誰も邪魔をする人間が居ないので、早々に音楽室に辿り着いた穂乃果。別に学校はダンジョンでもないので、待ちな、とばかりに道を遮る人間やモンスターなどいないから当然なのだが。
穂乃果は期待で胸を弾ませている。と言うのも、音楽室に来る途中から、ピアノの音色が耳に入って来たのである。しかも、聞いたことのない曲だった。さらに近付くと、聞いたことのない歌を美声で奏でているではないか。もしかしなくても大当たりでは?
単純に穂乃果の知らない曲を演奏しているだけかもしれないという、極当たり前の思考は一切なかった。この期に及んではもう無粋な考えである。
穂乃果はこそこそと進み寄り、ドアからコソ泥よろしく音楽室の中を覗き込んだ。人がいる。これで、学校の七不思議のように幽霊が弾いているかもしれないという懸念は無意味なものとなった。それにしても、中でピアノを演奏している少女は、テレビでも中々お目にかかれないレベルの美少女だった。
「おお~」
穂乃果の口から漏らされた吐息は、感嘆の色に染まっている。音楽室の美少女は、鮮やかな赤髪を靡かせ、意志の強さを感じるような瞳をたたえ、大人びた美貌の中に少女性をもった、とんでもない美少女なのであった。まさに音楽の妖精さんである。
穂乃果は気付いたら、ドアを勢いよく開け放っていた。
「すごい! すごい、すごい、すごい!」
語彙力なく四歳児みたいに同じ言葉を繰り返す。
この時、一人っきりの空間に突如の乱入者出現状態の、音楽の妖精さんもとい真姫は、
「ヴェ!」
音楽性の欠片も感じられない悲鳴を上げた。一体どこから湧いて出て来たの、とゴキブリに対する反応そのもので、折角の美少女ぶりが台無しになっている。
ゴキブリと同格扱いされたことなど露知らず、穂乃果は真姫との距離をあっという間にささっと縮めて、がっと両肩に手を乗せた。
「ピアノ凄いねぇ! 歌も上手だし、それにとっても可愛い!」
これでもかとべた褒めする穂乃果の瞳は、星空の輝きを呈していた。これぞ彼女の得意技の一つ、無垢なる褒め殺しである。まったく意識せずにやるので邪な気持ちが感じられず、やられた側はよっぽど性格が捻じ曲がってない限り満更でもなくなってしまうのだった。真姫は素直になれないだけで、性格は純粋無垢な女の子だったのでぽっと頬を赤く染めて、
「な、なによいきなり」
と、照れ照れしてしまうのであった。
いつもだったらこんなこと言われ慣れ過ぎて、
「そんな当たり前すぎること言わないでもらえるかしら」
と、冷徹冷酷、絶対零度の視線と一緒に返している筈である。だが穂乃果に褒められたとあっては、そんなことが出来よう筈もないのであった。
やはり、穂乃果は子犬がじゃれついて来る感覚に近しいので、犬嫌いでもない限り冷たくは出来ないのだ。真姫も犬は嫌いじゃないし、子犬とかは大好きである。何なら、小さくて可愛いものは何でも好きな、守備範囲の広さなのであった。
「とっても可愛いから、わたしと一緒にアイドルをやろう」
と、続いて勧誘された時も、しょうがないなあ、と勢いで承諾しそうになったのをぎりぎりのところで踏みとどまった。
「イミワカンナイ」
辛うじてそう返すのが精一杯である。この一言に、真姫の全てが詰まっていた。孔明先生との出会いがあったかと思えば、日が変わらぬうちにこれだ。運命が動き出している、天は私に何を望んでいるのか、と歴史の登場人物のようなことを考えてしまうのも無理からぬことであった。
「失礼します」
もう少しピアノを弾こうと思っていたが、もうそんな気分じゃない。真姫は逃げるように立ち上がろうとしたが、身体が動かなかった。穂乃果がその容姿から想像できない力で、真姫を押さえつけていたからだ。真姫が人より非力なのも関わっている。
(絶対に逃がさないもん)
穂乃果は純粋な子犬の瞳の裏で、そんなことを考えていた。狙った獲物は逃さない。子犬であると同時に、凄腕の狩人なのである。
音楽に造詣が深そうで、しかも超絶の美少女。真姫をここで逃がすわけにはいかないと、肩を掴む両手にも力が入る。
「ごめん、ちょっとだけ、話を聞いて」
聞かないと行かせない、という副音声までばっちり真姫には届いている。
「分かった、分かったから、手を放しなさいよ、痛い痛いっ」
