グッバイ、ケレンスキー!   作:神山甚六

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「舌を使っておしゃべりしても、腕に意志を与えるな」

 ロシアの諺


孤独(後編)

 1900年代初頭。すなわちマリア・アレクサンドロヴナ・スピリドーノワが、まだ無名の革命戦士であった頃の話である。

 

 分裂して停滞してたナロードニキ運動の統一を目指す動きは、1898年にロシア社会民主労働党が結党されると本格化する。

 同党にロシアにおける社会主義勢力の盟主をマルクス主義者に奪われかねないという危機感からである。

 そのため各地の反体制派や非マルクス主義団体を糾合しつつ、水面下で折衝が進められた。

 

 その結果、1901末頃にはグレゴリー・ゲルシューニ、ヴィクトル・チェルノフ、ニコライ・アウクセンチェフ、そしてエヴノ・アゼフが中心となり、社会革命党-社会主義者・革命者党の結党に至った。

 チェルノフが手掛けた党綱領は草案の段階であり、具体的な規約や活動方針の策定は当局の摘発を逃れるために先送りとされた。

 社会革命党執行部は正式な党大会開催を目指し、中央と地方の調整が進められた。

 

 マリアは地元タンボフ県の社会革命党支部から、モスクワで開催される秘密会合への使者に選ばれた。

 人選の理由は、まだ20にもならないマリアであれば当局の監視も強くはないであろうという判断からである。

 マリアと同様の理由で地方支部のメッセンジャー役を担った中には、20代の革命戦士であったサヴィンコフやケレンスキーも含まれていたという。

 

 監視の目を逃れるために、マリアは馬車と鉄道を何度も乗り継いでモスクワへと向かった。

 スカートの中に機密書類と手紙を忍ばせてクールスキー駅のプラットフォームに降り立ったマリアは、その巨大な駅舎に圧倒された。

 そしてモスクワ市内にはこれと同規模か、あるいはそれ以上の建造物が複数あることを知り、さらに驚かされた。

 

 さまざまな人種と階級が交わることも途切れることもなく流れ続け、機関車の履き散らす石炭と薪の火炎と煙が立ち込める駅の空気に、マリアはどこか懐かしい土の臭いを感じた。

 

 ナロードニキ運動における農業理論の第一人者であったヴィクトル・チェルノフは、ボサボサ頭が特徴的な豪放磊落な性格であり、相手が無名の少女でも社会主義革命を目指す同志として対等に向き合った。

 チェルノフの溢れんばかりの熱意と信念に満ちた口調は、社会主義革命の理想が自分自身のものではなかったマリアをいたく感激させた。

 

 チェルノフはマリアの「土の臭い」という曖昧模糊とした疑問に対して、おそらくその正体はモスクワ周辺のポドゾルと呼ばれる特徴的な腐植土の臭いであろうと答えた。

 

 ポドゾルはマリアの故郷タンボフ県を始め、東はシベリアから西はヨーロッパ側までロシア全土に広くみられる土壌であること。

 寒冷気候のため、落ち葉や小枝は分解されにくく堆積されること。

 土壌は酸性であり、保水力が乏しいこと。

 大規模な土地改良を施さない限り耕作地には不向きなこと。

 そして広大なロシアの領土の中で、耕作に適した土壌は極めて限られていること。     

 

 チェルノフの実践的かつ学識に裏付けられた豊富な知識に、マリアは歓喜に打ち震えた。

 地元タンボフの働けども働けども一向に生活が改善されない旧農奴達の苦しみに心を痛めていたマリアは、少女らしい潔癖さに基づく観念的な憤りを、どこにもぶつける事が出来ずにいた。

 チェルノフとの出会いは、マリアに差し込んだ一筋の光明であった。

 ナロードニキが政権を握り、チェルノフのような農民の苦しみを知る熱意と信念を有した人物が閣僚となれば、鈍感で腐敗した現在の帝政よりも良い生活を提供することが出来るとマリアは確信した。

 

 それとは別に、マリアはチェルノフの説明に奇異な印象を抱いた。

 当時のモスクワの人口は約150万。

 これだけの人口を抱える大都市の土壌が、全く農業に適していないというのである。

 自身を養うことが物理的に不可能なまでに膨れ上がった大都市というものが、マリアには何やら得体の知れない生物のように思えたのだ。

 

