徒然なるインベントリア:シャンフロの小話   作:イナロー

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楽郎と紅音の海デート小話。

……と、それを目撃した紅音の同級生モブのお話。


茜さす陽は照らせれど/ぬばたまの恋

《茜さす陽は照らせれど》

 

 

 燦燦と照り付ける太陽の下、持参したシャベルで砂浜に深めの穴を掘ってビーチパラソルを突き立てる。今日も30度越えの真夏日であるが、直射日光を遮ってしまえば幾分暑さも和らいだ。

 学生は夏休みに突入したこともあり、平日の昼間にも関わらず人の出はそれなりに多い。周囲を軽く見回すと、場所取りのパラソルとビニールシートで海岸がカラフルに彩られていた。

 

(紅音は……もう少しかかりそうかな) 

 

 海の家の更衣室に着替えに行った紅音は未だ姿を見せない。

 横着して最初から海パンを着込んできた俺と違い、女の子の身だしなみとは時間がかかるものだ。

 長年瑠美に付き合わされてそのことを重々承知していた俺は、特に不満に思うことも無く、スポーツドリンクで喉を潤しながら彼女の訪れを気長に待つ。

 寄せては返す波の様子を見るともなしに眺めていると、頭には自然と紅音のことが浮かんでくる。

 

(……そういえば、紅音とはプールや海にはまだ来たこと無かったっけ)

 

 あの雪の日の衝撃的過ぎる初対面から短くない時間を彼女と過ごしてきたが、去年の夏は紅音と瑠美の受験勉強に集中していたこともあり、本格的なレジャーとは無縁だった。

 特に紅音は受験対策のみならず、中学最後の大会に向けての合宿などもあったため夏休みなど有って無いようなもので、体育の授業以外では久方ぶりの海水浴らしい。

 色々とサイズが合わなくなったこともあり、瑠美と共に先日水着を新調しに行っていた。

 瑠美曰く、『んふふー、我ながら渾身のコーディネート!期待していいよ、お兄ちゃん……あ!ちゃんと紅音に感想伝えなきゃダメだからね!!』とのことだ。

 カリスマモデル譲りの邪教徒(我が妹)のセンスは今更疑うべくもない。いやが上にも期待は高まる。

 可愛い恋人のまだ見ぬ水着に想いを馳せながらビーチに佇んでいると、待ち望んでいた快活な声が俺の耳に届いた。

 

「お待たせしました楽郎先輩!遅くなってすみません!」

「お、来たか紅音。それほど待ってないから気にすんな……って、あれ…?」

 

 邪な期待を内に秘め、努めて平静を装いながらその呼びかけに振り返る。

 お約束のようなやり取りに内心むず痒さを覚えたものの、予想と少々違った紅音の姿に思わず疑問の声が漏れる。

 紅音の水着がお洒落や可愛さというものより機能性を優先したような、ハーフスパッツタイプの競泳水着だったからだ。

 別にそれが彼女に似合っていないということは無い。寧ろそれは溌溂としたな紅音のイメージにぴったりで、小麦色に日焼けした肌とも相まって、実に健康的な魅力に溢れていた。

 しかし、瑠美があれほど自信たっぷりに豪語していた割には些かお洒落度が薄い気が……?

 

「あ、あの……どこか変でしょうか?」

「ああいや、そんなことは無いよ。スポーティな感じで元気な紅音に良く似合ってる」

「……えへへ、ありがとうございます」

 

 俺の反応が芳しくなかったせいか、紅音が不安気な上目遣いで尋ねてくる。

 それに慌てて首を横に振り素直な感想を告げてやると、ほっと安心したように紅音がはにかんだ。

 ……なんだろう?今、一瞬変な間があったような……?

