「楽郎先輩!今日は本当にありがとうございました!」
太陽が地平線の彼方に沈み、夕闇が辺りを包む頃。
俺の数歩先を軽やかな足取りで進む紅音はこちらを振り返ると、快活な声でお礼の言葉を告げた。
「どういたしまして。紅音は楽しかったか?」
「はい、とっても!私、今日がずっと終わらないで欲しいです!」
「そいつは何より、俺も同じ気持ちだよ……改めて、誕生日おめでとう、紅音」
「えへへ、ありがとうございます!」
こんなにも喜んで貰えるのなら、瑠美やペンシルゴンに頭を下げて必死にデートプランを練った甲斐があるというものだ。
散々ダメ出しされた上に今後二人から揶揄われる未来が待っているのは些かならず気が重いが、邪神と邪教徒の知恵をは確かだったらしい。
カッツォやクラスメイトの連中?……うん、まあ、あいつらも悪い奴らでは無いのだが、女心の理解度と言う点においては悲しいことに戦力外通告を出さざるをえないので……
「ここのところ忙しくてあんまり出掛けたり出来なかったし、今日はそのお詫びも兼ねてってことで」
「お詫びなんてとんでもない!……でも、今日は久しぶりに楽郎先輩を独り占めできて嬉しかったです!」
「……そ、そっか」
明け透けに伝えられる彼女からの好意には、いつまで経っても慣れる気がしない。
喜ばしくも気恥ずかしい複雑な俺の心に構うことなく、紅音は尚も楽し気に言い募る。
「はい!瑠美ちゃんやみんなと一緒に遊ぶのも大好きですけど、やっぱり楽郎さんと二人で居るときが私は一番幸せですから!」
「おいおい、流石にそこまで言われると照れ…………紅音?」
ふと、違和感を覚えて立ち止まる。
今の台詞だけを抜き出せばそれはそれは熱烈な愛の言葉だ。
けれど微かに震えた彼女の声が、固く握りしめた手のひらが、俺に背を向け表情を隠すその仕草が、どうしようも無く心配と不安を掻き立てる。
紅音が嘘を吐いているとは思わない。
寧ろ彼女の声音からは、どうしようもなく抑えきれない心からの願いを籠めたような、痛切な響きを感じさせた。
「…………なんですか?」
「いや、その、何というか……大丈夫か?」
「……何がですか?私は元気いっぱいですよ?」
「本当に?なんだか無理してるように見え──」
「あっ!楽郎先輩見てください!桜がもう満開ですよ!」
口下手な俺の追及は、いつも通りの笑顔を張り付けた紅音に一蹴される。
尚も問い質そうとする俺の声を遮るように、紅音は道の先の公園を指差した。
「あ、ああ。もうそんな季節なんだな……それより紅──」
「先輩、せっかくですからここでお花見していきましょう!」
「いや、流石に今日はもう遅いから……って早っ!?」
陸上部エースの脚力を遺憾なく発揮した紅音は、俺が静止する間もなく一瞬で桜の木の下へ駆け出してしまう。
仕方なしにあとを追って公園に向かうと、満月に照らされた桜を見上げて紅音が寂し気に佇んでいた。
「……もう、すっかり春ですね」
「そうだなぁ、時が経つのはあっという間だ」
紅音と初めて会ってから……あの冬の日の衝撃的な告白から、幾つの季節を巡っただろうか。
濃密な日々は瞬く間に過ぎ去っていって、あの日中学生だった紅音はもうすぐ高二、俺に至っては来月からとうとう大学生だ。
「…………楽郎先輩」
「……なんだ、紅音」
「っ……もうすぐ、行っちゃうんです、よね」
今この公園に居るのは俺と紅音の二人きりで、他に人影は見当たらない。
夜の静寂に包まれた世界の中、俺たちの会話と、地面を踏みしめる足音と……紅音のすすり泣く声だけが静かに耳朶を打つ。
「そうだな、荷造りもあらかた終わったし、明後日の昼のリニアで出発するよ。」
改めてそれを口にすることで、間近に迫った旅立ちを実感する。
第一志望である来鷹大学に晴れて合格した俺は、慣れ親しんだこの地を離れ一人暮らしをすることが決まっていた。
既にアパートの契約や大きな家具の準備も終え、あとは身一つで現地に移動するのみだ。
「……私、今日がずっと終わらないで欲しいです」
「……そっか」
それは先程も聞いた言葉。
だけどそこに籠められた想いは先程の比では無く、俺は事ここに至ってようやく、彼女が何を訴えたいのかを真に悟った。
「……私、先輩と離れるのが寂しいです」
「そうだな、俺もだよ」
俯き震える紅音に近づいて、手櫛を通すようにそっと頭を撫でつける。
紅音は俺にされるがまま、涙声で言の葉を紡いでいく。
「わっ、私!先輩ともっとお話したい、です…!」
「……毎日だって電話するし、ゲームの中ならいつでも会えるさ」
ぽたりぽたりと空知らぬ雨が地面を濡らす。
いよいよ耐え切れなくなったのか、紅音は幼子が親に縋るかのように俺の胴へと腕を回して縋り付いてくる。
「らくろ゛う、ぜんっ…ぱい…行っちゃ、やです……!」
「ほら、休みにはちょくちょく帰ってくるから……」
「嫌、でずぅー…!」
……恋人がこんなにも嘆き悲しんでいるというのに、ちょっと嬉しくなってしまった俺は悪い男だろうか?
