グッバイ、ケレンスキー!   作:神山甚六

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「人が思想を捉えようとも、思想は常に人間よりも現実的である」

『罪と罰』(1866)


アントーン・イヴァーノヴィチ・デニーキンの義憤
義憤(前編)


 進歩主義的な文明観に基づく政治思想の是非は別として、政治学で使われる意味においての近代的な国民国家を形成するためには何が必要か?

 

 日本のある思想家は、それを「共同幻想である」と指摘した。

 

 すなわち主権国家とは、その領土において排他的な統治権を行使する共同体であり統治機構である。

 その政体が君主制であれ封建制であれ共和制であれ、その体制を支える思想的根幹が絶対主義であれ民主主義であれ宗派主義であれ社会主義であれ、国民自身に「自分達は同胞である」という、時間や空間を越えた想像力が備わっていなければならない。

 

 例えば政治的対立や地域対立、あるいは宗教紛争や人種問題で「あいつらは俺たちの同胞ではないから、何をしても構わない」という意見があるとする。

 これが言論の範囲にとどまらず、法を無視した特定の集団による実力行使という「解決策」として大体数の政治的無関心による黙認、あるいは支持されるような状況が常態化しているとすれば、もはやそれは国家と呼ぶに価しないだろう。

 いくら政権が強権で上から押さえ込んだとしても、ならず者に率いられた無法者の集団に過ぎなくなる。

 だからこそ、近代国家においては滑稽なまでに教育の重要性が強調され、政教分離や歴史認識に関する議論が幾度となく再燃することになる。

 

 この種の問題に関するロシアのスタンスは、一見すると単純に見えて複雑極まりない(つまりは、いつものロシアだ)。

 

 西欧歴訪中のピョートル大帝が船大工に化けてアムステルダムの造船ドックに潜り込んでから1936年の現在に至るまで、ロシアは近代化政策に国を挙げて取り組んできた。

 その成果は限られた分野に留まっているというのが、ケレンスキーを含めて大方のロシア人の見解である。

 

 ロシアの近代化政策を妨げる歴史的な枷。

 タタールの軛を脱したロシア人がモンゴル人から強制的に相続させられたそれは、広大な領土と、多民族国家としてのロシア国家の存在そのものに他ならない。

 

 ユーラシア大陸の約4割、欧州から中央アジアを経て極東に至る広大な面積を支配したロシア帝国の領土には、国境を接する周辺諸国のありとあらゆる民族が居住している。

 人口の約7割は確かにスラブ民族であるが、それはポーランド人もスラブ民族に数えればという前提がつく。

 国内に居住する民族は、人口1万人以上の主要なものだけでも180とも190であるともされ、非スラブ系語族も含めた言語の多様性となると、更に複雑怪奇なものになる。

 宗教面では仏教を除く世界三大宗教のすべての主だった宗派のコロニーが、国内のどこかに存在しているという猥雑さだ。

 

 唯一の救いがあるとすれば、共通言語としてロシア語が通用することであるが、逆に言えばそれ以外の共通点が存在しない。

 あるいは同じく近代化政策に成功したとは言いがたいチャイナの歴代王朝との類似性を指摘出来るかもしれない。

 

 チャイナとの類似性を検討するよりも前に、ともかく考えてみて欲しい。

 皇帝への忠誠心が篤く共同体への帰属意識が強烈な北コーカサスのコサックと、自分たちは先進的な西欧人であると気取るポーランド人貴族と、ペテログラードの労働者階級が、お互いがお互いをロシア人であると認識するだけの大いなる共同幻想を有していたであろうか?

 

 多民族国家であることに加え、広大な国土を支えるべき交通と通信のインフラが脆弱であったことも、国民意識形成の遅れと近代化政策の停滞をもたらした。

 西欧諸国から強権的であると批判され続けた帝政ですら、ついにはこの問題を解決出来なかった。

 そして最後の拠り所であった「慈悲深いツァーリ」の虚像が打ち砕かれた時、ロマノフ家の歴史的な使命は終わった。

 

 ロシア共和国大統領としてのケレンスキーの歴史認識を説明すれば、おおよそこのように集約されるだろう。

 

 だが、アレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキーは死んだ。

 

 ロシア共和国がどうなっていくのか。まだ誰にもわからない。

 

 

 1917年7月21日に誕生したケレンスキー政権は、さっそく政治的な危機に直面する。

 それはロシアを解体しようと迫りくるドイツ軍でも、市民の不満に便乗してクーデターを起こそうとしたボルシェヴィキでもなく、国家を支えるべき軍内部からの批判によって生じたという点において深刻であった。

 

 リヴォフ前政権時代に陸相と海相の兼任に移り、自ら大臣会議議長として臨時政府首班に就任した後も兼摂を続けていたケレンスキーは、民主的な軍隊の確立と臨時政府への忠誠心を将校団に求めた。

