グッバイ、ケレンスキー!   作:神山甚六

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 アレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキー(Алекса́ндр Фёдорович Ке́ренский、 Aleksandr Fyodorovich Kerenskii)1881年5月4日(ユリウス暦4月22日)-)

 ロシア共和国の政治家、弁護士。所属は社会革命党。労働社会主義インターナショナル議長。

 ペテルブルグ大学の卒業と同時に弁護士資格を取得。社会主義者の立場から、政治犯の弁護を積極的に引き受けた。
 1912年に国会議員に当選すると、社会革命党会派に所属。政治腐敗や労働問題を舌鋒鋭く追及する。
 世界大戦が勃発すると、協商陣営としての参戦を支持。
 戦局悪化に伴い、皇帝ニコライ2世の戦争指導を批判する反ラスプーチン派に転じた。

 1917年の帝政崩壊後は臨時政府の閣僚を歴任。戦争継続を主張する。
 7月危機により大臣会議議長(2代)に就任するも、ボルシェヴィキのクーデターにより政権を追われた。
 ロシア内戦(1917ー20)を経て、1921年にロシア共和国大統領に就任。
 現在3期目。


プロローグ
1936年1月3日


 アレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキーの運命を分けたのは、ペテログラードの天候であった

 

 ロシア共和国の暫定首都ペテログラードは、ネヴァ河河口の湿地帯を埋め立てた人工都市である。

 北大西洋の影響を受ける湿潤大陸性気候の冷帯に属しており、冬季は10月後半から3月後半までの5ヶ月以上にも及ぶ。

 特に厳寒期の1月から2月には、日中でも氷点下を下回る日が数週間は続く。

 そのため、貧困層を中心に凍死者が続出することとなる。

 

 ロシア中央物理天文台ペテログラード観測所の日誌を引用する。

 

 事件当日、すなわち1936年1月3日の日出時刻は午前10時3分。

 雲一つない快晴に恵まれたことで、気温は氷点下1度まで「上昇」。

 市内各所には、久しぶりの穏やかな気候を楽しもうと外出する市民の姿が数多く見られた。

 そのため事件は、時を置かずにペテログラード市民が知るところとなった。

 

 散策を楽しむ市民が行きかう市内中央のネフスキー大通りに、数台の車が勢いを落とさないまま侵入した。

 中央の25年式リンカーン・リムジンを複数のダイムラー・ベンツの装甲車が取り囲むという物々しい車列は、その進路を元老院議会のあるダウリーダ宮殿へと向けた。

 

 ロシア広しといえども、時代遅れのアメ車を好き好んで乗り回すのは1人しかいない。

 

 車列を見たある市民は、「嫌なものを見た」と言わんばかりに背を向けた。

 またある老婦人は、聞くに堪えない罵声を浴びせかけた。

 これみよがしに自分の体の正面で十字を切って見せた聖職者もいたという。

 

 彼らに共通していたのは、不正義と貧困が蔓延する現状に対する義憤であり、腐敗と汚職がはびこる政治に対する諦観であり、そして堕落した祖国の現状を許容するしかない自分達の無力さに対する苛立ちであった。

 

 リンカーン・リムジンは、所有者であるロシア共和国大統領のアメリカ贔屓を反映した象徴として知られていた。

 長引く経済危機が政治危機に波及しつつある当時のアメリカに、往年の経済繁栄の面影はない。

 リンカーン・モーターカンパニーと親会社のフォード社も例外ではなく、相次ぐ労働争議と新車販売の低迷は、巨大企業の経営に深刻なダメージを与えていた。

 それでも所有者は、自身が合衆国への国賓訪問において贈られた25年式の「最新モデル」を頑固に使い続けていた。

 

 一方、リンカーンを護衛する大統領警護隊の車両は、最新式のドイツ製自動車。

 それも、文字通りの意味での最新モデルに統一されている。

 車両に限らず、大統領警護隊はドイツ製の高品質かつ高価な装備品購入を毎年続けており、ロシアの貴重な外貨をベルリンに献上していた。

 

 露独関係の重要性を認識する有識者ですら、こうした大統領の露骨な「ドイツ従属外交」には眉を顰める向きが多い。

 

 当然ながら、ロシア国民の間で、人気があろうはずがない。

 

 ペテログラード市民の敵意と侮蔑の視線を集めた車列は、ゆっくりと速度を落としながらダウリーダ宮殿の正面玄関へと到着した。

 

