ナポレオン・ボナパルト(1769-1821)
ヤーシカは激怒した。
ヤーシカには政治はわからぬ。ヤーシカはノウゴドロの農村に生まれ、貧しさと貧困の中で育った。
ヤーシカは活動的な子供だった。
村の中では誰よりもよく働き、誰よりもよく笑い、そして誰よりもよく寝た。
元コサック兵の村の長老は、ヤーシカを「男であれば良い兵士となったであろう」と惜しんだが、兵隊は男の子がなるものだと思っていたヤーシカは真剣に受け止めなかった。
ヤーシカは無学であり、無教養であり、世間知らずだった。
けれども善良な両親に育てられたヤーシカは、他人の悪意というものに鈍感であり、だからこそ自分が経験したことがないものには一倍敏感であった。
ヤーシカは強い人間だった。
古代スキタイの女戦士もかくやというほど、肉体的にも精神的にも人並み外れた強靭さを秘めていた。
なのにヤーシカは、自分がただの農民の娘でしかないと本気で思い込んでいた。
ヤーシカは2回結婚したが、2度とも不幸な結末に終わった。
ヤーシカの夫達は、良くも悪くも普通の人間であった。
彼らはヤーシカの強さに耐えられなかった。
彼らはヤーシカの側にいるだけで、自分自身が矮小な存在であることを否応なしに突き付けられ、そして自分の自尊心を守るために事実を認めようとはしなかった。
1度目の亭主はアルコールに逃げ、2度目の亭主は賭博に溺れた。
ヤーシカは最後まで、男達が何に苦しんでいるのかを理解出来なかった。
ヤーシカがすっかり男というものに愛想をつかしたころ、大戦争が発生した。
素直で思い込みの激しいヤーシカも、ようやく自分は並大抵の男よりも強いのかもしれないと考えるようになっていた。
貧困と飢えの中で育ったヤーシカに死は身近なものであり、いかなる人間であっても死は避けられないものであり、そして一度しか死ねないということを知っていた。
かつて村の長老は、自分は兵士に向いていると評していた。
そして2回の結婚生活を経験したことで男であることが、女であることが、兵士の決定的な要素であるとはヤーシカには思えなくなっていた。
ならば自分自身を試してみよう。
子供の頃と変わらぬ、一途で頑固な考えに突き動かされたヤーシカは、商売道具の肉を切る包丁で髪を切り地元の軍隊に志願した。
ロシア各地の駐屯地や市役所で慌ただしく総動員体制への移行が進められる中、突如としてあらわれたヤーシカのことを、誰もまともに取り合おうとしなかった。
看護婦ではなく従軍を希望すると告げたヤーシカを「頭がおかしくなった気の毒な女」であると考え、彼女を医院か教会に連れて行こうとして事情を聞いた。
そして男のような髪型をした男か女かわからないヤーシカが本気であることを知ると、ほぼ全員が口を揃えてヤーシカの考えを否定した。
ある尉官は「悪いことは言わないから、考え直しなさい」と、聞き分けの悪い子供に説くようにヤーシカに語りかけた。
またある下士官は「恐れ多くも皇帝陛下の軍隊に女を入れられるか!」と激高して視線すら合わせようともしなかった。
正教会の従軍司祭は「神の定めた男と女の役割」なるものを説いて、ヤーシカを翻心させようと試みた。
口さがない古参兵は「亭主に逃げられて軍隊に逃げ込んできた女以上の男未満」であると悪し様に嘲笑した。
そして如何なる説教や罵倒や暴力も、ヤーシカを翻心させることは出来なかった。
らちが明かないとしびれを切らしたヤーシカは、
顔も見たことのない雲の上の存在ではあったが、皇帝が軍の最高司令官であることぐらいは、無学なヤーシカも知っていた。
驚くべきことに、ヤーシカの手紙は皇帝に届いた。
理想家肌で家族想い、そして優柔不断な皇帝陛下は、侍従武官を通じて詳細な説明を軍に求めた。
そしてヤーシカの悲惨な境遇を聞くと痛く同情したあと「帝国軍の伝統に反する」「軍規が乱れる」「諸外国から笑いものになる」といった軍高官の反対意見を押し切り、彼女の従軍を認めた。
ひょっとすると皇帝には、アレクサンドル1世時代の男装騎兵将校ナジェージダ・ドゥーロワのことが念頭にあったのかもしれない。
