「何故なら人間は、既成のものをあてがわれるのが好きだからだ」
『作家の日記』(1873)
孤独(前編)
共和国大統領-すなわち「全ロシアの
ケレンスキーの死は、すぐさま社会革命党の閣僚引き上げによる第4次ミリュコーフ内閣の閣内対立による崩壊としてあらわれた。
現在はミリュコーフが暫定的に内閣を率いているが、暫定内閣が政治的な方向性を示すことは不可能である。
そのため大統領代行、すなわち憲法の規定に従えば元老院議長のドミトリー・ロマノフ大公の昇格に必要な元老院とドゥーマにおける議決は先送りとなった。
これがミリュコーフ連立政権崩壊直後であれば、ドミトリー大公は憲法上の規定を理由に共和派が多数を占めるドゥーマに対して自身の大統領代行の就任を認めさせることも可能だっただろう。
しかしドミトリー大公は友人であるユスポフ公爵の「ドゥーマ多数派との全面対決は避けるべきだ」とする慎重論を受け入れてしまった。
ドミトリー大公の決断は裏目に出た。
大公の浚巡は、反ドミトリー派に大統領暗殺の衝撃から立ち直らせる時間的猶予を与えてしまったからである。
ペテログラードの政治的分断と対立は、もはやドミトリー大公が大統領代行への就任を強行したとしても、政治的な合意が成立するような状況ではなくなっていた。
昨日までの多数派が今日の少数派となり、今日の政治同盟が明日も続いている保証はなく、明日のことは神のみぞ知る。
大統領府報道官を始めとする定例会見が相次いで延期されたこともあり、ペテログラード駐在の各国大使館に勤務する外交官や駐在武官は情報収集活動に苦心している。
「マクラコフは辞表を提出したそうだ」
「いや、ストルーヴェは何も言っていない」
「ユスポフ公がグチコフと会合を持ったと聞いたが」
「誰とでも付き合うお調子者があてになるものか」
「チェルノフがツェレテリと会ったらしい」
「サヴィンコフがいないぞ」
マクラコフは財務大臣、ストルーヴェは外務大臣で、共にカデット右派に属する反ミリュコーフ派。
ユスポフ公爵はドミトリー大公の政治的盟友として知られるロシア有数の資産家であり、
ケレンスキーの政敵であったチェルノフ元首相は、ケレンスキーの政敵で社会革命党左派の領袖。
ツェレテリはメンシェヴィキ中央派の指導者でチェルノフと近い。
そしてサヴィンコフは、各国で台頭する国家大衆主義を最初に掲げたロシア国民共和党(NRPR)を率いる危険人物だ。
主要各紙の世論調査では、次期ドゥーマ議会選挙における旧連立与党の敗北、並びに野党勢力の躍進は確実視されている。
このままでは議席減少は避けられない既成政党の関心は、共和国軍の最高司令官である大統領代行よりも、選挙管理委員会の人選に影響力を発揮出来る大臣会議議長と次期政権をめぐる多数派工作に向けられていた。
すなわち現在のドゥーマ第1党は、社会革命党(SR)である。
連立政権からの離脱を主導したヴィクトル・チェルノフ元首相は、中道左派勢力の結集による「共和制防衛のための統一人民戦線」を掲げ、メンシェヴィキのイラクリー・ツェレテリやフョードル・ダンの支持を取り付け、新たな院内会派「左翼共和派」の結成を宣言した。
ドゥーマにおける多数派工作では優位に立っているが、同会派の最大の問題は内閣を樹立したとしても、保守派の巣窟である元老院の大統領指名選挙において支持を得られる見通しが全く立たないことだ。
また世論調査において社会革命党より優位に立つ急進社会主義の左翼社会革命党(LSR)は、チェルノフの人民戦線構想を「ブルジョアジーの傀儡」と批判し、左翼共和派との連携を否定している。
そのためチェルノフ元首相はカデット左派のみならず、ペテログラードの「政治的なゲットー」に閉じ込められていた極左や極右勢力との連携も視野に置いているとされる。
これに対抗するのは、ドミトリー大公の大統領代行就任を支持する保守派と自由主義右派である。
元老院の多数派勢力は「国防体制の再建と国家財政の防衛、および法と秩序の回復に関心を持つ諸政党による、可能な限り最大の連合」を形成することを、ドゥーマのドミトリー大公支持派に要求。
