グッバイ、ケレンスキー!   作:神山甚六

7 / 10
「自分のものでないソリに乗るな」

 ロシアの諺


義憤(後編)

 アントーン・イヴァーノヴィチ・デニーキンが13歳の時、父であるイワン・エフィモヴィチ・デニーキンは神に召された。

 そして18歳で地元の歩兵連隊に召集されたアントーンは、今際の際の父に見せた感情の名前を知る。

 

 父が33年をささげた陸軍でアントーンが目撃したのは、ロシア社会の縮図であった。

 そこでは家門と縁戚関係が複雑に結びついた閨閥と、派閥の政治ゲームによる優劣が決定的な影響力を及ぼし、私的制裁という名前の暴力と、あらゆるレベルでの汚職が常態化し、それを正そうともしない事なかれの官僚主義が横行していた。

 

 門地に関わらず祖国に血を捧げるという国民皆兵の高潔な理想とは裏腹に、貴族や富裕層の師弟は高等教育の履修者であることを理由に兵役を猶予、あるいは免除されていた。

 硬直化した組織に染み付いた腐臭は、アントーンの青臭い正義感を悪戯に刺激した。

 アントーンに対して「これでもクリミア戦争当時よりはマシになった」と語る古参兵の風貌には、今際の際に父が見せたものと同じ諦観の色が覚束なく浮かんでは消えていた。

 

 不条理な現実に直面した場合、人間が取れる対応は2つしかない。

 すなわち自分の感情に正直に生きることを貫くか、それとも自分のために嘘をつくか。

 

 18歳のアントーン・イヴァーノヴィチ・デニーキンは前者を、すなわち不条理と戦うことを選択した。

 

 

 1890年初頭。ロシア帝国の軍事省官房局装備調査課は、厳寒環境下の部品凍結による発射不良や暴発の危険性を抱えていたスミス&ウェッソン製に代わる、新たな回転式拳銃の開発を模索していた。

 複数の企業に声をかけた結果、最終的に選ばれたのはベルギー王国のリエージュに本社を置く銃器製造会社のナガン兄弟社が提案したダブルアクションタイプの回転式拳銃「ナガンM1895」であった。

 

 ナガンM1895の設計思想は、同時代においてもいささか古い系統に属するもの。

 だが最新式が必ずしも信頼性が高いとは限らない。

 少なくともナガンM1895は、ロシア側が要求した厳寒環境下の使用に耐えうるものであった。

 

 また互換性の高いスミス&ウェッソンと異なり、同じ口径であっても専用の弾丸が必要であるという汎用性の乏しさや、かつ単純な構造のわりには整備が困難であるという欠点も、当時のロシア政府には望ましいと判断されたようである。

 すなわち反政府勢力に奪われたとしても、継続的な使用が困難だからだ。

 

 1895年。ロシア政府は軍および警察における正式採用を決定。

 1898年にはナガン社から製造権を購入し、1918年に一時中断されるまで国内製造を続けた。

 ロシア語で回転式拳銃を「ナガン」と通称されるようになったのは、20世紀の初頭頃からだといわれているので、時期は一致する。

 

 同型の回転式拳銃は、ナガン兄弟社も製造を続けていた。

 こちらはロシアと同様に、厳寒環境における信頼性が不可欠な北欧諸国に輸出されたことが確認されている。

 それだけベルギー軍需産業、およびナガン兄弟社の技術力が優れていたということだろう。

 

 1919年。旧ベルギー全土がドイツ軍の支配下に入ると、ナガン兄弟社はドイツ軍に資産と施設を接収された。

 翌年の1920年には、早くもドイツ総督府への忠誠を誓うことを条件に、銃器製造業を再開している。

 しかし主要顧客のうちベルギー国内の警察と軍隊は解体され、旧協商国への輸出は不可能。

 旧ベルギー国内の政治的混乱やドイツに反発した技術者や社員の流出が相次ぐなど、経営危機は続いていた。

 

 同社を取り巻く厳しい環境の中、新経営陣が目を付けたのは、祖国の旧ベルギーに建国されたフランダース=ワロン同様、ドイツが自らの勢力圏である東欧に建国した新国家であった。

