──最初は、いけすかない野郎だと思っていた。
◆
「は?姉貴帰って来てんの?」
社会人になって以来、多忙であまり実家に顔を出さない永遠が珍しく帰省しているのだと母に聞かされた久遠は、苦虫を噛み潰したような顔で声を上げた。
忌々しげな息子の様子を意にも介さず、母は無邪気に長女の帰還を喜んでいる。
「そうなのよー、あの子ったらもっと早く言ってくれれば、ご飯もっと色々用意したのにねぇ」
口では文句を言いつつも、顔に浮かんだにこやかな笑みが母の内心を如実に久遠に伝えていた。
どうやら永遠の帰省は自分だけでなく母にとっても寝耳に水だったようだ。
仕事の都合か、はたまた単なる気まぐれか。
どちらにせよ迷惑な話だ、と暴君の帰還によって束の間の安息が失われることに、久遠は内心で吐き捨てる。
そんな彼を更に苛立たせる
無言でスペアリブにかぶりつく久遠をよそに、上機嫌な両親は久しぶりの娘との会話に花を咲かせている。
「永遠、ご飯はちゃんと食べてるの?お仕事が忙しいのは分かるけど身体に気をつけてね」
「ありがとう、お母さん、これでも健康と体型には気を遣ってるから安心してよ」
カップ麺ジャンキーなどこかの誰かさんと違ってね、という言葉を喉の奥に飲み込んで永遠が微笑む。
その笑顔はカメラに向ける被写体としてのカリスマモデルとしての物とも、ゲームの中での魔王染みた物とも違う、自然体の実に優しげなものだった。
「それにしても、今回は随分急な帰省だったな」
「うん、実は先方の都合で撮影のスケジュールがぽっかり空いちゃってさ、せっかくだからたまには帰ろうかなって」
「そうかそうか、こっちにはいつまで居られるんだ?」
「えーっと、次の撮影が来週の火曜日だから──」
父からの問いかけに、永遠は箸を置いて指折り数えつつ考え込む。
とっとと帰ってくれ、という久遠の願いも虚しく、彼女は片手の指を全て折り畳んで口を開いた。
「月曜日までこっちでのんびりしようかな」
この答えには久遠のみならず、父と母も内心で大いに驚いた。
多忙な永遠の帰省はもっぱら日帰りか一泊二日、長くとも二泊するのが精々だったからだ。
喜びと嘆きで正反対ながらも同様の驚きに包まれる食卓で、彼女の異変に最初に気がついたのは母だった。
「……ねえ、永遠」
「んー?どうしたの、お母さん」
「あなた、もしかしてこっちに好い人ができたんじゃない?」
「ごほっ!?けほっ……そ、そうなのか永遠!?」
「……ちっ、アホくせぇ」
驚愕に咳き込む父とは対照的に、久遠は実に冷めたものだ。
あの姉が恋人?そんな筈は無いだろうと鼻で嗤う久遠がちらりと横目で彼女の様子を窺うと──
「んふふ、実は……そうなんだ」
弟である久遠が……否、この場の家族の誰もが未だ嘗て見たことがないほど幸せそうに、微かな照れを滲ませて微笑む永遠がそこに居た。
「…………は?」
それからはもう食事どころではない。
一体どんな人なのか、どこで知り合ったのか、いつから付き合っているのか……等々、父と母から矢継ぎ早に繰り出される質問の数々を、永遠は曖昧に笑ってあしらっていく。
とはいえ流石の彼女も実の両親には勝てないのか、或いは最初からそのつもりだったのか──恐らくは後者だろう──永遠は、今週末の土曜の夜、デートの帰りにそのまま天音家に渦中の恋人を連れてくると約束をして、その場をどうにか取り成した。
◆
そして迎えた土曜の夜。
娘が初めて恋人を連れてくるという一大イベントに、天音家の面々は大盛り上がりだ。
母は気合いを入れてご馳走を準備し、父もそわそわと落ち着き無く部屋の掃除をしている。