これをうけてオクチャブリストのアレクサンドル・グチコフ元国防相は「国民連合政府」の樹立を目指し、中道右派勢力の結集を図っている。
これはオクチャブリストを中心に、マクラコフやストルーヴェに代表されるカデット右派、進歩党、あるいは社会革命党右派(旧ケレンスキー派)など、保守派から自由主義派、現実的な社会主義者までをふくめた挙国一致政権構想である。
しかしグチコフの多数派工作は難航しており、また元老院の帝政復古派には、社会主義者との連立は無論、帝政廃止に賛成したオクチャブリストやカデットといった自由主義政党との連立にも反対する声が根強く、左派勢力よりも政策的な不一致を露呈している。
そして第3の選択肢。ロシアの悪しき伝統である政治的暴力の復活を辞さない勢力の動向は、各国大使館の関心を集めている。
ペテログラードの「政治的なゲットー」に閉じ込められていたヤコフ・ブルムキン率いる左翼社会革命党(LSR)、ボリス・サヴィンコフのロシア国民共和党(NRPR)、そしてニコライ・ブハーリンのボルシェヴィキ右派。
この3勢力は左翼共和派の人民戦線内閣や、右派の国民連合政府に与するよりも、非合法な手段による政権奪取を目指すのではないかと危惧されている。
- 今やペテログラードは疑心暗鬼と流言飛語の巣窟です。何が起きているかはわかりませんが、何かが起きるのは間違いありません -
カナダの駐ロシア大使チルストン子爵は、これに続けてペテログラードに流れる政治的陰謀を列挙した。
「コルニーロフ共和国軍総司令の旧南ロシア軍閥と、サヴィンコフによる軍事政権樹立」
「ニコライ・ブハーリンと、モスクワ軍管区司令官のトゥハチェフスキー陸軍大将による社会主義革命」
「アレクセイ・カレージン退役陸軍元帥と、軍部保守派による帝政復古クーデター」
「デニーキン参謀総長が共和国軍内部の反共和制勢力に対抗するため、戒厳令布告の準備に着手した」
「左翼社会革命党戦闘団によるドミトリー元老院議長暗殺計画」
「極右団体の黒百人組によるチェルノフ元首相とスピリドーノワ女史(モスクワ市長)暗殺計画」
乱れ飛ぶ噂の中に真実の陰謀が紛れ込んでいたとしても、表立って動く愚か者は存在しない。
また政敵を牽制するための情報工作である可能性も否定出来ない。
ただチルストン子爵がそうであったように、ペテログラード駐在の各国大使館は砂山から一粒の金を見つけ出すがごとく、膨大な情報の精査に追われたのは確かである。
旧大陸の新興国家ロシアが共和制の構造的欠陥と脆弱さを世界に喧伝し続ける中、新大陸のカナダでは、これとは全く異なる光景が展開された。
*
1936年1月20日(すなわちケレンスキーの暗殺から17日後)。
カナダ自治領オタワのリドーホール仮宮殿において、昨年末から昏睡状態に陥っていたジョージ5世-「グレートブリテン及びアイルランド連合王国、および連合王国の全ての海外自治領の統治者、インド皇帝」にして、連合王国亡命政府の代表ジョージ・フレデリック・アーネスト・アルバートは、70年の波乱の生涯に幕を下ろした。
社会主義革命がイングランド島に波及することを恐れていた国王は、1925年の革命により懸念が正しかったことを証明した。
自らに付き従った数百万人の亡命イギリス人と共に、大西洋の彼方からイングランド島を社会主義者から奪還することに執念を燃やし続けた国王の最後の言葉は「
ジョージ5世と共にカナダに逃れた旧イギリスの支配者達は、新大陸においても彼らがロンドンの主であった時と同じように振舞い続けた。
亡命政府は資本主義と議院内閣制が社会主義や専制政治よりも優れているという信念のもと、カビの生えた伝統と名誉以外の意味を持たない爵位や称号で互いを呼び合い、亡命コミュニティにおける議会選挙を続けた。
仮の宿であるカナダ社会に帰化するつもりは毛頭ない彼らは、午後のティータイムの度毎に、イングランド島を不法占拠する社会主義者に対する復讐の確認を11年間続けてきた。
そして新国王に即位する「