 ケレンスキーは早速将校団の専権事項とされた高級人事に介入し、強い反発を受けた。

 皇帝陛下ならいざ知らず、社会主義者の平民にあれこれ言われる筋合いはないというわけだが、ケレンスキーは人事権の行使を躊躇うことはなかった。

 

 勝ち戦ならばともかく、ロシア軍は兵力で劣るドイツ軍に劣勢が続いていた。

 敗色濃厚な協商陣営からの悲鳴のような要請により、なけなしの戦力をかき集めて行ったルーマニア支援を目的とした6月のケレンスキー攻勢が全面敗走という無残な失敗に終わると、ケレンスキーは最高司令官のブルシーロフ元帥に押しつける形で更迭。

 責任逃れを図る最高指揮官に対する将校団の不信感は頂点に達した。

 

 ブルシーロフの後任としてケレンスキーが任命したラーヴル・コルニーロフ将軍は、ケレンスキー攻勢においてロシア軍が無残な敗退を続ける中、唯一気を吐いた有能な軍司令官である。

 ところが冒険家コルニーロフは職業軍人のブルシーロフよりも自尊心が強く、たちまちケレンスキーと衝突を始める。

 両者は対ドイツ、ペテログラード・ソヴィエトの取り扱い、ウクライナ問題と悉く対立を重ねた。

 

 そして冒険家は職業軍人の二の舞になるつもりはなかった。

 ペテログラードのボリシェヴィキ勢力排除をケレンスキーに命じられたコルニーロフは、ケレンスキーへの不信感に凝り固まった将校団に後押しをされる形でクーデターを決意。部隊にペテログラード進軍を命じた。

 

 敵軍の全面攻勢を受けている側の最高軍司令官が、前線を放棄してクーデターを実行したのである。

 元ツァーリは謹慎先でコルニーロフのクーデターを聞き「訳が分からない!」と叫んだとされるが、それはコルニーロフ将軍とペテログラード・ソヴィエトへの対応策を話し合っていたはずのケレンスキーも同じだっただろう。

 

 ともあれコルニーロフ将軍の更迭と逮捕を決定したケレンスキーであったが、臨時政府内部からコルニーロフ将軍に呼応する動きが続出した。

 ウクライナ自治問題でケレンスキーの対応を批判していたミリュコーフ元外相は再びカデットの閣僚を引き上げさせ、社会革命党もこれに続いた。

 

 軍最高司令官による政府に対するクーデター、それに呼応した閣僚達のケレンスキーに対する不信任の表明。

 迫る政権崩壊の危機を前に、36歳のケレンスキーに残されたのは自分が任命した陸海の両大臣と盟友のテレシチェンコ外相、そして閣僚14人による14通の辞表だけであった。

 

 ところがケレンスキーは、ここから驚異的な粘り腰を見せる。

 

 ミリュコーフ元外相を始め複数の反ケレンスキー派の重鎮に対してコルニーロフ将軍との交渉仲介を依頼しながら、ひそかに多数派工作に着手。自らペテログラードを駆け回った。

 

 そしてすべての交渉と調停が暗礁に乗り上げた8月31日。

 

 ケレンスキーはカウンター・クーデターを成功させ、政府の体制を一新した。

 

 深夜に突如発表された新政府は、臨時政府の枠組みの中にケレンスキーを含めた5人による執政府を設置。公表された文章では「永遠の祖国のための永遠の国益を、個々の党派や階級の利害にとらわれることなく決断するため」国政に関する全権を、執政府に一時的に委任するとされていた。

 

 このカウンター・クーデターは、当然ながら臨時政府に参加するあらゆる政治勢力から批判された。

 ボルシェヴィキ勢力も執政府体制を批判したが、彼らは表面上の激しい言葉とは裏腹にコルニーロフ将軍のクーデター鎮圧に協力した。

 7月蜂起により敗者となっていた政治集団は、コルニーロフ進軍への鎮圧に協力することでペテログラード政界に戻ってきた。

 

 1917年9月15日(ユリウス暦9月1日)。

 

 ケレンスキーの執政府が最初に行ったのは、「共和国宣言」への署名と布告であった。

 

 フランス大革命(サンディカリストによるそれではない)の先例に従い、スラブ民族でもルーシ人でも少数民族のものでもない。

 正教徒でもカトリックでもそれ以外の宗教でもない。

 ロマノフ家の専有物でもプロレタリアートのものでもない。

 新たな共和国の、新たなロシア国民という共同幻想を作り出そうという大胆にして野心的な構想である。

 

 だがいかんせん唐突感は否めない。

 布告を聞いたペテログラード市民は、ドイツ軍が首都を目指して侵攻を続ける戦局で、なおかつ今日の自分が食べる食料にも事欠く状況で行われた共和国宣言に対して、その賛否を明らかにする前に、まずはあっけにとられたようである。