 彼女の反応に若干の違和感を覚えたものの、次の瞬間にはいつも通りの紅音がそこにいた。俺の気のせいだろうか。

 

「さて、それじゃ軽く準備運動したら早速泳ぐか!」

「あっ!ちょっと待ってください!私日焼け止め塗らなくちゃ!」

「了解…っと、そういや俺もまだ塗ってないな。危うく瑠美に怒られるところだった」

「あはは、瑠美ちゃん美容に関しては厳しいですからね。私も今日はちゃんと忘れず塗るようにって、口を酸っぱくして言われちゃいました」

 

 苦笑しながら紅音が防水使用のハンドバッグから取り出した日焼け止めには見覚えがある。というか俺が瑠美から押し付けられたものと同じだ。

 別にちょっとくらい焼けてもいいって言ってるのに、男も日焼けを甘く見るなってうるさいからなぁ……

 面倒臭さはあるが妹様に逆らうと後が怖い。自分の日焼け止めを取り出そうとしたところで、俺の手首を紅音の手がそっと掴んだ。

 

「紅音、どうかしたか?」

「あの!その、ちょっとお願いがあるといいますか……」

「なんだ?俺に出来る事なら何でも言ってくれ」

「その、ですね……自分だと背中側がうまく塗れなくて。だから先輩!私に日焼け止め、塗ってもらえませんか……?」

 

 頬を赤らめ恥じらいながらそう告げる紅音に、俺は一瞬で胸を撃ち抜かれた。

 なんだこの可愛い生き物!?

 

「……………分かった、俺でよければ」

「楽郎先輩、なんかものすごく眉間に皺が寄ってますけど、嫌なら無理にとは」

「嫌じゃない、嫌ではないんだ……!だけどゴメン、ちょっとだけ心の準備をさせて欲しい」

 

 ……ええい、消え去れ脳内ディープスローター!恨むぞナッツクラッカー!

 かつて暗記してしまう程に繰り返し聞かされたAVタイトルの数々のせいで、本編を見たことが無いにも関わらず現在のシチュエーションから始まるあれこれを想起してしまい、ナニがとは言わないが非常によろしくない。

 瞬く間に煩悩に溢れかえった俺の脳をリセットすべく、雄大な海を見つめて深呼吸をして昂る精神を落ち着かせる。

 不思議なものを見る目をした純粋な紅音の視線が胸に痛かった。

 

「……よし、もう大丈夫だ。塗るからそこに横になってくれ」

「はい!よろしくお願いします!」

 

 パラソルの下に敷いたレジャーシートを指差すと、紅音は素直にそこにうつ伏せに寝転んだ。

 俺は紅音の傍に膝をつき、手のひらに日焼け止めを出す。ひんやりとしたジェルの感触が夏の熱気で火照った体に心地よい。

 軽く手の上で日焼け止めを伸ばし、やや広めに素肌が露出している背中部分から塗り始める。

 

「ひゃっ!?」

「悪い、くすぐったかったか?」

 

「い、いえ……大丈夫です!」

「そうか?紅音がそう言うなら…」

「はい、続きをお願いします……んっ、………ふぁっ」

「………………」

 

 吐息に混じって聞こえる声を必死で意識から外しつつ、彼女に日焼け止めを塗っていく。

 背中から肩、肩から首と上半身を一通り塗り終わると、次は脚だ。

 正直この辺は自分で塗れるのではと思わないでもないが、切なげな声で「駄目…ですか?」などと言われては俺に断る選択肢など存在しなかった。

 よく鍛えられたふくらはぎは張りのある弾力で俺の指を押し返しつつもすべすべとした滑らかな感触を伝えてきて、余計なことを考えないように必死だ。

 理性と精神をゴリゴリと削りながら日焼け止めを塗り終わると、ぐーっと体を伸ばしながら紅音が起き上がった。

 

「ありがとうございました!……楽郎先輩、なんだか日焼け止め塗るの手慣れてませんか?」

「まあ、瑠美に散々やらされてきたからな」

 

 両親の趣味の関係上、陽務家では野外に連れ出されることが非常に多い。

 そんな中で日焼けを気にする瑠美のスキンケアに俺が付き合わされるようになるのは半ば必然だろう。

 

「むぅ、瑠美ちゃんがちょっと羨ましいです…」

「妹に嫉妬されても……」

「妹でもなんでも羨ましいものは羨ましいんです!」

「そういうもんか」

「そういうもんです」

 

 可愛らしくも理不尽な嫉妬で紅音がぷんすことむくれている。

 口では呆れたように話す俺だが、内心ちょっと嬉しいのは内緒だ。

 

「でも、今日は私が楽郎先輩を独り占めですからね!」

「お手柔らかに……それじゃ、気を取り直して海に入るか!」

「はい!」

 

