「…………」
不愉快であり、不平不満を抱き、不安に心を揺らしていた。
苛立ちに身を任せて数十にも及ぶ妄執の樹魔を焼き払おうと、有象無象の犇めく掲示板で彼に楯突く不届きものを引退へと追い込もうと、決してその心に平穏が訪れることはない。
そう、彼女の心に束の間の安寧をもたらすことが出切るのはこの世界でただ一人。
なのだけれど……
「…………来ないねぇ」
この日、このエリアはおろかシャンフロの世界そのものに一向に訪れる気配の無いサンラクに対し、失望とも絶望ともつかない感情を胸に抱いてディープスローターはひとりごちる。
特殊な事情を抱える彼女と違い、サンラクは常にシャンフロにインしている訳ではない。
元より様々なクソゲーを渡り歩く彼のスタンスも相まって、時には一週間以上も姿を表さないことも珍しいことではなかった。
にもかかわらず、彼女がこうも心乱されて居るのには相応の理由がある。
「楽しみにしてろ、なんて言ってたのにさぁ」
紆余曲折を経て関係性を進歩させた彼からの意味深な言葉。
それに期待をせずに居られるほどにはディープスローターは人間らしい情緒を捨てられて居なかった。
現在時刻は九月十六日の午後十時半を過ぎた頃。
彬茅紗音という人間にとって一年に一度の特別な一日が終わるまで、残り二時間を切っていた。
「待つのには慣れてるつもりだったんだけどなぁ……これは、サンラク君にしっかり責任をとってもらわないとねぇ」
在りし日のスペル・クリエイション・オンラインで、毎日彼の
来るかどうかも分からない
サンラクくんとフレンドになって、その隣に並び立つその瞬間を虎視眈々と待ち続けた。
そんな自分が、たった一日会えないだけでこうも焦れてしまうものかと、この日の為に用意したとっておきのお洒落装備の裾を指先で弄びながら
とはいえ、この苦悩の時間も間もなく終わる。そもそも今のディープスローターにとって、誕生日という概念は酷く曖昧だ。
彬茅紗音という存在が
ピピピピピピッ
そんな自傷とも自慰ともつかないあやふやな思考に耽溺していたディープスローターの元に、この日三度目となる無機質なアラーム音が鳴り響いた。
「うるさいなぁ…って、えっ……?」
それまでの対応と同じように再び無視を決め込もうとしたディープスローターであったが、その呼びかけが彼女にとっては大変珍しいことに、VRシステム内臓のカメラを通じてのものであったことに驚きを露にした。
常であれば外部システムからの連絡の後に紗音が覚醒し、それから改めて入室許可を下すことにより初めて彼女は外界の人間と接触する。
しかし今回はその手順を無視して、現実の紗音の身体のすぐ側で電脳世界内の彼女に呼び出しをかけている。
まさか何かしらの緊急事態が発生したのかと、空中に投影されたリアル側の映像を確認するものの、そこには見慣れた純白の病室の天井が広がるばかりで医者や父親などの人影は無い。
一体どういうつもりなんだと姿の見えない下手人に苛立ちを覚えるディープスローターは──次の瞬間、聞こえてきた声に己の耳を疑った。
『おーい、聞こえてるかー?聞こえてたら早く起きてこいよー』
「……な、なん、で……?」
それは、紛れもなくこの日彼女が待ちわびていた声で。
しかしそれはあくまでゲーム内でのこと。まかり間違っても現実世界でのことでは無いはずだ。
なのに今、現実世界から
有り得るはずのない事態に聡明な彼女の脳が混迷に包まれる。
『……起きないなら、俺もう帰っちゃうぞー』
「まっ、待って!!」
一向に
声の主の思惑通りに慌てたディープスローターは、大急ぎでテントを立ててセーブすると、現実に
VRシステムの終了処理の待ち時間に内心で悪態をつきながら、彬茅紗音は目を覚ました後の光景を想像し、期待と恐怖と喜びと嫌悪と希望と絶望をミキサーにかけたように心が千々に乱れていく。
