東條希が蜀の丞相諸葛孔明であった記憶を取り戻したのは、丁度八歳の誕生日であった。記憶を取り戻した直後は、柄にもなく右往左往慌てふためくばかりであったが、そこは天下にその名を轟かせる英傑の一人、直ぐに事態を把握すると、先ずは現代社会に馴染むべく行動を開始するのであった。
今までの希としての記憶もきちんとあったのだが、孔明としての人格が蘇ってしまい、記憶というか記録のようなものに成り果ててしまい、暫くはこの記録を記憶に変換することに苦心する。
また数年程は、希としての人格を再現して生活をしていた。いきなり、前触れもなく言動が変わってしまえば、親を含めた周囲に無用な心配をかけることになる。抜かりはなかった。
孔明という人格、立ち居振る舞いを表に出したのは、小学校を卒業し、中学校に入学する前の時期である。頃合いを見計らい、両親にこう話を切り出した。
「私も、もう直ぐ中学生かぁ」
感慨深げに言うと、父と母は揃って、
「そうしたら高校生になって、大学生、そして社会人。大人になるのは直ぐだよ」
と、言った。これが狙いだった。
希は大人になる、お姉さんになるという建前の下に、孔明としての人格を出し始めたのだ。最初は少し困惑気味の両親だったが、中学生としての自覚が芽生えたものと判断して、寧ろ変化を喜ぶ有様だった。
そうして現代社会、孔明であった希にとって未来社会の生活を続けること九年程の月日が経過、希は無事に高校三年生となる。
「廃校かぁ……」
希の通う学校、音ノ木坂学院が新一年生を迎えてから二日目の昼休み。教室には両手で数える程の人影しかなく、希はその人影の一つとなって昼食を取っていた。高校に入って出来た二名の友達と一緒の昼食である。絢瀬絵里と矢澤にこの二人だ。
本来彼女たちは黙々と食事を済ませてからお喋りを始めるのだが、今日は珍しく食事をしながらの会話があった。最初に言葉を吐き出したのは絵里だ。
「私たちには影響が無いと言っても、何だか寂しくなるわね」
はあ、とアンニュイなため息を一つ。その絵里の姿を見て、同調するように視線を落とすにこと、表立って反応を見せず食事を続ける希。だが、絵里とにこの食事をする手が完全に止まったのを確認すると、箸を置いて二人に、
「これもまた時代の流れというもの。栄えるものは必ず没落します。遅いか早いかの違いはあれど、何事もそういうものなのです。あまり深く思い悩まずに、事態を冷静に迎え入れ、己を失うことなく泰然としていることですね」
と、何てことのないような口調で言った。
にこは希の言葉に納得して、自分で手作りした弁当に箸をつけることを再開したが、絵里は気が晴れない様子で、手と口の動きは鈍かった。希はそれ以上語らず、絵里の零した『廃校』について思考を巡らせ始める。
音ノ木坂学院の廃校が告げられたのは、希たちが三年生となって初日の事だった。理事長より告げられた時は、誰しもが同じ思いを抱いていただろう。とうとうその話が出たか、然もあろうことで別段驚くには値しない。多少頭が働く者ならば、近いうちに廃校話が出ることは予測出来て当然の話なのだった。無論のこと、希も予測していた。
このことに関しては、先ほど絵里とにこにも言ったが時代の流れでしょうがない話だ。元々音ノ木坂学院は歴史の古さ以外に強調する所はなく、若者の心を捉える様なものが何もないのだった。勉学にしろ、スポーツにしろ、芸術にしろ、どれも平均的なものだ。
希にしても、この学校に来たのは、勉学はやろうと思えばどこでも出来るので、家から近くなるべく人が少ない所をと探して選んだだけの事だ。故に特に思い入れも何もない。
にことて別段そこまで学校に愛は持っていないし、今すぐに廃校となるから別の学校に編入しなくてはならないという話でもない。新一年生たちが卒業するまでは存続するようなので、少し悲しいけど割り切れる話なのであった。
ただ、絵里はそうでもなかったのだ。
彼女の敬愛する祖母が元々この学校の出身で思い入れが強い上に、妹はこの学校に通いたいと望みを口にしているらしかった。生真面目な彼女の心情として、何とか祖母の為、妹の為、学校を存続させたいと考えても不思議ではない。
(まるで元直君を見ているようですね)
希は絵里を通して孔明時代の友達を思い浮かべた。
徐庶元直。孔明の学問の師である水鏡の下で共に机を並べた友達である。生真面目で母親思いの好漢だった。希が見るに身内を愛する心は、絵里も徐庶も同じほど。希は自分がそうであるように、一時期絵里が徐庶の生まれ変わりなのではあるまいかと疑っていたものだ。
余計な話だが、徐庶も絵里も妙に虐めたくなるというか、ちょっと揶揄いたくなるところまで似ている。後世、誠実が服を着て歩いているかのような評価を受けている希(孔明)だが、意外にも茶目っ気があり、誠実、真面目一辺倒の男ではなかった。
