過眠症のヒカルの碁   作:turara

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佐為の思い

 倒れた若い神が、ぬっと起き上がる。先ほどとは全く雰囲気が違っていた。先ほどの明るく、誠実で、可愛らしい笑顔を見せていた者とはまた違う、同じ顔、同じ姿なのにまるで別人に見える。

 

 それは、佐為の良く知るものの雰囲気だった。厳粛な空気を纏っている。

 

 起きあがると、菅原顕忠は背筋を整え佐為に正面から向き合う。その表情は引き締まり、佐為だけを一点に捉えていた。

 

 二人は数秒、何もいわずお互いに向かい合う。

 

 最初に口を開いたのは、菅原の方だった。

 

 「佐為殿・・・ですか?」

 

 そうきかれ、佐為は「はい。」と返事をした。

 

 

 佐為は、自分の心情に戸惑う。佐為は、正直、この目の前の菅原のことを未だに許せないでいた。許せる、許せないという問題は理性ではない。佐為の自殺の原因となったその遺恨は、佐為の魂のレベルで影響を与えていた。

 

 頭では、わかっているつもりだった。菅原と和解をすればいいだけの話だ。佐為が一言、「気にしてないですよ。」と言えば、菅原はそれだけで救われるだろう。

 

 しかし、佐為はどうしてもその一言がいえる気がしなかった。佐為は今だって菅原を責め立て、あの時どれだけ苦しかったか感情のまま訴えてしまいたかった。

 

 それでも、そう訴えられないのは、先ほどの若い神のことがあるからである。佐為は、少なからず、あの若い神、菅原顕忠に同情した。

 

 何百年も、あの出来事を思い悩み、魂さえ生まれ変わることが出来ずにいる。それがどれほどの苦しさか分からない佐為ではなかった。

 

 佐為は、あれから囲碁の神として召し上げられた。毎日、自分の好きな囲碁と向き合い、強いものと戦い、囲碁を磨き上げる。囲碁をうつものとして、これほど幸せなことはなかった。

 

 恐らく、菅原にもそんな未来があったはずである。

 

 彼は、佐為と等しいほどの碁の才を持っていた。

 

 佐為は、彼を救ってあげるべきだと思う。そして彼を救えるものは自分しかいないということも痛いほどわかっていた。

 

 それでも、佐為は、彼の事が許せないという醜い感情を抑えることができないでいる。それは、佐為の本能的な部分からきていた。佐為の生死を揺るがした、その事実は、佐為のコントロールできない部分に影響を与えている。まさに無意識の拒絶である。

 

 佐為は、そのような理性と、湧き上がる人間的な感情との間にいた。

 

 

 菅原は、静かに佐為を見つめている。

 

 佐為には、彼がなにを考えているのかさっぱりわからなかった。

 

 菅原は、ふと佐為から目を離し、碁盤の前へと移動する。彼は、碁盤の前まで来ると、その前でピンと立つ。優雅な動作で衣服を整えると、碁盤の前にすっと座る。

 

 佐為は、何もいわない菅原を不審に思う。最初に一言、謝ることぐらいしてはどうなのか。佐為は、少しも菅原の事が理解できない。

 

 佐為が硬直していると、菅原はふと口をあけた。

 

 「私は、あなたのことをとても意識していました。」

 

 菅原は、誰もいない碁盤の正面に向かい一人そう話す。

 

 「宮中で大君の囲碁指南役は二人。当時、囲碁において、私と佐為殿に敵はなしと言われるほど、飛び抜けていました。」

 

 佐為は、そう一人語る菅原を見つめる。菅原は、淡々とさらに一人語る。

 

 「私は、囲碁において一番強いという自負を持っていました。私は、誰においても勝つ自信があり、それは、実際その通りで、誰と戦っても私は負け越すことがなかったのです。」

 

 佐為は、当時を思い出す。佐為も菅原も、囲碁において負けなしで、佐為はいろいろな人と戦ったが少し物足りなさを感じていた。佐為と菅原は、周りより強くなりすぎていた。

 

 「私は、囲碁に対し物足りなさを感じていました。しかし唯一、あなたの碁だけは違いました。」

 

 飛び抜けた碁の才を持つもの二人。惹かれあわないわけはなかった。

 