やがて全ての処理が終了し、
「……ようやくお目覚めか、随分と寝坊助なお姫様だな?」
「────っ!!」
そこに居たのは見覚えの無い、紗音よりも幾ばくか年下であろう、少年と青年の中間に位置するくらいの年齢の男の子。
だけどその声が、その所作が、その存在の全てが紛れもなく彼こそがサンラクなのだと
「どう、して……?」
どうして私の
そんな無数の疑問を籠めた
「お前、たまーにだけど事情を話してくれてただろ?それで、俺も武田氏……知り合いの人の伝手を使ってお前の親父さんに連絡取ってみたんだよ」
門前払いも覚悟したんだけどな、なんて気軽に笑いながら話す楽郎に紗音は尚も困惑を隠せない。
確かにスペクリの最終日や、最近仲直りして以降にも極稀に自分の抱えるものを漏らした覚えはある。だけど、たったそれだけのことで何故彼はそこまでしてくれたのだろう。
ここは、
「まあ、そこから色々なことを話して、せっかくだからちょっとしたサプライズを仕掛けようぜって事になったんだけど、お前がいつまで経っても起きないからしょうがなく直接呼びに来たって訳だ」
「……それは、君がいつまで経っても来ないから」
だって、私たちの関係はどこまでもゲームの世界で完結していて。
現実なんて、私たちを離れ離れにするだけの悪夢のような物、なのに。
「あー……まあ、そこは俺が悪かった」
「……本当だよぉ。私、サンラク君が来てくれなくて結構本気で傷ついたんだからね?」
「ごめんって。流石のお前も今日ならどっかでログアウトすると思ってたんだよ」
君が来るかもしれないのに、そんなことする訳がないじゃないか。
そんな紗音の率直な抗議の言葉は、胸につかえて声になることなく宙に消える。
喘ぐようにはくはくと口を動かしながら、彼女は尚も視線で尽きぬ疑問をぶつけ続け、最後にようやく出てきたのはなんとも皮肉気で天邪鬼な台詞で。
自分はここまで面倒臭い女だっただろうかと紗音は密かに自嘲する。
「別にぃ……こんなのはただの只の数字の上での記録だからねぇ、わざわざ
「またお前は微妙に否定しづらいことを……」
楽郎とて「せっかくの誕生日なら思う存分ゲームがしたい」と思ったことが無いと言えば嘘になる。
とはいえあまりにも現実を捨てた紗音の言葉に全面的に同意することも出来ず、くつくつと喉の奥から苦笑が漏れた。
「ゲームならいつでもサンラクくんにも会えるしねぇ」
「でも、たまにはゲームの外に目を向けてもいいんじゃないか?」
「……君も案外しつこいなぁ。私がこれでいいって言ってるのに、なんでそんなことをしなくちゃいけないのさ」
しかし楽郎はそんな彼女の拒絶を意にも介さず、なんてことの無いように話し続ける。
「なんでってそりゃ……俺が
「────」
「それじゃ、理由にならないか?」
そっと差し伸べられた楽郎の右手がまるで騎士が姫に傅くように、恭しく紗音の手のひらに触れる。
予期せぬ事態に紗音は一瞬その身をびくりと震わせたが、楽郎は彼女の身体に何かしらの反応を示すことはない。
そんな無言の優しさが。
初めて触れる彼の手が。
真摯で暖かな眼差しが。
その全てが
「…………敵わないなぁ」
ナッツクラッカーの時も、シックスナインの時も、ディープスローターの時も、いつだって彼は
最早自分自身でさえも"己"の定義が解らなくなってしまった彼女にとって、それがどれほどの
涙を流せないこの身体に、紗音はこの日初めて少しだけ感謝した。きっと、彼にぐちゃぐちゃの醜い顔を晒す羽目になっていただろうから。
「……なぁ、紗音」
「……なぁに、サンラクくぅん」
嗚呼、本当にズルい
愛しい人に名前を呼ばれるだけで、私なんかがこんなにも幸せになってしまう。
自分にそんな資格は無いのだと諦めながら、それでも希い続けた言の葉を楽郎が紡ぐ。
──誕生日、おめでとう。