何とか脱出を試みようとした真姫だが、無理だと悟ったのか潔く観念したようだ。子犬は時としてしつこく、容赦がないのである。
言質は取ったぞ、と穂乃果は両手を放してから、
「わたし、高坂穂乃果」
元気よく名乗り上げた。
すると、如何な子犬好きの真姫でも流石に嫌々した様子で、
「西木野真姫」
と、素っ気なく言った。
「西木野、真姫ちゃんか。可愛い名前だね、真姫ちゃんって呼んでも良い?」
一度褒め出すと、相手のありとあらゆるものを褒めるのは、穂乃果の癖である。これも純粋に褒めているのであって、ちゃらちゃらしたナンパ男の口説き文句とは一線を画しているのだ。そしてやっぱり、ちょっと嬉しくなる真姫なので、
「べ、別に良いわよ」
と、名前呼びを許容するのであった。ちょろい。
穂乃果は、じゃあ真姫ちゃんとわざわざ名前を呼んでから、
「すっごくピアノも歌も上手だったよね。しかも、わたしが全然知らない曲だったから、あれ、真姫ちゃんが創ったんだよね。お願い、わたし達に力を貸して」
再度、勧誘を開始した。
「わたし達ね、この学校が廃校になっちゃうのが嫌で、何とかしようと思って、それで、これからスクールアイドルをやろうって決めたの。アイドルになって、人気を集めて、この学校に入学してくれる子をいっぱい増やすんだ。それでね、人気を集めるにはオリジナルの曲があった方が良いんだって。だから、真姫ちゃん、お願い」
話している内に感情が高ぶったのか、うるうると目に涙が溜まっている。穂乃果の第二の得意技、雨の日に捨てられている子犬の目である。これをやられてしまっては、もう常人ではどうしようもない。長い時を共に過ごし免疫と耐性を得ている海未でさえ、やられてしまっては、もう降参する他はないのだった。況や、性根は優しすぎる真姫では、
「あ、あうう」
断りたいのに断れない状況。いや、断ってはいけない状況に陥っていた。ここで断れば、まるで心底人でなしになったかのような、罪悪感に胸を打たれる。子犬を甚振って悦に浸るような特殊性癖を持ち合わせていない真っ当な真姫なので、葛藤甚だしい。
断らなくては、と思う真姫と、別に良いけど、と思う真姫。断りたい真姫の言い分としては、将来父の後を継ぐためにも、勉学に励まなくてはならないので、手伝いなんてやってる暇は無いというもの。手伝っても良い派の真姫は、天才で知的な美貌の真姫ちゃんは、勉学と音楽の両立なんて朝飯前なので、手伝ってあげても良いよ、というものだった。
(どうする、考えなさい、真姫)
この先輩の(さっきから先輩に対する態度ではないが気にしない)声涙と一緒に迸る熱い志に胸を打たれるのは簡単な話だが、そうすると取り返しのつかないことになりそうである。選択次第では、自分のこれからの人生がガラリと変わってしまう予感がひしひしとするのだった。そうして悩んだ末に真姫が出した結論は、
「ちょっと考えさせて」
問題の先送りだった。これは正しい選択と見て間違いないだろう。断れないし、かと言って軽々しくやりますとも言えないので、少し時間を置いて決めるのが良策だ。
(私一人で決めると選択を誤るかもしれないわ。パパかママに相談を……いや、先生! 孔明先生に相談してみようかしら。あの人なら、きっと望む答えを教えてくれる筈よ)
ちょっと話をしただけなのに、希への信頼感が尋常ではない真姫だった。
胸が少し晴れやかになる真姫だったが、彼女は知らない。希と穂乃果の関係性、歪に絡み合っている糸が、解けて正常に繋がろうとしている事実を真姫は知らなかった。
問題を先送りにするのは良策だったが、その後の希に相談するという策は、良策なのか、愚策なのか、その答えは未来の真姫が知っていることである。
「そうだよね、直ぐに決められないよね」
一方で穂乃果は、まずまずの返答を得られたことに喜びつつ、意図せずして真姫に楔を打ち込むのであった。
「そうだ、真姫ちゃん。明日の朝、わたし達の練習を見て欲しいんだ。決して、遊びでやってるんじゃないってことを知って欲しいの」
今の穂乃果の表情で、真面目にやってることは百も理解出来ることだったが、確かに一度見ておいて損はない。これには真姫も逡巡なく承知するのであった。
「私も暇じゃないんだから、退屈させたりすると承知しないわよ……です」
最後の最後で、遅まきながら穂乃果先輩に対する敬語を付け足し、表情を決める真姫だった。