マリー=アンヌ・シャルロット・コルデー・ダルモン(1768-1793)
1929年10月29日。ロシア共和国国営放送は、外国語専門の国際放送局『モスクワ放送』を設立した。
最初の番組が中東欧のドイツ語圏聴取者を対象とした時事ニュースであったことからもわかるように、同放送はドイツ勢力圏においてロシアに同情的な世論を形成するプロパガンダを目的としていた。
しかし政治色の強さから聴取率は低迷を続け、期待された役割は果たせなかった。
「聴取率低迷が続くようであれば、放送免許を取り消せ」という政府の強硬姿勢に危機感を強めたモスクワ放送は、ロシア・サイレント映画の巨匠ヨシフ・エルモリエフを招聘。
映画プロデューサーとしても著名な彼に、聴取率改善策の提言を求めた。
検討の末、エルモリエフは「放送劇」と揶揄されていたラジオ・ドラマ部門に注目する。
エルモリエフの提言を受けて、モスクワ放送はドラマ部門の予算拡大と人員拡充を決定。
新たな責任者には「既存のサイレントやトーキー映画の経験は、音声放送だけのラジオでは通用しない」というエルモリエフの主張により、アメリカ出身の番組プロデューサーであるオーソン・ウェルズを招聘した。
エルモリエフの見込んだ通り、この若いアメリカ人は経験こそ浅いものの、奇抜な発想力を実現する行動力を有した名プロデューサーであった。
ウェルズは「新たな現代劇の創設」を掲げ、番組構成から演者の人選、脚本まで全てを手掛けた。
彼の脚本はロシア小説を原案としつつも、かなり大胆な脚色が施されたものであった。
トルストイ作品を例にあげると、『アンナ・カレニーナ』が、
『復活』は、恋人と共にシベリアからの脱出を目指す冒険活劇に。
『イワンのバカ』は、4兄弟と悪魔によるスケッチ・コメディーの台本になるという具合である。
当時のロシアには、サンディカリスト革命により祖国を追われたフランス映画界の俳優や女優が数多く亡命していた。
ウェルズは経歴や実績に関係なく、自分が相応しいと考えた人物を起用することに拘り、そして演者の思うがまま自由に演じさせた。
事前に細かく演技指導を行うよりも、それが最良の方法であると判断したからである。
こうして出来上がったウェルズの作品は、1930年夏より放送が開始された。
彼の意欲的かつ挑戦的な内容は、内外で大きな反響を巻き起こした。
特にロシア国内の反応は、総じて芳しいものではなかった。
保守的なモスクワの文芸評論界が「偉大なるロシア文化への冒涜であり破壊である」と反発する事は予想されていたが、革新的な挑戦を続けるロシア・アヴァンギャルドの巨頭マヤコフスキーが「退廃と腐敗は異なるものであり、この作品は大衆を見ていない」として批判的な見解を示したことは、驚きをもって迎えられた。
ロシア国外、すなわちモスクワ放送が本来の聴取層として期待していたドイツ語圏において、ウェルズ作品は爆発的な人気を博した。
特にポツダムで量産されていたドイツ愛国映画に飽き足らない帝国の青少年達は番組に熱狂。帝国内部で大きな社会現象となった。
かくしてドイツ語圏、特にドイツ帝国における人気を不動のものとしたモスクワ放送であったが、同時に番組に対する批判も高まりをみせた。
特にフランス語のような砕けた柔らかいドイツ語は、ドイツの保守派を中心に「低俗番組と有害番組の博覧会」「食いつめアメリカ人と亡命フランス人によるドイツ文化の汚染」であるとの批判を生じさせた。
ドイツの駐ロシア大使がハルプシュタルケ問題*1の原因としてモスクワ放送を名指しで批判し、独露間の外交問題に発展したことも記憶に新しい。
1936年1月3日午後1時(モスクワ時間で午後2時)。
ドイツの青少年達は、人類共通の思春期における重大欲求に従い、ミゼット型ラジオの前に待機していた。
彼らのお目当ては、昨年から大々的に宣伝されていたロシアの伝説的な性愛小説作家ハンバート・ハンバート原案のラジオ・ドラマの公開生放送である。
一字一句も聞き逃すまいと待ち構えていた彼らの期待は、呆気なく裏切られた。
午後1時と同時に始まったのは、待望していた耽美で退廃的なポルノ・ドラマなどではなく、馬を調教するような無味乾燥で面白くとも何ともない……つまり本来の意味における完璧なドイツ語による臨時ニュースであった。
『
知的好奇心と暴力的な情欲の双方において盛大な肩透かしを食らったドイツの青少年達は、名前や顔はおろか、その存在すら今初めて知ったロシア人に対する苛立ちを露にした。