当然ながらカナダ人の全てが、因習を守り続けるイングランド島からの亡命者達を歓迎したわけではない。
ジョージ5世と激しく対立したカナダ自治政府のマッケンジー・キング首相は、貴族院本会議における哀悼演説の中で「模範的かつ理想の立憲君主」としてのジョージ5世を称賛して見せることで、彼が11年の間に亡命イギリス人から学んだブリティッシュ・ジョークの神髄を披露した。
このキング首相の発言に対して、新たな国王の政治ブレーンである「
それでもオタワは、亡命イギリス人コミュニティーの精神的支柱であり続けたジョージ5世崩御という現実に直面しても古き良きイギリス人としてふるまい続けた。
すなわち机の下では相手の脛を全力で蹴り続けていたが、ペテログラード流のなりふり構わぬ政争をすることなど考えもしなかった。
カナダ駐在のロシア共和国特命全権大使パーヴェル・ニコラエヴィッチ・イグナティエフ伯爵は、ジョージ5世死去に関する報告書を次のような文章で締めくくっている。
- オタワでは、
*
1917年の2月革命により発足したロシア臨時政府において、アレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキーは司法大臣として入閣を果たした。
この時、ケレンスキーは35歳。
リヴォフ公爵の内閣の中では、政治的盟友のテレシェンコ蔵相(31歳)に次いで2番目に若かった。
旧体制下で社会主義者として政治活動を続けてきたケレンスキーは、これが初入閣である。
弁護士資格をもつドゥーマの反体制派として活動していたが、当然ながら具体的な司法行政に精通していたわけではない。
臨時政府に引き続き仕えることを選んだ官僚達は、新大臣の手腕を懸念していた。
彼らの懸念は最悪の形で的中する。
新大臣は、旧体制下において収監されていたすべての政治犯を釈放する書類にサインをした。
その中には革命家を自称するだけの殺人犯や銀行強盗、ゴロツキ連中も含まれていると官僚達は反論したが、ケレンスキーは一切の例外を認めなかった。
司法大臣として入閣する直前、ケレンスキーはそれまで所属していた労働党から社会革命党に入党している。
1912年にドゥーマに初当選してから院内では社会革命党会派として活動を続けていたが、党内においては新参者であることに変わりはない。
政治犯釈放の決定が、党執行部に対する政治的アピールであることは明らかであり、治安に及ぼす影響を考えれば全員の釈放などありえない。
しかし「旧体制の政治弾圧を、新政権において継続してはならない」とするケレンスキー大臣の主張に、リヴォフ公爵を始めとした閣内の自由主義者達も表立っては反論出来なかった。
ケレンスキーが釈放した政治犯の中には、伝説的な女性革命家マリア・アレクサンドロヴナ・スピリドーノワも含まれていた。
というよりも、ケレンスキーは彼女1人をシベリアから解放するためだけに全政治犯の釈放に拘ったと説明したほうが事実に即しているだろう。
シベリアからペテログラードに戻った彼女を、ケレンスキーは自ら出迎え、新政権の政治的な開放性を強調した。
11年のシベリア流刑は、マリアを社会革命党の伝説的な女革命家に押し上げた。
社会革命党の戦闘員はマリアを熱狂で迎え、そしてそれ以外の勢力は彼女のカリスマ性を警戒した。
現体制に対する反発と社会主義に対する漠然とした期待感により政治活動を始めたマリアは、15歳の時に故郷タンボフ県の社会革命党に参加した。
マリアはナロードニキ戦闘団に加盟し、自ら体制側との闘いの最前線に立った。
1906年。マリアはタンボフ県の農民抗議行動を弾圧する指揮を執っていた将軍の顔面に、リボルバーの銃弾を撃ち込んだ。
自殺に失敗したマリアは憲兵隊に身柄を確保され、隊員達による激しい暴行と凌辱を経験した。
彼女の肉体には重大な欠損と後遺症が残ったが、マリアの気高い精神は汚されることはなかった。
裁判において社会革命党の主張と自身の意見を堂々と述べたことにより、マリアは反体制派のヒロインとなった。
当局はマリアの死刑執行が革命派に及ぼす影響を危惧し、やむなく判決を軽減する決定を下した。
