伸ばされた物です! ドラゴンゾンビによって玉座の間そのものが崩壊する前に、さあ!』

 

 パトレイシアが残りわずかな力を振り絞り、レヴィを落石から庇いながら鎖へと導く。

 レヴィは身体が千切れつつあるパトレイシアを横目に見ながらも、彼女の必死な声に従った。

 

 鎖は大きく、長い。しがみつけば問題なく伝っていけるだろう。

 レヴィは空の向こう側へ階段のように続いてゆく鎖に触れ、その冷たさに心細さを感じ、振り向いた。

 

 パトレイシアは輪郭を崩し、ウィスプのように淡くゆらめいている。

 

『決して立ち止まらないで。あなたは地上に出て、自由になって』

「パトレイシアさん、リチャードさん……!」

 

 リチャードもパトレイシアのすぐ後ろに立っていた。

 彼にしては珍しく、真っ直ぐにレヴィの顔を見据えているようだった。

 

『ハーフエルフの私はかつて人に恋し、人を愛し、子を育む夢を見ました。……結局恋や愛は叶いませんでしたが、わずかな時間でもあなたを育むことができて、良かったです』

「やだ、一緒に……!」

『もう私は高度を保てないのです。力も残りわずか……レヴィさん、共に行けないのが残念です』

 

 パトレイシアは揺らめく身体でレヴィの抱きしめるように腕を回し、撫でた。

 幽体のその仕草に感触は無かったが、レヴィは確かに暖かさを感じた。

 

『……さあ、行って! 地上に出て、人として生きて! 幸せになって! 私たち、みんなの分まで!』

 

 レヴィは唇を噛み、涙を流し、力強く頷いて……鎖の上を進んでいった。

 振り返ることはない。彼女はいつだって素直で、従順に従うから。

 

 だが今振り返らないのはきっと、上位者に従うレヴナントとしての習性ではない。

 レヴィがこれまで培ってきた心の強さに他ならないのだと、パトレイシアは確信している。

 

「グァァアアアアアッ! ォォオオオオッ!」

 

 瘴気の雲の向こう側にレヴィの姿が消え、埋没殿の玉座の間にはドラゴンゾンビと二人のアンデッドだけが残された。

 

 ドラゴンゾンビは未だ壁に向かって爪牙を振るい、積年の怨みをぶつけている。

 

『……リチャードさんも、レヴィさんを追っていくべきです』

 

 ぽつりとパトレイシアが零すと、リチャードはただ無言で首を横に振った。

 

『……何故です? このまま私とともにドラゴンゾンビに殺されるくらいなら、あなたも……』

 

 リチャードはただ、歯列の前に指を立てた。

 “静かに”。いや、“それ以上は言うな”とでも言っているのか。

 

 そんなやりとりをした直後に、鎖を繋ぎとめていた壁が竜の頭突きによって崩壊した。

 鎖の端は埋没殿から分かたれ、遠い端に向かって消えてゆく。

 

 レヴィが去って、それなりの時間は経った。終端まではたどり着けているかもしれない。

 それに彼女の力は強い。しがみついていれば、鎖から振るい落とされる心配もないだろう。

 

 ともあれ、リチャードが外へ抜け出す手段は瓦礫とともに崩れ去った。

 パトレイシアはそのことを気に病むように俯いていたが、リチャードは少しも気にしていないかのように歩んでいる。

 

『リチャードさん……何を……』

 

 リチャードは暴れるドラゴンゾンビの足元から、一組の骨を拾い上げた。

 それはドラゴンゾンビの顎門に噛み殺されたノールの大腿骨。食い残しであろう。

 

 リチャードは両手にその骨を握ると、おもむろに強く打ち付けた。

 

 大腿骨が打ち鳴らされ、乾いた音が響き渡る。

 

 人骨の音。気に障る人間の強い残り香。

 ドラゴンゾンビの殺意に満ちた虚ろな眼窩が、リチャードに向けられる。

 

 一瞬の静寂。

 絶対強者に睨みつけられたことによる絶大なる恐怖。まさに死の瞬間。

 

 しかしリチャードは首を傾げた。

 確かに恐ろしいが、極致ではない。

 

 人智を超えた竜に狙われても尚、それはリチャードの追い求める死想とは少し方向性が違っているようだった。

 

 なによりも。

 

 “不完全だ。”

 

 大腿骨を崩壊した壁の向こう側へと放り投げてやれば、ドラゴンゾンビはそれにつられて大きく跳躍した。

 巨翼をはためかせ、首を伸ばし、投げられた骨に食らいつかんとする姿は、まるで飼い慣らされた犬のよう。

 

 そうしてドラゴンゾンビは玉座の間からその巨体を投げ出して……飛ぶことも出来ずに、落ちていった。

 

「──ォォオオオオッ!」

 

 忌々しい人間の残り香を追いかけた彼は、朽ち果てた翼をバタつかせながら、それがもはや風を掴むことはないことをようやく知って、絶望の咆哮を上げる。

 

『……なんと、まぁ……』

 

 そして長い長い落下の時間の後、巨大な何かが硬い地面の上で盛大に砕け散って、地の底を揺らす音を最後に、竜の鳴き声は聞こえなくなったのだった。

 

 埋没殿に静けさが戻ってくると、リチャードは呆然としているパトレイシアの隣で満足そうに頷いた。

 

『……ふふ、あははっ。本当に、あなたは……すごい人です。リチャードさん』

 

 地上に戻る手立ての一つが失われた。

 大切な仲間が散っていった。

 

 それでも、世界を脅かしかけた王は滅び、大穴の空を阻む竜も消え去った。

 何よりも。

 

『……レヴィさん。あなたの旅路が、幸福なものでありますように……』

 

 たったひとつだけの大切な子供を、地上に送り出せたことが、パトレイシアには誇らしく、嬉しかった。

 パトレイシアは少しずつ魔力の欠片となって散ってゆく己の姿を眺め、穏やかに微笑んだ。

 

 魔力の多くを失ったレイスの死が迫っている。

 だが、気分は悪くない。

 

『リチャードさん。ありがとうございました。あなたと出会えて、私はとても幸福でした』

「……」

『目覚めさせてくれてありがとう。人として生かしてくれて、ありがとう。そして……さようなら』

 

 パトレイシアは最期にリチャードの身体を優しく抱擁すると、やがて仄かな光を残して消えていった。

 

「……」

 

 残されたのはリチャード一人。

 

 彼は瘴気に覆われた空を見上げ、しばらくぼんやりと眺めた後……持ち合わせた工具を取り出して、瓦礫と向き合った。

 硬く、大きく、重く、ほとんど削れない瓦礫の山。入り口を見出すには長い長い時間がかかるだろう。

 

 しかしリチャードには時間がある。

 彼は根気強いアンデッドだ。

 

 いつか必ず、遠からず、その場から抜け出せることだろう。

 

 

 

 埋没殿に、槌の音が鳴り響く……。

 

 いつもより高い場所で、大きな音で。

 

 

 

「……さよなら、リチャードさん。パトレイシアさん……」

 

 鎖の果てにたどり着いたレヴィだけが、微かに響く穏やかな作業音を聴いていた。

 


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