グッバイ、ケレンスキー!   作:神山甚六

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「私裁のもっともはなはだしくして、政を害するのもっとも大なるものは暗殺なり」

福沢諭吉(1835-1901)


義憤(中編)

 1917年2月革命の後、第8軍団司令官のアントーン・イヴァーノヴィチ・デニーキン中将は臨時政府からの要請に従い、ペテログラードに向かった。

 グチコフ陸相兼海相より、ロシア軍最高司令官ミハイル・アレクセーエフの首席補佐官ポストを提案されたデニーキンは、これを受け入れた。

 

 戦争継続派だったグチコフは、ミリュコーフ外相書簡問題に連座して辞任に追い込まれる。

 グチコフの後任には、司法大臣のアレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキーが就任した。これと同時にロシア軍最高司令官もアレクセーエフ将軍から、西部戦線におけるデニーキンの元上官であったブルシーロフ元帥に交代した。

 

 デニーキンは首席補佐官の続投要請を受けたが、これを拒否した。

 軍司令官としてのデニーキンの戦略眼と管理能力の高さは、すでに証明されている。

 西部戦線における実戦経験が豊富で、叩き上げの高級将校として兵士からの信望も篤いデニーキンの続投は、アレクセーエフとブルシーロフの双方が強く望んでいたため、最終的にはケレンスキー大臣が調停に入った。

 それでもデニーキンの辞意は揺るがず、南西軍集団司令官を拝命すると司令部の置かれたミンスクへと向かった。

 

 デニーキンは、アレクセーエフ将軍と個人的な信頼関係を築いていた。

 反ソヴィエト、反ボルシェヴィキという政治思想が一致していたことから、後にアレクセーエフが立ち上げた義勇軍に、幕僚団を率いて参加したほどである。

 

 そしてデニーキンの司令官としての手腕を最も高く評価したのが、直属の司令官であったブルシーロフであり、デニーキンもブルシーロフの人格と能力に対する畏敬の念を常々口にしていた。

 

 それにもかかわらず、デニーキンが続投要請を拒否した理由は何か?

 

 臨時政府の陸相兼海相アレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキーの人格が、信用に値しないと判断したからである。 

 

 

 ロシア共和国軍の標語は「Ни шагу назад!(一歩も下がるな!)」である。

 由来は、ロシア内戦(1917-20)におけるラーヴル・コルニーロフ陸軍元帥の口頭命令にあるとされている。

 

 すなわち南ロシア軍の最高司令官として、クバーニ地方における白軍撤退作戦を指揮していたコルニーロフは、戦闘中に被弾して落馬した。

 駆け寄ろうとした部下に対して、コルニーロフは「一歩も下がるな!」と戦闘の続行を命じ、将兵の士気が崩壊するのを防いだ。

 

 コルニーロフ将軍の武勇伝を語りたいわけではない。

 ロシア共和国軍の「陸主空従の海付録」と揶揄される体質を、この標語の中に見ることが出来るからだ。

 

 すなわちロシア共和国軍は、陸海空の3軍から構成されているが、陸軍総司令部は海軍と空軍に優越し、陸軍参謀本部の軍令は海軍作戦部と空軍参謀部を拘束する。

 つまり外洋艦隊としての海軍の存在は最初から念頭になく、空軍は陸軍航空部隊で構わないと割りきっている。

 世界最長の国境を防衛しつつ外敵に対処しなければならないという、帝政時代から続く大陸国家としての国防意識が、この陸軍重視の根底にあるのだろう。

 

 現在でもロシアは、平時ですらドイツを上回る世界最大の陸軍師団を維持している。

 ブレスト=リトフスク条約においてロシアを縛り上げたドイツ帝国ですら、ロシアの国土防衛の難しさを認めたからだ。

 そして共和国軍には先述のコルニーロフ元帥を筆頭に、先の世界大戦やロシア内戦を経験した戦争英雄達が綺羅星の如く健在である。

 総人員は後方兵站もふくめて約200万。

 ドイツ軍には劣るものの、質量ともに世界屈指の存在だ。

 

 表面上は。

 

