グッバイ、ケレンスキー!   作:神山甚六

4 / 10
「持っているものを大切にせず、失ったものを嘆く」

 ロシアの諺


違和感(後編)

 プロイセン王国出身の無国籍者カール・マルクス(1818-1883)。彼の渾名は「預言者」である。

 

 理由は後述するとして、マルクスは著作の『共産党宣言』において、自身の科学的社会主義に基づく思想体系を完成させた。

 すなわち資本主義社会の自壊に至る過程、秩序再建の過渡的なプロレタリアート独裁としての社会主義体制、そして人類が協同社会たる共産主義に到達する必然性を証明したとされる歴史観と政治思想である。

 マルクスの主張は、現在まで議論と批判、そして嘲笑の対象となっている。

 

 「資本主義は自らが内在する数多くの矛盾により、成長の限界を迎えるであろう」とのマルクスの予言は、資本主義国家の相次ぐ経済破綻と体制崩壊により証明された。

 

 資本主義発祥の地として「世界の工場」と呼ばれたイギリス、そしてイギリスとともに世界を二分したフランスは体制が崩壊。革命により成立した社会主義体制が秩序を回復させた。

 同じく旧体制が崩壊したイタリア半島では、工業化が進んでいた北西イタリア地域を社会主義勢力が掌握している。

 

 赤化した英仏と西伊に対峙するのは、ミッテ・ヨーロッパ経済圏を率いる世界最大の経済大国ドイツ。

 しかし反動帝国主義国家と批判される同国ですら、1912年から議会第1党を維持しているのは社会民主党である。

 綱領において修正主義を掲げているとはいえ、同党が社会主義政党であることは間違いない。

 これに倣うかのようにベネルクス諸国のオランダとフランダース=ワロン、北欧のスウェーデンやノルウェー、デンマークにおいても、社会主義政党は勢力を増しつつある。

 

 新大陸に目を転じれば、20世紀初頭には「次の資本主義陣営の盟主になる」と目されていたアメリカ合衆国は、長期の経済不況に苦しんでいる。

 同国の工業地帯である五大湖周辺諸州は、今やアメリカ社会党の強固な地盤となりつつある。

 

 南米大陸における資本主義の偉大な成功例とされたABC諸国、すなわちアルゼンチンは内戦再開の危機にあり、内戦が終結したばかりのブラジルは政情不安が続き、チリは社会主義者の手にある。

 

 オセアニアのオーストララシア連邦。ここは1924年の社会主義者による暴動を鎮圧したものの、現在でも軍事政権が続いている。

 

 このように1920年代から30年代にかけ、世界各国で社会主義が勢いを増す中、ロシアは社会主義体制から自由放任経済の資本主義体制に回帰することで、マルクスの「予言」を真っ向から否定した。

 

 1917年10月25日に始まったボルシェヴィキの社会主義革命は、1920年1月22日のモスクワ陥落により幕を閉じた。

 

 ウラジミール・イリイチ・レーニン暗殺、続くドイツ帝国の軍事介入が影響を与えたとはいえ、ロシアは武力による社会主義革命を否定した。

 

 ボルシェヴィキの敗北により、同国の社会主義勢力が消え去ったわけではない。

 社会主義政党である社会革命党やメンシェヴィキは、反ボルシェヴィキ勢力として内戦を戦い抜いた。

  ボルシェヴィキの残党は、かつて自分達が「歴史のゴミ箱に消えてゆけ」と罵った彼らの慈悲に縋り、かろうじて存続を許された。

 

 にも拘らず、ロシアは古典的な自由放任経済を堅持する事を選択した。

 まるで「神の見えざる手」なるものに、市場のみならず政治まで支配されているかのように。

 

 レーニンの社会主義革命が失敗した原因について、現在の社会主義運動の主流派である労働組合至上主義者(サンディカリスト)の間では、フランス・コミューンの指導者セバスチャン・フォールが唱えた時期尚早論を支持する声が一般的である。