 不満気な表情から一転、輝く笑顔を咲かせた紅音が声高らかに宣言する。

 それに微笑ましい気持ちになりながら、俺は紅音と手を繋いで海に向かって駆けだした。

 

 

 それからはビーチボールでラリーをしたり、

 

「とうっ!」

「なんのっ!」

「おりゃーっ!」

「うおおおっ!……くそっ、届かなかったか」

「えへへ、私の勝ちです!」

「流石陸上部期待のエース、砂浜でよくそこまで走れるなぁ」

 

 沖まで二人で競争したり、

 

「よしっ、今度は俺の勝ち!」

「ううう……負けました…」

「ふっふっふ、泳ぎに関しては一日の長があるからな!……ヒラマサに釣られて鍛えられたり」

「わあ!楽郎先輩すごいです!」

「いや、ツッコミ待ちだったんだけど……ありがとな」

 

 海の家腹ごしらえをしたりしつつ、夏を全力で満喫した。

 

「いただきます!らーめん、美味しいです!」

「海の家の食い物って安っぽいのになんか妙に旨いよな」

「はい!それに今日は楽郎先輩といっしょだから、いつもよりもっと美味しいです!」

「お、おう……俺のカレーちょっと食う?」

「いただきます!あー…」

「あ、これ俺が食べさせる流れ?……はい、あーん」

「もぐもぐもぐ……ごちそうさまです!」

 

 

 楽しい時間は瞬く間に過ぎていくもので、青かった海と空も既に茜色に染まり始めていた。

 周りの人々も徐々に撤収を始めていて、昼の賑やかさから一転して物静かな雰囲気が辺りに漂っている。

 

(あー、久々に思いっきり遊んだなぁ。最近受験勉強で忙しかったし、いい気分転換になった)

 

 受験生とはいえやはり息抜きは大事だ。模試の判定も内申点も悪くないのだし、もう少しくらい最後の高校生の夏休みを謳歌してもバチは当たらないのではなかろうか。勿論油断は禁物だが。

 そんな気の抜けたことを考えながら、一足先に着替えるため海の家の更衣室に行った紅音を待つ。

 

「すみません!お待たせしました!!」

「おかえり紅音……あれ、水着から着替えに行ったんじゃ?」

 

 穏やかな潮騒に耳を澄ませながら佇むこと暫し、着替えて戻ってきた紅音を出迎えた俺は紅音の服装を見て頭に疑問符を浮かべる。

 彼女は上からパーカーこそ羽織っているものの、すらりと伸びた生足からしてその下は水着のままのようだ。

 ……いや、さっきと水着が違う?

 

「……その、実は今日のために瑠美ちゃんに水着を選んで貰ってたんです」

「ああ、瑠美から聞いてるよ。あいつにしては無難なチョイスだけど、あれも紅音によく似あってて…」

「いえ、違うんです!瑠美ちゃんに選んで貰ったのは、こっちの水着なんです!」

 

 俺の疑問に答えるように、話しながらおずおずと紅音が上着を脱ぎ捨てる。

 彼女は先程までの競泳水着では無く、膝下丈のパレオの付いた橙色のビキニに身を包んでいた。

 

「あの、この水着だと陸上の日焼け跡が見えてしまって恥ずかしくて……」

 

 照れ臭そうに紅音がもじもじと身をよじる。その顔は夕陽にも負けないくらい真っ赤に染まっていて。

 

「でもやっぱり、せっかくなので楽郎先輩に見て欲しくって……」

 

 恥ずかしがっている紅音には申し訳ないが、太ももや胸元の真っ白な部分と小麦色に日焼けした肌のコントラストがいたく艶めかしい。

 俺の視線はもはや完全に紅音に釘付けに……否、魅了されていた。

 

「それで、その……どう、でしょうか……?」

「可愛い……うん、すごく可愛いと思う」

 

 あまりの衝撃で、茫然としたままに素直な感想が零れる。

 月並みな言葉を吐くことしかできない役立たずなが口が恨めしい。

 ……だけど、紅音にはそんな一言で十分だったようで。

 この日一番の笑顔を浮かべた彼女が俺の胸に飛び込んでくるのを受け止めて、どちらからともなくそっと唇を重ね合わせた。

 

 

 

