蝉時雨を耳にすると、あの真っ白な病室を思い出す。
締めきった窓の外から微かに聞こえる蝉の声、病院の中庭で嗅いだ夕立の匂い、空調の効いた部屋で食べるスイカを模した氷菓子の冷たさだけが、当時の私に与えられた「夏」の全てだった。
あの頃の私は今よりずっと病弱で、空気が良いと評判の町に引っ越したあとも度々体調を崩しては入退院を繰り返していた。
そんな体では日本の夏の暑さは厳し過ぎたから、小学校低学年のころの夏休みはそのほとんどを病院や自室のベッドの上で過ごしたものだ。
(そっか、今日はお祭りだっけ)
代わり映えのない日常の中、すっかり顔なじみになった看護師さんとの会話で初めてその日近くの公園でお祭りがあったことに気が付いた。
と言っても実際に行ったことの無い私にとってのお祭りとは、テレビやネットで伝え聞いたものでしか無かったけれど。
(…行ってみたいなあ)
遠く聴こえる祭囃子と子供たちの笑い声に憧れて、焦がれるように手を伸ばす。
だけど虚しく宙を彷徨う手のひらに、心はすぅっと冷たくなった。
両親に余計な心配を駆けたくないという一心で普段は努めて平気なふりをしていたけれど、同級生たちの元気な姿を羨んで一人枕を濡らしたことも一度や二度ではない。
野原で全力で追いかけっこをすることも、プールでぱしゃぱしゃと水飛沫を上げることも、浴衣を着て誰かと一緒に花火を見上げる事さえも、あの日の私にはその全てが遠い遠い夢だった。
◆
夕暮れに染まる街の中、ひぐらしの鳴き声に引きずられるようにして昔のことを思い出してなんとなくしんみりしてしまう。
とはいえそれも過ぎ去ったこと、これからせっかく
すると、交差点の向かい側の雑踏の中に私の待ち望んだ人物の姿があった。
どうやら向こうもこちらに気が付いたようで、片手で浴衣の袖がずり落ちないよう押さえつつ、ぶんぶんと手を振りながら駆け足気味に横断歩道を渡ってくる。
浴衣など現代社会で着慣れているようなものでもないはずなのに、一つ一つの動作までもが不思議と絵になっているのは流石の読者モデルといったところだろうか。
「紅音!遅くなってごめん!」
「わわっ!?気にしないで瑠美ちゃん!それよりその浴衣とっても可愛いね!」
「ううう…紅音がいい子過ぎる…ありがと、紅音も浴衣姿似合ってるわよ」
「えへへ、そうかな?」
出会い頭でパンッ!と乾いた音を立てて両手を合わせたかと思えば綺麗に直角に腰を折り曲げて謝る瑠美ちゃんを慌てて制する。
お気に入りの赤とんぼの絵柄の浴衣が褒めてもらえたのが嬉しくて、見様見真似でモデルさんのようにくるりとその場で身を翻してみると、何故か瑠美ちゃんは片手で目元を覆いながら天を仰いだ。
「嗚呼、本当に可愛いわ…こんな子が何でうちの馬鹿兄を…」
「瑠美ちゃん?」
「ほら!女の子が着飾ってるんだからちゃんと感想を伝える!大体おにいちゃんがジャージで家を出ようとなんてしたから着替えで遅くなったんだからね」
「それは悪かったって…」
これまで瑠美ちゃんの後ろで私達のやり取りを見守っていた彼が、右手で頭をかきながら一歩前に出る。
「着替えてきた」という瑠美ちゃんの言葉の通り、彼はいつも見慣れたジャージ姿ではなく男物のシンプルな浴衣を羽織っていた。
「あー、その、なんだ…浴衣姿も可愛いと思う」
「ありがとうございます!楽郎さんもとっても恰好いいです!」
「お、おう…ありがとう…」
照れ臭そうに、だけどはっきりと彼の口から「可愛い」と言ってもらえた喜びで緩む頬もそのままに素直な言葉を彼に告げる。
ちらちらと互いに視線を向け合う私たちを見て、瑠美ちゃんはわざとらしく咳ばらいをした。
「オホン…あのー、お二人さん?私もいるって忘れてない?」
「HAHAHA、可愛い妹を忘れるなんてそんなまさか」
「おにーちゃん?」
「二人は仲良しさんですね!」
「…紅音が楽しそうならまあいっか」
「そうだな…っと、そろそろ移動しようぜ。花火が始まると一段と混み始めるし」
「はい!わかりました!」
今日は近所の神社のお祭りの日。
私はいちご飴や綿菓子の甘さに想いを馳せながら、カランコロンと下駄を鳴らして歩き出した。
(早く行きたいなぁ)
遠く聴こえる祭囃子と子供たちの笑い声に憧れて、焦がれるように手を伸ばす。
そしてしっかりと繋がれた手のひらに、心はかぁっと温かくなった。
「ほら、はぐれるといけないからな」
「あ、おにいちゃんずるい!私反対側もーらいっと」
「わぁ!これがいわゆる両手に華って奴ですね!」
「なんかちょっと違わないか…?」
「端から見たらおにいちゃんが両手に華よね」
大好きな友達と大好きな恋人に囲まれる幸せを噛みしめて、茜色に染まる夕空を見上げる。
──私の夏は、まだ始まったばかりだ