 それをチェルノフに伝えると、この古参ナロードニキは少女の文学的な感性を高く評価した後、酒場の陽気な酔漢のような笑い声をあげた。

 

 あれから30年近くの時間が経過し、モスクワの人口は400万を越えた。

 そして停滞した社会に「英雄」が登場する歴史的な必然性と、少数の英雄による直接行動が社会を進歩させると主張していた社会革命党から、ついに英雄は生まれなかった。

 

 ゲルシューニは結核で死去し、アゼフは裏切り者として党を壊滅に追い込んだ。

 再建された党の主導権を握ったアウクセンチェフとチェルノフは、ボルシェビキ政権との権力闘争の過程でブルジョアジー勢力との連携を選択した。

 サヴィンコフは度重なるテロリズムの末に愛国主義に堕落した。

 そして社会革命党が将来の社会主義体制の基盤になるとしていた農村共同体は、ケレンスキー政権下で完全に解体された。

 

 彼らに失望したマリアは、新たな同志達と社会革命党が目指していた本来の理想を取り戻そうとした。

 自分が英雄の器であるとは思えなかったが、それでも堕落したかつての同志と同じ党に留まることは、若い頃と同じく潔癖なままの彼女の道徳心が許さなかったのだ。

 

 その間にもロシア社会は目まぐるしく流転した。

 

 マリアが憎み続けた帝政は崩れ去り、マリアが一時的に手を結んだボルシェビキは歴史の敗者となった。

 裏切り者が差し出した手を拒絶したマリアは、ケレンスキー体制における先の見えない不遇の時代を、シベリア流刑時代と同じ不屈の精神で戦い抜いた。

 

 そして1917年10月から数えること15年と半年。

 マリアは1933年5月の戦いにおいて勝利した。

 ロシア最大の都市モスクワの市長選挙において、マリアは現職に圧倒的大差をつけて初当選を果たした。

 保守派が支配し続けたモスクワにおいて社会主義者が勝利したことは、大きな政治的反響を呼んだ。

 

 マリアを市長に押し上げる大きな原動力となったのは、農奴工と呼ばれた地方出身の旧農奴や元小作人の熱狂的な支持である。

 10月革命により農地を与えられた旧農奴階級の多くは、ケレンスキー体制下における規制緩和と自由競争の敗者となり、経済的に没落した。

 農地をかつての地主に二束三文で売り払い、再び小作農として働き続けられたのはごく一部であり、多くは家族と共に都市部に新たな職を求めた。

 

 彼らは農奴工と呼ばれ、モスクワの「腐植土」となった。

 日雇い労働者として世界有数の経済都市の公共インフラを支えながら、市民社会からは使い捨ての労働者として疎外され、満足な給与も支払われなかった。

 議会を通じて市政を牛耳る保守派は農奴工を厄介者として扱い、二級市民として無視した。

 

 抑圧された農奴工は、同じく抑圧されたマリアを救世主と見なした。

 また少なからぬ人々が、マリア1917年にボリシェヴィキ政権と敵対してでも自分達を擁護しようとしたことを覚えていた。

 自身が生まれ育った地元ではなく、モスクワ市の投票所でマリアの名前を選んだことは何ら不思議ではなかったのだ。

 

 こうして虐げられた人々の怒りが、マリアをモスクワ市長へ押し上げた。

 

 だが、それだけであった。

 

 

 1933年の統一地方選挙における敗北により、盤石と思われていたケレンスキー体制はにわかに動揺を初めた。

 統一地方選による与党敗北を受けて、ワシリー・マクラコフ(カデット右派)の連立内閣は、組閣から半年足らずで総辞職に追い込まれた。

 次期政権の枠組みを巡る社会革命党とカデットの主導権争いが激化する中、サヴィンコフは「救国内閣の樹立」を、ブハーリンは「反独裁統一戦線」を掲げて反ケレンスキー運動を開始した。

 

 選挙で示された反ケレンスキーの民意を目の当たりにした左翼社会革命党(SSR)の幹部達も「ケレンスキー体制の崩壊は間近である」と気勢を上げたが、マリアだけが懐疑的な姿勢を崩さなかった。

 

 マリアにとってアレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキーとは、社会主義者を自称している汚らわしい裏切者であり、その政治はナロードニキ運動に対する冒涜以外の何物でもなく、ブルジョアジーの手先としてロシアのプロレタリアートを塗炭の苦しみに陥れた独裁者以外の何物でもない。

 

 だが同時に、見逃すことが出来ない事実が存在する。

 

 1917年2月革命以降、あらゆる政治勢力が合従連衡と武力衝突を繰り返す中、あの男だけがボリシェヴィキの魔の手から逃れ、内戦後のあらゆる策謀と陰謀に満ちたペテログラードの中で政治生命を維持し続けた。

 SSR指導者としてケレンスキー体制の外側にいたマリアは、その事実を過小評価する見解に対しては、否定的にならざるをえない。

 強硬論を主張する幹部に対し、マリアは粘り強く説いた。

 

『モスクワ市長選挙の勝利が、ケレンスキー体制を揺るがすことは間違いないでしょう。同時に元老院の反動主義者はモスクワ市長選挙の敗北に狼狽し、ケレンスキー体制への支持を強めることが予想されます』

 

『確かに共和主義者ケレンスキー個人に対する不信感は、元老院内部にも存在しているでしょう。同時に現段階では、私やサヴィンコフ、ブハーリンに対する警戒感が上回っているのも事実。元老院における大統領弾劾はありえません』

 

『追い詰められた鼠が猫に噛みつくように、追い詰められたケレンスキーは何をしでかすか、そして誰と手を結ぶかわかりません。1917年にカイザーとの戦争継続を叫んだケレンスキーが反ボリシェヴィキのためにドイツと手を組むなどと、この場にいる誰が想像出来ましたか?いかなる状況にも対処出来るように、私たちはこの勝利に慢心することなく、次の戦いの準備をしなければなりません』

 

 マリアの予想通り、ケレンスキー大統領は政局的な劣勢を覆すために積極的に動いた。

 「ボリシェヴィキを政権に入れるな」をスローガンに、ボリシェヴィキとSSRの分断を図る一方、カデットやオクチャブリストを始めとする財界に支持された自由主義政党の支持を取り付け、自身が所属する社会革命党左派のチェルノフ元首相を徹底的に抑え込んだ。

 

 そして統一地方選挙から2か月後の7月。第3次パーヴェル・ニコラエヴィチ・ミリュコーフ内閣が発足すると同時に、ケレンスキーは大統領権限により、ドゥーマの解散と総選挙の実施を命じた。

 

 総選挙実施の決定は直前まで伏せられ、与党幹部ですら知らされていなかった。

 与党における政局の主導権を取り戻し、統一地方選挙で躍進した3党。

 すなわちSSR、ロシア国民共和党(NRPR)、ボリシェヴィキ右派の選挙態勢が整う前に先手を打つ狙いがあることは明白であった。

 

 このケレンスキーの賭けは裏目に出た。

 

 突然の総選挙に対する国民や新聞からの評判は極めて悪かった。

 国勢調査に基づく選挙区の区割りが変更される前だったこともあり「あまりにも政局的すぎる」として、ケレンスキーの決定に批判が集中。

 SSRが選挙態勢を整えていたこともあり、選挙結果は事前の予想に反して反ケレンスキー3党が躍進。

 社会革命党は第1党を維持するものの議席を減らし、ミリュコーフのカデットは惨敗した。

 

 与党内からは大統領の政治責任を問う声が噴出。

 3党の躍進で割りを食った中間派諸政党もケレンスキー批判に転じた。

 NRPRとボリシェヴィキ右派は、大統領弾劾の国民運動を開始すると高らかに宣言した。

 

 もはやケレンスキーにも打つ手はない。

 ロシア全土から押し寄せる反ケレンスキーの大合唱に、SSRの幹部達は今度こそ「大統領弾劾の好機」であるとマリアに訴え、その先頭に立つように求めた。

 

『まったくもって忌々しい限りではありますが、SSRはケレンスキー大統領が続投するという前提で、これからの戦略を立てていかなければなりません』

 

 ケレンスキーに対する敵愾心をむき出しにしながら苛立ちを滲ませつつ断定したマリアに、党幹部は仰天した。

 この状況下でケレンスキーが続投することなど、果たしてあり得るのか?