『祖国が私を必要としている!』
希望通り前線に配属されたヤーシカは、歓喜と共に前線に赴いた。
精神のリミッターが擦り切れていたが、あるいはそんなものは元々、このアマゾネスの中にはなかったものか。
とにかくヤーシカは水を得た魚のように、人並み外れた勇気を存分に発揮した。
ヤーシカは砲弾と銃弾が雨のように降り注ぐ中を走り抜け、塹壕と鉄条網を果敢に飛び越えた。
スコップで敵兵の腸を切り裂き、銃剣で相手の顔を串刺しにした。
乏しく不味く、時には腐ったジャガイモだけという食事に不平一つ洩らさず、あらゆるものが腐敗する臭いの混ざった不潔な塹壕の中で、平気な顔をして眠る事が出来た。
味方に対しては忠実で誠実で献身的、そして敵には容赦をしなかった。
ヤーシカは模範的なロシア兵士として表彰され、下士官から尉官、そして佐官へと異例の昇格を遂げた。
厳めしいヤーシカの写真は「勇敢なロシアの女兵士」として、内外の新聞で取り上げられるようになった。
かくして英雄となったヤーシカを、誰も正面から批判しなくなった。
その代わりに「男に逃げられたから死に急いでいるのだ」と陰口をたたくことで、自分たちの醜悪な感情を発散させた。
ヤーシカと彼女の所属する部隊は、ありとあらゆる嫌がらせの対象となり、戦友や上官ですらヤーシカを腫れものとして扱いした。
ヤーシカは怒らなかった。
何故ならヤーシカには、なぜ彼ら(あるいは彼女達)が、そんなくだらない事に貴重な時間を費やしているのか、そして自分と同じようになれないのか、どうしても理解出来なかったからである。
そして相手が、自分と同じように自分のことを理解出来ないでいる事を知ると、彼女は相手にすることをやめてしまった。
それが彼女の強さであり、彼女の弱さであることも、ヤーシカにはわからなかった。
皇帝陛下だけが、ヤーシカのことを気にかけ続けた。
皇帝はヤーシカが戦場で活躍したと聞くと大いに喜び、ヤーシカが負傷したと聞くと我が事のように悲しんだ。
だからヤーシカは心優しい陛下と御家族がイパチェフ館において残忍な方法で殺害されたことを聞くと、ボルシェヴィキの連中を抹殺することを誓った。
ヤーシカに復讐の機会を与えたのは、アレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキーであった。
臨時政府の軍の責任者として厭戦気分の蔓延による軍の士気低下に悩んでいたケレンスキーには「軍神ヤーシカ」の存在は歓迎すべきものであった。
ところがプロパガンダの広告塔にするつもりで面会したケレンスキーは、すっかりヤーシカの人間としての強さに惚れ込んでしまった。
教会のステンドグラスに神の存在を見出す農民のように、理性ではなく本能に訴え掛ける生物としての強さが、ヤーシカにはあった。
ヤーシカには新しいアイデアがあった。志願女性兵による「死の部隊」創設である。
男の弱さというものを理解出来ずにいたヤーシカが、そうした考えに到達するのは自然なことであった。
ヤーシカに指揮官としての素質を見出したケレンスキーは、くしくも皇帝と同じく軍高官の慎重論を押し切る形で、第一次婦人決死隊の結成を命令した。
政治というものがわからないヤーシカにとって、ケレンスキーが皇帝陛下を批判していたことも、ケレンスキーの掲げる軍の民主化もどうでもよかった。
男達の目線はさらに厳しくなり、嫉妬と攻撃はさらに激しくなったが、ヤーシカの国家に対する忠誠心は、逆境の中でさらに強まった。
クロスさせた骨に髑髏がデザインされた紋章を腕につけ、ヤーシカは自ら鍛え上げた兵士たちを前に「我々は戦って、死ぬのみ」であると宣言した。
ペテログラードから東部のスモルゴニに向かった彼女達は、勇敢に戦った。
ドイツ軍の攻勢を幾度となく撃退したが、援軍を得られなかったために最終的には勝利は得られなかった。
ヤーシカも負傷し、後方に送られた。
