ある者は、己の走りを0.1秒でも速くする為に。
またある者は、己の跳躍を1㎜でも高くする為に。
少女たちは己の限界に挑戦せんと、校庭やトラックで日夜青春の汗を流している。
──とはいえ、それでも思春期真っ盛りの高校生がその若さと活力の全てを部活で使い切る訳も無く。
「やー、今日の練習も疲れたねー」
「私もうお腹ペコペコ……パスタ大盛でいっちゃおうかな」
「そしてまた太ると」
「体重のことは言わないでー!!」
この日、真檜高校女子陸上部のメンバーは部活終わりに立ち寄ったファミレスで賑やかなガールズトークに華を咲かせていた。
部内の人間関係が良好なこともあり、一年生から三年生まで学年の区別なく集まったそのグループは大凡十人ほど。
女三人寄れば姦しいというが、それが倍以上の人数ともなれば猶更で。最期の走り込みはきつかった、数学の課題が多い、あの教師の授業は難しい等々、話すことは尽きない。
そうして年頃の少女たちが延々と雑談を交わしていけば、話題が徐々に恋愛事へと移行するのも当然の帰結と言えるかもしれない。
「へぇ、それじゃ明日は陽務とデートなんだ」
「はいっ!私、楽郎先輩にお誘いして貰った時からずっと明日が楽しみで…!」
「あらあら、お熱いわねぇ」
「紅音いいなー、私も格好良い年上彼氏が欲しい…」
心から嬉しそうな表情でデートの予定を語る紅音に、先輩や同級生たちから慈愛と羨望の籠った眼差しが集まる。
一年生にして期待のエースの呼び声高い隠岐紅音が三年生の陽務楽郎と付き合っている事は、今となっては公然の事実である。
入学当初はそのことを知らない男子生徒が彼女に淡い恋心を抱いてはすぐさま粉砕されるという悲劇が頻発したものの、紅音が楽郎への愛情を全身全霊で表して憚らないことに加え、楽郎と登下校や昼食を共にする姿を度々目撃されたことなどもあって、入学後一ヶ月も経つ頃には紅音と楽郎の関係は真檜高校のほぼ全ての生徒が知ることとなっていた。
「それにしても、陽務の噂の彼女さんがまさかあの陸上界期待の新星とはねぇ。うちに引っ張ってきてくれたあいつには感謝かしら」
「確かに!紅音ちゃんならもっと強い高校からもお誘いきてたでしょ?」
「えっと、一応幾つか推薦のお話は頂いてました」
「それを蹴ってわざわざうちを一般受験してまで愛する先輩の後を追う!いやー、愛だわぁ」
「えへへ、愛だなんてそんな……って、あれ?」
陸上の才能と違い、学力面ではお世辞にも優等生といえない紅音が進学校である真檜高校に合格するのは並々ならぬ努力が必要であったのは事実であり、その努力の原動力は確かに愛と呼んで差支えの無いものだ。
真正面からそのことを告げられ流石に照れる紅音であったが、先の先輩の台詞の中に気になる語句が含まれていることに気がついて、こてりと可愛らしく小首を傾げた。
「あの!先輩、『噂の彼女』ってなんのことですか?」
「ん?ああそのことか。実は結構前から今の三年──要は私たちの学年だと、『あの陽務に彼女が出来た』って結構話題になってたのよ」
「……えっ?」
思いもよらぬその言葉に、紅音はぽかんと口を開けて固まる。
そんな紅音を他所に、その話題に覚えのある三年生達は口々に当時の事を回顧していく。
紅音以外の一、二年生達もこの話は初耳なようで、興味津々に先輩たちの話に耳を傾けた。
「あー、私らが二年の夏頃だっけ?陽務くんが可愛い女の子と歩いてたって噂になってたの」
「朝途中まで一緒に登校してたってクラスの男子が騒いでたやつ?陽務は『妹の友達だ』って弁明してたけど」
「……確か紅音の彼氏って瑠美ちゃんのお兄さんだったよね」
「なるほど、嘘は言っていなかったって訳か」
「っていうかその頃は貴女まだ中学生よね?もしかしてあいつと登校する為にわざわざ待ち合わせしてたの?」
「えっと、その、待ち合わせしていたというか、私が勝手に押しかけてたというか……」
「わっ、大胆!紅音ちゃん大人しい顔してやるじゃない!」
「うううう……あの!このお話はもうこの辺で…」
「えー、紅音の馴れ初め気になる!」
「そんなぁ…!」
楽郎と少しでも一緒にいたい一心で後先を何も考えず突撃していた頃のエピソードを掘り返されて羞恥に襲われる紅音であったが、周囲の面々はこの話題を掘り下げる気満々で逃げ道は見当たらない。