 その内情は、ロシアの気候のようにお寒いものである。

 功績をあげた将官が多いのはいいとして、彼らを支えるべき実務能力に長けた佐官や、あるいは経験豊富な尉官や下士官が決定的に不足している。

 帝政時代からの悪しき伝統である汚職と暴力は共和国軍にも健在であるため、徴兵された男性兵士の士気は著しく低い。

 例外はケレンスキーの肝いりで存続が許された志願制の婦人決死隊だけである。

 

 ドイツに対する賠償金を捻出するための緊縮予算圧力は、早くから国防費にも波及していた。

 給与遅配という最悪の事態は免れているものの、祖国防衛という崇高な任務に従事する共和国軍の兵士は、隙間風の吹き込む老朽化した兵舎の中で寝起きを強いられている。

 小銃や火砲、車両に航空機に艦船と装備品も不足しているため、普段の訓練に支障をきたす有様だ。

 

 好調なドイツ経済に下支えされたロシア国内の景気指標と失業率の改善も「宗教的・良心的兵役拒否」を認めている共和国軍には痛手である。

 民間奉仕義務による代替条件を満たせばいいという、徴兵制の根幹を揺るがす制度の導入を強く主張したのは、やはりケレンスキー大統領その人であった。

 良心的拒否よりも宗教的拒否の代替条件が優遇されているのは、1933年の元老院における大統領選出において宗教勢力から支持を得るため、ケレンスキーが取引に応じたからだと報道されている。

 

 兵役拒否制度の導入に関する疑惑がどうであれ、これが兵員の充足率が5割どころか3割を切る原因の一因であることは間違いない。

 そして書類上の師団を維持するために、演習や教育による練度の維持がおなざりにされている。

 

 こうした共和国軍を取り巻く危機的な状況は、軍内部でも問題視されている。

 だがこうした危機感が政権に対するクーデターという、これも帝政時代と臨時政府時代を通じて見られた悪しき伝統に結びつくことはなかった。

 ケレンスキーは「共和国軍における文民統制が徹底された結果である」と主張するのであろうが、クーデターの首謀者たりえる実力ある軍人がいなくなっただけだという見方も出来るだろう。

 

 アレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキーに多くの責任があるにしても、なぜ世界最大のロシア軍が、かくも無残に落ちぶれたのか?

 

 そもそも現在のロシア共和国軍は、帝政時代のロシア帝国軍の後継組織ではない。

 

 1917年2月革命でニコライ2世が退位し、ロシア臨時政府が発足すると、帝国軍の将校は、ほぼ全員が臨時政府に対する支持を表明した。

 共和派は無論、圧倒的多数の中間派や少数派の帝政派も含めて例外はなかった。

 これは協商陣営と中央同盟との間で戦われていた有史以来の大戦争が、如何にロシア国内で人気がない戦争であったことかの証左である。

 

 ここから導き出されるのは、ロシア帝国軍の将校団は皇帝陛下が退位しようと前線や後方で命令不服従や集団脱走が相次いでいようと、中央同盟陣営との戦争が継続中である以上は、目の前の戦線と部下に対する責任を放棄して、故郷や祖国をドイツ人の軍靴による蹂躙にまかせてもかまわないと割り切れるほど利己主義には徹しきれず、また自らの義務と職責に対して不誠実でもなかったという事実だ。

 

 同年の10月革命というボルシェヴィキによるクーデターにおいても、この傾向は引き続き見られた。

 これという強固な反ボルシェヴィキ思想を持ち合わせていなかった将校団は、レーニン率いる人民委員会議の命令指揮系統に服することを選択した。

 

 ソヴィエトに参加した兵士達が、ドイツとの即時停戦を掲げるボルシェヴィキ政権の支持を訴えて部隊長や司令部を突き上げたことも影響していたのだろう。

 ケレンスキーが推進していた「軍の民主化」が、こうした兵士達の行動に影響を及ぼしていたと指摘する専門家もいる。

 

 ともあれ帝政ロシア軍の中央組織と実働戦力の多くは赤軍-ボルシェヴィキ政権を支持した旧帝国軍部隊が引き継いだ。

 