敗退後、ヤーシカ達はコルニーロフ将軍の「女を前線に立たせられるか」という意向により解散させられた。
生き残った第一婦人決死隊の隊員の一部は、10月革命において冬宮殿ボルシェビキと戦ったが、その多くが殺害され、あるいは生死を問わず強姦された。
ペテログラード市内の病院のベットに縛り付けられていたヤーシカは生き残った。
ヤーシカは部下を無残に殺害したボルシェビキ政権への協力を断固として拒否した。
「反革命罪」なる聞いたこともない法律を理由に逮捕されたが、ヤーシカは脱出した。
そして逃亡先で皇帝一家の虐殺と、ケレンスキーの逃亡成功を知った。
ヤーシカはケレンスキーに失望しなかった。
男というものはそういう生き物であるということを、2度の結婚生活で知っていたからである。
だからヤーシカは「ボリシェヴィキとの戦いを継続するためには、諸外国からの経済支援が必要」というケレンスキーの要請を受け入れ、生まれて初めて海外に渡った。
ヤーシカはアメリカの政府高官やイギリスの経済人を前に、自身の体験を語り、白衛軍に対する支持を訴えた。
ただ現地のフェミニストなる女性活動家が「婦人解放の象徴」として自分のことを持ち上げたことだけは、ヤーシカにはよくわからなかったが。
ヤーシカは義援金の小切手と共にロシアに戻り、コルチャーク提督傘下の一兵士として内戦を戦い抜いた。
内戦後もヤーシカは軍に残った。
もはや軍も、ヤーシカを手放そうとはしなかった。
相変わらず政治というものはよくわからなかったが、ヤーシカは再建された第一婦人決死隊を精鋭部隊とすべく、自己の研鑽と部隊の訓練に努めた。
それまで学ぶ機会を得られなかったヤーシカは、勉強とはこんなに面白いものであったのかということを初めて知った。
第一婦人決死隊は訓練も終わらぬ内から、各地で抗戦を続ける反政府勢力との最前線に投入された。
再編中の共和国軍は士気低下が著しく、そもそも政府から信頼されていなかった。
志願制による高い士気と規律を維持していた決死隊は、各地で目覚ましい活躍を見せた。
ボリシェヴィキ、旧帝政派、農民一揆。
ヤーシカ達はあらゆる敵と戦い、そして勝利した。
1924年のコルチャーク提督の反乱は、第一婦人決死隊の実力を内外に見せつけた。
モスクワ・ペテログラード鉄道の起点であるモスコーフスキー駅周辺の確保、及び海軍省の制圧を図るヤン・シロヴィー少将率いるチェコ軍団第3狙撃旅団の精鋭を相手に、ヤーシカ指揮の1個大隊はモスコーフスキー駅を死守した。
部隊の損耗率は8割を超え、ヤーシカを含めて無傷の兵は誰もいなかった。
駅前のズナメンスカヤ広場を埋め尽くした死体の山に、もはや第一婦人決死隊を「ケレンスキーの情婦」などという、下らない渾名で呼ぶ者はいなかった。
「ケレンスキーの猟犬」と畏怖されるようになった第一婦人決死隊は、ロシア軍における女性部隊の草分け的存在にもなった。
ヤーシカが鍛え育て上げた第一婦人決死隊出身の女性将校は、ロシア各地における新設の婦人部隊創設者として名前を残した。
いつしか「共和国軍の女性兵の母」と呼ばれるようになったヤーシカに、国内外の取材が押し寄せた。
ヤーシカは決まって『私は3回結婚しました』と答えた。
3度目とは、言うまでもなく共和国軍である。
夫も子供もいないヤーシカにとり軍隊こそが家庭であり、婦人部隊がヤーシカの子供であった。
自分に居場所を与えてくれたケレンスキーと共和国を護る事こそが、ヤーシカの生きる目標となっていた。
1936年の1月3日。休暇中のヤーシカ大佐は、珍しく晴れたペテログラード市内を悠然と歩いていた。
軍務のために離れて暮らす家族と久しぶりに会うため、何か土産でも買おうか。
甥っ子と姪っ子には食べ物がいいか、それとも玩具か絵本がいいか。
軍務の時には決して見ることのない優しい顔をして、ただ楽しいことだけを考えながら市内中心部に足を向けた。
軍人として研ぎすまされたヤーシカの感性は、市内の異変を見逃さなかった。
元老院議会前が騒がしいが、何か不測の事態でも発生したのか?