 

 すなわち「ロシアが成熟した資本主義の段階に到達する前に、武力革命により社会主義へ移行しようとした」ボルシェヴィキ政権の性急な姿勢が敗北の原因であるとする主張だ。

 この時期尚早論についてはフランスのジャコバン派を中心に異論が根強く、現在も論争が続いている。

 

 ロシアという例外はあるにせよ、西欧諸国を中心とする社会主義者(労働組合至上主義(サンディカリズム)に基づく社会主義体制)は、資本主義に対して勝利を収めつつある。

 

 ところが、マルクスが「予言」したプロレタリアート独裁の次の段階。

 人類の到達するべき理想であると高らかに宣言した共産主義社会なるものは、影も形も存在しない。

 

 フランス・コミューン、イギリス連合、そして西イタリアことイタリア社会主義共和国。

 いずれの国々でも過渡期であるはずのプロレタリアート独裁体制は、労働組合や労働取引所の評議員選挙を通じて確固たる支配体制を築き上げた。

 

 それに引き換え、純粋なマルクス流の社会主義革命を主張する政治勢力。

 彼らはいずれの国々においても、マルクスが軽蔑した無政府主義者にも劣るほど弱小である。

 自らを共産主義者と自称する科学的社会主義者達は「共産主義体制への移行は歴史の必然である」と主張し続けているが、サンディカリストからは「ボルシェヴィキの亜流」「マルクスの復活による最後の審判を待つ教条主義者である」として嘲笑されていた。

 

 マルクスを「預言者」と呼び初めたのは、西欧のサンディカリストとされる。

 そこには社会主義体制におけるイエスにも聖ペトロにもなれなかった、プロイセン生まれの祖国を持たない老人であるという揶揄が滲んでいる。

 おそらく最初に言い出したのは旧連合王国-今の連合共和国の人物だろう。

 

 イエスのようにカール・マルクスがロンドンのハイゲイト墓地から蘇ることはありえないが、アレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキーが社会主義者であるか否かを尋ねられたとすれば、さしもの老人も考えを改めるかもしれない。

 

 すなわちロシアの社会主義者の間では、ケレンスキーの社会主義に対する情熱なるものは、共産主義の社会主義に対する道徳的な優位性と同じような扱いを受けている。

 

 事実として、ケレンスキーは社会主義者として政治活動を始めた。

 だが、当初はロシアの社会主義運動の主流派と見なされていた社会革命党(エス・エル)-正式名称は社会主義者・革命党-の所属ではなかった。

 社会革命党のドゥーマ(国会)選挙ボイコットに反対して離党したアレクセイ・アラジン率いる労働党(トルドヴィキ)の党員であったケレンスキーが、最大勢力の社会革命党へ正式に入党したのは、なんと1917年2月革命の後である。

 

 1917年までのケレンスキーは、間違いなく理想主義者に分類されただろう。

 彼は皇帝専制に反対して投獄された政治犯を擁護した民主派弁護士であり、大資本家の労働者階級に対する搾取に反対した人権派であり、非効率な官僚機構に蔓延る汚職をドゥーマにおいて鋭く批判した野党議員であった。

 

 理想主義者として活動を始めた人物が、政治経験を重ねるにつれて保守的な現実主義者に転向することはよくあることであり、ケレンスキーだけが批判される理由はない。

 だが、それを差し引いたとしても、この人物の社会主義に対する理想と情熱は「便宜上のものであり、政治的な仮面」であったと、対立する党内左派のヴィクトル・チェルノフ元首相はもちろん、政治的後見人の故ブレシコスカヤ女史、そして同じ党内右派のアレクサンドル・アントノフですらも見なしていた。

 

 一例を挙げてみる。

 

 1917年10月まで臨時政府を率いたケレンスキーは、前線に向かう兵士達に向けて腕を振り上げて熱弁。ドイツとの戦争維持を主張した臨時政府の決定を正当化した。

 

