◇温もりと、微睡みと
人間、生きていればほんの些細なことで傷つくこともある。
夢見が悪かった、いつもの電車に乗り過ごした、欲しかったゲームを買い逃した等々細かく理由を上げていけば枚挙にいとまがない。
それは誰もが同情するような重大な事件から、他人から見れば「なんだそんなことか」と言われるようなことであっても当人にとっては大事、なんてことまで実に様々だ。
「あ、あの…!ら、らくっ!?ひやっ!!?」」
長々と何が言いたいのかと言うと、俺は今ちょっとした不運が重なったことで深く傷つき、そして大いに嘆き悲しんでいた。
「ああああ、あの、らく、らくろうくん!?その、それとこの状態はいったい何のご関係が…⁉」
黙って。俺は玲さんの言葉を遮ると、彼女のお腹に回した腕にぎゅっと力を籠める。
こたつと俺に挟まれる形で拘束された玲さんはクソ回線でプレイ中のオンゲーのようにカクカクと身動ぎしていたが、俺が梃子でも動かないことを察すると脱力して俺にもたれ掛かってきた。高めの体温と柔らかな感触が心地よく、ささくれ立った心が癒えていくのを感じる。
「……その、怒ってます?」
怒って無いよ。俺は本心からそう答えた。
そう、別に怒ってなんかいない。
三日間ぶっ続けで周回しても目当ての素材が手に入らなかったことも、玲さんが実家の用事で家を空けていて寂しかったことも、帰ってきた玲さんが一発でその素材を引き当てたことも、何も怒るような事ではない。
ただそれはそれとしてもうしばらくこのままでお願いします。俺は彼女の肩に顎を乗せ、囁くようにそう告げた。
「ひゃいっ⁉あの、そのですね⁉嫌という訳では無いんですがせめて先にシャワーを…!」
ますます体温を上昇させた玲さんが湯たんぽみたいに温かい。
シャンプーもリンスも同じものを使っている筈なのに、彼女からは不思議と安心する甘い香りが漂ってくる。
わたわたと慌てる愛しい恋人の存在を腕の中に感じながら、三徹で疲れ果てた俺の意識は次第に闇へと沈んでいった。
◇やまなしおちなしよもやまばなし
「ふわぁ…これ、暖かいですね……」
こたつの魔力に囚われた玲さんがふにゃふにゃに溶けていく。
いや、便秘ではあるまいし現実で人体が溶けるなんて事態が起きるはずも無いのだが、そう表現するのが相応しい程に今の彼女はふやけきっていた。
外では意外とキリっとしている玲さんのそんな気の抜けた姿はとても愛らしくて、この光景を独占できる贅沢に、胸の裡からひっそりと独占欲めいた喜びの気持ちが湧き上がる。
「寝ちゃいそうになるよね。あ、玲さん蜜柑とって」
「て、手が……」
俺はそんな内心は秘めたまま、努めて平然とした顔を意識して日常的な会話を交わしていく。
玲さんの背後にある蜜柑箱を指してお願いするも、どうやらこちらからの目算よりも遠かったらしい。玲さんは目いっぱい手を伸ばして蜜柑を掴もうとしているものの、ぷるぷると震える指先はあと一歩のところで届かない。
「頑張らないでこたつから出ればいいのに」
「人間……っ成せばなるんです…!と、届きました」
意地でもこたつから出ようとしない玲さんを姿を見かねての俺の言葉に、これからユニークモンスターに挑まんとするほどの気迫を滲ませながら玲さんが応える。
いや、届いたと言ってもかろうじて人差し指と中指が引っかかったくらいでどうやって……って、えっ!?
「段ボールごと指先の力だけで引っぱって!?……こう言っちゃなんだけど、玲さん段々お行儀が悪くなってない?」
玲さんがおしとやかな見た目に反して意外とパワフルガールなのは重々承知していた。だけどその力をこうも無駄遣いするような人では無かった筈だ。
「い、言わないでください……。実家にはこたつは無かったんですけど、とてもいいものですね」
恥じらいながらも完全にこたつの住人と化した玲さんはその場から全く動く気配を見せない。こたつの一辺を終の棲家にしてしまいそうな様相だ。
「根っこが生えているかの如き見事な寛ぎっぷり……まあ、気持ちは分かる」
とはいえそれは俺も同じこと。俺は玲さんが引っ張ってくれた段ボールから蜜柑を一つ取り出して、
「ルーズなのはいけないと思ってるんですけど」
「どうせここには俺しかいないんだし、たまにはだらけてもいいんじゃない?あ、玲さんも蜜柑食べる?」
「ルームシェアしてる相手には今更ですよね…………楽郎君の意地悪」
会話の途中で不自然に数瞬の間を開けて玲さんが言葉を返す。
ふふふ、残念ながら
「瑠美にも昔そう言われたなぁ……はい、皮剥いといといたからこれあげる」
「~~!ルール違反!ルール違反じゃないですかこれ!?」
差し出された蜜柑をしっかり食べつつも、ついに限界がきた玲さんが抗議の声を上げる。
ごめんね、勝負は非情な物なんだ。
「玲さん、ルールは予め決めておいた通りだよ。つまりこれは合法です」
「……ずるい!それでもやっぱり何かズルいです!」
「隙を見せた方が悪いんだよ。さて、こたつの温もりは惜しいけどそろそろ出ないとまずいかな」
卑怯汚いは敗者の戯言……なんて言葉は喉の奥に飲み込んだ。カッツォやペンシルゴンと違ってまともな感性を有する彼女にそんな暴言を吐くのは流石の俺でも憚られる。
こうして玲さんと他愛もない会話を交わすのは楽しいけれど、時計を見ると間もなくタイムアップだろう。
俺の視線に釣られるように玲さんも壁に掛けた時計を確認して、驚きの声を上げた。
「なんでです、か…!?えっ、もうこんな時間!?」
あっ。
「……………3、2、1、はい、玲さんアウトー!」
「……?ああっ!」
驚きでつい今自分たちが何のゲームをしているかを忘れてしまったのだろう。
とうとう『ん』で会話を終わらせてしまった玲さんが一拍遅れて自らの敗北を悟った。
「ふっふっふ、油断したね玲さん…さて、それじゃ約束通り、しりとりで負けた方が今日の夕飯の買い出しに行くってことで」
「ううう……『る』ばっかりはズルいですよぉ」
「これも戦略の内だよ……まあでも、随分暗くなってきことだしやっぱり俺も一緒に行くよ」
「!ふふっ、ありがとうございます。今夜は温かいお鍋にしましょうか」