久遠もそんな両親の様子を馬鹿馬鹿しいと思いつつ、外に出掛けることもシャンフロにインすることも無く、リビングのソファでぼんやりと雑誌を眺めている。
口では散々悪態をついているが、それでもこれまで一切恋人を作らなかった姉の彼氏だ。
それが果たしてどんな男なのか、全く気にならないと言えば嘘になる。
そして太陽も彼方に沈み、アナログ風時計の短針が間もなく「6」を指し示そうかという頃。「ただいまー」と楽しげな声で永遠が帰宅を告げた。
「あなた、来たわよ!」
「わ、分かってる……母さん、服はこれでいいだろうか」
「…………チッ」
慌ただしく玄関に向かう両親に続いて、久遠も玄関に向かう。
モデル仲間か芸能人か、はたまたどこぞの若社長でもたらしこんだか。
そう身構えていた久遠だが、実際に永遠と共に訪れた男を見て、彼は衝撃に言葉を失った。
「は、初めまして……永遠さんとお付き合いさせていただいている、陽務楽郎と申します」
玄関に入って早々、緊張で身を硬くしつつも折り目正しく挨拶をしたその男は……成る程、見た目は悪くない。
絶世の美男子とまではいかずともそれなり以上に整った容姿と、ヒールを履いた永遠と比べても尚高い身長は、今をときめくトップモデルである彼女と並んで見劣りはしないだろう。
ファッションは……カジュアル寄りなマウンテンパーカーとワイドパンツでカジュアルに纏めつつ、ライトカーキとホワイトを主体として清潔感のある印象を与え、足元をレザーシューズで大人っぽく仕上げている。
さり気無いようでいてその実かなりハイレベルなコーデだが、遅くこれは
ともあれ、好青年然とした彼は客観的に見れば人好きのする部類の人間であろう……致命的な、ただ一点を除いては。
「えっと……ひ、陽務君……でいいかしら?」
「はい」
両親も久遠と同じ点が気にかかるのだろう。完全に硬直して使い物にならなくなった父の隣で、母がぎこちない愛想笑いを浮かべながらおずおずと口を開いた。
「その、失礼だけれど……随分と、お若いのね……?」
──そう、この陽務楽郎という男。姉の……
仮にこれがとびきりの童顔なのだとしても、せいぜいが大学生が関の山。
無意識のうちに歳上か同世代の恋人を想像していた久遠は驚愕にうち震えながら楽郎の言葉を待ち……返ってきた答えに絶句した。
「あー、その……今十七で、高二です」
十七歳。
つまりは未成年であり、久遠ともたった二つしか違わない。
それからも何やら両親と姉達は会話をしていたようだが、久遠はそれ以上彼らを視界に入れている事さえも耐え難く、楽郎や永遠と一言も会話を交わすことなく踵を返し、逃げ出すように自室に飛び込んだ。
◆
「あのクソ姉、何考えてやがるっ…!」
荒々しく部屋の扉を閉めながら、久遠はぼふりとベッドに身を投げ出した。
やり場の無い憤りが胸を満たし、血潮が沸騰したかのように熱くなる。
端的に言って、久遠は姉に失望していた。
日頃散々悪態を吐き、魔王だ悪魔だと悪し様に罵ってはいたが、それでもファッションモデルとして一角の成功を納めた彼女のことは、心の片隅で認めてはいたのだ。
それが何だ?多少は見目が良かろうが、酒の一つも飲めない歳の子供を誑かして能天気に惚気ている。
先の光景を思い返せば、あの男の服装は久遠もよく知る有名ブランドのそれだった。一介の高校生が誂えるには過ぎた代物だ。となればその提供者など、今更考えるまでもない。
曲がりなりにも家族の情を抱いていた人間が度し難い外道である可能性に、思春期特有の潔癖さを持ち合わせた久遠は心を千々に掻き乱されていた。
一体どれほどの時間そうしていただろう。
不意に部屋のドアをドンドンと乱雑に叩かれたと思えば、次の瞬間には久遠の返事も待たず、勝手に扉が開かれる。