「ドイツ軍国主義との戦争は、ロシアの平和と権利を獲得するためのに不可欠な正義の戦争」

「祖国を防衛するために我らの革命精神を見せつけるべき時は、まさに今である」

 

 1918年からボルシェヴィキ勢力との内戦が本格化すると、ケレンスキーは「ボルシェヴィキの反動独裁政権と戦うためには、悪魔とでも手を組むべきである」と主張。ドイツとの連携を推進する中心人物となった。

 

 社会革命党やメンシェビキなどの反ボルシェヴィキ社会主義政党は、曲がりなりにも社会主義を掲げる政権を、国外の反動主義者と手を結んで打倒した事に対する後ろめたさを抱えている。

 だからこそ、左派勢力はケレンスキーが廃墟と化したモスクワ市内において行った「共和制ロシアをボルシェヴィキ独裁から解放した」とする勝利演説に対して激しく反発した。

 

 それでもロシアの社会主義者には、ケレンスキーを拒絶するという選択肢はなかった。

 

 内戦後、国内ではボルシェヴィキが社会主義勢力であったことから「内戦の責任は社会主義勢力全体にある」とする主張が広がりを見せており、新体制下における社会主義政党の存続すらも不安視されていた。

 

 この問題を解決したのは、他ならぬケレンスキーである。

 

 彼は内戦中に築いたドイツ駐留軍と交渉を重ね、新体制における社会主義勢力の政治参加を認めさせた。一方、社会主義に嫌悪感を抱く国内の保守派を説き伏せることにも尽力した。

 

 むろん、何の見返りもなしに動いたわけではない。

 

 1922年。既に共和国大統領に選出されていたケレンスキーは、労働党の後継政党として事実上のケレンスキー党であった国家社会主義労働党を、社会革命党に合流させた。

 一方的な合流宣言にも関わらず、社会革命党執行部は合流を承諾するしかなかった。

 かくしてケレンスキーはロシア最大の社会主義政党に潜り込み、左派のチェルノフと並ぶ右派の領袖へと上り詰めた。

 

 1924年のコルチャーク・クーデター鎮圧により政治基盤を強固なものとしたケレンスキーは、自らの政治的立場を「独立した自由社会主義者である」と説明するようになった。

 これは自由主義と社会主義は対立する政治概念であると確信する自由主義者と社会主義者の双方から批判されたが、ケレンスキーは意に介さなかった。

 

 この時、彼の批判者達は思い出した。

 

 1921年に新生ロシア共和国の国家元首に就任したケレンスキーが最初に署名した書類は、臨時政府時代に選定された国歌『Рабочая Марсельеза(労働者のラ・マルセイエーズ)』を、『「имн свободной России(自由ロシアへの讃歌)』に変更する大統領令であったことを。

 

 モスクワ放送の第一報に続き、共和国国営放送がケレンスキー大統領の死去に関するニュースを短く伝えると、ロシア国内のすべてのラジオは『自由ロシアへの讃歌』をくり返すだけのレコードと化した。

 

 世界各国が社会主義の潮流に飲み込まれようとしている中、ロマノフ専制体制の崩壊を「自由の潮流がロシアにも到来した!」と無邪気に称える歌詞が何を意味するのか。

 ペテログラードに駐在する各国外交官や駐在武官、報道記者や民間企業駐在員、そして当のロシア人ですら、まだ誰も理解してはいなかった。

 

 ただ、確かなことがひとつだけ存在する。

 

 アレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキーは死んだのだ。

 

 

 1917年3月の閣議において、ケレンスキー司法大臣はミリュコーフ外務大臣に見解を示した。

 すなわち「指導者を持たない大衆の一時的な熱狂は、指導者をもたないが故に長続きしない」という至極もっともらしい分析は、全くの誤りであった。

 