いや、俺としても紅音と離れ離れになってしまうのは勿論寂しいのだが、ここまで別れを惜しんでもらえると彼氏冥利に尽きるというもので。
宥めるように紅音を強く抱きしめ返しながら、俺は表情が緩むのを抑えきれずにいた。
◆
「ご、ごめんなさい楽郎先輩。ご迷惑をおかけしました」
それから二人で抱き合うこと暫し。俺のシャツの胸元が涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった頃、我に返った紅音が恥ずかしそうに謝罪した。
「迷惑でもなんでもないよ、それだけ俺が愛されてるってことだし」
「そっ、それは!そう…ですけど……」
今頃になって羞恥心が襲ってきたのか、夜闇の中でもはっきり分かるほどに紅音が赤面した。
そんな彼女の様子にほっこりしつつ、俺は少しでも元気が出るよう努めて明るく声をかける。
「ほら、さっきも言ったけどゲーム内ならいつでも会えるし、リアルでも長期休暇の時にはちゃんと帰ってくるからさ」
「約束ですよ?ちゃんと帰ってきてくださいね?」
「約束するよ。それに、たまには紅音が遊びに来てくれてもいいんだぞ?」
「!!……私が、楽郎先輩のおうちにですか?」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、紅音がきょとんと首を傾げる。
どうやら俺が言ってしまう方ばかりに気が行って自分が俺のところに来るという選択肢が思い浮かんでいなかったらしい。
「おう、離れるといってもリニアに乗れば一時間程度の距離だし、紅音の部活さえ休みなら連休利用すれば来られるだろ」
或いは、俺が免許を取った後なら車で迎えに行ってもいい。
そう付け足すと、先程までの悲し気な顔とは打って変わってキラキラと瞳を輝かせ始めた。
うん、やっぱり紅音は笑ってる姿が一番似合う。
「本当にお邪魔してもいいんですか?」
「もちろん、紅音が遊びに来てくれたら俺も嬉しい」
「楽郎先輩のおうちに、お泊り…!」
「あ、外泊は一応親御さんに許可を貰ってから……あの、紅音さん?」
「楽郎先輩とお泊まりデート、私とっても楽しみです!瑠美ちゃんに服と下着を相談しないと……!」
「よし、ちょっと落ち着こうか!色々口走っちゃってるから!」
泣いた烏がもう笑った。切り替えの早い紅音の様子についつい苦笑が漏れてしまう。
……あ、そうだ。
「紅音、ちょっと手を出してくれるか?」
「はい!これでいいですか?」
人懐っこい子犬がお手をするように差し出された手のひらに、ポケットから取り出したあるものを乗せる。
本当は出発直前に渡すつもりだったのだけれど、話の流れ的にも丁度いい。
「これは……鍵、ですか?」
「うん、もう一つの誕生日プレゼントってことで……俺の新居の合鍵」
「わぁ!ありがとうございます!私、絶対遊びに行きますね!」
──サプライズで俺の部屋に早朝忍び込んだ紅音に起こされ仰天するのは、GW初日のことだった。