僕が、あの棋譜を見つけたのは、たまたまだった。その時、僕は、掃除当番で、ゴミ捨て係を任されていた。廊下に設置されてある、ゴミ箱の中のゴミを、ゴミ袋へ移すのだ。
手慣れた様子で、ゴミを移していると、その中にぐしゃぐしゃになった棋譜を見つけた。碁を打つものとして、一目見ないと気が済まず、ゴミの中から拾い上げた。
台の上できれいにのばすと、拙い字で書かれた棋譜が現れた。なんとなく拾った棋譜であったが、それが、とんでもない価値があるものだと気づくのにそう時間はかからなかった。黒と白。どちらもプロ並みの棋力であることが分かる。
「凄い。」
塔矢は、ゴミ捨てのことなど忘れ、その棋譜を食い入るように見つめた。
この両者の腕が確かなのは、見たら分かるが、それよりも、塔矢はこの棋譜の美しさに心を奪われた。石の流れ、運び、そして、現代の定石を超越しているかのような打ち方、塔矢は、新しい囲碁の形を見ているかのような気持ちになった。
塔矢はこの棋譜に打ち震えた。
「こんな棋譜が存在するんだ。」
勝ち、負け、そういう概念を通り越し、ただただ、石の流れの美しさに身を任せた棋譜。何か、囲碁というものの本質について問われているような、そんな気持ちにさせられる。
塔矢は、この棋譜を見て興奮を抑えられなくなった。早く、囲碁をうたなければ、そういう気持ちになる。
塔矢は、この棋譜を見つけた感動と、この棋譜の美しさ、そして、自分もうたなければ、という使命感で、胸がいっぱいになった。
塔矢が我に返ったのは、掃除の終わりのチャイムが鳴ってからだった。
「あ、早く捨てに行かなきゃ。」
塔矢は、名残惜しく、その棋譜から目を離すと、丁寧な手つきでその棋譜を折りたたんだ。
塔矢は、ゴミ捨てに行っている間も、その先の授業を受けている間も、先ほどに棋譜のほとぼりが冷めず、ずっとそわそわした気持ちであった。
そんなことがあって、棋譜の興奮から、少しずつさめてきた後、次に、誰が書いたものなのだろう、と言う疑問が湧き上がった。プロであることは間違いなかったが、この両者のような碁を打つ棋士は思いつかない。
「誰が書いたものだろう。」
塔矢は、父が囲碁の名人なため、他のプロの棋士達と関わることが多い。いろいろな棋譜を見てきたし、うたせてもらってきたが、この棋譜をうつような棋士は見当もつかなかった。
「海外の人のものかな?」
中国とか、韓国のプロ棋士がうったものかもしれない。
しかし、まずいえることは、この学校の中に、この棋譜を書いた人がいるということだ。
「囲碁部顧問の尹先生なら誰が書いたものか分かるかもしれない。」
字の汚さからして、書いた人が同じ中学生であることは確かだ。塔矢は、もし、その書いた人が見つかれば、その人たちがうった碁の他の棋譜も紹介してもらえるかもしれないと言う期待を持った。
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放課後、塔矢は、尹先生のもとを訪ねた。
「尹先生、お話があるのですが、少しいいですか?」
尹先生は、塔矢の訪問に少し驚いていたみたいだった。
「塔矢君、珍しいですね。どうかしましたか?」
塔矢は、ポケットから綺麗に折り畳まれた棋譜を取り出した。
「この棋譜を書いた生徒に見覚えはないですか?廊下のゴミ箱の中で拾ったんです。」
尹先生は、塔矢から棋譜を受け取ると、しわだらけのそれに目を通した。
「もしかしたら、囲碁部の生徒が書いたものなのではないかと思ったのですが。」
尹先生も、この棋譜の美しさに感銘を受けたようで、感嘆の息をもらした。
「美しい碁ですね。」
尹先生は、その棋譜に目を奪われ、そして、つー、と涙を流した。塔矢は、尹先生の気持ちがよくわかった。碁を打つものとして、体が打ち震えるほど美しい棋譜と出会えることは、本当に幸せなことだ。塔矢は、涙を流す尹先生を見て、また自分の中に、この棋譜の熱が入り込んでくるのを感じた。
「すみません。あまりにこの棋譜が美しいもので。」
尹先生は、棋譜に涙が落ちないよう、慌てて拭った。
「いえ。僕も、最初見たとき、そうなりましたから。僕は、今でさえ、この棋譜が頭から消えないんです。」
尹先生は、涙を拭うと、塔矢に棋譜を返した。
「囲碁部に、このような棋譜を書いた人がいるかどうか、聞いてみますね。」
「お願いします。」