△ △ △

 

 

《ぬばたまの恋》

 

 青い空に白い雲、見渡す限りの大海原は太陽の光を受けてキラキラと水面を輝かせている。

 7月某日。高校生になって最初の夏休みの真っ只中のこの日、僕は幾人かのクラスメイトと共に海水浴へとやってきていた。

 

「よっしゃー!最っ高の海水浴日和だな!!」

「うん!今日は晴れてよかったね」

 

 先程駅で合流した友人が、今にも海に突撃しそうな勢いで叫びだす。

 かくいう僕も最高のロケーションに自然と心が浮き立ってしまう。

 宿題や陸上部の練習などでそれなりに忙しい夏休みだけれど、今日は思いっきり羽を伸ばそう。

 惜しむらくは、クラスの違う彼女(・・)はここに居ないことか。

 そんな考えが顔に出ていたのだろうか。隣の友人が面白い玩具を見つけたガキ大将のようなニヤニヤとした笑みを浮かべて僕の顔を覗き込んできた。

 

「……お前、今女の子のこと考えてただろ」

「うぇぇっ!?ななな、何のこと!?」

「隠すな隠すな、俺とお前の仲じゃねーか!……で、誰狙いだ?今日来る連中の誰かか?」

「いや、今日は居なくて残念だなーって……っ!?」 

 

 うっかり口を滑らせたことに気が付き慌てて口を噤んだものの時すでに遅し。

 色恋の気配を察知した彼は実に楽しそうに僕をからかい始めた。

 

「そりゃ残念だったなー、せっかく好きな子の水着姿を拝めるチャンスだったのに」

「みずっ!?べ、別にそんなこと考えて無いよ!」

「ほー?それじゃお前はその子の水着を見たくないと?本当に?」

「…………見たいか見たくないかで言えばそりゃ見たいよ」

「とうとう正直になったな、このムッツリめ」

「この話はもういいでしょ!?ほら、みんな待ってるから早く行こう」

「へいへい、後でまた話聞かせろよな」

「話すことなんて無いよ!そろそろ待ち合わせの時間だし、ほんとにいい加減移動しない…と……」

 

 これ以上からかわれるのは御免だと、話を強引に切り上げようとした矢先。僕は視界の先にとある人物を見つけ、驚きと喜びで言葉を失った。

 どうして彼女が……紅音ちゃんがここに!?

 

「ん?突然立ち止まってどうし……そういうことか、俺は先に行ってるな!」

「えっ、ちょっと待っ…!」

「あれ?その声は……」

 

 足を止めた僕を怪訝そうに見ていた彼は、僕の視線の先に水着姿の少女がいることに気が付くと訳知り顔で頷いてから砂浜に向かって駆け出した。

 そんな彼を引き留めようと声を上げたところで、僕の声に気が付いた紅音ちゃんがこちらに振り向いた。

 僕は夏の日差しにも負けないくらい眩しい彼女の笑顔を直視できず、つい視線を明後日の方角へ反らしてしまう。

 

「こんにちは!こんなところで奇遇だね!」

「こ、こんにちは。紅音ちゃんも海水浴?」 

「うん!今日は思いっきり泳ぐんだ!」

 

 どもりながらも何とか平静を装い必死に会話を繋いでいく。

 小学生の頃は同じクラスだったこともあってもう少し普通に話せていたはずだけど、中学高校でクラスが離れて交流が減った弊害か、今の僕は彼女との些細な会話一つですっかり舞い上がってしまう。

 ましてや今の紅音ちゃんは学校の制服でも、陸上部のユニフォームでもなくその魅惑的な肉体をぴっちりとした競泳水着で覆っていて、思春期真っ盛りの男子高校生にはあまりにも刺激的だった。

 夏の暑さとは別の理由で体温が急上昇していくのを感じながら、僕はふと気になったことを彼女に尋ねる。

 

「そういえば、紅音ちゃんは今日は誰かと一緒に来たの?……その、もし良かったら」

 

 流石に一人で海水浴と言うのは考えにくいし、家族か友達と約束しているのだろうか。

 親御さんと一緒なら難しいけれど、もし同世代の友達と来ているのならばあわよくば僕らと一緒に……

 