 こうした国々は統治機構を早急に固めるために、新たな軍隊及び治安維持組織の創設が急務であった。

 しかしドイツ国内の軍需産業は、依然として帝国軍向けの生産すら追い付かない状況が続いていた。

 ナガン兄弟社は自社であれば、この需要に対応出来るとアピールした。

 

 この経営方針は奏功した。

 フィンランド国境警備隊、ベラルーシ国内軍、ワルシャワ首都警察、バルト連合のクールラント連邦警察etc……旧式とはいえ信頼性と実績は折り紙付きのナガンの回転式拳銃は多くの軍隊や警察で採用され、同社は再び銃器製造会社として息を吹き返した。

 

 アレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキー大統領暗殺犯(以下、イワンと呼称する)は大統領警護隊員により射殺された。

 大統領警護隊捜査局は、イワンの手に握られていたナガンM1895と、大統領の体内から摘出された弾丸の線条痕が一致したことを確認した。

 

 しかしこの証拠はイワンの身元を特定する直接的な証拠にはならないと思われる。   

 

 その理由としてナガンM1895は「何時でも」「何処でも」「誰でも」購入可能な、欧州において最も一般的な回転式拳銃である事実を指摘しておきたい。

 

 例えばサンディカリスト諸国はどうか。

 ドイツ主導のミッテ・ヨーロッパ経済圏から強制的に排除されていたサンディカリスト諸国は、第三国を経由すれば型落ちのナガンM1895はいくらでも輸入可能である。

 

 特にフランス・コミューン(以下フランスと呼称)とロシアの2国間では、赤十字国際委員会とローマ教皇庁が仲裁する「石炭食糧交換プログラム」の存在がある。

 すなわちロシアはミッテ・ヨーロッパから経済制裁の対象となっているフランスから穀物や食料品を輸入し、ロシアはフランスが求める石炭や屑鉄、そしてロシア製の小銃火器を提供する制度を利用すれば、フランスは合法的にナガンM1895を入手可能である(ドイツが諒解する範囲においてという前提はつくが)。

 

 さらに模倣品の存在も見逃せない。

 ナガンM1895は、両シチリア王国を本拠地とするマフィア(王国政府関係者との繋がりが指摘されている)を称する犯罪者集団が経営する、銃器製造工場の主力商品である。

 信頼性では正規品よりも劣るものの、安価であることから地中海沿岸の反政府勢力や犯罪組織は「海賊版」を愛用している。

 

 つまり、ナガンM1895の線条痕だけでは、犯人の身元特定は不可能である……

 

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 これはケレンスキー大統領暗殺事件から約1週間後、ロシア大統領警護隊のゲンリフ・ヤゴーダ長官が暫定内閣と軍首脳部に提出した捜査状況報告書の冒頭を抜粋したものである。

 

 報告者は大統領警護隊捜査局の第2課長(国内担当)ヤンケリ=シェヴェリ・シュマエフ。暗殺事件の直後、ヤゴーダ長官から特別捜査官に任命され、暗殺事件の捜査に専任で従事していた人物である。

 

 しかし「捜査局にヤンケリあり」とペテログラード政界で悪名を響かせていたシェヴェリ・シュマエフの頭脳の冴えは、少なくとも報告書からは感じられない。

 

 ナガンM1895の説明の前には、大統領警護隊の警護活動に関する釈明と言い訳が延々と羅列されているが、これはヤゴーダ長官の筆によるものだろう。

 そして犯人の使用した拳銃がナガンM1895であることを特定したと報告した上で発射痕鑑定技術の限界が長々と続く(これもヤゴーダ長官か)。

 

 そしてようやく報告書は、事件の黒幕の「可能性の一つ」としてフランダース=ワロン連邦王国の複数の反政府勢力を取り上げる。

 

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 旧ベルギー王党派将校レジスタンスのアルメー・セルト(秘密軍)