「
「
「
*
パーヴェル・ニコラエヴィチ・ミリュコーフは、常日頃の老人がそうであるように、冷徹な口調で閣僚達に大統領死去を告げた。
少なくとも閣僚達には、共和国大臣会議議長が共和国大統領の死について何の感傷も抱いていないように思えたかもしれない。
だが、実際のところは異なっていた。
第一報を聞いたミリュコーフの胸中に最初に生じた感情。
それは自分よりも若い命が唐突に失われたことへの悲嘆や、祖国を再び暴力と流血の時代に引き戻そうとするテロリストに対する憤怒、ましてや政敵が消え去ったことへの薄暗い歓喜でもない。
ただ単純な「違和感」であった。
「本当に死んだのですか?」
閣僚達が愕然として黙り込む中、冬眠明けの熊のような目付きをしたマクラコフ蔵相が発言する。
カデットにおける反ケレンスキー派の急先鋒が抱いた感想は、老人の感じたものと同じものであったらしい。
ミリュコーフは先程と同じ説明を繰り返したが、他の閣僚達も頻りに首をかしげることで、マクラコフに同意した。
1917年10月にケレンスキーが見せつけた「危機管理能力」は、今も政界関係者の脳裏に焼き付いている。
ボルシェヴィキの赤衛軍がダウリーダ宮殿に迫る中、臨時政府首班のケレンスキーの姿は忽然と消え失せていた。
それも政府高官はおろか、自らの家族すら置き去りにしたままである。
その後もケレンスキーに対しては数えきれないほどの暗殺が計画されたが、ある時は大統領警護隊の厳重な警備により阻まれ、ある時は捜査当局の摘発を受け、またある時は全くの偶然により魔の手から逃れていた。
そんな悪運の強いケレンスキーが、こうもあっさり死ぬとは俄かに信じがたい。
ともあれ閣僚達に大統領の死という事実を受け入れさせると、ミリュコーフは改めて閣議を開始した。
大統領継承法の解釈や大統領代行の検討を続ける傍ら、ミリュコーフは更に自問自答を重ねた。
名無しのイワンによる大統領暗殺は、ケレンスキーが「悪魔に愛された政治的怪物」や「自分の欲求に忠実な保身の権化」でもなく、ただの人間であったということを証明した。
1921年、あるいは1917年から、自分達は虚像と戦い続けて来たのかもしれない。
あの男が死んだ今こそ、ケレンスキー政治なるものを客観的に総括するべきではないのか。
「失礼します!」
「何だぁ!?閣議中だぞ!」
ミリュコーフの思考は、閣議室に飛び込んできた大統領府長官秘書官と、誰何したマクラコフ蔵相の怒号により遮られた。
強面の蔵相に叱責される前から表情を強張らせていた秘書官は、広い閣議室を見渡して「ラジオは何処ですか」と叫び、更に続けた。
「ラジオ、ラジオつけて下さい!」
*
1924年にコルチャーク提督のクーデターを鎮圧した後、ケレンスキー大統領は国内におけるラジオ放送の普及と整備に力を入れた。
政権に批判的な新聞は「古代ローマのコロッセオが如く、パンとサーカスで国民を懐柔しようとする愚民化政策」と批判したが、「電波に国境はない」というスローガンについては、特に問題視されなかった。
勇ましい掛け声とは裏腹に、1936年のロシア国内の民間放送局のエリアは都市部に限られており、全国放送に対応していたのは共和国国営放送と、その国際放送部門であるモスクワ放送だけであった。
1936年1月3日、午後1時。
モスクワ放送は予定していた全ての番組を中止。
ドイツ語による臨時ニュースを放送した。
「
包装を聞いた共和制ロシアの
大統領暗殺に衝撃を受けた、それだけではない。
東はベーリング海峡を見下ろすデジニョフ岬から、西はバルト海沿岸都市まで。
北は北極圏のエスキモー居住地から、南はドン川のコサックまで。
この放送により、ロシア全土に大統領暗殺が伝えられたという事実に戦慄したのだ。
「
シベリアで、ウラルで、極東で。
「
モスクワで、ペテログラードで、アルハンゲリスクで。
「
エカチェリンブルクで、ノボニコラエフスクで、ニジニ・ノヴゴロドで。
「
アラシュ自治国の首都アラシュ・クァラで。
コルチャーク一派が占領を続ける沿海州のウラジオストクで。
北コーカサスのドン・クパン連合でも、その堅苦しく面白みのない
アレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキーが死んだ!