 統一地方選挙と総選挙における躍進で意気上がる幹部達は、マリアに対して再考を求めたが、この烈女の考えは変わらなかった。

 マリアはサヴィンコフやブハーリンからの会談要請を拒否し、両党の反ケレンスキー運動とは一線を引いた。

 

 マリアが党幹部に示した見通しは、その後の政局の展開によって証明された。

 

 かつてマリアは1917年2月革命によって成立したロシア臨時政府における、臨時政府とソヴィエトとの二元構造を批判していた。

 そしてケレンスキーは臨時政府内部に新たな執政府を設けることで、二重権力の一元化を図ろうとしたが、ボリシェヴィキのクーデターによって破綻した。

 

 ケレンスキーは、かつての自身とボリシェヴィキ政権の失敗から、マリアの言うところの「誤った教訓」を見出していた。

 すなわち共和国に元老院とドゥーマという、新たな二元体制を意図的に作り上げたのだ。

 

 共和国憲法では大統領を選出するのは元老院であり、大統領が指名する首相はドゥーマの承認が必要であると明記されている。

 つまり双方の多数派から後継大統領の支持を取り付けない限り、ケレンスキーを大統領の座から引きずり下ろすことは出来ない。

 

 極論ではあるが、反ケレンスキー派がドゥーマの多数派を占めたとしても元老院の支持があれば辞める必要はない。

 そして統一地方選挙に続く総選挙における与党敗北でも、ドミトリー大公の元老院はケレンスキーに対する消極的支持を変えなかった。

 

 変えられなかったと表現したほうが正確かもしれない。

 

 いくら元老院がドゥーマにかかわらず大統領を選出する権限を有しているとはいえ、下院多数派を全く無視することは出来ない。

 ケレンスキー以外に社会革命党右派を納得させる大統領候補は存在せず、カデットやオクチャブリストの候補では中道左派政党からの支持が得られない。

 「自分以外に候補がいるのか」と開き直るかのようなケレンスキーの対応に歯噛みしながらも、元老院にはそれを受け入れるしかない。

 

 ドゥーマにおいても同じ展開が繰り返された。

 反ケレンスキー陣営はケレンスキー退陣までは一致結束出来たとしても、その先の展望において一致出来なかった。

 元老院の帝政派を取り込んだとしても、サヴィンコフやブハーリンが帝政復古を支持するわけがなく、ボリシェヴィキのブハーリン、SSRのマリアの政権参加は、あらゆる政治勢力が拒否反応を示している。

 これではいくら計算を繰り返したところで、ドゥーマの過半数の支持を得られるはずがない。

 

 NRPRとボリシェヴィキ右派は独自にケレンスキー退陣を求める大衆運動を展開したが、既存政党の支持はおろか新聞からも支持は得られなかった。

 元老院のケレンスキー続投姿勢は変わらず、ドゥーマにおける反ケレンスキー派の多数派工作は難航を極めた。

 

 そして議席を減らした連立与党のカデットと社会革命党であっても、少数政党を取り込めば過半数を越えられるという事実に、誰もが嫌々ながらも気付き始めていた。

 

 その事実が浸透するのを待ち構えていたかのように、あらゆる政治的な策謀に対して4か月以上も沈黙を保ち続けたケレンスキー大統領は、ドミトリー大公(元老院議長)とニコライ・アウクセンチェフ(ドゥーマ議長)、そして暫定内閣の閣僚を大統領宮殿に招き、ミリュコーフに組閣を命じた。

 

 ケレンスキー大統領によるミリュコーフ首相続投の決定に、反ケレンスキー派の法曹界は激しく反発した。

 ペテログラード弁護士協会のヴァシリー・クジエフ会長は「共和国憲法に定められた首相選任におけるドゥーマの優位性を無視し、大統領制内閣への事実上の転換を図る事実上のクーデター」であると糾弾。

 元共和国最高裁判事を含めた憲法学者11人は、撤回を求める共同声明を発表した。

 左派系の新聞各紙も「統一地方選と総選挙で示された民意を無視している」と批判を展開。

 SSR、NRPR、ボリシェヴィキ右派の機関紙もこれに加わった。

 

 こうした批判にもかかわらず、与党のカデットと社会革命党はミリュコーフを首班とする現状の連立内閣を続ける以上の最適解は存在しないという結論に至る。

 両党は互いに対する猜疑心とケレンスキーへの不信感に凝り固まっていたが、代替案は見つけられなかった。

 政治空白が4カ月以上も続く現状に危機感を募らせていた各政治勢力も、大統領の提案を渋々受け入れた。

 