 オタワにおいてベルギー亡命政府を率いるアルベール1世に、軍人としての忠誠を誓う愛国者達。傀儡政権であるフランダース=ワロンの政府関係者に対する攻撃を繰り返すテロリスト集団。

 同じ独立派でも、フランデレン分離主義のフランデレン国民連合とは犬猿の仲である。

 

 フランデレン民族主義を掲げるフランデレン国民連合。

 旧ベルギーの再建を否定し、プロテスタントのフランドル民族主義に基づき、オラニエ=ナッサウ家を首班とする統一王国を主張している。

 MIV(オランダ軍情報局)の支援疑惑があり、ドイツ‐オランダ間の外交問題となっている。

 

 カトリック系反ドイツのレクシズム運動であるレオン・ベルジュ。

 ベルギーの敗戦を民主主義の敗北であると考える彼らは、民主主義にも社会主義にも懐疑的であり、カトリック教会を中心とした統合主義による新ベルギー建国を掲げている。

 当然ながらフランデレン国民連合ともアルメー・セルトとも関係は最悪である。

 

 ワロン系サンディカリスト勢力のフロント・ド・ランデパンダンス。

 これはいうまでもなくフランス・コミューン公安委員会の対外治安総局からの支援を受けている。

 

 このほかにも「グループG」と呼ばれる中間派学生グループが存在するが、実際にはコミューンからの支援が指摘されており……

 

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「こんな出来の悪い推理小説を読ませるために、私達を集めたのか!」

 

 驚異的な忍耐力を発揮し続けていたカーニン提督が報告書を投げ出して激昂するが、それも頷ける内容である。

 そしてカーニン提督が指摘するように「推理小説ならば、拳銃の入手先を推理してページ数を稼ぐ」のだろうが、残念ながら「誰が製造したか。誰が購入したか。誰が持ち込んだか」といった疑問は、この暗殺事件の本質でもなければ犯人の身元特定に至る最短距離でもない。

 

 まずナガンM1895の製造権を有するのは旧ロシア帝国であり、ロシア共和国がそれを引き継いだ。

 ロシア軍ではトゥーラ造兵廠が開発した新型自動拳銃のTー33への切り替えが進められているが、依然としてナガンM1895の製造ラインも稼働を続けている。

 

 つまりナガンM1895を入手出来る可能性が一番高いのは、ロシアの軍人か警察官ということになる。

 そして元兵士や退職した警官よりも、実弾による射撃訓練の機会に恵まれているのは誰なのか?

 そしてこの事実に共和国空挺旅団やロシア内務省の対テロ特殊部隊において、サプレッサー(消音装置)を使用可能な回転式拳銃の愛用者が多いという事実を重ねると、ひとつの推測が導き出される。

 

 繰り返しになるが、報告書は暫定内閣と軍首脳部に提出された。

 

 保身の傑物たる「コウモリ」ヤゴーダによる徹底的な文言の修正がなかったとしても、シェヴェリ・シュマエフは、不確かな状況証拠に基づく推測だけで「現役の共和国軍人、あるいは特殊部隊隊員が実行犯である可能性」を記述することが出来たのか?

 

 少なくともシェヴェリ・シュマエフ特別捜査官は、よほど間抜けでなければ見つけられるであろう政治的な地雷を踏むことを回避した。

 彼はロシア社会に反ユダヤ感情が厳然として存在していることも、ケレンスキー大統領個人の信任に極度に依存していたヤゴーダ長官の政治生命が危ういことも、そして自分の名前がヤゴーダ長官の後任として、彼の「友人」である共和国議会有力者達の間で浮上していることも承知していた。

 

 ヤンケリ=シェヴェリ・シュマエフ特別捜査官の手によるアレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキー大統領暗殺事件の最終報告書は、ついに完成しなかった。

 

 

 1905年の結党以来、ロシア最大の自由主義政党であるカデットを率いてきたパーヴェル・ニコラエヴィチ・ミリュコーフは、幾度となく大きな政治生命の危機に直面した。

 そしてミリュコーフは、それを乗り越える過程において、自らの党内における支持をより強固にしてきた。

 