 

 そして何よりも重大かつ深刻だったのは、共和国宣言が肝心の臨時政府内部においても、ペテログラード・ソヴィエトにも知らされずに一方的に出されたことである。

 

 若さゆえの政治的情熱の発露か、経験不足ゆえの根拠の乏しい楽観主義か、あるいはカウンター・クーデターを成功させた自分の能力を過信していたか、それとも膨大な懸案処理に追われて冷静な判断を下す精神的余裕が失われていたか、そしておそらく、その全てなのだろう。

 

 ケレンスキーの政治的野心から共和国宣言が出されたことは否定出来ないが、目的そのものは必ずしも利己的ばかりとは言い切れなかった。

 少なくとも現状の臨時政府が、ロシアが抱える喫緊かつ重大な複数の課題に対して迅速な対応が取れないことに、ケレンスキーが苛立ちを募らせていたのは事実であり、執政府政権はそれに対する彼の出した解決策であった。

 

 なにより「共和国宣言」を出すのであれば、このタイミングしかありえなかった。

 

 なし崩し的に発生したコルニーロフのクーデターを支持したことで、カデットのミリュコーフ元外相を始めとした、臨時政府の反ケレンスキー派は政治的な謹慎を強いられている。

 その上ででクーデター鎮圧の功績を前面に打ち出せば、臨時政府内部における自らの政治的な主導権を確立出来るとケレンスキーは考えたのだろう。

 

 新体制が成立したことで、ケレンスキーの野望と構想は成功を収めたかに思われた。

 だがそれは、直後に発生したボルシェヴィキのクーデターによって、一時的に頓挫することになる。

 

 ケレンスキーの共和国宣言に対して、彼が名目上所属していた社会革命党は「党綱領に反する一方的な宣言である」と猛反発した。

 カデットのミリュコーフも、オブチャリストも、進歩党も、メンシェヴィキも、最高会議に選出されたケレンスキー派意外は、殆どが否定的であった。

 

 だがそれ以上に、彼らよりも静かではあったが、より強硬な態度で反対したのは、スラブ民族主義に因るものであれ、ロマノフ皇室に対する忠誠心であれ、単にケレンスキーが気に入らないというものであれ、歴史的な大ロシアの領土の一体不可分の原則を確信していた将校団である。

 

 彼らの多くはラーヴル・コルニーロフ将軍のペテログラード進軍を支持したため、共和国政府に対する反逆行為として罷免、逮捕されていた。

 各地の軍刑務所や要塞に拘留されていたうち、少なからざる将校達は、ボルシェヴィキ政権によるクーデターの混乱に乗じて収監場所から脱出。

 そのままロシア各地で反ボルシェヴィキ闘争を展開することとなる。

 

 ロシア共和国陸軍参謀総長のアントーン・イヴァーノヴィチ・デニーキン元帥陸軍大将も、その1人であった。

 

 

 叩き上げの帝政ロシアの将軍を思い浮かべてみてほしい。

 それもペテログラードから遠く離れた地方の一般的な農村(貧しいという形容詞をわざわざつけなくてもいいだろう)出身の、家柄や閨閥とは無縁の少年が、一般の徴兵から将官にまで上り詰めたところを想像してみてほしい。

 

 そして貴方がアントーン・イヴァーノヴィチ・デニーキンの写真を見れば、おそらく貴方が想像した通りの老人がそこに映し出されているはずだ。

 貴族よりも貴族らしく、将軍よりも将軍らしく、皇帝よりも皇帝らしい。

 出自ではなく自らの生き方により人生を切り開いてきたものだけが共通して有する押しの強さ、自分自身の能力に対する鈍感なまでの強烈な自尊心を滲ませた老人が。

 

 つまりはアントーン・イヴァーノヴィチ・デニーキンという、見た目通りの無骨な軍人については、礼装を着用した老元帥の胸と肩で溢れんばかりに輝いて見せる各種の勲章に関する名前や種類を説明したり、あるいは老人の数少ない趣味であるという、お世辞にも上手とは評価出来ない詩とおぼしきキリル文字の羅列をだらだらと聞かされるよりも、老元帥の軍歴を列挙すればわかることだ。

 

 1890年にデニーキンが学校卒業と同時に地元歩兵連隊に徴兵されてから、現在までの軍歴は、中断を挟みながら46年に及ぶ。

 

 この間、デニーキンが駆け抜けた戦場と戦功は数え上げればきりがないが、例えばこの人物は歩兵科から砲兵科に転身するという離れ業を成し遂げている。

 