 この赤軍と内戦を通じて激しい戦闘を繰り広げることになる白衛軍は、ロシアの各地で組織された反ボルシェヴィキを掲げる多種多様な義勇軍を起源としてる。

 むろん旧帝国軍の将校団や部隊は白衛軍にも参加していたが、それは臨時政府のケレンスキー派から帝政復古派、協商陣営の反ドイツ義勇軍からコルニーロフ事件の関係者まで、よく言えば幅広い人材が個々の繋がりを通じて集まったという、悪く言えば寄せ集めの集団に過ぎなかった。

 

 民主化された帝政ロシア軍-ボルシェヴィキ独裁政権の走狗である赤軍と、非民主的な軍閥連合-反ボルシェヴィキの白衛軍による凄惨な内戦は、レーニン暗殺によるポルシェヴィキ内部での主導権争いに助けられたこともあり、ドイツ軍の支持を得た白衛軍の勝利に終わる。

 

 しかし内戦の勝利は、白衛軍の抱える構造問題の自発的な解決には繋がらなかった。

 むしろ新たなロシアにおける政治の主導権を確保するため、各軍閥は互いに牽制を続けることを選択した。

 ロシア臨時政府の後継組織としての全ロシア臨時政府が発足した後も、この構図は変わらなかった。

 

 1921年に初代のロシア共和国大統領に就任したケレンスキーも、当然ながら共和国軍が抱える問題を重要視していた。

 最もそれは、この状況に頭を悩ませる国防委員会事務局やロシア共和国軍の軍官僚の思惑とは、全く正反対の方向性を向いていたのだが。

 

 ケレンスキー大統領は元老院における就任演説の中で、同じ共和制国家であるアメリカ南北戦争後の再建(リコンストラクション)を戦後復興のモデルにすると表明した。

 そして「すべての民族と、すべての宗教と、すべての思想を内在する偉大なるロシアの再建」という政権公約を、ケレンスキーは忠実に守った。

 

 すなわちケレンスキーは「国内融和」を理由に、武装闘争と武力革命路線を放棄したボルシェヴィキのブハーリン派の恩赦と、旧赤軍関係者の共和国軍への合流を認める決定を下した。

 当たり前ではあるが政治犯や刑事犯は除外され、受動的に赤軍を支持した旧軍関係者が対象とされたが、ポストを奪われることになりかねない旧白衛軍勢力は、日頃の利害関係や派閥争いを越えて一致結束。ケレンスキーの決定に反対した。

 

 それでもコルチャーク提督のクーデター事件(1924)の処理を通じて、軍に対する大統領の優位性を確立したケレンスキーは、本来の軍事戦略上の意図とは全く異なる目的のために、軍管区制を意図的に捻じ曲げて運用した。

 

 すなわち本来は広大な国土を防衛するために、中央の指示がなくても機動的に危機事態に対処する総軍の担当範囲が軍管区であるはずである。

 しかしケレンスキーの命を受けて国防委員会事務局に集められた背広を着た軍人達は、旧白衛軍や旧赤軍の派閥解消を意図的に避け、むしろ旧軍閥単位で軍管区を割り当てた。

 政治家や中央の手を汚さず、相互監視を行わせることで第2のコルニーロフ将軍、第2のコルチャーク提督を防止するという政治的な動機によって行われたことは、誰の目にも明らかであった。

 

 かくして「ケレンスキー粛軍」と呼ばれるロシア軍の民主化は成し遂げられた。

 

 その功労者であるアレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキーは死んだ。

 

 ケレンスキー銃撃事件の第一報を聞いたアントーン・イヴァーノヴィチ・デニーキンの発言として、元帥の側近として高級副官を長く務めたヴィクトル・ベトリング少将の回顧録に記載されている内容を引用する。

 

「『神は挑戦を浮くることなし』か。ハプスブルクの老帝は正しかったな」

 

 

 3月8日はロシア革命記念日である。

 

 ロシア2月革命が始まった1917年2月23日(ユリウス暦。グレゴリオ暦では3月8日)を記念したロシア共和国の祝日であり、毎年1週間をかけて多くの式典やパレードがペテログラードのみならず、ロシア全土の主要都市で開催される。

 

 なんといっても最大の目玉は、最終日にペテログラードのネフスキー大通りで行われる共和国3軍による大規模な軍事パレードだ。

 