 かくして発足した第4次パーヴェル・ニコラエヴィチ・ミリュコーフ内閣は、アレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキー大統領が任命した最後の内閣となった。

 

 

 地下鉄建設が続くモスクワ中心部のマネージュ広場から空色のイヴィロン小聖堂の脇を通り抜け、2つの尖塔を有する壮麗なヴァスクレセンスキー門の中を、小聖堂から10月革命の混乱により失われたイヴェルスカヤの生神女(しょうしんじょ)に想いを馳せつつ歩みをすすめる。

 すると教会と見まごうばかりの外観を有する国立歴史博物館のスラブ文化の香りが漂うかのような赤煉瓦と、駅舎のようなモスクワ市庁舎の無機質で面白みに欠ける赤煉瓦の間に、突如として見渡す限り石畳により舗装された巨大広場があらわれる。

 

 世界に名高きクラスナヤ・プローシシチャ(赤い広場)

 15世紀末のイヴァン大帝により始められた広場は、ロシア政治を演出する巨大な舞台装置として今もなお現役である。

 

 歴代のロシア皇帝が戴冠式と共に閲兵式を行い、1812年には小男のフランス皇帝を業火と共に迎え入れ、1914年には最後の皇帝ニコライ2世が開戦を宣言し、1917年にウラジミール・イリノチ・レーニンがロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の建国を宣言し、1920年にアレクサンドル・ヴァシーリエヴィチ・コルチャークがロシア内戦の終結を宣言したのも、この広場であった。

 

 舞台装置を取り囲む演出装置も錚々たるものだ。

 モスクワ川に面する三角地に威容を誇るクレムリン宮。

 葱坊主頭が特徴的な極彩色の尖塔がいくつも連なる聖ワシリイ大聖堂。

 ロシア最古にして最大のショッピングモールであるグム百貨店。

 そしてステンカ・ラージンやブガチョフの絞首刑が行われた円形台のロブノエ・メスト。

 

 モスクワ市長が公務を行う市長室は、こうした広場の史跡や名所を見下ろせる市庁舎の最上階にある。

 歴代のモスクワ市長は「市政懇談会」の名目で有力議員や市の有力者、財界人を頻繁に市長室に招き、季節や時間ごとに目まぐるしく装いを変える赤の広場の絶景を楽しんだ。

 この懇談会の存在は、ロシア内戦後の党派対立が残るモスクワ市政の安定化に貢献したという評価の一方、野党からは「モスクワ市政の私物化」「インナーサークルによる閉鎖的な市政運営が、都市問題を深刻化させた」として批判された。

 

 1933年。モスクワ市民からの信託を受けて、この部屋の女主人として君臨したマリア・アレクサンドロヴナ・スピリドーノワは市政懇談会を廃止。

 同時に「職務の妨げになる」という理由から、分厚いカーテンで市長室の窓から見える絶景を閉ざした。

 

 モスクワ市議会の反スピリドーノワ派は「開放的な市政運営とは、市民の意見に耳を閉ざすことか」「暗殺が怖い臆病者」と批判したが、マリアからすれば、今この瞬間も増殖と拡大を続けている巨大都市の舵取りを担う責任者として、前任者のように余暇に耽るつもりはないことを宣言したに過ぎない。

 

 何よりマリアには、モスクワを第3のローマにするという、途方もない妄想に取り憑かれていたイヴァン雷帝に対する興味や関心など、最初から有していない。

 

 こうした市長の政治姿勢や歴史観は、オールド・モスクワと新聞で揶揄される保守層からは不評だったが、既存の姿勢に不満を持つ中道派やリベラル勢力からは支持されている。

 

 前者はモスクワ市議会における反スピリドーノワ派として、同じ市庁舎の議場からマリアの一挙手一投足を監視し続けている。

 後者はマリアの政治手法に対する物足りなさを覚えながらも、市政への関心を持ち続けた。

 そしてマリアを救世主として熱烈に支持した農奴工は、自分達を取り巻く環境が一向に改善されないことに失望しつつある。

 