 この誤りは、ケレンスキーだけではない。臨時政府に関係したあらゆるロシアの政治勢力が犯したものだ。

 

 すなわちカデットも、10月17日同盟(オクチャブリスト)も。

 進歩党も、社会革命党も、労メンシェビキも、労働党も。

 そしてボルシェヴィキを率いたウラジミール・イリノチ・レーニンですら、かつてフランス国民公会においてルイ・カペー(ルイ16世)の処刑に賛成した貴族や知識人達が犯したものと同じ過ちを繰り返したのだ。

 

 ソヴィエトの兵士や労働者達は、ロマノフ朝の打倒だけでは満足しなかった。

 むしろ帝政廃止でタガか外れたように、これまでの祖国防衛戦争に対する犠牲への対価と、革命からの見返りを求め始めた。

 

 彼らの要求は食料(パン)であり、土地(地主問題の解決)であり、平和(即時の戦争終結)であった。

 その急進的かつ莫大な要求は、迫り来るドイツ軍の対処に追われる臨時政府はおろか、「すべての権力をソヴィエトへ!」というスローガンにおいて、兵士や労働者が期待していた救世主であるはずのボルシェヴィキ中央委員会にすら受け入れられるものではなかった。

 

 7月16日。ウクライナ自治問題を巡る臨時政府内部における対立が激化し、レーニンが社会革命党やメンシェビキに嘲笑されながらもボルシェヴィキ単独政権獲得に意欲を示す中、ペテログラード市内で前線への派遣命令をボイコットした機関銃兵第一連隊による自発的なデモが発生。

 

 ロシアの運命を決定づけた7月危機の始まりである。

 

 約1週間後の7月21日。ボルシェヴィキの政治的敗北が決定的になる中、国防大臣のアレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキーが臨時政府首班(大臣会議議長)に就任する。

 

『歴史は繰り返す。一度目は悲劇として、そして二度目は喜劇として』

 

 ハイゲイト墓地の下から「預言者」の高笑いが聞こえていたかもしれない。

 

 

 時計を見れば、時刻は日没予定時刻の午後4時を回っていた。

 

 全閣僚が退出してから、ちょうど時計の長針が一回りするほどの時間が経過した。  

 それでも閣議室には先ほどまでの緊張感が、古いワインの澱のように残り続けている。

 外では相変わらず強烈な風雪が吹き荒れているようだ。

 この天候では一足早く退出した社会革命党の大臣達も、別室で固まり待機しているかもしれない。

 ロシア共和国大臣会議「暫定」議長のミリュコーフは、閑散とした閣議室を見渡しながら、そのようなことを考えた。

 

 社会革命党の5人の大臣。彼らはそれぞれに大見得を切り、嬉々とした表情で、不安げな眼差しで、事務的な口調で、未練たらしい態度により辞意を伝えた。

 彼らに共通していたのは、こちらの慰留に耳を貸さなかった事ぐらいのものである。

 

 社会革命党の政権離脱は、ケレンスキー大統領時代に積もりに積もった社会主義者の政治的な憤懣を一挙に解放するかのような勢いで実行された。

 ケレンスキー亡き後の同党右派に、左派のチェルノフ元首相に匹敵する政治力の持ち主はいない。

 ドゥーマ第1党である同党が連立離脱を決定した以上は政権存続は不可能と判断したミリュコーフは、残った閣僚を前に内閣総辞職を表明。

 カデットや他の閣僚達も、形式的な反対論の末に受け入れた。

 

 実のところ、社会革命党出身閣僚の辞意は正式に受理されたものではない。

 5名の名前はミリュコーフ暫定内閣の閣僚として登録されたままであり、公式文書も書き換えられる予定はない。

 