更に──
「……紅音も気にならない?貴女が知らないクラスでの陽務の姿」
「えっ、それはどういう…」
「私、あいつと三年間同じクラスなんだけど、今にして思えば前からちょいちょい怪しい素振りは見せてたのよね。多分あれは紅音絡みだったんじゃないかと私の女の感が告げてる訳よ」
「え、マジ?」
「マジよ……で、どうする紅音。貴女があいつとの赤裸々エピソードを話してくれるのなら、私も陽務の過去の秘密を開示する用意があるわ」
それは取引のようでいて楽郎と紅音以外には一切損の無い、実に不平等な提案。
しかしながら『自分の知らない楽郎』という情報の魅力に気を取られた紅音がその事に気がつく様子は無い。
暫し内心で興味と羞恥が葛藤を繰り広げていた紅音であるが、最終的には興味が勝ったようで、気恥ずかしさに頬を染めつつも話の続きを求めた。
「わ、分かりました…!楽郎先輩のお話、聞かせてください!」
「そうこなくっちゃ!」
「いやー、『クソゲーにしか興味ありません』って顔に書いてあるようなあの陽務をどうやって落としたのか正直滅茶苦茶気になってたのよ」
降って湧いた新鮮な恋話に、居合わせた面々のテンションはうなぎ登りである。
紅音から言質を取ったことで、楽郎と三年間同クラスだったという彼女は当時を思い返しながらおもむろに口を開いた。
「さて何から話したものか……そうね、まずは覚えてる中で一番昔の出来事から行こうかしら」
「お願いします!」
「あれは確か私たちが高一の冬の日──」
「あんた、よくそんな前のことまで覚えてるわね」
「もう、話の腰を折らないでよ。あの日は珍しく雪が積もってたから印象に残ってたのよ」
「……ふーん」
呆れとも関心ともつかない同級生のツッコミに、彼女はすげなく言葉を返す。
何やらもの言いたげな級友の様子が気にかかったものの、気を取り直して当時の楽郎の様子を語り始める。
「続けるわよ?あの日、雪が積もってクラスの男共はやれ雪合戦だの雪だるまを作ろうだのと小学生みたいにはしゃいでたのよ」
「あー、思い出してきた。うちのクラスも似たような感じだったわ」
「で、普段ならそこに真っ先に混ざってそうな陽務はといえば、頬杖をつきながらぼけーっと窓の外を眺めるだけで一向に男子たちの騒ぎに混ざる気配も無くてね。不思議に思って声をかけてみたら、開口一番言った言葉が──」
──人を好きになるって、何なんだろうな。
「あまりにらしくない台詞だったから、当時は熱でもあるんじゃないかと思ったんだけど……その様子だと、心当たりがあるみたいね」
彼女の視線の先では、名は体を表すと言わんばかりに顔を紅色に染めた紅音が恥ずかし気に……それでいてどこか嬉しそうに口元を緩ませていた。
二年前の雪の日。それは紅音にとって、決して忘れることのない大切な思い出の一ページ。
「その…それは……」
「うんうん、それは?」
「……私が、楽郎先輩に告白したからだと思い、ます…」
「「「きゃー!!」」」
紅音の口から語られる期待に違わぬその言葉に、たちまち黄色い歓声が上がる。
初めて現実で
駆け引きも何もない即断即決にもほどがある突然の告白に、その日は返事を濁されてしまったけれど、楽郎が自分の知らないところで真剣に告白と向き合ってくれていたという事実に自然と紅音の顔は綻んだ。
「えっ、ということは二人はその時から付き合ってるの?」
「ううん、その時はまだ告白の返事は保留ってことになってて」
「紅音ちゃんに告白されて即OKしない男子がいるの!??」
「わ、私なんてそんな……それに、あの時はリアルだとまだ初対面でしたから」
「あなた初対面で告白したの!?」
「まさかの紅音の一目惚れ…?」
「いえ!それまでにゲームの中で一緒に遊んだり、SNSで相談に乗って貰ったりはしてたので、多分もっと前から好きだったんです!」
「……そこだけ聞くとネットで知り合った怪しい男にかどわかされたみたいね。相手が陽務だからよかったものの、世の中悪人だっているんだからもう少し警戒心を持ちなさいよ?」
「はい!気を付けます!」
一歩間違えれば事件に巻き込まれかねない無防備さに、先輩から真面目に心配されてしまう紅音であった。
楽郎の場合は直接会う前に瑠美経由で互いの素性が明らかになったからという事情もあるのだが、それを知らなければ紅音の行動は迂闊と捉えられるのも無理はない。
先輩や同級生たちから密かに「私が
「あれ?それじゃ結局陽務くんとはいつから付き合い始めたの?」
「えっと、中三の夏の中学最後の大会の後です!楽郎先輩が私に好きだと言ってくれて、それからお付き合いしています!」
「紅音が中三というと私たちが高二の時か……ああ、なんかやたら挙動不審になってたことがあったような」
いつもは揶揄っていたクラスメイトのポエムに何故か真剣に耳を傾けたり、授業中も上の空で教師に注意されたりしていた当時の楽郎の様子を思い出し、楽郎の級友である彼女は得心が言ったように頷いた。
それからも「修学旅行で『無病息災』と『学業成就』と『必勝祈願』のお守りのどれにするかで延々と悩んでいた」とか「傘も差さずに大雨の中走りだした姿を見た」などといった数々の楽郎との思い出の裏事情を聞かされて、嬉しさと照れ臭さが綯い交ぜになって紅音の胸中を満たす。
「いやぁ、紅音ってば愛されてるねー」
「ほんとほんと。紅音が彼氏さんラブなのは知ってたけど、彼氏さんも紅音のこと大好きじゃん」
「えへへ、そうなの…かな……?」
「なにこの可愛い生き物」
小一時間も話し続けると流石に喉も疲れ、各々がドリンクバーでジュースやコーヒーをお代わりしてその渇きを潤していく。
そんな和気あいあいとした空気の中、紅音の同級生の一人がふと気が付いたように、とある疑問を口にした。
「ところで、紅音ちゃんの彼氏の陽務先輩ってそんなに有名人なんですか?話を聞いていると随分エピソードが豊富みたいですけど」
当然と言えば当然の疑問。
今でこそ紅音との交際の噂もあり耳目を集めている楽郎であるが、今しがた聞かされたエピソードの数々は紅音の入学前の物だ。
つまり、楽郎は「紅音の彼氏」という属性が付与される以前からそれなりに注目されていたことになる。
そんな疑問に対し、楽郎と同級生の彼女はストローから口を離すと、なんてことも無さげな顔をして紅音にとっての新たな爆弾となる情報を投下した。
「有名っちゃ有名ね。あいつ、女子の間では密かに人気だったのよ」
「…………ええええっ!!?」
「気持ちは分かるけど落ち着いて!?他のお客さんに迷惑だから!」
「はっ!す、すみません!」
自分の恋人が実はモテていたという突然の知らせに、ここがファミレスの店内であることも忘れて驚きのあまり思わず叫ぶ。
注意を受けて慌てて自分の口を押える紅音だが、その目は詳しい話を求めて先輩へ向け続けていた。楽郎と面識のない他の面々も同様である。
「彼氏さん、イケメンなんですか?」
「楽郎先輩は世界一格好いいです!」
「はいはい、惚気はまたあとでね」
「彼女視点だとこう言ってますが」
「それなりに、ってところかしら。絶世の美男子とまでは言わないけど客観的に見て整ってる方ではあるわ」
「へー!」
多分に恋人フィルターのかかった紅音の意見を受け流しつつ、同級生として忌憚のない評価を下す。
「陽務くん、ゲーム馬鹿なところもあるけど性格も明るくて話してて楽しいし、意外と成績もいいから将来有望ってことでたまに話題になってたもんね」
「告白までしたって話は聞いたことないけど、何気に狙ってる子も少なくなかったんじゃないかしら」
「先輩が、狙われて……」
「まあ、今は可愛い彼女がいるって知れ渡ってるからそういう意味での女子人気は落ち着いて……紅音、聞いてる?」
「楽郎先輩は、渡しません!」
──後日、休み時間の度に三年生の教室に突撃し、楽郎にひっつきふくれっ面で周囲を威嚇する紅音のことが学校中の噂になるのだが……それはまた、別のお話。
◆
「へっくしっ」
「やだ、おにーちゃん風邪?私にうつさないでよね」
「いや、別に体調が悪い訳じゃ……誰か俺の噂でもしてるのかね」
「あー……」
「待て、何故そこで納得がいったように頷くんだ」
「何故も何も、あの紅音と付き合っておいて話題にならないとでも思う?」
「………思わない」
「でしょ?まあ、せいぜい夜道には気を付けてね」
「俺どんな噂されてんの!?」