ヤーシカの足は自然と早くなった。
警官隊と野次馬の波をかきわけ、ヤーシカは顔見知りの大統領警護隊の隊員を見つけた。
ヤーシカは彼に何があったのかと問い質した。
隊員は職務上の秘密を理由に、首を横に振って回答を拒否した。
ヤーシカは片手で彼の首根っこをぐいっと持ち上げ、再び質問した。
隊員は猫の子供のように持ち上げられて苦しそうにしながら、あたりを憚りつつ答えた。
「大統領閣下が、暗殺されました」
マリア・レオンチエヴナ・ボチカリョーワ共和国陸軍大佐は隊員を放り投げ、そして駆け出した。
*
1933年-すなわちトランス・アムールの宗主国であり、後ろ楯である大日本帝国とロシアの国交が樹立された同年5月31日。ロシア共和国は、第4回統一地方選挙を実施した。
これまでの統一地方選挙と異なる点は、前年の憲法改正により首長選挙制度が導入されたことである。
それまで中央政府の内務省が任命していた州知事や共和国直轄都市を、地域の住民が選挙を通じて直接選ぶことが可能となった。
その中にはモスクワ、ペテログラードの2大都市を始め、ニジニ・ノヴゴロド、ヴャトカ、ノヴォシビルスク、ツァリーツィンといった重要都市も含まれていた。
そのため海外の政治学者やマスコミは、この統一地方選挙について「1921年の憲法制定会議において女性参政権の実現に尽力したケレンスキー大統領は、さらなる政治の民主化に舵を切った」英断であると称賛した。
とはいえその実態はロシア国民から言われせれば、ケレンスキーが1933年1月20日の就任演説で語った「ロシアはひとつ、共和国はひとつ」などという実効性の伴わないスローガンとは似ても似つかないものであった。
実際、1932年の憲法改正審議の過程でケレンスキーが存分に見せつけた悪辣な政治手法は、実に大統領選挙に向けた政局本位という点に関してだけは首尾一貫していた。
すなわち突如として憲法改正を提案したケレンスキー大統領は、首長選挙制度の導入を「帝政時代から続く中央集権体制の改革であり、民主ロシアの偉大なる一歩である」と主張した。
同時に自由主義者や社会主義者が求めていた懸案の大統領選挙や元老院改革には、一切手を付けなかった。
大統領を指名する元老院の多くは、旧帝政時代の貴族や保守派勢力が多数を占めており、穏健な自由主義者の「地方管区や州選出の議員を段階的に増やしていくべき」だという意見ですら「時期尚早」として拒絶した。
ケレンスキーの改憲の目的は、直ぐに明らかとなった。
『保守派を新たな支持基盤として取り込みつつ、ドゥーマにおいて自身への批判を強める自由主義者と社会主義者の連携の分断を図る』
水面下で進められていた政治工作は、大統領の「あまりにも急進的」な憲法改正案の最大の障壁になると思われていた元老院が圧倒的な賛成多数により承認したことで、俄かに具体化した。
これに慌てたのが、大統領選挙を前に反ケレンスキー姿勢を強めていたヴィクトル・チェルノフ首相である。
同じ社会革命党ではあるがケレンスキーの政敵であるチェルノフは、憲法改正が廃案になることを前提に、経済失政や農村問題で大統領に対する批判を強めようとしていたため、完全に後手へ回った。
社会革命党は改憲案の承認と反対で、すなわち右派と左派の党内抗争が再燃した。
ケレンスキーに通じる右派は改憲案と国民投票に賛成し、中間派は賛否を明らかにせず国民投票だけに賛成し、左派は改憲案と国民投票の双方に反対した。
第1党とはいえメンシェヴィキなどの協力で過半数を越えているに過ぎない社会革命党にとり、この党内政局は致命的だった。
1932年4月に第3次ヴィクトル・チェルノフ内閣は倒れ、後任にはカデット系の経済学者である中央銀行総裁のセルゲイ・プロコポビッチによる実務者内閣が発足した。
そして5月には国民投票により改憲案は、有権者の「圧倒的多数」の支持を得て可決された。
憲法改正の成功、および日本との国交回復(すなわちトランス・アムールとの事実上の停戦を意味する)に伴う対日貿易を期待する極東選出の議員の支持を得たケレンスキーは、1932年12月に元老院議会で行われた指名選挙において、第3代大統領に指名された。
そして1933年5月31日。第4回統一地方選挙が、ロシア各地で行われた。
通常、広大なロシア共和国では選挙結果が判明するまでには数日程度の時間を要する。
1921年でも、1925年でも、そして1929年でも、それは共通していた。
まして首長選挙制度が導入されて、初めての選挙である。
首長の当選確定までには1週間程度の時間が必要であろうというのが、大方の見方であった。