 到着と同時に、車両を大統領警護隊員が取り囲む。

 護衛要則と細則に完璧に従い周囲の安全を確認すると、隊員がリンカーンのスーサイド・ドアを開く。

 そして中肉中背の取り立てて特徴のない初老の男性が、機敏な仕草で降り立った。

 

 威厳とは無縁な痩せぎみの人物の名は、アレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキーといった。

 

 この人物は1921年から共和国大統領の職にあり、幾多の政治危機を乗り越えつつ15年にも及ぶ長期政権を維持している。

 

 熱狂的なケレンスキー支持者は、彼こそが「ロシアの救世主」であり、「民主主義の守護神」であると称賛している。

 反ケレンスキー派は、この人物こそが「ロシアの精神を堕落させた元凶」であり、「保身の独裁者」として批判している。

 両者に共通していたのは、ケレンスキー政権がこれからも継続されるであろうという現状認識だけであっただろう。

 

 まず元老院議長のドミトリー・パヴロヴィチ大公と握手を交わした大統領は、続いて「その日の天候に関する」会話を交わしたとされる。

 現場に居合わせたわけでもない当時の新聞記事は「大統領の表情からは、ペテログラード市民からの批判に対する真摯な反省は感じられなかった」と記している。

 

 ドミトリー大公と共に大統領を出迎えた元老院議員は、以下の通り。

 

 大公の友人であるフェリックス・ユスポフ公爵(元老院副議長)。

 アレクセイ・アルハンゲリスキー予備役陸軍上級大将。

 モスクワ総主教のピョートル・クルティツィ。

 

 元老院の復古的な保守性を象徴する人々と形式的な笑みを浮かべて順番に握手を交わす大統領の傍らには、ゲンリフ・ヤゴーダが影のように付き従う。

 「見せかけの忠誠心を維持する能力だけには長けていた」と揶揄される大統領警護隊長官であるが、その評判は事実であろう。

 ヤゴーダは自身よりも恰幅が良い4人の警護隊員(名前は残されていない)を従わせ、周囲を警戒する素振りをしていた。

 

 大統領秘書官のレオニード・ブレジネフが、彼の眉毛のように分厚い書類鞄を右手に抱えながらケレンスキーと警護隊員の後に続く。

 全員が離れたのち、運転手のアンドレイ・ブルダがリムジンのドアを閉めようと運転席から立ち上がる。

 

 こうして事件現場に12人の役者が揃い、そして招かれざる13人目の「名無しのイワン」が、隠れていた柱の影から駆け出した。

 

 現在に至るまで氏名も年齢も経歴も不明な青年テロリストは、自らが絶命するまでの僅かな時間の間、懐から取り出したリボルバー式拳銃から4発の銃弾を発砲した。

 

 1発目は、リンカーンのスーサイド・ドアに被弾。

 2発目は、アルハンゲリスキー将軍の左肩を砕いた。

 3発目は、大統領から受け取ったコートを持つブレジネフ秘書官の右腕を掠める。

 

 そして最後の1発が大統領の胸部に命中すると同時に、「名無しのイワン」の身体は大統領警護隊により蜂の巣にされた。

 

 事件発生から1時間が経過した正午頃-すなわちロシア大統領銃撃事件の速報が、各国通信社のペテログラード支局からロシア全土と世界各国に発信されるのを待ちかねていたように、同市内の上空は銀色とも灰色ともつかぬ厚い雲により、天蓋のごとく覆われた。

 

 再び観測日誌を引用する。

 

 「ネヴァ河下流方向から吹く風が次第に強くなり、雹のような湿った雪」が降り始めた。

 冬宮殿や大理石宮殿の外壁を暴風雪が容赦なく叩きつけるまでの時間は「10分程度」であったという。

 

 ペテログラードを覆った冬の嵐は、雪と風により暫定首都を孤立化させた。

 

 世界からも、そしてロシアからも。

 

 歴史に「IF」は存在しない。

 

 だがペテログラード市内の天候回復がなければ、「名無しのイワン」は襲撃計画を延期した可能性は高いだろう。

 

 そして1936年1月3日正午までのペテログラードの上空は、油絵具のコバルトブルーをキャンバスに塗り付けて広げたような快晴であった。

 

 

 1936年1月3日午前10時28分。

 

 大統領警護隊の医官は、ダウリーダ宮殿内の大統領警護隊控室に担ぎ込まれた人物の死亡を確認した。

 

 死因は銃弾が心臓に命中したことによる心停止。

 

 ほぼ即死であったという。

 

 あまりにもあっけなく、アレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキーは死んだ。

 

- 『ケレンスキー暗殺』民明書房(1999)から引用 -

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