 砲兵火力の重視は、露日戦争以前からの帝政ロシア軍の伝統だ。

 花形兵科であるために競争率が激しいことは言うまでもないが、求められる能力や素質も多岐にわたる。

 高等数学や物理学に自然科学など、あらゆる広範な専門知識が要求される上に、日々進歩する技術に対応するための日々の勉強、そのため語学能力は必要不可欠。

 戦場においては、戦局の状況判断を瞬時に行わなければならない頭の回転の速さと決断力、そして胆力が必要。

 何よりも勤勉でなければ1日たりとも務まらない。

 

 つまり優秀な砲兵将校として名を上げたデニーキンは、高級参謀や軍司令官に必要不可欠な素質についても抜群の素質と能力を有していた。

 

 世界大戦においてはブルシーロフ将軍の第8軍所属の旅団長として、1914年と15年を通じて二重帝国軍相手に目覚しい活躍を見せ、上官であるブルシーロフ、ニコライ2世、そして協商各国の政府から幾度となく激賞された。

 師団長を経てブルシローフ将軍の後任としての第8軍集団司令官に就任。

 そのまま陸軍砲兵中将へと昇進したが、誰からも不満は出なかったという。

 

 かくして第8軍集団司令官として、頼りないことこの上ない友邦ルーマニアとの共闘を続けていたデニーキンは、1917年2月を迎える。

 

 

 アントーン・イヴァーノヴィチ・デニーキンにとって、父親であるイワン・エフィモビッチ・デニーキンは、自分が目指すべき目標にたりうる偉大な存在、アントーンにとってのгерой(ヒーロー)であった。

 

 アントーンが生まれた時、彼の父親は既に65歳であった。

 早熟なアントーンにとり彼の父親は、子供が父親という存在に本能的に求めるすべての条件を兼ね備えているように見えた。

 

 イワンは家族にあっては良き父であり、社会にあっては良き友人であり、地域にとっては良き隣人であり、教会にあっては良き信徒であった。

 そして彼らは口を揃えてアントーン少年に対して「イワンは軍隊にあっては良き兵士であった」と語った。

 

 サラトフのロシア人農奴であった父イワンは、地主に徴兵されて軍務についた一般的な兵士であった。

 イワンが他の徴兵者と異なっていたのは、周囲から馬鹿正直なやつと笑われるほど、忠実な兵士として皇帝と軍に奉仕した点である。

 

 彼はカルパチア盆地でハプスブルクの私兵と共にマジャール人の民族蜂起を鎮圧し、クリミア半島でオスマン兵士と戦い、ワルシャワで民族運動を弾圧する任務に従事した。

 その他にも国内において数えきれない匪賊討伐に従事した。

 功績が認められ、47歳という高齢ながら少佐に任官。

 彼の軍歴は35年に及んだ。

 

 アントーンが物心ついたころ、父はすでに軍を退役しており、デニーキン家は恩給と年金、そして母エリザベータの内職によって生計を立てていた。

 

 イワンは熱心なロシア正教徒であり、母エリザベータはポーランド人のカトリック教徒であった。

 後妻の母は父と36歳の年齢差があったが、イワンの目には実に仲睦まじい夫婦に見えた。

 家で話すのは常に母であり、父は黙って母の話に耳を傾けるのが常であった。

 

 親子ほども年の離れた夫婦は、自分達の信仰について家庭内においても教会内においても争うことはなく、一方で互いの信仰に対する敬意と、互いの人格に対する尊敬を忘れたこともなかった。

 

 アントーンは母からポーランド語とカトリックの神秘的な世界について学び、父からはよきロシア人としての在り方と、正教徒としての教義を学んだ。

 アントーンはロシアの多様性と寛容性を両親から受け継ぐことが出来た。

 

 アントーンが13歳の時に父が死去すると、デニーキン家は農奴と変わらない経済的困窮に落ちいたが、家族は父の教えに忠実に従い、互いに手を取り合いながら5度の冬を乗り越えた。

 

 かねてから職業軍人の志望を公言していたアントーンは、18歳で兵役についた。貴族のお偉いナロードニキとかいう連中は、口を極めて帝国軍の体質を批判していたが、少なくともデニーキン家も含めた貧しい農村部の男子にとって、軍に徴兵されることは自分自身の実力と運を試す絶好の機会であった。

 

 何より軍隊であれば凍死する心配も、その日の食事について悩む必要もない。

 それは、ロシアの如何なる職場よりも魅力的な条件に思えた。

 

 母も周囲も、至極当然なことであるとアントーンの考えに賛成した。

 彼の父を知る者は「お父さんのような良きロシアの軍人になるように」と、アントーンの背中を叩いた。

 

 アントーンだけが覚えていた。

 亡くなる数日前、胃がんでやせ衰えた父の枕元で「自分も軍人を目指す」決意を伝えた時の事を。

 

 何かに腹を立てていたが、何に腹を立てていいのかわからない。

 イワン・エフィモビッチ・デニーキンの悔恨の眼差しを。

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