 「私は、あなたの碁を見、震えました。そして感じたのです。私は、あなたと戦わなければならないと。」

 

 佐為は、想像もしなかった菅原の真実に驚く。

 

 「私は、その時から、あなたの碁ばかりをおってました。あなたと対局したものがいると聞くと、飛んでいき内容を教えてもらいました。私はそうして、幾度となくあなたと対局する想像を巡らしたのです。」

 

 

 菅原は、そう語ると、佐為の方を向く。佐為は、そんな菅原を見、思わず聞き返す。

 

 「それでは、どうしていかさまなどしたのです!」

 

 佐為は、思わず立ち上がる。佐為の持つ扇子が震えた。

 

 「私とて、あなたと対局する事をずっと待ち望んでいたのですよ。」

 

 佐為は、下を向く。抑えきれない感情をどこへ処理したらいいかわからず扇子を強く握りしめる。

 

 そんな佐為を見、菅原は苦い表情をする。

 

 二人の間に重い沈黙が流れる。

 

 菅原は、しばらくして決心したように口を開く。

 

 「碁をうっていただけませんか。」

 

 

 「今更、碁を打ったところでなにになると言うのです?」

 

 佐為は、碁を打ってくれという菅原にそう答える。しかし菅原は、そんな佐為を見て、さらに言う。

 

 「私は、あなたに謝っても許してもらえないほどの失態をおかしました。私は、もう二度と碁石をもつ資格はないと思っています。これが最後です。私は、碁を打つことで、あなたに誠意を示したい。」

 

 菅原は、佐為を真摯に見つめる。

 

 菅原は、これ以降、二度と碁をうたないと宣言した。そして、最後に囲碁をうつことで佐為に何かを伝えようとしている。

 

 佐為は、その菅原の言葉に、何ともいえない感情を抱いていた。

 

 「二度と碁をうたない?」そんな馬鹿な話があっていいのか。佐為は、菅原に激しい怒りを抱いていたはずなのに、菅原が囲碁をやめるということに関して、納得いかない気持ちになっている。

 

 佐為が菅原に許容し難い感情を抱いていることは事実だ。それなのに何故、菅原が囲碁をやめる事に、こんなに動揺しているのか。

 

 佐為は、自分で自分のことがわからなくなる。一体、自分は菅原にどうしてほしいのか。

 

 佐為は、どうしていいかわからず、ただ、菅原を見つめる。

 

 菅原は、佐為から視線をはずし、碁石をもつ。その持つ手は少し震えていた。

 

 佐為は、それをじっと見つめる。

 

 

 「碁打ちとして最後の私の全てを、佐為殿に捧げたい。もう一度、あなたとの対局をやり直しさせてはいただけぬか。」

 

 

 佐為は、その時、うたなければならないという謎の衝動に駆られた。

 

 『碁打ちとして、最後の全てを捧げる。』

 

 それは、佐為の菅原に対する憎しみを遙かに凌駕する、碁打ちとしての使命感だった。

 

 

 

 佐為は、決心したように、すっと立ち上がり、碁盤の前へ進む。

 

 かつて平安時代、共に囲碁という世界において高みを目指した。囲碁を一世風靡させ、その頂点に立った。

 

 二人はその立場から、なかなか交わることもなく、交わったと思えば断絶。二人は、真に才能を持っていながら、ついぞ、打ち解けあうこともなかった。

 

 二人は、結局、神髄まで碁打ち。囲碁でしか、伝えられない、分かり合えないことがある。

 

 

 

 碁をうつしかないのだ。

 

 

 佐為は、静かに碁盤の前、そして、菅原の前へ座る。

 

 二人は、何ともいえない表情であった。うまく言葉にすることができない、そもそも、自分でもよく分からない気持ちをそれぞれが抱えている。

 

 佐為は、菅原と同じく、碁石へ手を伸ばす。丸い、木の感触が生々しく感じた。佐為は、その感触を味わうようにすっと撫でる。

 

 佐為は、碁石を碁盤の前まで持って行くと、菅原と向き合った。

 

 

 

 あの数百年前に止まってしまった二人の時間。

 

 二人は再び、囲碁を交えることで、動き出す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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