西木野真姫は、クラスメイトから奇妙な言葉を聞いた。真姫は、音ノ木坂学院の高校一年生。生来の気質からか素直に感情を表現出来ず、ついついきつめな態度を取ってしまう多感な少女。しかし、その心は、髪色と同じように鮮やかながらも赤く燃え滾っている。
何が言いたいのかと言うと、素直になれない真姫は入学してから友達作りに失敗したので、クラスメイトから聞いたのではなく、正確には盗み聞きしたのである。
髪を指に巻き付けてくるくると遊んでいると、隣の席でクラスメイトが、
「孔明先生」
という、不思議な単語を何回も使用していたのを聞いたのだ。
最初は、三国志の話でもしてるのかしらん、とか何となしに思っていたのだが、詳しく話を盗み聞きしている内に、どうもそうじゃない。現実に、ここ音ノ木坂学院に、孔明先生なる人物が居るらしいではないか。真姫の記憶上、中国人の先生はいない。
さらに込み入った話を盗み聞くに、孔明先生は、どうやら三年生のとある先輩の呼び名らしかった。真姫の頭の中には、仙人みたいな恰好をして、羽の付いた扇子をひらひらしている女子生徒が描かれている。
真姫は、三国志の孔明好きな歴女が、孔明に憧れるあまり彼になりきっているだけの変質者程度の認識を抱くのであった。よもや、真実三国志の時代から現代に転生を果たした、諸葛孔明その人だとは欠片も思はなかった。真姫はライトノベルやネット小説を読んだりしないので、一部の界隈で持ち合わせて当然の常識を持ってなかったのである。
「ふんっ」
話を盗むだけ盗んだ真姫は、澄ました表情で鼻を鳴らす。孔明何ほどのことがある。この天下一の天才美少女西木野真姫の前に、諸葛孔明なぞは前時代の遺物。井の中の蛙。我が前に跪かせて、靴でも舐めさせてやるわ、とイケない妄想に耽っていた。
「西木野さん、一人で笑ってて不気味だにゃ」
クラスメイトからのそこはかとない軽蔑の視線は、妄想に夢中になって気付かなかった。真姫は己が知らない間に、友達作りから一歩退いたのである(そろそろ下がる場所がない)。
妄想世界で、これは孔明の罠よ、と真姫が叫んだところで区切りをつけると、お手洗いに行きたくなったので席を立った。なんだかクラスメイトから妙な視線を感じていると思いながら、教室を出て、手洗い場へと早足に向かう。
その途中、見覚えのない女生徒と遭遇した。よくよく見れば見覚えのないのは無理からぬことで、上級生、しかも三年生である。何で三年生が一年生の廊下をうろついているのかは知らないが、真姫はこの三年生が気になった。
落ち着いている。三年生と言うか、社会人でも見ないぐらいに落ち着いた女生徒で、ただ者ではない超然としたものを感じる。不覚にも真姫はうっとりと痺れるのであった。真姫は落ち着いた大人の女性に弱いのだ。一体何者、と思って天下一(自称)の頭脳をフル回転させると、パパっと答えが出て来た。
「孔明先生」
真姫の想像上では、道士服を着た仙人高校生であったが、実際にそんな恰好を学校で出来る筈はないのである。孔明先生と真姫に呼ばれた上級生は、ニコリと笑った。
「その呼ばれ方は久しいですね。貴女は私の事を知っているようだ。何か縁を感じますし、少し話をしてもよろしいでしょうか。性は東條、名は希、字は孔明。以後よしなに」
上級生の正体は希だった。いやまあ、孔明先生だなんて呼ばれそうな女生徒は後にも先にも希ぐらいで、そう呼ばれるに相応しいのも希であろう。本人以外は誰も知らないが、希は孔明その人なのである。
自己紹介をされた真姫は、礼儀正しい態度を受け、結構まともな人なのかもと思いながらも、
(字は孔明? やっぱり孔明マニアね)
と、変質者という印象も同時に強くなった。
あまり関わり合いになりたくないと思いながらも、この機を逃せば近しい年代の人と喋る機会が何時になるか分からないと、天秤にかけて後者を選んだ。
「私は西木野真姫です。ちょっと待っててください」