 これは、ミリュコーフが政権延命のための引き延ばし工作を仕掛けているわけでも、倒閣運動に対する政治的な意趣返しをしているわけでもない。

 共和国大臣会議議長は、確かに外務大臣と国防大臣、大統領府長官を除く閣僚名簿を大統領に提出する権限を有している。

 そして共和国大臣会議議長を含む全閣僚候補を任命する、あるいは解任する権限を有しているのは、共和国大統領だけなのだ。

 

 つまり大統領代行が決定されていない現状では、彼らは職を辞することすらかなわない。

 奇策としてドゥーマにおいて閣僚不信任案を可決させるという方法もあるが、社会革命党が第1党の議会が、同じ党の大臣に対する不信任案を可決するなど、本末転倒もyほいところだ。

 

 ケレンスキーに煮え湯を飲まされ続けた老獪なチェルノフ元首相が、それを知らないはずはない。

 それでも現在の政治状況では、大統領代行選出の政治的な混乱に巻き込まれることを避けるべきだと判断したのだろう。

 

「……悲劇の極致は喜劇である、か」

 

 一体誰の言葉であったかと、ミリュコーフは首を傾ぐ。

 

 アレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキーの死は、確かに彼個人にとっての悲劇である。

 また残された遺族や彼の親しい友人にも、深い喪失と慟哭の原因になったことだろう。

 

 だがケレンスキーの死が、ロシアの悲劇であると考えるものは少ない。

 

 歴代のロシアの指導者の中でも、ケレンスキーほど憎まれ、ケレンスキーほど嫌われ、ケレンスキーほど恨まれ、ケレンスキーほど軽蔑され、ケレンスキーほど疎まれた人物はいない。

 

 歴代のロシア皇帝(ツァーリ)やボルシェヴィキの指導者達は、被支配層や敵対者から怨嗟の対象とはなっても、軽蔑の対象とはならなかった。

 指導者たるものは強大な力を見せつけ、民衆を恐怖により支配する。

 その恩恵として、彼らには秩序を保証する。

 

 では、アレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキーはどうか?

 

 確かにケレンスキーは、この共和国において自由を拡大した。

 保守派を説得して男女普通参政権を認めさせ、政治犯を釈放し(ボルシェヴィキ残党すら、その対象になった!)、超国家主義的な汎スラブ主義を否定し、あらゆる民族差別に反対した。

 思想と良心の自由を保障し、広範な学問の自由を認め、あらゆる表現の自由を拡大した。

 

 これだけならば、カデットとミリュコーフが長年主張し続けた理想の到達点。自由主義に基づくロシアに思える。

 

 しかしケレンスキーのロシアは、モスクワ大公国以来のロシアの歴史を否定した上に成立したものでしかなかった。

 

 ロシアの歴史的領土は否定され、実効支配を続ける領土は縮小し、祖国を守るべき軍隊は弱体化している。

 極東でもモンゴルでもコーカサスでも中東欧でも、帝政時代の属国フィンランドにすら軍事的な挑戦を受けるまでに落ちぶる有様だ。

 縮小した領土ですら、ドイツ帝国の支持がなければ維持出来ないのが、現在のロシアだ。

 ブレスト=リトフスク条約の賠償金は、ベルリンに対する用心棒代というわけだ。

 

 アメリカ経済の低迷が長引く中、ロシアは経済的でもドイツへの隷属を強めた。

 確かにミッテ・ヨーロッパ経済圏への参入により経済成長の恩恵は受けたが、それはモスクワやペテログラードという西側に偏っている。

 地域はおろか同じ都市の内部ですら貧富の差は著しく拡大し、外国資本による経済的搾取は常態化。

 政治不信と社会の閉塞感は、帝政時代よりも深刻さを増している

 

 その批判については、自分も免れるものではない。

 

 老首相は椅子の背にもたれかかり、深い溜息を吐いた。

 