 1917年4月にはミリュコーフ書簡問題により外務大臣を辞任。

 同年7月のコルニーロフ事件では、クーデターを支持したことにより政治的な謹慎を強いられる。

 同年10月のボルシェヴィキによるクーデターでは指名手配され、党員とともに地下に潜伏した。

 それでもカデット党内におけるミリュコーフの地位は揺るがなかった。

 

 ミリュコーフの最大の政治生命の危機は1918年5月。自身のキエフ訪問によって招来された。

 

 この年2月、ドイツは大規模攻勢作戦により、ウクライナとバルト海沿岸地域を制圧。

 コーカサス地方ではオスマン帝国軍が攻勢をかけ、ザカフカース民主連邦共和国*1が一方的な独立を宣言していた。

 

 祖国を取り巻く危機的状況にも関わらず、ボルシェヴィキ政権は「素人外交」により事態を悪戯に悪化させた。そして国内の反動勢力との闘いに集中するという名目で、ボリシェヴィキ政権は自らが悪魔と呼んではばからない軍国主義者との取引に応じた。

 

 彼らは、拙いながらも続けてきた外交交渉の成果すら放棄した。

 タタールの軛からロシアが長い歴史と犠牲の上に築いてきた領土と国民を、自分達の政権を維持するという極めて矮小かつ近視眼的な私欲を同じ天秤にかけ、後者に価値があると判断を下した。

 

 すなわちレーニンはドイツの主張を全面的に受け入れ、莫大な賠償金を支払い領土を割譲するという屈辱的なブレスト=リトフスク条約を締結した。

 

 ボルシェヴィキ政権とドイツが手を結んだという凶報は、ロシア全土を駆け巡った。

 それは反ボルシェヴィキ軍閥の南ロシア軍に参加していたミリュコーフに、ウラジミール・イリノチ・レーニンに対する自身の過大評価と過小評価を訂正するよりも前に、重大な政治的決断を迫る事となった。

 

 ミリュコーフは自由主義者であるが、同時に伝統的な大ロシアの支持者である

 ポーランドとフィンランド以外の少数民族の自治には断固として反対であり、臨時政府ではウクライナ自治問題を理由に政権を離脱した。

 領土の割譲や巨額の賠償金といったブレスト=リトフスク条約など論外であり、そもそもこの状況下でも、この状況下だからこそ協商陣営として軍国主義ドイツとの戦いを続けるべきだという考えであった。

 

 こうしたミリュコーフとカデットの政治的な要求は、ボルシェヴィキのなりふり構わない売国条約の締結により根底から覆った。

 このままではボルシェヴィキ勢力が各地の白衛軍を各個撃破する形で内戦が終結する。

 その前に行動をしなければならない。

 

 この状況では、カデット中央委員会に諮る時間的な猶予は存在しない。

 ミリュコーフは「一般的かつ平凡なロシア人」として、政治家としての自分とカデットの掲げる政策や理念の中での優先順位を付ける作業に没頭した。

 

 そしてミリュコーフは、自身とカデットの新たな政治的見解を明らかにした。

 

 すなわち現段階では「それ以外のすべての価値観や理念を犠牲にしても」ボルシェヴィキ政権の打倒を「あらゆる手段を通じて」目指すべきである。

 そのためにはドイツ軍の支持を取り付けることが必要であり「将来的な修正の余地を残すのであれば、ボルシェヴィキ政権の締結したブレスト=リトフスク条約の承認もやむなし」である。

 

「これではボルシェヴィキの連中と、何ら変わらないではないか!」

 

 そうした批判が党内から生じることも、ミリュコーフは覚悟していた。

 それでも今は行動あるのみ。

 でなければ「歴史のゴミ箱」に入るのは自分達のゆおうなロシアの自由主義者になってしまう。

 このような現状に対する深刻な危機感が、ミリュコーフを突き動かした。

 

 1918年5月。ミリュコーフはキエフのドイツ東部軍司令部を訪問し、ドイツ帝国軍最高司令部から視察に訪れていたヴィルヘルム・グレーナー参謀次長と面会。

 ボルシェヴィキ政権の危険性を説き、ロシア国内の反ボルシェヴィキ勢力とドイツ軍による共同作戦を提案した。

 

 そしてミリュコーフが予想していた以上に、ミリュコーフの行動には批判が集中した。

 そもそも自由主義政党のカデットがロシアの世界大戦参戦を支持したのは、自由主義陣営である協商陣営との共闘を支持する声が強かったからである。

 それを反故にして、祖国を踏み荒らしているドイツと手を組むとは何事か!