「おいこら愚弟、お客さんが来てる時にその態度は無いんじゃないのー?」
荒れ狂う彼の内心を知ってか知らずか、永遠は極めていつも通りの様子で寝転んだままの久遠を見下ろす。
開け放たれたドアの向こうでは件の男が所在無さげに二人のやり取りを見守っていた。
その二対の視線が久遠を更に苛立たせる。
「けっ!クソ姉貴がどこのどいつを連れてこようが俺には関係ねぇだろ!」
「まったく、何がそんなに気にくわないのかねぇ……お姉様を取られて焼きもち妬いちゃったとか?」
「んだとこのっ……!」
いい加減、久遠は我慢の限界だった。
跳ね起きるようにしてベッドから降りて立ち上がると、彼は今にも掴みかかりそうな剣幕で永遠に相対する。
軽口の域を越えかねない剣呑な気配に、黙って事の推移を見守っていた楽郎も流石に慌てて二人の間に割って入った。
「ちょ、ちょっと落ち着こう!」
「……はっ!ご立派なナイト様だなぁ?」
永遠を背に庇うようにして久遠と向き直る楽郎を、苛立ちと哀れみを籠めて皮肉げに嘲笑う。
楽郎越しに見える永遠がいつものようにニヤニヤとした悪い笑顔を浮かべつつ、仄かに頬を染めているのが久遠には心底気持ち悪かった。
「……見てくれに釣られたのか知らねえけど、悪いことは言わないからこいつは止めといた方が身のためだぞ」
それは、姉への嫌がらせが八割、目の前の男への憐憫の情が二割程の割合でブレンドされた久遠なりの捻くれたアドバイス。
とはいえ、その助言が素直に受け入れられるとは久遠は思っていなかった。恋人を悪し様に言われればそれがたとえ恋人の身内であれど良い顔をしないだろうという常識的な判断が故だ。
姉を悪く言うものではないと窘めるのか、或いは直情的に憤るのか。
どちらにせよ反感を買うであろうという久遠の予想に反して、楽郎が返した反応は同意だった。
楽郎は胸の前で腕を組むと、心底同意するように頷きながら口を開く。
「いやまあ、俺も未だに何かの罠じゃ無いかとは思うんだけども」
「もー、ラク君ってば酷いなぁ」
「お前は今までの己の所業を指折り数えてみろよ」
「……な、なんなんだお前ら?」
あっけらかんとした調子で交わされる楽郎と永遠の会話に、久遠は怒りをトーンダウンさせて困惑する。
てっきり永遠が外面の良さを悪用して騙くらかしているのだろうとばかり思っていたのだが、この様子だとどうやら楽郎は姉の本性を承知の上で付き合っているらしい。
「ん?ちょっと待てよ、今『ラク君』って……?」
陽務『楽』郎だから『ラク』君。
特に違和感は無い筈のその呼称に、久遠は奇妙な既視感を覚えた。
ここでは無いどこかで、その名を聞いたことがある。そんな疑問に対する答えは、当のラク君本人から告げられた。
「なんというか……お互いペンシルゴンには苦労させられるな、オルスロット君よ」
「────はぁっ!?」
今度こそ、
天音永遠がアーサー・ペンシルゴンであり、天音久遠がオルスロットであるという事実を知る人間は姉を含めても指折り数えられるほどしかいない。その上、楽郎の口振りからは単なる伝聞ではない、不思議な馴れ馴れしさを感じさせた。
一切取り繕う様子の無い姉の姿に、こちらを知っているかのような楽郎の態度。久遠の理解を越えた現状に幾つもの疑問が脳裏を過り……数瞬の後、ふと気付く。
陽務楽郎。
楽郎。
ラク君。
──サン
「お、お前……まさか!?」
「あー、気付いちゃった?」
てへぺろ、と効果音が付きそうな白々しい顔で永遠が宣う。
そんな彼女に追随するように、苦笑しながら楽郎が口を開いた。
「
「…………」
「……ってことで、改めてよろしく、