マリアは極寒のシベリアに流刑となり、そこで11年を過ごした。。
解放されたマリアは、ペテログラードの社会革命党左派の中心人物となる。
臨時政府とソヴィエトの二重権力構造を否定し、ソヴィエトへの権力集中を支持。
社会主義革命を遂行するためには、社会革命党とボルシェヴィキとの緊密な連携が不可欠であると主張した。
党執行部に受け入れられないとみると同志と離党し、左翼社会革命党を結党した。
左翼社会革命党は10月革命を支持し、ポルシェヴィキとの連立政権を樹立した。
マリアは次第にボルシェヴィキの急進的な政治姿勢と、残虐なまでの暴力性に対する批判を強めた。
マリア自身が帝政との戦いの中でテロリズムという手法をとったのは、旧体制の暴力に対抗するためであり、政治的な敵対者を黙らせるためのものではなかった。
マリアは下級貴族の生まれだが、農村で生まれ農村で育った。
農村と地方に対する無知と偏見に基づく侮蔑に満ちたポルシェヴィキの農業政策は、彼女には看過しがたかった。
マリアはボルシェヴィキと戦うことを決めた。
「レーニンが死ぬまで黙っていた卑怯者」「北西軍がモスクワに迫ったから決起した」などという見当違いな批判は、何らマリアに痛痒を与えなかった。
例えロシア内戦がボルシェヴィキ優勢であったとしても、マリアは立ち上がっていただろう。
マリアはソヴィエト大会でボルシェヴィキを弾劾する声明文を発表し、党の支持者と共にモスクワで決起した。
それが反革命のブルジョアジー勢力による白衛軍の政治宣伝に利用される危険性を、彼女は十分に承知していた。
それでもマリアはヴェーチェーカーがレーニン暗殺への報復として、ペテログラードとモスクワで行った無差別な殺害を看過することは出来なかった。
『ヴェーチェーカーの銃口の前に流された血に、赤も白もありません』
『ですが彼らは私たちの命を奪えても、私たちの精神を汚すことは出来ません』
『自分自身の運命を決めるのは、貴方であり貴女です』
『貴女であり貴方が、自分自身の運命の創造主となれた時、私たちは無限の可能性を手に入れることが出来ます』
『そしてそれはヴェーチェーカーの銃口であっても、殺すことも、汚すことも、そして奪うことも出来ないのです!』
モスクワ市民に向けたマリアの明快かつ純粋な主張は、労働者階級だけではなく、彼女の政治的急進性に懸念を持っていたブルジョアジーの心を揺り動かした。
結果的に左翼社会革命党のモスクワ決起は失敗に終わり、マリア達はヴェーチェーカーに政治犯として収容された。それでもマリアの演説はロシア国内で広く報道され、国内外の社会主義者勢力の間でボルシェヴィキの孤立化を決定的なものとした。
1920年1月22日。モスクワの降伏によってロシア内戦は終結する。
各地のソヴィエトは解体され、マリアは忌むべきブルジョアジー勢力の軍勢により釈放された。
新たに政権を握った全ロシア臨時政府は新国家の憲法を制定するために、憲法制定委員会の設置を表明した。
最高執政官であるアレクサンドル・コルチャークが憲法制定議会議長に指名したのは、マリアをシベリアから釈放したアレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキーである。
そのため同委員会は「ケレンスキー委員会」と呼ばれた。
形式的には旧臨時政府下における憲法制定議会の復活であるという位置づけであったが、ケレンスキーは「非常事態」を理由に、委員12名を各政党及び政治勢力からの推薦を受けて、委員長である自分が指名する形を望んだ。
「すべての民族と、すべての宗教と、すべての思想を内在する偉大なロシアの再建」を掲げたケレンスキー委員長はあらゆる勢力を憲法制定会議に招いた。
その中には帝政派もアナーキストも、なんと旧ボルシェヴィキの理論家として知られたブハーリンすら含まれていた。
ケレンスキーから左翼社会革命党の代表として招聘されたマリアは、これを拒絶した。
「10月革命の精神と、大衆の民意に対する裏切りになる」という理由からである。