にこにしても、
「いつか、宇宙ナンバーワンアイドルになるわ!」
と、声高々に宣言しているのを見て、やはり孔明時代の友達だった崔州平、孟建などを彷彿させた。彼らもにこと同じように、太守になる、刺史になると大きな志を語っていた。
昔の友達と言うのは心地よかったもので、その友達を思い出させるような絵里やにこも、無論のこと心地よいものだった。二人と友達になったのは、案外とそういう所があったからなのかもしれない。
それはさておき、絵里である。
彼女は短くない時間、肩を落としたり、ため息をついたりといった事を繰り返し、見かねたにこが注意をするも意味をなさず、また繰り返すこと数度、何かを決心したのか、急に弁当をかき込んでから澄んだ眼差しで希とにこを見つめた。
「やっぱり、このまま座して滅びを待つような事は出来ないわ。私の力で何が出来るのかは分からないけれど、この学校の為に力を尽くしたい。廃校は私が阻止するわ」
すると、にこが呆れながら止めた。
「止めときなさいよ。一般生徒のエリーに出来ることはないって。そんな馬鹿な事を考えていないで、残りの高校生活を有意義に過ごす方法を考えなさいよ」
絵里が力強く首を横に振った。
「そんなことはない。何かある筈よ。それに、きっと同じ思いを抱いている人は他にもいる筈だわ。先ずはその人たちを集結させて、皆で廃校阻止よ」
そんな人が絵里以外に居るのだろうか。にこはチラリと横目で希に視線を向けると、その視線に気付いた希が応える。
「まあ、居ないことはないでしょう」
希は右手を扇子代わりにして口元を覆う。
「よし、にこ! アイドル研究部の力を見せる時が来たわ! 二年間の雌伏の時を経て、蓄えてきた私たちの力を発揮するわよ!」
「ちょっと待ちなさいよ! 何をわたしまで巻き込もうとしてるの!! そもそもアイドル研究部は廃校を阻止する部活じゃない! わたしは本来のアイドル研究部の活動が忙しいから、やるなら一人でやって頂戴」
「アイドル研究部の活動って、貴女パソコン弄ってるだけじゃない」
「うっ……あれは世のスクールアイドルの情報を集めているのよ。情報を制する者が世界を制するの。わたしは何も間違ったことはしてないわ」
説明を加えるなら、この時、アイドル研究部は目立った活動をしていなかった。と、言うのも、にこと部員の間で見解の相違があり、アイドル研究部は本格的な活動を始める前に瓦解したのである。絵里が入部して大して時は経っていなかった。
何が起きたのかと言うと、希の助言通りに、にこは独断で推し進めることなく、部員を集めて、スクールアイドルとして活動を始めたいと相談したのだ。元々、そうするためにこが創設した部活である。しかし、他の部員は、絵里を除けばアイドルなどやる気は端からなかった。研究部の名の通りの事がしたかったのであって、自分がアイドルになるなど夢にも思っていない。
こうして互いの進むべき道が違うことが判明したので絵里以外の部員は部を離脱し、まともな活動が出来ないまま二年の時間が経過したのであった。
「とにかく、わたしには関係ない。にっこにっこにー、ごめんねぇ、にこ、力になってあげられないニコ」
「くっ……むむむ……希!」
にこが頼りにならないと分かると、絵里は縋るように希を見た。
希は一考する素振りを見せながら、変わらず口元を隠し、涼やかな声で言うのだった。
「直接的な助力は出来ませんが、それでよろしいならば」
食い気味に絵里は頷いた。
「それで良いわ! 流石、希! 私の親友! どっかの小学生とは大違いね、器の違いをまざまざと見せつけられたわ」
「ぬあんですって! 誰が小学生よ! 誰が!」
「さあ、誰の事だったかしら? どこかのアイドルになるのが夢のくせに、アイドルらしい活動を一切していない髪を二つに結んだYさんの事だったかしら」
「言わせておけば、金髪碧眼の老け顔!」
何やら取っ組み合いの喧嘩でも始まりそうな中、希は静かに席を立ってこの場を後にしようと二人に背を向け、教室のドアの方へと歩く。
「ふふ」
教室のドアを開ける前、希はふと昔を思い出し笑いを零した。絵里やにこを見ていると、やはり思い出してしまう。徐庶や崔州平達も、議論が熱くなると今の絵里やにこのように喧嘩みたいな事をしていたものである。希は巻き添えを食わないように、茶を入れに行くだの理由をつけて抜け出していた。昔と変わらない今に、つい笑ってしまったのだ。
「さて、昼休みが終わるまでまだ時間がありますね。図書室にでも行って時間を潰すことにしましょう」
希は罵詈雑言の応酬を背中に聞きながら、常と変わらぬ足取りで教室を出て行った。