幼少期の楽郎と厳島真里亜が出会うお話。
それは小学校の夏休みも半ばを過ぎた、八月後半の或る日のこと。
未だ己の趣味を定めきれていない時期の楽郎と瑠美は、自由研究の手伝いと託つけた仙次と永華によって、釣りと虫取りに連れ回される毎日を送っていた。
楽郎が彼女と初めて出会ったのも、それがきっかけだった。
「あっつ……母さん、どこまで行ったんだろ……?」
その日、楽郎達は地元を離れて従姉妹の小夜里家にお邪魔していた。
基本的にはインドア志向のある楽郎だが、今回は滞在場所が仄かな慕情を抱いている津柚の家だということで、存外に外出に乗り気だ。
そんな息子の浮かれた気持ちを見逃さなかった永華は、津柚達家族との遊園地行きを餌にして、楽郎を見事昆虫採集に連れ出していた。
とはいえ今回の採集場所は都内の公園だ。前世紀から続く緑化事業により多少の木々はあるものの、成果はあまり芳しくない。
小さなカマキリやダンゴムシでさえも大喜びする永華に流石に着いていけなくなった楽郎は、公園のベンチで一人小休止をとっていた。
ペットボトルの麦茶を飲み、母の姿を探して視線を彷徨わせた先に……彼女はいた。
「ぐずっ……だ、だいびょうぶら゛がらね……ほら、ごっぢよ……!」
「な、なんだあの人……!?」
公園の隅の、ひときわ大きな樫の木の下。
高校生とおぼしき少女が木に向かって何やら話しかけていた。
鼻をぐじゅぐじゅと鳴らし、真っ赤に腫れた目からは滂沱の涙が溢れていて、顔中の穴という穴か様々な液体が垂れ流しになっている。
色白で楚々とした雰囲気の美少女であることを差し引いても尚有り余るその不審者ぶりに気圧された楽郎だが、少女が見つめ、手を伸ばす先……樫の木の上に何があるのかに気がつくと、意を決して彼女に話しかけた。
「おねーさん」
「ずびっ!?な、な゛にかじら、僕……?」
「だ、大丈夫……?」
「き、気にじないでいい゛のよ」
どう考えても気にせずにはいられない惨状であったが、楽郎はひとまず本題を優先する。
明らかに尋常ではない彼女から目を反らし、木の上を指差して端的に尋ねる。
「お姉さん、あの猫に話しかけてたの?」
「ぞうな゛の……降りら゛れないみだいで……」
二人が見上げた先では、まだ産まれてそれ程には経っていないであろう、三毛の子猫が揺れる枝の上で身を固くしていた。
尚も少女が手を伸ばすが、彼女の身の丈の優に倍はありそうなその木の上には到底届かない。
みぃみぃとか細く鳴く子猫と、己の状態を省みることもなくその猫を必死に助けようとする少女を見て、楽郎は考えるよりも先に口を開いていた。
「よし、それじゃ俺が助けるよ」
「へっ?」
「このくらいの木ならよく登ってるから大丈夫!」
言うが早いか、楽郎は器用に木の節や枝を伝ってするすると木に登っていく。永華に付き合い蝉やカブトムシを捕まえるために山林を駆け回った日々がここで活きた。
「あ、危な゛いわ゛よ!?」
「へーきへーき……ほら、もう大丈夫だぞー」
あっという間に子猫の元にたどり着いた楽郎が腕を伸ばせば、恐る恐る子猫が楽郎の元へ歩いてきて、しゅるりと首元に巻き付くようにしがみついた。
猫を落とさないように細心の注意を払いつつ木を降りると、固唾を飲んで見守っていた少女が感極まった様子で楽郎の手を両手で握ってぶんぶんと上下に振り回す。
「あ、あ゛りがどう……!わだじじゃ助げら゛れなぐで……!」
「どういたしまして……あの、お姉さん本当に大丈夫?」
先程よりも酷くなった鼻声に、困惑と心配が入り交じった顔で楽郎が改めて尋ねる。
少女がそれに返答するよりも早く、楽郎にしがみついていた子猫が不意に少女の方に飛び付いた。
「わわっ!?……こいつもお礼が言いたいのかな?」
「ね゛ごぢゃん……!!?けほっ、ごほっ!」
「え、あれ?お、お姉さん!?」
「ご、ごめ…ごほっ、かはっ……ひゅーっ、こほっ……」
「お姉さん、大丈夫!?きゅ、救急車ー!!」
何かの発作を起こした様子の少女に、楽郎は慌てて大声で助けを呼ぶ。
幸いにして息子の叫びを聞き付けた永華によって速やかに救急車に搬送され、重度の動物アレルギーの少女──厳島真里亜は無事一命を取り留めた。
救急車に乗るその時まで、発作を起こしながらも猫に手を伸ばし続ける彼女を見て、楽郎と永華は謎の親近感を覚えたという。
──そして、それから数年後。
『真里亜さん、誕生日おめでとう』
「あら、楽郎くんからメッセージが……って、こ、これは!?」
『うちの近所の野良達、最近なんか懐かれたみたいでさ』
「可愛っ!?う、羨ましい……!」
楽郎の学ランを布団代わりにおしくらまんじゅうをする猫達の写真を見て、可愛さと嫉妬で身悶えする真里亜がいるのだった。