 マリアが農奴工問題に手を付けなかったわけではない。

 投資資金流入により高騰を続ける地価と賃貸家賃に対する対処、農奴工の劣悪な労働環境の改善のための労使交渉の調停、公教育体制の拡大と充実、上下水道整備による公衆衛生環境の改善、経営危機の続く公共医療機関の財政改革、建設中のモスクワ地下鉄を含めた公共交通機関の再編問題等々。

 とにかく考えられる全ての対策に取り組んだ。

 

 そしてマリアは、モスクワ市の抱える諸問題の多くは都市圏への過度な人口集中に市の体制が追い付いていないことに原因があり、人口の不均衡という構造問題は中央政府と敵対することにより解決されることもなければ、改善されることもないことを理解させられた。

 

 政局を優先すれば、モスクワ市長としてケレンスキー体制の前に立ちふさがることも出来ただろう。

 だがそれは、1933年に一縷の望みを託して自分の名前を連呼した農奴工に対する裏切りに他ならない。

 

 もはや政敵に銃弾を撃ち込むことで英雄になれる時代は終わったのだ。

 

 かくしてモスクワの虜囚となったマリアを、ケレンスキーは「マリアは模範的な首長だよ」と讃え、マスコミの前では長年の友人であるかのように振舞った。

 あからさまな抱きつき戦術ではあるが、市議会の反対勢力や中央政府との関係を考えれば、これを拒絶することは難しい。

 沈黙を保つマリアに、失望した農奴工は「裏切者」と罵った。

 

 モスクワの中央政治を傍観するしかない立場に追い込められたマリアは、表面上はペテログラードに恭順したかのように振舞い、SSR党首を退いた。

 それでもマリアは爪と牙をとぎ続け、いつか訪れるであろうケレンスキーの喉元を食い破る機会を伺い続けた。

 

 結局、マリアにはその機会が与えられることはかった。

 

 1936年1月3日。市長室で膨大な書類の決済とおびたたしい陳情者の対応におわれていたマリアは、アレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキーの死去を伝えるラジオ放送を聞いた。

 

 マリアは部下に対して情報収集を命じると、通常の公務を続けた。

 ケレンスキーのように支持者に対する破廉恥な裏切り行為をすることは、マリアの生き様が許さなかった。

 死者を悼むことはおろか、裏切り者の死に快哉を叫ぶことも出来ない。それが今のマリアの立場だ。

 

 事件が発生してから2週間が経過した。

 

 マリアがモスクワ市庁舎で職務を続ける間にも、大統領空席のペテログラードでは、第4次ミリュコーフ内閣が総辞職し、ミリュコーフ暫定内閣が発足。

 大統領代行を差し置いて、次期政権をめぐる駆け引きがなりふり構わず続いている。

 1933年と違うのは、SSRが社会革命党のチェルノフ元首相から政権参画の呼びかけを受けている点。

 そしてあの卑劣な裏切り者が、共和国大統領の地位にいないことであろう。

 

 ふと部下からの報告を受けていたマリアの脳裏に、埓もない考えがよぎる。

 

 あの男は一体どの段階で、モスクワ市長の職責がマリア・アレクサンドロヴナ・スピリドーノワの政治的衝動を縛る枷になると判断したのだろうか?

 

 仮に市長選挙の結果が明らかになった段階で予測していたとするなら、もはやそれは人間離れしたなにかである。

 そんなことが出来た人物は、マリアが知る限りではウラジミール・イリノチ・レーニンだけだ。

 そしてウラジミールほどの強固な信念も狂気も持ち合わせていなかったアレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキーに、そんな真似が出来たとは思えない。

 むしろ機会主義者として、受動的に接していただけという方がしっくりくる。

 

 個人の性格がなかなか変えられないように、政治的な性格というものも変わらないものだ。

 マリアの知るケレンスキーは、理想主義者である以前に弁護士特有の理屈が先走り、既存の政治的常識に捕らわれた優柔不断な男でしかなかった。

 

 そのケレンスキーと、白衛軍の中で真っ先にドイツと手を結ぶべしとして行動を開始したケレンスキーの人物像が、マリアの中では結びつかない。

 

 一度地獄を見たからといって、人間の深層心理に根差した性格がそこまで変えられるものだろうか?

