フルダイブVRを使用中の人間は酷く無防備だ。
電子の世界にダイブすると言えば聞こえはいいが、起きている現象を露悪的に言い表すならば脳に電流を流して強制的に昏睡状態を誘発していることになる。
フルダイブ中の人間は基本的に外界からの刺激を知覚することはできず、大声で呼び掛けられようと、体を揺すられようともそれを己の五感で感じ取ることはない。
勿論、そのような状態をフルダイブ技術の開発者達が想定していない訳はなく、現在市販されてる一般家庭用のVRシステムにはリアルとバーチャルの世界を繋ぐべく様々な対策が施されている。
ダイブ中の人間にリアルからコンタクトを取りたい場合は内蔵のカメラとマイク越しの連絡が可能である他、リアルの肉体に過度な接触があった場合はログアウト推奨アラートが出るようになっている等、昏睡状態を悪用しての犯罪を想定したシステムを組み込んである。
また、空腹や排泄、或いは体調不良など、肉体面で緊急な対応を必要とされる事態に陥った際には本人の操作を待たずして強制ログアウトが行われる。フルダイブ技術が元々は医療分野を中心に発展してきたという経緯に加え、過去に
しかしながら、残念なことにどれほど精巧に作られたゲームであってもバグや仕様の穴を利用するプレイヤーがいるように、VRシステムに於いてもハード面の改良だけではカバーしきれない問題は未だ存在する。
例えば、VRゲームのプレイ中に家に空き巣が入ったとしよう。
VRシステムによる警告機能が反応するのはあくまでもフルダイブ中の当人に異変が生じた場合に限られる為、住居に対する侵入には無力である。
最近発売された一部の機器では家の電子ロックと連動させて警告及び通報を行う機能の実装などがなされてはいるものの、それでも技術的な限界があるのが実情だ。
その他にも開発者達は幾つかの問題点を認識しつつも、未だに有効な解決策を見出だせずにいる。
(楽郎くん、今は何をしてるのかなぁ……)
このように、外部からの不正な侵入では無い、同居人からの接触を伴わない至近距離での観察には種々の既存の対策は全くの無力であった。
(あっ、今指が……ふふっ、誰かと戦っているんでしょうか)
フルダイブ中の楽郎の肉体をつぶさに観察する不審者……もとい、彼の恋人にしてルームメイトである斎賀玲は、楽郎の横たわるベッドの傍らに腰を下ろして実に穏やかな微笑みを浮かべていた。
只でさえ美人である玲が熱に浮かされたように頬を染めるその姿は、男であれば誰もが目を離せなくなるほどに魅力的であったが、幸か不幸か誰一人として目撃者は存在しない。
楽郎がこうしてゲームをしている時に彼の
(多分、あと二、三時間は戻ってこない……はず)
楽郎との同居を始めた当初こそログアウトのタイミングを見誤ったり、うっかり楽郎に接触し過ぎてしまって警告アラートを発生させてしまったものの、今では日常会話で得たゲームの進捗や楽郎の普段の様子から感覚的にログアウトのタイミングをかなりの高精度で見計らうことが出来るようになっていた。
ワゴンセールでレアなクソゲーを見つけたのだと、子供のようにキラキラと目を輝かせながら語っていたのが昨日の夕食の席でのこと。
大学の課題も軒並み終わらせ、万全の態勢でプレイに臨んでいたことからして今回のゲームは中々の大作と見える。
こういう時の楽郎は空腹や尿意などによるVRシステムの警告が出るまでインし続けていることが多い。
そんな経験則に則れば、今日は存分に楽郎の寝顔を堪能できると、玲は半ば確信していた。或いはそれは油断していたと言ってもいい。
(……あれっ、今ランプが光ったよう、な……?)
何事にも例外はあるのだという、そんな単純な事実をこの時の玲は完全に失念していたのだ。
「だぁー!クソッタレ!!」
おや、と玲が疑問に思ったのも束の間。電脳の世界から帰還した楽郎が、憤懣やるかたなしといった風に絶叫しながら勢いよく跳ね起きた。VRゴーグルを乱雑に取り、獣のように低く唸る姿はいつになく荒々しい。
日頃自分と話すときの穏やかな姿とはまるで別人なその様子に、玲は戸惑いと──それ以上のときめきを覚えていた。
(怒ってる楽郎くん……か、格好いい……!)