*
大統領暗殺により、第4次ミリュコーフ内閣は事実上の臨時政府として動かざるを得なくなった。
しかし、あくまでミリュコーフは首相に過ぎない。
元老院における正式な手続きもないまま、首相が軍最高司令官である大統領の職責を代行するには憲法上の問題が大きい。
かといって、今から元老院における大統領選出選挙を悠長に時間を掛けて行っている余裕はない。
共和国憲法第10項には『大統領代行の就任には、元老院および国会の承認が必要』と定められているが、大統領代行選出の具体的な記述はない。
閣僚達は早速、大統領代行の人選を始めた。
そしてミリュコーフは、今回の事態が共和国憲法第4章第3条第9項の『大統領の職務継続が不可能な事例』が適応されると判断。
1927年大統領権限順位継承法に従い、元老院議長ドミトリー・パヴロヴィチ・ロマノフ大公を大統領代行に擁立することや、正式な大統領選出選挙の実施日時について与野党間の調整に入ろうとしていた。
事態を一変させたのは、あのモスクワ放送である。
正式な与野党合意成立前の報道に、野党はもとより連立与党の社会革命党が猛反発した。
彼らはロマノフ皇族であるドミトリー大公の大統領代行就任を既成事実化するため、意図的に共和国国営放送を通じて情報漏洩させたのではないかと疑い、保守派とカデット出身の閣僚を痛烈に批判した。
批判された保守派の閣僚も黙っておらず、むしろ社会革命党の左派勢力がドミトリー大公の大統領代行を潰すため、意図的に漏洩させたのではないかと反駁した。
この閣内対立を調停する一義的な政治責任は、ミリュコーフ首相にあった。
4つの内閣を率いてきた老人は、これまでと同じく対立する政治勢力の意見を真摯に聴取することで、互いの一致点を見つけ出す作業を誠実かつ精力的に続けた。
そしてミリュコーフを含めた全ての当事者による調停は失敗した。
最後の頼みの綱の与野党首脳会談が決裂したことで内閣総辞職を決意したミリュコーフは、ようやく祖国が新たな政治状況に直面しているという現実を理解させられた。
アレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキー、奴は死んだのだ。
*
ジェド・マロース*2と、ピョートル・ラブロフ(1823-1900)の違いは、髭の手入れの有無ではない。
ジェド・マーロスは架空の存在だが、ラブロフは帝政ロシアの革命家であり思想家である。
裕福な貴族階級出身のラブロフは、閉鎖的なロシア社会と、それを許容する専制体制に対する不満から、急進政治改革を求める
幾度となく投獄と釈放を重ね、ついには国外への政治亡命を余儀なくされた。
その後もパリを拠点に社会主義の理論家として活動を続けたラブロフは、祖国に戻ることなく客死する。
自由主義者であるミリュコーフは、ロシアの伝統的価値観をも否定するナロードニキの急進的な革命思想に反対であり、ナロードニキ運動のテロリズムを擁護するラブロフを批判する急先鋒であった。
それでもミリュコーフは、サンクトペテルブルク*3において開催されたラブロフ追悼集会の司会を引き受けた。
異国で客死した老革命家に対する一種の義侠心、同じ貴族階級出身であるという同胞意識があったのかもしれない。
ミリュコーフは追悼集会を、ナロードニキ運動の枠を越えて皇帝専制政治に批判的な勢力の政治勢力の大同団結を内外に喧伝することを目指した。
その目論見は奏功し、当日は厳しい官憲の監視にも拘らず数千人の人々が集結。
互いの政治的立場や主張の違いを乗り越え、ナロードニキ運動の巨人の死を悼んだ。
この追悼集会には、サンクトペテルブルク大の法学部に在籍中であった「彼」も参加していたという。