 少なくともそれは、30年前と変わらず革命への情熱を燃やし続けるマリアには、理解しがたいものであろう。

 

 だがどちらにしろ、永遠に答えを確かめることは出来なくなった。

 

「……市長、市長?」

「失礼。少し別件をね……そうね。これは原案通りに進めていいわ。問題があればシェピーロフ局長の判断を仰ぐように」

「ありがとうございます。市長、お疲れならば少し休まれたほうが」

「結構」

 

 マリアは頭を振り、忠告は無用だと伝える。

 マリアはロシアの社会的伝統を否定する社会主義者ではあるが、唯一スラブ民族的な伝統的価値観、すなわち形式的な微笑を嫌う点に関しては忠実である。

 その点においてもケレンスキーはマリアとは相いれなかった。

 

 職員や秘書を下がらせると、市長室にはマリアが黙々とページをめくる音だけが響く。

 それは先ほど決裁した公文書に関するものではなく、机の中から取り出したウラジーミル・ブルツェフの手による報告書であった。

 

 アゼフを告発して社会革命党の危機を救い、幾多の同志達に裏切り者の汚名を着せて死に追いやったブルツェフ。

 功名心と虚栄心の塊のような男は、今では積極的自由主義者を名乗りケレンスキーの熱心な讃美者として複数の新聞に携わりながら、信用調査会社を経営している。

 ケレンスキー以上に汚らわしい男ではあるが、マリアはアゼフを追い詰めたホームズ気取りの男の報告書に、正当な対価を払う必要性と価値を認めていた。

 

 1936年1月3日。ケレンスキー暗殺事件の衝撃に揺れるペテログラードで、さらなる事件が発生した。

 第一婦人決死隊のボチカリョーワ大佐が、NRPR党本部の前でロープチンことボリス・サヴィンコフの顔面を殴打したのである。

 

 現役軍人が現職の国会議員に暴行を働いたという点だけでも見過ごすことは出来ないが、NRPR党員と警官に取り押さえられたボチカリョーワ大佐は「ケレンスキー暗殺事件の黒幕はサヴィンコフである」と主張したことで、更なる衝撃が走った。

 

 ボチカリョーワ大佐の主張には根拠がなく、直感的にケレンスキー暗殺事件の黒幕がサヴィンコフであるという思い込みによって行動を起こしたようだ。

 だがサヴィンコフが黒幕というヤーシカの主張を、誰も正面から否定出来なかった。

 

 すなわちボリス・ヴィクトロヴィチ・サヴィンコフは、マリアと同じく生粋のテロリストである。

 貴族の出身であり、元社会革命党戦闘団の指導者として帝政要人への数々のテロ作戦を指揮。

 2月革命後はケレンスキー政権の陸軍次官でありながら、コルニーロフの反乱に関与。

 10月事件以降は反ボリシェヴィキ派として活動し、レーニン暗殺事件への関与も指摘された怪人である。

 共和制復帰後はケレンスキー派として活動したが、農業政策を巡る対立から離反。 

 今は国粋主義者を率いる反ケレンスキー派の領袖として名高い。

 

 確かに物的証拠や状況証拠がなくても、黒幕として疑うには十分すぎる経歴ではある。

 実際にマリアも、この作家気取りのナルシストを暗殺事件の黒幕として疑い、自称ホームズに調査を依頼しているのだ。

 もっとも相手もマリアのことを黒幕と疑っているのかもしれないが。

 

 騒動を起こしたボチカリョーワ大佐はペテログラード憲兵隊に身柄を移され、正式な処分が決定されるまで停職処分となっている。

 軍の政治的行動に神経をとがらせているデニーキン元帥は軍法会議も含めた厳罰を主張しているが、これ以上の処分が下されるかどうかは現時点では不透明なままだ。

 何せ現在のロシア政界では、テロ事件に関与したという点では、誰も彼もが脛に傷を持つ経歴の持ち主ばかりだからだ。

 マリアも含めて。

 

 マリアはケレンスキーの顔面に銃弾を撃ち込むことは出来なかったが、ヤーシカはロープチンの顔面にこぶしを撃ち込むことが出来た。

 いつまでも分解されないポドゾルのように、体制に取り込まれようとしている自分と、守るべき部隊と部下がありながら、自分の思うがままに振る舞うことが出来たヤーシカ。

 その違いは何なのか。

 

「馬鹿には規則無用、か」

 

 羨望と嫉妬が入り混じるかつての英雄の口調には、覆いようのない寂寥感が漂っていた。

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