どこまでも色惚けした感想を抱く玲をよそに、楽郎は一人憤慨する。
ログアウトして尚、怒りが収まらないようで、彼は自らの髪を掻きむしりながら忌々し気に吐き捨てた。
「当たり判定バグってんだろあのクソボス……!」
どう考えても躱せていた筈の攻撃を食らい即死した不条理を思い出し、楽郎は苛立ち混じりに頭を振る……と、彼はそこでようやく傍らの玲の存在に気が付いた。
「って、玲さん!?」
「ふぁひゃいっ!!」
楽郎の驚きの声に、玲はびくりと身を震わせる。
彼女の内心は寝顔を覗き見ていたことがバレたのではないかという懸念が半分、怒りの余韻が残る鋭い眼光に射抜かれたことによる胸の高鳴りが半分だ。
一方で、そんな彼女の心情を知る由も無い楽郎は自分の大人げない姿を見られたことに気まずそうに頬を指で掻いた。
「見苦しいところを見せちゃってごめんね、いきなり叫んだからびっくりしたでしょ」
「いっ、いえ!そんなことは!」
「ところで……玲さんはどうしてここに?」
トマトのように顔を朱に染めた玲に、楽郎は素朴な疑問を呈する。
彼からすれば「何か用事があったのかな」程度の軽い気持ちでの質問だったのだが、やましいところのある玲は大慌てだ。
「そ、その、たまたま部屋に入っただけで……! 楽郎くんはどんなゲームしてるのかな、と思って……」
「う、うん」
「だからその……! 寝顔を見ていたのはあくまで不可抗力でですね……」
「……寝顔?」
「あっ」
語るに落ちる、とはまさにこの事。
己の失言に気付き頭から湯気を出しながらあうあうと言葉にならない弁明を繰り返す玲を見て、そういえば玲さんちょっぴりストーカ気質なところがあるんだよなぁと省みて、今現在の状況に鑑みて、楽郎は大凡の事態を正確に把握した。
「なるほど、つまり玲さんはゲーム中の俺の寝顔を堪能していたと」
「たんのっ!?」
犯行をずばり言い当てられた玲は言葉を失う。
慌てふためく彼女の様子を見て、楽郎はニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべて追撃する。
「え、もしかしてずっと?」
「ちちち、違います!?ほんのちょっとだけ、じゅ、十五分くらいです!」
「えー、ほんとに?」
「ええっと、その……もう少し、だけ、長かった……かも……」
「…………」
「……………………いちじかん、くらいです」
無言の圧に耐えかねて玲が白状する。
楽郎に気持ち悪がられ、嫌われてしまうのではないかという恐怖が玲の身を竦ませるが、次の瞬間彼女の耳に届いたのは、実に楽し気な楽郎の笑い声だった。
「……ぷっ、いやいや、玲さん俺のこと好き過ぎるでしょ」
「あ、あの……怒って、無いんですか?」
未だ赤みの引かない顔で恐る恐る玲が尋ねた。
楽郎はそんな彼女に呆れ混じりの、されど優しいまなざしを向けて答える。
「怒って無いよ、ちょっとびっくりしたけどね」
「ううう……すみません」
「まあ、俺もたまに玲さんの可愛い寝顔を見せてもらってるからおあいこってことで」
「ありがとうござ……待ってください、今何と?」
ほっと安堵の息を吐きかけた玲は、聞き捨てならない言葉を聞いて思わず聞き返す。
先程までとは別の理由で慌てる玲に対し、楽郎は事も無げに告げた。
「いや、一緒に暮らしてるんだからそりゃ寝顔くらい見たことあるよ」
「そ、それは……」
「朝起きて最初に見るのが玲さんの寝顔だと、幸せだなーって思ってるんだよ?」
「はうっ!?」
「あ、そういえばこないだこたつでうたた寝してた時、寝言で俺の名前を──」
「も、もう勘弁してください……!」
止まらない楽郎の口撃に、玲は顔を両手で覆ってくずおれる。
なんだかんだ、似た者同士お似合いの二人であった。