普段は使い慣れない敬語で話す真姫。良いところのお嬢様なので、逆に敬語を使われる立場なのだ。と言っても、良家のお嬢様と雖も敬語を使わないといけない時は多々あるので、単純に敬語を使うのが嫌いなだけである。
真姫はサッと用を済ませてから希の下に戻って来る。
「お待たせしました」
「いえ、こちらこそ付き合って頂いて申し訳ありません」
中央の道を避けて窓際により、二人は話し始める。
「西木野殿、学校にはもう慣れましたか?」
まるで母親みたいな事を希は訊いてきた。この質問、実の母親にもされたばかりであるが、素直に慣れない真姫は、当然ながら素直に答える筈もなく、
「はい、友達も沢山出来て、毎日が楽しいです」
と、引き攣った笑顔を浮かべるのであった。友達なんて一人もいないし、学校なんて楽しくもない、と言うのが本音。日本人らしく、本心を隠す真姫である。
真姫の心情を何となく読み取った希だが、出会ったばかりで、しかも相手は上級生、そうそう心を開いた会話は難しいと判断して深く追求せず、
「そうですか。それは何よりですが、何か困った事がありましたら、是非私を頼って下さい」
そう、上級生らしいことを言う。
それからも何気ない会話を続けていくのだったが、話をするうちに真姫は段々と楽しくなっていくのであった。何気ない会話でも実りのある会話になってると言うべきか、希の話には知性が感じられて、真姫は深く感心した。
(この人と話をしていると気持ち良いわ。私ほどではないにしても、相当な頭脳の持ち主のようね。伊達に孔明を名乗ってるわけじゃないわね)
変質者から、頭の良く常識もあって礼儀正しい変質者に格上げした。真姫はどうあっても変質者という認識を取らないらしい。希が本当に変質者かどうかは評価が分かれるにしても、その変質者と意気投合して気に入ってる時点で、自分も仲間入りしている事に真姫はきっと気付いていない。彼女はほんの少し前まで中学生だった純粋な新一年生なのだ。
希もまた、真姫への評価は良いものであった。
(先が楽しみな少女ですね。西木野真姫。西木野総合病院の跡取りでしょうか。良き後継者に恵まれているようです)
良家のお嬢様の真姫は、病院の院長の一人娘である。将来的には彼女がその病院を継いで院長になるのだ。希も間違いなくお世話になるので、と言うか既にお世話になっているので、跡取りがこんな聡明な娘なら安泰である。子供は彼女だけなので、後継者争いもなさそうだ。変な婿さえ取らなければの話だが。
存分に話し込んだ後、希の別れ際、
「私の事は真姫って呼んで」
すっかり打ち解けて、名前呼びを自分から許すぐらいには素直になった真姫がそこに居た。ちゃっかり、敬語で話すことも止めている。真姫の中で、変質者という単語の意味も変質したらしく、ちょっと風変わりな人ぐらいの意味に落ち着いていた。あくまで、真姫の中ではだが。
そして真姫が打ち解けたように、希もただの先輩後輩の関係になるのは惜しいと思ったらしく、
「いずれまた、お目にかかりたいと思います。その時は、是非、盟友や我が君を貴女に紹介したいと考えております」
と、再会の約束をした。
真姫は、希の我が君という発言に、やっぱりどこか人と違うわね、とうんうん首を頷きつつ、
(孔明先生ほどの方が忠誠を誓うなんて、きっとその人もとんでもない人なのね。理想を胸に初志貫徹、己が命を懸けて、何が起こっても立ち止まらず、前へと進んで行く現代の英雄)
と、これから何時の日か会うことになるだろう希の主君(穂乃果)に対して、期待をこれでもかと膨らませた。これが過剰なまでの期待になるか、至極当然の期待となるかは穂乃果次第であるので、ここでは置いておく。少なくとも失望はさせないだろう、多分。
真姫はルンルン気分で、スキップでもする勢いで教室へと戻ると、心魂の疼き、高鳴りを抑えられないと、放課後、音楽室のピアノを勝手に使って発散することに決めた。
「うわっ、西木野さん、まだ笑ってるにゃ」
クラスメイトからの視線が、変質者(本来の意味)でも見るようなものになっていることには、やっぱり気付いていないのであった。