そのように自己紹介されたものの、生憎ながらミリュコーフには顔がつるりとした学生と握手を交わしたという記憶はない。
『無理もありません。当時の私は、その他大勢の一人に過ぎませんでしたからね』
モスクワ大学の名物教授として
17年前の往時を淡々とした口調で振り返る「彼」からは、ミリュコーフが自分のことを印象に留めていなかったことへのわだかまりは感じられない。
それは同時に「これからは違う」という自信の裏返しでもあったのだろうが。
1917年2月。祖国ロシアを取り巻く状況は、悪化の一途を辿っていた。
戦争指導に失敗したロマノフ家は議会と軍部に見放され、腐った納屋を蹴り飛ばすように倒れた。
ミリュコーフ達が目指してきた専制体制は解体されたが、未曾有の大戦争は継続していた。
東部戦線はドイツ軍の猛攻により後退を続け、飢饉による食料不足の深刻化から、都市でも農村でも社会が崩壊の危機に瀕していた。
17年前とは比べ物にならない熱気と狂気が渦巻くペテログラードにおいて発足したロシア臨時政府には、戦争継続を主張するカデットも当然参加。
党首のミリュコーフは、外務大臣として初入閣を果たした。
臨時政府庁舎が置かれた冬宮殿南側の宮殿前広場には、赤旗と三色旗を振りかざしたペテログラード・ソヴィエトに所属する兵士達が無秩序に集まり、彼らの主張するところの「新国歌」である革命歌をがなり立てている。
そこには秩序も理性も存在せず、燃え盛る石炭のような熱狂だけがあった。
政治家である前に自由主義者のミリュコーフは、専制政治の打倒を単純に喜ぶ感情を共有している。
だが学者であるミリュコーフの知性と理性は、拡大を続ける無秩序な混沌に対する危機感が警鐘を鳴らしていた。
同じ熱狂に呑まれたフランス革命の末路を考えてみるがいい。
この臨時政府はドイツとの戦争継続を主張しているが、兵士や労働者の熱狂が外ではなく内側に向かえばどうなるか。
臨時政府首班のリヴォフ公爵が到着するまでの閣議前の僅かな時間、思索と憂慮に耽る自由主義者の胸中を見透かしたかのように、隣席の「彼」が長年の親しい友人であるかのように、気安げに話しかけてきた。
『先生の御懸念するような事態にはならないでしょう』
『だと、いいのだがな』
政治的に共闘したことはあるが、それ以上に敵対したことも数知れない。
少なくとも、こうして雑談を交わすような間柄ではないはずだ。
不快感を意図的に硬い口調で答えたミリュコーフの思惑を、彼は意図的に無視して話を続けた。
『彼らの熱意と戦意は侮れませんが、一時の熱狂は長続きしません。それに専制政治が打倒された以上、これからは皇帝の為の戦争ではなくなります。ロシアの兵士と労働者達は、自分達の敵が軍国主義ドイツだと理解していますよ』
『祖国防衛戦争という大義が、厭戦感情に支配された兵士と労働者の愛国心を目覚めさせると?』
ミリュコーフは、自分の唇の端が歪むのを感じた。
楽観主義も結構だが、彼らの中に将来のナポレオンがいないと一体誰が言い切れるというのか。
その懸念を伝えてもなお、「彼」の絶対的な自信に満ちた態度は揺らがない。
『ナポレオンは勝者ではなく敗者なのです。現にフランスは、振り子が戻るように共和制へ回帰したではありませんか』
『それに指導者を持たない、横の繋がりしかない組織が如何に脆弱であるかは、党運営で御苦労が多い先生にはお分かりの事でしょう?』
かくも自信と確信に満ちた口調で断言したのは、17年前にミリュコーフが追悼集会で握手を交わしたという学生。
熱気と狂気を振りまかんとするペテログラード・ソヴィエト副議長の肩書きを有しながら、法と秩序の守護者である司法大臣の地位に就いた人物。
アレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキーであった。