灼熱の太陽も地平線の彼方に沈み、京の都に夜の帳が下りた頃。
龍宮院流の門下生の少年が一人、薄暗闇の中を道場へ向かって歩いていた。
「うっかりしてたなぁ、道場もう締まっちゃったかな……」
一日の稽古を終え、同門の友人達と共に大浴場で汗を流してさあ帰ろうという時になって道場に忘れ物をしたことに気が付いた彼は、己の粗忽さを反省しつつ半ば諦め交じりに歩を進める。
龍宮院家の道場は師範代たちとの稽古後もしばらくは自主的に鍛錬を積む者の為に解放されているが、流石にこの時間ともなれば皆帰ってしまった可能性が高い。
そんな風に考えながらも一応の確認をしておこうと、道場の目の前までたどり着いた所で、彼は驚きに足を止めた。
「あれ、道場にまだ誰か残ってる?」
誰も居ないと思っていた道場の灯りがついていることに、素朴な疑問が口をつく。
耳をそばだててみれば中から竹刀の打ち合う音や檄の声が聴こえるので、電気の消し忘れという訳でも無いらしい。
こんなに遅くまで稽古に励む熱心な門徒は一体誰だろうと、興味本位でひっそりと中を覗いた彼は、そこで繰り広げられる激しい攻防に目を剥いた。
「やぁっ!」
「おっと危ねぇ……と見せかけて!」
「その手は、食わない…よ!小手っ!」
「ぐっ、貰っちまったか」
上段から振り下ろされた竹刀を受けた相手は、それを斜めに受け流した勢いのままにくるりと身を翻しながら横薙ぎで胴を狙う。
剣道の動きとしては些か型破りなれど、実にスムーズな防御から攻撃への転換は見事の一言に尽きる。しかし彼の対戦相手はそんな動きをも見越していたかのようで、仰け反るようにして半ば強引に重心を後ろにずらしてその剣戟を回避すると、渾身の一撃を空振ったことにより生じた隙を逃さず小手を打ち据えた。
(す、すごい……!)
二人の戦いはまるで真剣による実戦さながらの殺気を伴っており、横で見ていただけの彼ですら、気が付けば息を吐くのも忘れて彼らの剣に魅入っていた。
二人は荒れた呼吸を整えると互いに一礼し、剣道の面を外す。
そうして現れた見慣れた顔に、彼は納得と驚きの入り混じった声を上げた。
「龍宮院さんと……陽務さん!?」
勝利を収めた剣士の正体は、この道場の一人娘である龍宮院京極。
同世代では最早敵無しとの呼び声高い彼女であれば、今見た戦いぶりにも納得がいくと彼は内心で頷いた。そのことにすぐに気が付けなかったのは龍宮院流に無い動きを多用していたためだ。
一方、京極と見事な剣戟を繰り広げた対戦相手が楽郎であったことには、彼は口には出さずとも並々ならぬ驚きを抱いた。
彼は楽郎とは学校も違う上に歳も一つ下だということもあり然程仲が良いわけではないが、それでも楽郎が数年前にこの近所に引っ越してきたこと、この道場で本格的に稽古を積むようになってからそう長い時間は経っていないことなどは知っている。
そんな楽郎が京極と互角に渡り合っていたという事実は、その光景を己の目でしかと見た彼をしても易々とは信じがたいものがあった。
彼が混乱して道場の入り口前で棒立ちになっていると、驚愕の声を聞いた楽郎と京極の二人はそこでようやく見学者の存在に気がついた。
「……ん、今誰か呼んだか?」
「おや、君は確かうちの門下の」
「こ、こんばんは」
「こんばんは。私達が言えた義理じゃないけど、こんな夜更けにどうしたの?」
「いえ、その……ちょっと忘れ物をしちゃいまして」
意図せずとは言え盗み見する形になった彼は、悪いことをしていたわけでは無いものの何となく気まずさを覚える。もっとも、当の二人に特に気を悪くした様子は無いのだが。
「そっか、ここももうすぐ閉めるから今のうちに取ってくると良い」
「はい!急いで取ってきます!」
「いや、まだ片付けもあるからそこまで急がなくても……って、行っちゃったか」
呼び止める楽郎の声を背に、彼は駆け足で自分の忘れ物を回収しに向かう。
幸い誰かが間違えて持っていかれていたなんてこともなく、無事己の目的を果たした彼は二人に一礼する。
「それでは、お先に失礼します!」
「お疲れ様。もう暗いから気を付けて帰ってね」
「俺らは竹刀とか防具片付けてから帰るから」
「はい……あ、あの!」
「ん、どうしたんだい?」
「……先ほどの二人の試合、お見事でした!俺ももっと強くなれるよう精進します!」
「おう!お互い頑張ろうな!」
「はい!ではまた稽古で!」
キラキラと強さへの執着と純粋な敬意を籠めた視線に眩しく思いつつ、楽郎は快活に笑い言葉を返す。
彼が帰る背中を見送れば、再び二人きりになった道場に静寂が舞い降りた。
「…………行ったか」
「…………行ったね」
「さて、俺らもとっとと帰るか。明日は京極は大会だしな」