「あっ!ごめんなさい!私、人を待たせてるからもう行かなくちゃ!」

「そ、そっか……それじゃまたね」

「うん!また部活で!」

 

 しかし、そんな淡い期待は残念ながら叶わなかった。

 手を振りながら元気に駆け出す彼女を名残惜し気に見送って、先に行った友人のあとを追う。

 

(紅音ちゃん、可愛かったなぁ)

 

 それでも僕は、想い人と偶然出会えた幸福に自然と頬が緩んでいく。

 今度部活で会った時は、今日のことを話題にして彼女に話しかけてみよう。

 一年で早速レギュラー入りを果たした彼女と違い未だ補欠止まりな僕だけど、何時かはお互い選手として彼女に追いつきたい。

 そうしたら、小学生のころからずっと抱いているこの気持ちを彼女に……

 そんな未来を妄想して締まりのない顔をしたままクラスメイト達の元へたどり着いた僕は、先程の友人を筆頭にクラスの皆から散々からかわれることになるのだった。

 

 

(ふぅ、楽しかったけど流石に疲れたなあ……)

 

 日中の熱が残る砂浜をざくざくとビーチサンダルで踏みしめながら、海岸線を一人歩く。

 クラスのみんなはこれから花火をすると言っていたけれど、僕は疲れてしまったからと断りを入れて一足先に帰路についていた。

 もっとも、この理由は半分嘘なのだけど。

 

(紅音ちゃん、まだ海にいるかな…?)

 

 昼間のうちは他の海水浴客も多くて彼女を見つけることは叶わなかったが、日も傾き始めて人もまばらな今ならば、ひょっとしたらまた会えるかもしれない。

 そう考えて昼間に紅音ちゃんと出会った辺りをうろついてみる。

 

(うーん、もう帰っちゃったのかなぁ……)

 

 しかし、それらしき人影は中々見当たらない。

 海パン姿で追いかけっこをする中学生、ビーチパラソルの下で何やら一人きょろきょろしている高校生らしき男子、疲れて眠った幼子を背負う父親とそれに寄り添う母親……

 一向に彼女の姿が見つからず、諦めて本当に帰ってしまおうかと思ってくたりと項垂れた、その時。

 

「すみません!お待たせしました!!」

 

 聞き覚えのある声が耳に届き、慌ててガバッと顔を上げる。

 声のした方を見れば、水着の上からパーカーを羽織った紅音ちゃんが大きく手を振りながらこちらに向かって走ってきた。

 僕は再び会えた喜びで胸を躍らせて、彼女に手を振り返そうとして……

 

 ――紅音ちゃんは目の前に居た僕を一瞥すらせず、海辺に居た男の元へと駆けて行った。

 

「……………………え?」

 

 脳が現実を処理できず、フリーズした端末のように体が硬直する。

 ギギギと首を動かして恐る恐る彼女の様子を窺えば、僕の知らない隠岐紅音という少女がそこに居た。

 

「あの、実はこの水着だと陸上の日焼け跡が見えてしまって恥ずかしくて……」

 

 僕は、あんな恥じらいの表情を浮かべる彼女を知らない。

 

「でもやっぱり、せっかくなので楽郎先輩に見て欲しくって……」

 

 僕は、あんな艶やかに微笑む彼女を知らない。

 

「それで、その……どう、でしょうか……?」

 

 僕は、夕焼けよりも紅く色づいた彼女を知らない。

 

「可愛い……うん、すごく可愛いと思う」

 

 それは、まるで恋する乙女のようで。

 僕がずっとずっと、夢見ていた姿で。

 だけどその顔を向ける先に居るのは、僕じゃない知らない誰かで。

 

「……っ!!?」

 

 西日が逆光となり、二人の姿が影となる。

 そしてその二つの影が一つに重なるその瞬間。僕は堪らず踵を返してその場から逃げ出した。

 

「……っなんで!なんでなんでなんで!!」

 

 初めて会ったその日から、ずっと彼女が好きだった。

 なのにどうして、彼女の隣に僕は居ない。

 悪夢のような現実を振り払うように、僕は無我夢中で日の落ちた道を駆けていく。

 彼女に少しでも近づきたくて鍛えた脚で、彼女に背を向け全力で遠ざかっていく今の自分がどうしようもなく無様で、惨めで、情けなかった。

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