だが今回に限って言えば、多くの選挙管理委員会は選挙結果の確定を待たずに当選者を発表することが出来た。
モスクワ市長には、左翼社会革命党のマリア・アレクサンドロヴナ・スピリドーノワ。
ペテログラード市長には、ロシア国民共和党(NRPR)の元弁護士アレクサンドル・ビレンキン。
そしてヴャトカ市長には、ボリシェヴィキ右派の市会議員セルゲイ・ミローノヴィチ・キーロフ。
全てが2位以下の候補に圧倒的大差をつけて、初当選を果たした。
一連の選挙結果は、ペテログラード政界に巨大な衝撃となって襲い掛かった。
そしてその詳細が明らかになるにつれ、各政党の本部は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。
ボリス・サヴィンコフの最側近であるビレンキンが、暫定首都であるペテログラード市長、ボリシェヴィキの元革命家が、シベリア鉄道の重要結節点であり、中部の工業都市であるヴャトカ市長に当選したのも確かに驚きではあった。
だが、ロシア最大の人口400万を有する経済都市、そして帝政復古派やスラブ民族主義者の聖地ともいうべきモスクワ市長に、1920年の憲法制定会議への出席を拒絶して以来、10月革命の正統性を主張して反体制野党を貫いてきたスピリードノワが、現職のアレクサンドル・ゴリツィン市長を破って当選したのだ。
帝政復古派の金城湯池であるはずのモスクワが、元ロマノフ家皇女を妻とする名門公爵家の当主よりも、社会主義者の女闘士を選んだ。
帝政復古派にとり、これは致命的な敗北であった。
ケレンスキー体制に対する批判が高まっていることを承知していた各党にしても、この選挙結果は予想外であった。
有権者の反ケレンスキー感情というだけでは、この選挙結果は説明出来ない。
「政治的ゲットー」に閉じ込めていたはずの彼らに、民意が集まりつつあるのは明らか。
そして最も大きな政治的ダメージを受けたのは、自身が応援演説に入った現職のモスクワ市長が惨敗した大統領であろうという点で大方の見解は一致した。
モスクワ市長選挙の結果は、元老院のケレンスキーに対する消極的支持を揺るがしかねない大失点である。
各党はケレンスキー大統領との政治的距離を取り始めると同時に、元老院の支持を得られる次期大統領候補の物色を開始した。
選挙から一夜明けた6月1日。大統領と個人的に近い
レオニード・イリイチ・ブレジネフ報道官は、アレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキー大統領の声明文を、時折つまりながら読み上げた。
「今回の選挙結果は、ロシア政治に新たな風を吹き込んだもんで……です」
「何より『政治的なゲットー』などという、特定の党派を意図的に排除してるという、ロシアの民主主義に対するいわれのない批判が、いかに実態の伴わへん空虚なものであったのかちゅ……ということを、この選挙結果が証明しました」
「ロシアの民主主義の偉大な勝利であり、大統領として、大変喜ばしゅう感じ……大変喜ばしく感じておりま、す」
「新しゅう当選された方々と、ロシア国民のために働くことを楽しみにしてます。神さんの……失礼。神の御加護がロシアにあらんことを」
大統領府の記者団は呆気にとられた。
報道官の独特すぎるウクライナ訛りにではなく、声明文のどこにも大統領の政治責任に関して触れた部分がなかったからである。
まして普段、あれだけ政教分離の原則の重要性をもっともらしく主張する大統領が「神の御加護」とは?
ペテログラードのビレンキン新市長、そしてヴャトカのキーロフ新市長は、それぞれの持ち味を生かしつつ-すなわち前者は口汚く罵り、後者はユーモア溢れる言い回しにより大統領声明を批判した。
モスクワのマリア・アレクサンドロヴナ・スピリドーノワ新市長は、コメントを差し控えた。
マリアはかつて、ウラジーミル・イリイチ・レーニンが10月革命直後、得意げに話していた政治の要諦なるものを思い返していた。
『政治には道徳ではなく便宜だけが必要であることが証明された。ということは悪党というものは、悪党というだけで我々の役に立つかもしれない』
思えばそれがレーニンに対する失望の始まりであった。
そしてマリアは大衆を熱狂させる情熱を失ったかに見える老いつつある雄弁家の眼に、確かにイリノチと同じ悪党としての素質を認めた。
ゆえにマリアは、ケレンスキーを侮ることはしなかった。
それから2年半、アレクサンドル・フョードロヴィチ・ケレンスキーは、テロリストの銃弾に倒れるまで、政権を維持した。