「うん、おかげで最終調整もばっちりだよ」
「そいつは頼もしい、頑張れよ」
「頑張るよ……で、調整ついでにもう一つお願いがあるんだけど」
防具を外して身軽な道着姿になった二人は用具を片付けながら雑談を交わす。
一通りの作業が終わり、あとは電気を消して戸締りをして帰るだけ。……そんな時、京極は何かをねだるように上目遣いでそっと楽郎の道着の裾を掴んだ。
「なんだ?」
「…ええっと、その………明日私が勝てるように、おまじないが欲しいなぁ、って」
もじもじと、運動とは別の理由で頬を上気させながら京極はその“お願い”を口にする。
そんないじらしい姿を見せられた楽郎は、彼女の願いを快諾する──ようなことはなく。
「大丈夫だ、お前ならおまじないになんて頼らなくても絶対勝てる!」
「いや、その!信頼は嬉しいんだけどそれはそれとして……楽郎、分かってて言ってるでしょ!?」
「ははっ、何のことだかさっぱりだなー」
「もう!意地悪もいい加減に……んむっ!?」
「……んっ。ほら、これでいいか?」
「…………うん」
楽郎は京極の口を自分のそれで塞ぎながら、そっと腰に腕を回して抱き寄せる。
完全に不意を突かれた京極は、優し気に目を細めた楽郎を直視することができず、彼の胸元に顔を埋めて小さな声で頷いた。
今ならば、たとえ誰が相手でも負ける気がしない。
「さて、いい加減本当に帰ろうぜ。これ以上遅くなったら國綱さんに殺されそうだ」
「やれやれ、そこで恐れをなすなんて楽郎もまだまだだね」
「いや、試合ならともかくお前絡みだとあの人本当におっかなくてだな……そろそろ真剣を持ち出すんじゃないかと疑ってる」
「流石の兄さんもそこまでは……しない、と思う……よ…?」
「お前も自信ないんじゃねーか!」
◆
全国高等学校剣道大会、女子個人部門関西予選。
この日、会場となった体育館は竹刀の音や選手たちの掛け声、応援の叫びなどが木霊して、並々ならぬ熱気に包まれていた。
「おお、今回も危なげなくストレート勝ちか」
京極が鮮やかに相手の面を打ち据え、二本先取したことにより準決勝への進出が決まる。
彼女はこれまで一本も奪われることなく三連勝中。油断は禁物だが、この分であれば優勝も堅いだろう。
「やっぱり頭一つ抜けて強いんだな……」
龍宮院家の道場で手ほどきを受ける身なれど剣道部には所属していない楽郎は、観客席の最前列から勝利を称える拍手を送りつつ、改めて知る京極の強さに感嘆の声を漏らす。
老若男女の入り乱れる日頃の稽古では京極以上の強者も少なくないが、同年代に限っていえば彼女は最強に近いと言っても過言ではない。
楽郎が一礼して控えに戻り面を外す京極の姿を見るとはなしに眺めていると、ふと観客席の方を向いた彼女と目が合った。
彼の視線に気が付いた京極はといえば、周囲からのプレッシャーなどものともせずに、得意げな笑みを浮かべて目立たない程度に楽郎に向けて小さくふりふりと手を振っている。
この大舞台の最中でも余裕綽々とした京極のその態度に、楽郎は呆れと感心の入り混じった苦笑を浮かべながら彼女に手を振り返した……次の瞬間。
「龍宮院さーん!おめでとうございます!」
「ねえ!今私に手を振ってくれたわ!!」
「何言ってるのよ!今のは明らかにこっちを見てたでしょ!」
「こらそこ!規律を乱さない!次の試合の応援に備えるわよ!!」
「「「はいっ!」」」
背後から聞こえる黄色い絶叫に、楽郎は堪らず耳を抑える。
恐る恐る振り返ってみれば、見慣れた制服に身を包んだ女学生達が京極に向けて全身全霊を籠めた暑すぎるエールを送っていた。
よく見ると中には手製の鉢巻きや団扇を装備した者や、複数人がかりで横断幕を掲げている者たちまでいる。それは剣道の応援というよりは、さながらアイドルのコンサート会場のようだ。
「まさかあいつ、女子ファンクラブまであるのか……?」
そのあまりの熱量と、暴徒と見紛うほどに覚悟のキマった彼女たちの視線に楽郎は思わず身震いする。
京極が一部女子から崇拝にもにた好意を集めていることは知っているつもりだったが、こうして集団になっている様子をみると空恐ろしいものがある。
もしも、自分と京極の関係が彼女たちに知られたら──
恐ろしい、しかしいつかは対面しなければならないであろう未来を憂いながら、君子危うきに近寄らずとばかりに楽郎はひっそりとその場をあとにした。
◆
準決勝は午後の部ということで、選手達は昼食も兼ねて一時の休息に入る。
その時間帯を利用して京極に直接激励の言葉をかけようと、参加者用控室の近くで待機していた楽郎は、自分たちの学校の集団の中に見慣れない制服の男子生徒が紛れていることに気が付いた。
今日この会場にはかなりの数の高校から選手が集まっているため、他校の生徒がいること自体は何も不審な点は無いのだが、その男子生徒はどうにも様子がおかしかった。
熱に浮かされたようにも、或いは何かの覚悟を決めたかのようにも見える不可思議な眼差しで彼が見つめる先には楽郎の高校の選手たちが。
より正確に言えば、彼はその中心で部活仲間たちに囲まれる京極のことを一心不乱に見つめていた。
(……えっ、これってまさか)
そんな男子生徒の姿を見て、彼が何を思い、これから何をしようとしているのかを察することが出来たのは、楽郎も彼と同様……否、彼以上に京極に並々ならぬ想いを抱いているが故の共感か。
問題の彼は楽郎から見られていることなど気が付きもせず、京極が周囲の人垣から抜け出した一瞬を見定めて目一杯の勇気を振り絞り声をかけた。
「りゅ、龍宮院さん!」
「ええっと……何か私に用かな?」
「はい!あの……試合、お疲れ様でした!」
「応援ありがとう、用件はそれだけかい?」
「いえ、その……今日の大会が終わったあと、少しだけお時間を頂けま──」
「ごめんね、今日はもう予定が決まってるんだ」
「そこを何とか!ほんの十分だけでも……」
「ちょっと、龍宮院さんの迷惑よ」
京極にすげなく断られても尚諦めず食い下がろうとするその生徒の前に、京極のファンの一人が立ちふさがる。
京極が穏便に対応していた手前、それまで出しゃばらずに我慢していた彼女達の堪忍袋の緒は千々に弾け飛んでしまったようで、熱狂的なファンの面々は彼を京極から引き離すようにいずこかへと連行していく。
「午後も試合があるんだから、用が済んだなら早くどきなさい」
「貴方、その制服はこないだうちの剣道部と練習試合した学校よね?」
「龍宮院さんが魅力的なのは分かるけど、あんたみたいな不埒な男が絶えなくて本当に困るのよ」
出荷される子牛を見送るような心地で彼の冥福を祈っていると、結果として取り巻きから解放されることとなった京極がこれ幸いにと楽郎の元へ小走りで駆け寄ってくる。
一連の流れにやや困惑しつつもどこか慣れと諦めを感じさせるその様子に、常の彼女の苦労が偲ばれた。
「やあ、さっきは応援ありがとう」
「何かもう……色々とお疲れさん」
「あはは……あの子たちも悪い子じゃないんだけどねぇ」
「ああいう事ってよくあるのか?」
「まあ、それなりに?こんな目立つところで突撃してきた勇者君はちょっと珍しいけど」
「……ふーん」
「それより!今日優勝したらラーメン奢る約束、忘れてないよね?」
「おう。ってかお前、部活とかファンの連中の方は良いのか?」
「そっちは後日改めてってことにしてるから大丈夫!」
「そっか、それじゃ午後の試合も頑張れよ」
「うん!私の活躍、楽しみにしてなよ!」
拳と拳を突き合わせ、少年漫画の一ページのように京極の健闘を祈る。
楽郎は他の誰よりも先駆けて彼女を祝えることに仄かな優越感を覚えつつも、喉に小骨が引っかかったような、もやもやとした思いを抱く。
──俺もいつかは、堂々と彼女への想いを叫ぶことができるだろうか。
儚く散っていった勇者への敬意と羨望を胸に、財布の中のラーメン代を確認する楽郎であった。
おまけ
「京極、優勝おめでとう」
「ありがと!さぁて、約束通りここは奢ってもらうからね?」
「はいはい、せっかくの優勝祝いなんだからケチなことは言わねーよ、ラーメンでも餃子でも好きなもん頼め」
「言ったね?すいませーん、醤油チャーシュー大盛の味玉付き、アブラ多めの味濃いめで。それと餃子とライスもお願いします」
「お、お前本当によく食うな……」
「腹が減ってはなんとやら、ってね。楽郎も早く頼みなよ」
「今の注文聞いただけで腹いっぱいになりそうなんだが……それじゃ俺は塩ラーメンと半チャーハンで」
「あ、それも美味しそう。あとで一口ちょうだい」
「そう言うと思ったよ。俺にもそっちの少しくれよ」
「うん……で、今日の試合を見たご感想は?」
「お前本当に強かったんだな。優勝を疑ってたわけじゃないんだが、まさかあそこまで危なげなく勝っちまうとは」
「ふふん、どう?私の華麗な太刀筋に見とれちゃった?」
「いやマジで凄かったよ。一昨日団子の串でハリネズミになってた奴と同一人物とは思えない」
「あ、あれはレイドボスさんがお茶してるところに出くわして慌ててたせいだから!普段の私なら余裕で天誅仕返したし」
「どうだかなー?その前は余韻天誅決めたあとに花火で爆散してたし」
「それは楽郎が紅蓮寧土さんをトレインしたせいでしょ!そんなに言うなら改めて私の実力を君に叩き込んでやろうじゃないか。今夜幕末で待ってるよ」
「よしきた、剣道の実力だけで勝てるほどクソゲーは甘くないって教えてやるよ」