 世界に名高き共和国軍の婦人決死隊を先頭に、各軍管区から選ばれた精鋭の機甲師団や騎兵隊が続き、上空では航空部隊が芸術的な飛行を披露する。

 それを壇上からロシアの戦争英雄である将軍達が壇上から見守る構図は、軍事パレードというよりは、ロシアそのものを巨大な舞台装置とした演劇のような趣すら感じさせる。

 

 このパレード見物するためにロシア全土から集まった参加者によって、ペテログラード市内は雪を解かさんばかりの熱気と歓喜に満ちる。

 今では長いロシアの冬の終わりを告げる代名詞となりつつある。

 

 昨年の「2月革命20周年記念パレード」は、アレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキーが、ロシア共和国大統領として最後に臨んだ観兵式となった。

 

 軍事パレード前に行った演説の中でケレンスキーは「世界最大の共和国軍は、世界最大の民主国家であるロシアの自由と独立を護持する、世界でもっとも切れ味の鋭い剣であり、世界でもっとも強固な盾である」という仰々しい形容詞により共和国軍を讃えた。

 

 このやたらと飾り立てた実のない形容詞とは裏腹に、1925年に建設されたロシア共和国国防省の庁舎は実に簡素である。

 国防大臣を補佐する国防委員会事務局を始めロシア陸軍総司令部や陸軍参謀本部などの各司令部が、この1925年に完成した鉄筋コンクリート製の8階建ての、ほぼ正六面体である建物に置かれている。

 「質実剛健なロシア軍にふさわしい無骨な佇まい」と評すれば聞こえはいいが、ロシアの歴史にも文化にも国民性にも、あるいは周囲の構造物との調和といったものにさえ全く想像力が及ぶものではない。

 独創性のかけらも有していなさそうな、設計費用だけが安いのが取り柄の建築家による設計は「巨大な墓石のようだ」と評判がよくない。

 軍服を着用した将校の往来を見なければ、それとはわからないだろう。

 

 隣接するクセニア・アレクサンドロヴナ記念女子大学(旧ニコラエフスキー宮殿)の方が、よほどそれらしく見える。

 

 1936年1月10日。すなわちケレンスキー大統領暗殺事件から1週間が経過したその日。ロシア共和国陸軍参謀総長のアントーン・イヴァーノヴィチ・デニーキン陸軍元帥は、庁舎の最上階である国防委員会大会議室に共和国軍の高官達を招集していた。

 

 セルゲイ・マルコフ上級大将(ウラル軍管区司令官)、ロマノフスキー大将(国防次官兼軍事監査局長)、ウラジミール・フォン・マンシュタイン大将(参謀本部情報総局長)、ヴァシリー・カーニン海軍元帥(共和国海軍総司令官)、ツルクル空軍少将(共和国空軍参謀長代理)ら、そうそうたる顔ぶれが居並ぶ中、デニーキン元帥は、自身の最側近であるヴィクトル・ベトリング少将から、大統領暗殺事件に関する大統領警護隊捜査局の捜査状況の報告を受けていた。

 

「大統領の体内から摘出された7.62x38mmナガン弾と、犯人の所持していたナガンM1895の線条痕が一致しました」

「殺害に関して、第三者の直接的な関与はなかったことが証明されたか」

 

 むろんそれは「名無しのイワン」が、単独犯であったことを証明するものではない。

 共和国軍将兵の待遇改善に熱心であることから「我らがアントーン爺さん」と敬愛されるデニーキン元帥は、自らの考えをまとめるためか腕を組むと天井を仰いだ。

 

 「線条痕とは何か」と尋ねるような素人文民政治家は、この場にはいない。

 社会革命党出身の国防大臣がミリュコーフ首相に辞表を預けてから約1週間。

 この間、大臣は一度も国防省に顔を見せておらず、この場にいる将官達も、今は欠席しているコルニーロフ陸軍元帥(ロシア共和国軍総司令官)もふくめて誰も問題視していない。

 

 市民の自衛のための武装権を憲法で保障している銃社会アメリカにおいて、発射痕鑑定技術が見出されたのは必然であり、アメリカに負けず劣らず銃社会であるロシアが新たな操作方法を導入するのも自然なことであった。