塔矢は深く礼をすると、職員室から出、帰路に就いた。早く、囲碁をうちたいという気持ちももちろんあったが、それより、この棋譜を誰かに見せたくてしかたがなかった。
「父さんが見たらどんな反応をするのだろう。」
名人である父でさえ、この棋譜を見て、感動するに違いないと、塔矢は思っていた。
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あの棋譜を見つけて一週間が立ったが、何一つ手がかりが掴めないままだった。尹先生がいうには、この棋譜を書いた人は、囲碁部にはいないらしい。また、名人である父も、この棋譜のうち手に心当たりはないみたいである。
ゴミ箱で見つけたあの棋譜は、囲碁プロの間で話題になった。父が、この棋譜を塔矢門下生に、紹介し、あっという間に広がった。しかし、プロの間でも、誰一人として、この棋譜に関することを知っているものはいなかった。
「誰なのだろう。」
棋譜は、まさに、神の1手に一番近いという棋譜として広がりつつあった。誰もが、大げさな言い回しだと思いその棋譜をみる。しかし、棋譜を見たもので、その事に反論しようとするものはいなかった。それだけ、囲碁をうつ者の心に響く棋譜だったのであろう。
塔矢は、この棋譜が忘れられず、また、囲碁に対する熱が思い出すたび、わき上がってくるのを感じた。
塔矢は先生に頼まれていた課題を届けるため、職員室に行こうとしていた。すると、どこからか声が聞こえることに気がついた。どうやら裏庭からのようで、不審に思い、恐る恐る近づいた。多分1年生なのであろう生徒が何かを見て、独り言を言っているようだった。
「見たことがある。確か、隣のクラスの、進藤という名前だったっけ。」
進藤ヒカルは、同級生の間でかなり有名な存在だった。派手な髪色もさることながら、ずっと授業中も、昼休みも寝ていることが多く、変な奴として多くの人に知られていた。それでも、この進学校で普通の成績を取っているらしいし、普通に友達からも慕われている。
「わかんねー。」
少し近づいてみると、どうやらそれは詰碁らしかった。
(詰碁?)
進藤ヒカル、囲碁という妙な結びつきを塔矢は不思議に思った。見た目からして、囲碁をするように見えないからである。
塔矢はそっと近づくと、後ろからその詰碁をのぞきこんだ。塔矢は一気にその棋譜に引き込まれる。詰碁は、相当難易度の高いもので、恐らくプロレベルだろうことが読み取れた。
そして、塔矢はふと、あの棋譜のことが頭によぎった。この詰碁を作った人物と、あの棋譜をうった人物とはまた違うように思えたが、洗練された碁という部分では似通ったもの感じた。この詰碁もまた美しく、人の何かを揺すぶるようなものを感じたのだった。
「誰?」
そうきかれて、はっと我に返った。進藤という人物は不審そうな目でこちらを見ている。
「ご、ごめん。なんか見てるなと思ったら、詰碁だったから。」
進藤は、それでも、不機嫌そうにしている。恐らく、この詰碁が解けず、イライラしているのだろうことがうかがえた。
「あ、勝手に覗き込んでごめん。ところで、面白そうな詰碁だね。」
「今、解いてたんだ。」
そう言って進藤は、僕に詰碁を見せる。塔矢は、その詰碁を覗く。後ろから見ていたときも、すごくいい詰碁と思ったけど、あらためて、しっかりと見ると、やっぱりこの詰碁のすごさを感じる。相当な腕前の者が作ったに違いなかった。
塔矢は、すぐにこの詰碁に没頭した。この状況で黒が生き延びる手。一見確実に、死んでいるように見えるが、恐らく、生き延びる一手があるのだろう。
塔矢が必死に考えていると、突然、進藤が立ち上がった。
「もういいだろ。俺行くわ。」
塔矢は突然のことに驚き思考が停止した。進藤には、聞きたいことが山ほどあったが、さっきの詰碁のこともあり、動けなくなった。それより、さっきの詰碁のことが気になってしかたがない。
「ここうてば、どうなるかな?」
なんとか、進藤を引き止めたくて、そう声を絞り出した。返答に期待したわけではない。しかし、進藤から返ってきた答えは、塔矢の核心を的確に突いた答えだった。塔矢は進藤の棋力の高さに驚く。恐らく、相当棋力が高くないと、このような返答はできない。
塔矢は、初めてのライバルといえるかもしれない相手に心を躍らせた。今まで、同級生で自分のライバルになり得るような人物はいなかったからである。