「……………………嘘だろ?」
開いた口が塞がらないとはまさにこの事。数十秒の沈黙の後、久遠は辛うじてそんな一言を絞り出す。
いったい何時からそんな関係だったのだとか、ゲーム内のアレソレを知っていて付き合うとはお前ら正気かなど、様々な疑問が浮かんでは言葉にならずに宙に消える。
最早久遠の脳内からは二人の歳の差などという些事は吹き飛んでいた。
いけすかない姉貴の恋人がいけすかないプレイヤーだった、ただそれだけの面倒極まりない現実を、久遠は受け止めきれずにいて──
◆
──そして、幾ばくかの月日が流れたある日のこと。
放課後、未だ真新しい
を出していると、背後からここ数ヶ月ですっかり慣れ親しんだ声をかけられた。
「あれ、久遠も今帰りか?」
「……うす」
振り替えると、そこに居たのは予想の通り今は三年生の先輩でもある楽郎だ。
一年生の久遠と三年生且つ受験生の楽郎では時間割も異なるのだが、この日はたまたまホームルームの終わりが一緒だったらしい。
親しき仲にも礼儀あり、とでも言うかのようにぺこりと改まって礼をする久遠を片手で制し、楽郎も隣で靴を履き替える。
特に深い理由は無くとも肩を並べて帰路を共にする程度には、二人の仲も縮まっていた。
「高校にはもう慣れたか?」
「ぼちぼちっすね、宿題はめんどくせーけど」
「あー、うちの学校緩いようでいてその辺きっちりしてるからなぁ」
「そういえば、うちのお袋がまた晩飯食いに来ないかって言ってたっすよ」
「うーん、気持ちは有難いけどあんまり行ったら迷惑じゃないか?」
「こっちから誘ってるんだから別に気にしなくていいっしょ」
初対面の時の気まずい空気が嘘のように、楽郎は天音家に馴染んでいた。
今ではこうして永遠を抜きにしても度々家の食事に誘われるほどだ。
そんな他愛もない会話を交わしながら、帰り道も半ばを過ぎた頃、不意に久遠の端末がメッセージの受信を告げる。
「ん、メールか?…………げっ」
「どうした、何かあったか?」
端末の画面を見た途端に苦虫を噛み潰したような顔をする久遠に、心配と興味が入り交じった様子で楽郎が尋ねる。
先にネタばらしをすると、久遠の端末に来たメッセージは姉の永遠からのシャンフロ内への呼び出しだ。
阿修羅会を崩壊させた張本人がどの面下げて呼びつけてやがると思いはするが、それでも逆らいきれないのが弟という立場の辛いところである。
久遠はせめてこの姉の横暴さを、彼女の恋人である楽郎にリークしてやろうとして……ちょっとした意趣返しを思い付いた。
「いや、なんでもない」
「なんでもないにしては随分苦々しい顔をしていたが」
「細かいことはいいんすよ、それより、ちょっとじっとしてて貰えます?」
「へっ?」
頭に疑問符を浮かべつつ、言われた通りに足を止めた楽郎に久遠は近付くと、カメラをインに設定してパシャリと一枚の写真を収める。
「これでよし……っと」
「よく分からんが、もう動いていいのか?」
「はい、ところで今日ってこれから空いてます?」
「今日は軽く勉強してから適当にゲームするくらいだから空いてるっちゃ空いてるが」
「実は前から気になってたラーメン屋があって、一緒に行きません?」
「おっ、いいな」
「決まりっすね……すんません、ちょっと連絡入れます」
「俺も家にメールしとくわ」
楽郎が端末を操作する傍らで、久遠も簡潔なメールを送る……もっともその相手は親ではなく、遠く離れた都心に住む姉であるが。
【悪い、
楽郎とのツーショット写真を添付されたそのメールを見たペンシルゴンが、それはもう酷くご立腹だったと蛇の林檎でオイカッツォから聞かされるのは、それから数時間後のことだった。