 

 ロシア内務省警察局や共和国保安委員会よりも積極的なのが大統領警護隊の捜査局であるというのは、なんとも奇異な印象を受けるが、ケレンスキーのアメリカ贔屓を考えれば驚くに値しない。

 そもそも大統領警護隊という組織そのものが合衆国のシークレット・サービスをモデルとしてケレンスキーが創設した組織であるから、当然といえばその通りだ。

 

 とにかく動機は何であれ、大統領警護隊捜査局は発射痕鑑定の第一人者であるカルヴィン・ゴダードをアメリカから招聘するなど、新たな科学捜査手法を学ぶことに熱心であった。

 それが大統領暗殺事件の捜査において役立つとは、彼らも想定していなかっただろうが。

 

「そして肝心の職務がおざなりになった結果が、この不始末というわけかね?」

 

 見た目だけは紳士然としたカーニン海軍元帥が、いつものように金縁眼鏡の下にのぞく眉を釣り上げた、冷ややかな口調で異議を唱える。

 

 寄せ集めの軍閥陸軍や飛ぶことしか興味のない陸軍の出先機関である空軍とは異なり、帝国黒海艦隊の伝統を今に受け継ぐ海軍こそが正統なロシア軍の後継者であると信じて疑わない老提督は、いついかなる時でも刺々しい物言いをする。

 

 カーニン提督の舌鋒鋭い批判の矛先が直接向けられているゲンリフ・ヤゴーダ大統領警護隊長官は、旧赤軍幹部からの転向組である。

 ケレンスキー大統領個人に対する精勤と、些細なことでも必ず大統領の判断を仰ぐ点を評価されて異例の昇進を果たした元ボルシェヴィキの革命戦士は、その経歴から「コウモリ」と陰口をたたかれている。

 

 そもそも本来であればヤゴーダ長官が直接、この場に出席して捜査状況の進捗を説明するべきであろう。

 それを報告書だけを送り付けるだけで済まそうとは、護るべき主を失ったはずの大統領警護隊に、それほどまでに重要な案件があるというのか。

 それとも何か後ろめたいことでもあるのか。

 

 ピエロ(ケレンスキー)の腰巾着に対する悪感情を露わにしながら、老提督の批判はさらに続く。

 

「所詮はテロリストではないか。旧型回転式拳銃から4発も発射させるまで何もできなかったとは、警護隊が聞いて呆れる。大統領のご機嫌伺いばかりに熱心であったから、このような醜態を晒すのだ。コウモリの掲げる『Верность(忠誠)честь(名誉)долг(義務)』は、やはり見掛け倒しの看板か」

 

 カーニン提督の批判には、現場に居合わせながら何も出来なかったアルハンゲリスキー予備役上級大将の「無様なふるまい」にも向けられている。

 それは老提督の神経質な視線と口調から明らかだった。

 

 しかし肝心のデニーキン元帥を含め、陸軍側の出席者は老提督の批判については何も感じていないようであった。

 むしろロマノフスキー大将などは「沿岸警備隊」と揶揄されるまでに縮小した海軍の存在感をなんとか誇示しようとする海軍元帥に、同情的な視線を返す始末である。

 

 そして単なる皮肉屋ではないことを証明するかのように、カーニン提督の批判には重大な指摘が含まれていた。

 

 警護対象であるピエロ(ケレンスキー)を身を挺して守れなかったというだけでも、大統領警護隊は批判を免れない。

 

 だが自動拳銃ならいざ知らず、安全装置の解除に一定の時間が必要な回転式拳銃を、犯人が4発発砲するまで反撃出来なかった-まるで「4発目が命中するのを待っていた」かのように一斉に反撃に出たのは、一体何故なのか。

 

 そのために腕に銃撃を受けたブレジネフ大統領秘書官のように、大統領警護隊が護衛対象を車の中に押し込めようとしていれば、ピエロ(ケレンスキー)の運命は変わっていたのではないか? 

 

 そして「大統領警護隊の対応は理解出来ない」という疑念は、さらなる疑惑へと発展する可能性を秘めている。

 

 そもそも大統領警護隊捜査局の報告書は、信用出来るのか?

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