 

 臨時政府における社会主義政党との連携にも否定的だった右派のピョートル・ストルーヴェは無論、盟友のウラジーミル・ナボコフもミリュコーフを痛烈に批判。党中央委員会ではミリュコーフの解任が提案され、一時的にミリュコーフは中央委員会に自分の取り扱いを委任せざるを得なくなった。

 

 ところが1918年9月。すなわち僅か4か月後には、ミリュコーフの独断専行は「政治的な先見性を示した勇気ある決断であった」と、党の内外から讃えられることになる。

 そしてそれはミリュコーフが本来もっとも忌み嫌う手法によってもたらされた政治情勢の変化であった。

 

 1918年8月30日。2カ月前にロシア皇帝一族を虐殺する命令を下し、1カ月前にそれを実行したロシア・ソビエト連邦社会主義共和国のウラジーミル・イリイチ・レーニン人民会議議長は、モスクワ市の工場で演説を行った直後に銃撃をうけ、暗殺された。

 

 犯人として逮捕されたのは、社会革命党の女性党員ファーニャ・カプラン。 

 28歳の若き女性テロリストは、自らの犯行理由として憲法制定会議を解散し、社会革命党の解党を命じた「革命の敵」に対する復讐であると主張した。

 

 彼女が真犯人であったかどうかは定かではないが、レーニンというカリスマと指導力を兼ね備えた革命家を失ったボルシェヴィキ政権は、レフ・カーメネフによる後継体制を固めると、彼らがタタール人よりも唯一優れているであろう暴力を振るうことをためらわないという「美徳」を存分に発揮した。

 

 すなわち人民会議議長直轄の秘密警察である反革命サボタージュ取締委員会全ロシア非常委員会ことヴェーチェーカーは、ファーニャ・カプランを、裁判手続きを経ずに公開処刑。

 直ちにモスクワ市を中心とした支配地域における反革命分子の一斉検挙を開始した。

 

 その結果、モスクワ市内には事件とは全く無関係な一般市民も含めた数千人ともされる犠牲者の遺体が各所に積み上げられた。

 これにはカメーネフですら嫌悪感を示したとされるが、ヴェーチェーカーの暴走はとどまるところを知らなかった。

 

 若き女性革命家の悲劇的かつ献身的な犠牲、そしてヴェーチェーカーの暴走は、1917年12月にボルシェヴィキとの連立を巡って左右に分裂していた社会革命党を結束させた。

 すなわち左派は、ボルシェヴィキ政権の帝政と変わらぬ強権的な反動体質に失望し、右派はドイツとの売国的な条約締結に反発したという理由から反ボルシェヴィキで一致結束した。

 そして唯一政権に残留していた左翼社会革命党*2も連立離脱を決めた。

 

 反ボルシェヴィキのための挙国一致政権の樹立というミリュコーフの主張は、自由主義者としての彼がもっとも忌み嫌う暗殺という手法によって成し遂げられようとしていた。

 

 パリに亡命していたアレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキーが同じ結論に至っていたことをミリュコーフが知ったのは、1918年にロシア中部ウファで行われた反ボルシェヴィキ勢力が一堂に会した会議の場においてケレンスキーに再会した時であったという。

 

 パーヴェル・ニコラエヴィチ・ミリュコーフの詳細かつ克明な回顧録に、ウファ会議における心情をうかがわせる記述はない。 

 

 

 ロシア共和国軍における制服組のトップはロシア共和国軍総司令官のラーヴル・コルニーロフ陸軍元帥であるが、このポストには自分の手足となる事務組織や官僚が存在しない。

 