 ミリュコーフは1380年のクリコヴォの戦い、ロシアがタタールの軛を脱出する出発点となった戦争に従軍した名門貴族の家系である。

 ドミトリー・ドンスコイ大公以来のロシアに対する愛国心は不変であると自負する老人には、自分が率いてきたカデットが「プライドも誇りもなく、ただ自由という名前の無責任を謳歌する集団」であると批判されるのは、耐えがたい侮辱だ。

 

 自分だけではない。チェルノフもそうであるように、大統領個人に対する否定的な感情が、ロシア人から冷徹なるリアリズムを奪い去っている。

 事件発生から6時間が経過し、内外に大統領の不在が報道されたにもかかわらず、ペテログラード政界は国家の意思決定機能に生じた重大問題に対する対応を示せていない。

 

 相変らずラジオからは『自由ロシアへの賛歌』が流れ、ひたすら繰り返されている。

 

 思えば1917年3月の閣議において、ロシア臨時政府が審議していたのは戦争継続の是非ではなく国歌問題であった。

 国旗は帝政時代からのスラブ三色旗が、国章は旧東ローマ帝国の継承を意味する双頭の鷲をツァーリに関する王冠を除いた形で引き続き使用することが決定されたが、国歌ばかりは。

 流石に『神よ!ツァーリを護りたまえ!』を使用するわけにはいかない。

 性急に変更を推し進めれば帝政派からの反発は必至であるし、棚上げにされている国体問題に波及するのは必至。

 継続使用は、共和派やペテログラード・ソヴィエトの支持を得られない。

 

 こうした複雑に交錯した政治情勢を背景に、新たな候補は『労働者のラ・マルセイエーズ』、そして『自由ロシアの賛歌』に絞られた。

 

 前者はミリュコーフが追悼集会の司会を引き受けた社会主義者ピョートル・ラブロフが、フランス国歌の『ラ・マルセイエーズ』にロシア語の歌詞をつけたもの。

 後者は2月革命に歓喜したロシア作曲界の重鎮アレクサンドル・グレチャニノフが作曲し、同じく革命を支持したロシア象徴派を代表する詩人コンスタンティン・バリモントが作詞をつけたという豪華版である。

 

 前者は本家の『ラ・マルセイエーズ』に負けず劣らずブルジョアジーと皇帝への敵意を煽る社会主義思想丸出しの過激なものであり、後者は世界的な自由主義の潮流がロシアにも到来したことを称賛するだけの無邪気な内容だ。

 

 ミリュコーフは外務大臣として国歌の対外的な印象、政治家としての感性に基づく保守派への配慮、そして自由主義者としての価値観から後者を支持したが、多数の支持を集めたのは前者であった。

 

 ペテログラード・ソヴィエト副議長のケレンスキーは、迷うことなく前者に投票したと、少なくともミリュコーフは記憶している。

 

 それが内戦後に返り咲くや否や……まったく、あの男の面の皮の厚さだけは真似出来そうにない。

 

「死んだケレンスキーは……」

 

 チーク材のドアが激しくたたかれる音により、老首相の独白は唐突に遮られた。

 

「大臣会議議長閣下。緊急です」

 

 両開きのドアを片側だけ押し開けて入室してきたのは、大臣会議議長秘書官のアンドレイ・アンドレーエヴィチ・グロムイコ。

 黒髪豊かな外務官僚のグロムイコは、かつて皇帝の命令に従わず正教会への改宗を拒否した古儀式派の信徒特有の、貪欲なまでの気概あふれる表情を何かの感情で強張らせたまま報告をおこなう。

 

「ペテログラードとニジニ・ノヴゴロドの電話回線が途絶。ペテログラード軍管区が災害出動を名目に第3連隊、および第32鉄道旅団の動員を開始しました。モスクワ軍管区にも不穏な動きがあります」 

「グロムイコ君。死んだケレンスキーは」

 

 困惑する秘書官に視線をとどめながら、パーヴェル・ニコラエヴィチ・ミリュコーフは静かな声で続けた。

 

「生きているケレンスキーよりも、あるいは厄介かもしれんな」

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。