「すみません、お先お風呂いただきました。楽郎くんも入りますか……って、あれ?」
暑さ厳しい夏もようやく終わりに向かい、日も短くなり段々と夜風が秋めいてきた、そんなある日の夜更け頃。
風呂上がりで寝巻き姿になった斎賀玲は、同居人兼、恋人である陽務楽郎の姿がリビングに見当たらないことに小首を傾げる。
テーブルを見ると先ほどまで彼が緑茶を飲んでいた湯呑みは既に片付けられている。寝室でゲームでもしているのだろうか。
そんな風に考えた玲であったが、ふと視線の端に違和感を覚えて部屋の真ん中で立ち止まる。
テーブルの上以外に何か変化がないか、部屋の中をぐるりと見回したところで、彼女はベランダに続く窓のカーテンが少し開いていることに気が付いた。
「……楽郎くん?こんなところでどうしたんですか?」
「あ、玲さん」
もしやと思ってベランダに出てみれば、そこではいつも通りのジャージとTシャツ姿の楽郎が空を見上げて佇んでいた。
玲が声をかけるまで彼女に気が付く様子もなかった辺り、随分と集中していたようだが何か面白いものでもあったのだろうか?
そんな玲の素朴な疑問は、楽郎が東の空を指差したことにより解決した。
「ほら、俺もさっき思い出したんだけどさ」
「あぁ、そういえば今夜はスーパームーンなんでしたっけ」
楽郎の指した先ではまるで夜空にぽかりと穴が空いたように、見事な満月が輝いている。
玲は都会の生活の中に訪れた風雅な景色に…そんな景色を愛する人と共に楽しむことが出来るこの幸福に相好を崩す。
「玲さんも良かったらこっちに来て一緒に…って、お風呂上がりだと湯冷めしちゃうかな」
「いえ、今夜は暖かいですし大丈夫ですよ。私もご一緒させてください」
さりげない楽郎の気遣いを擽ったく思いつつ、少しでも楽郎と共に居たい玲はそのままベランダに足を踏み入れる。念のためストールを羽織れば、夜風の冷たさも然程気にならない。
「……月が綺麗ですね」
それは、かの有名な文豪のエピソードにあやかったささやかな愛のメッセージ
とはいえ、こんな迂遠な告白は何気ない会話の1ページとして流されてしまうだろうと……そう、油断していたのだ。
「死んでもいいです……だっけ?」
「ら、楽郎くん!?」
「あれ?てっきりそういう意味かと思ったんだけど、俺の早とちりかな?」
「そっ!……それは、その……違いま、せん」
正鵠を射た楽郎の指摘に、気がついて貰えた嬉しさと気恥ずかしさが入り交じり、玲はたちまち赤面する。火照った顔に冷たい夜風が心地好い。
「というか、今玲さんと一緒に月を見ていて思い出したんだけどさ」
「な、なんでしょう…?」
ニヤニヤと、楽郎が人をからかおうとしている時特有の意地の悪い笑みを浮かべているのを見て、内心少し警戒しつつも玲は素直に返事を返す。
「リュカオーンの影と出くわす直前に突然死ぬとか言い出したのも、俺への愛の言葉だったり?」
「お、覚えてたんですか!?」
「……半分冗談だったんだけど、まさか本当にそうだったとは」
「!??ひどいです!カマをかけましたね!?」
当時は道を間違えたことへの詫び切腹宣言だと思っていたのだが、よくよく思い返してみるとあの時の自分はシャンフロの技術に感心するあまり「月が綺麗だ」なんてことを宣ったなぁと楽郎は数年前の出来事を回顧する。
それを踏まえれば、彼女の突飛な言動の訳も見えてくるというものだ。
「ねぇ、玲さん」
「……なんですか?意地悪な楽郎くん」
「おっとこいつは手厳しい」
つんとそっぽを向いた玲の姿に、少々からかいすぎてしまったかと苦笑混じりに楽郎は反省する。
しかしながらそんな彼女の耳は後ろから見ても分かるくらい朱に染まっていて、常にないその態度が照れ隠し故なのは楽郎にお見通しだった。
愛されてるなぁ、となんともこそばゆい感慨を胸に、楽郎はおもむろに背後から玲の首に腕を回し、ぎゅっと優しく抱き締める。
突然の楽郎からの接触に、玲の身体が一瞬びくりと跳ねたものの、特に抵抗を見せる素振りはない。
腕の中の彼女の体温が急上昇していくのを感じながら、楽郎は玲の耳元でそっと囁いた。
「──今夜は、月が綺麗だね」
「……あなたと見る、月ですから」