 例えば共和国に8つ設置されている軍管区司令官を始め、高級将校の人事権を持つのはロシア共和国大統領である。

 これを大統領が任命する国防大臣と、議会が指名する国防省国防委員会の委員、そして事務方の国防委員会事務局が補佐する。

 そして陸軍参謀本部は陸軍参謀本部を統括すると同時に、事実上の3軍の統合参謀長として軍令、動員計画、兵站、教育に関して各軍管区司令部と協議を行いながら遂行する。

 

 そのため1933年当時の陸軍参謀総長であったコルニーロフ元帥は、社会革命党のウラジミール・リヒター国防大臣(当時)から共和国軍総司令官への就任要請をうけたが、最後まで消極的な姿勢を崩さなかった。

 しかし彼以外の有力な候補者がいなかったこと、そして「海軍出身者(カーニン提督)でもかまわない」という大統領府の意向により、やむなく受諾する。

 そして案の定、この多彩な才能と経験を有する野心家の将軍は、共和国軍総司令官に就任して以降は精彩を欠いた。

 

 コルニーロフの後任である陸軍参謀総長には、彼と同じ南ロシア軍系のアントーン・イヴァーノヴィチ・デニーキン陸軍大将が就任した。

 

 この人事に反対したのはデニーキンの20歳年下の妻クセニナだけであり、彼女以外からは好意的に評価された。

 コルニーロフは無論、政府や政界関係者、ケレンスキー政権に批判的な新聞やロシア国民にも、そして各軍管区に跋扈する旧赤軍もふくめた旧軍閥ですら、この人事を歓迎した。

 

 デニーキンは正規の参謀教育を受けたものの、事実上のたたき上げであり、背負う家門も閨閥も人脈も持たなかったため、旧帝国軍においては非主流派に属していた。

 ブルシーロフ将軍が認めた戦上手であり、また肝心の組織管理能力は、寄せ集めの反政府義勇軍でしかなかった南ロシア軍を短期間で正規軍と同じ練度にまで引き上げ、ヴォルガ戦役における後方兵站業務を破綻させなかったことで証明済みだ。

 反骨心旺盛の一家言をもつ性格も、ロシア軍将兵やロシア国民から人気を集めていた。

 

 アレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキー大統領が暗殺され、国防大臣の事実上の空席に伴う国防省の機能不全と政局の混乱が続く状況下にあり、ロシア共和国軍を統治しているのは誰か。

 

 長年の友人であるパーヴェル・ニコラエヴィチ・ミリュコーフ大臣会議「臨時」議長から冬宮殿に呼び出されたデニーキン陸軍元帥は、ペテログラード軍管区とモスクワ軍管区に関する「不穏な動き」に関する説明を求められた。

 

 そしてデニーキンは長年の知人に対するものではなく、あくまで軍人としての姿勢を崩さずに回答した。

 

「閣下もご存じの通り、私の持論は1917年7月と変わっておりません」

「あの時、私がコルニーロフ将軍のペテログラード進軍を支持したのは、当時のケレンスキー政権が軍の民主化という名目で軍の秩序と規律を捻じ曲げようとしたからです」

「すなわち、いかなる政局であれ……極論を言わせていただくならば、いかなる政体であれ、軍は政治的に中立でなければならない」

 

 受け取り方次第では、コルニーロフ将軍のクーデターを支持しながらケレンスキー大統領の下で4度も大臣会議議長を歴任した自身への批判にも聞こえたはずだ。

 それでもミリュコーフ老人は一切表情を特に動かすことなく、旧知の将軍の視線を正面から見返している。

 

「現在、共和国軍を統制しているのは私でしょう」

「そして共和国軍において、クーデターが可能なのも私だけであります」

「そして私が現在の地位にある限り、ロシア共和国軍は政治的な中立性を維持することを御約束いたします」

 

 それは、46年間戦い続けてきたアントーン・イヴァーノヴィチ・デニーキンが、戦うことを止めた瞬間であった。

*1
後にグルジア、アルメニア、アゼルバイジャンに分裂する。

*2
社会革命党を離党した党内最左派。

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