葉月の異常な愛情~または僕は如何にして心配するのを止めて近界民を愛するようになったか~   作:Amisuru

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season0~大庭葉月:オリジン~
Judas Priest(前編)


 

 

 我が大庭(おおば)家の食事は家族一同の合掌から始まる。

 『いただきます』の挨拶ではない。死者に祈りを捧げているのだ。メメント・モリ。失われた命を忘れることなかれ。

 しかし眉間に皺を寄せるほど固く目を瞑り、ぶつぶつと何かを唱え続ける父と母の様子を横目で見る度に、亡くなった娘のことを忘れないのは結構なことだがせっかくの炊き立てご飯が目の前でじわじわと冷めていっていることも忘れないでほしい、と育ち盛りの身としては思ってしまう。

 冷めるというのは食材の死を意味している訳で、彼らは毎日毎日蘇りもしない娘のために美味しい料理の数々を殺し続けているのだ。勿体ない。

 どうせ冷めようが冷めまいがお前が食い殺すんだろうって? いえいえ、食べるということは僕の命と同化して生き続けるということなんですから死ではありませんよ。そう思わなきゃ動物の肉なんて食べられないでしょう。

 

 

愛しの陽花よ、お前が口にすることの出来なかった命を我らが貪ること、どうか許し給え――いただきます」

『いただきます』

 

 

 この食欲をごっそりと奪う挨拶も、もう少し何とかならないのかと思う。僕の食事に対する態度が命に対する冒涜だと思った方は、この父の懺悔を聞いてどう思っただろうか?

 彼は亡くなった姉が食べることの出来ない料理を口にするのは申し訳ないことだと思っていても、その料理の一部となった命に対する申し訳なさとかそういったものは一切感じていないようなのだ。つまるところこの親にしてこの子ありというわけで、今日も僕は下を見ながら生きていく。

 で、生きるということは食べるということであり、困ったことに多少死んで(冷めて)いようが何だかんだで母の作るご飯は美味しいのである。

 そしてそのご飯を用意するための食費を稼いでいるのは父であり、僕はそんな父と母がいなければ生きてはいけない中学3年生の小僧に過ぎないのである。

 故に僕は、口にしながら口にするのだ。

 

 

「今日も母さんの作る料理は最高だね」

 

 

 と。

 

 

 僕の身体は食べることを望んでいる。

 そう思えるうちは、まだ大丈夫の筈だろう。

 

 

 

 

 亡くなった姉と言っても、そもそも彼女はこの世に生を受けたと言えるのだろうか。『彼女』であったかどうかも分からないまま消えていった命だというのに。

 いや――十中八九『彼女』ではあり得ないのだ。何故なら双子の僕は男で、母親の胎内から出ることなく消滅したそいつは僕の一卵性双生児にあたるからだ。『バニシング・ツイン』と呼ばれる現象らしい。妊娠した双子の片割れが子宮の中でいつの間にか消えてしまう、というもの。

 医学的には『双胎一児死亡』と言うそうで、『死亡』という言い回しを使っている以上はやはり命が失われたものとして考えるべきなのだろうが、僕には今一つその感覚はピンと来ない。しかしその『ピンと来ない』という話を一度母にしたら、本気の張り手を何発も食らい、鼓膜が破れんかの怒鳴り声で泣き喚き怒鳴られ、

 

 

『どうしてアンタみたいなのが生き残って陽花が死んでしまったんだろう』

 

 

 的なことを言われてしまったので、ああ、これは口にすることが許されない疑問なんだな、ということだけは理解している。

 心の中では未だにこうして、もやもやとしたものを抱え続けている訳なのだけれど。

 

 

 さて、一卵性双生児というのは基本的に性別が一緒だ。生き残った僕は男なのだから、逆説的に性別を確認出来ないまま消えていった陽花(仮)とやらもほぼ間違いなく男だった筈なのである。

 『基本的に』とか『ほぼ間違いなく』とかいう表現を使っているのは、ごく稀に異なる性別を持った一卵性双生児が生まれることもあるからなのだが、ただでさえ片割れ消滅などというレアケースに更なるレアケースが重なるものかよという話。

 故に僕は父と母の口にする『陽花』という存在が実体のない酷くおぞましいものに思えて仕方がないのだが、どうにも彼らにとってはその『陽花』こそが本来この世に生を受けるべきだった愛しの娘であり、ここにいる大庭葉月とかいう名前の小坊主は何かの間違いでママの腹からこんにちはしてしまったクリーチャーに過ぎないのだという。

 葉月というのは陽花の妹に与えられるはずだった名前で、僕の股間には一応男として生えていて然るべきものが生えているわけなのだが、そういった肉体的事情は一切無視されて僕は大庭葉月として生きていくことを決定付けられてしまった。大庭葉月というのは大庭陽花の妹であるべき存在なのだから、逆説的に大庭陽花は大庭葉月の姉になるわけである。

 どちらが先に生まれたのか――というか、実際に生まれたのは僕一人であるにも関わらず、陽花が『姉』として扱われているのもそういうことだ。両親はとにかく娘を生むことに固執していたようで、

 

 

『お前が男だと判った時点で堕胎(おろ)すことも出来たんだぞ』

 

 

 みたいな脅し文句もいつだったか父の口から聞いたことがある。

 こうした恨み言は僕が何かをやらかす度に頂戴しており、僕が両親からの罵倒エピソードを語るというのはその罵倒の数だけ僕が物事に失敗してきたことの証になるわけで、そう思うと僕はもうこれ以上何も考えない方が身のためのような気がしてきたぞ。

 そもそも僕は今、誰に向かってこんなことを考えているのだろうか? 今僕は何をしている最中だったっけ? 朝飯ちゃんと食ってきたのか? 歯は磨いたのか? 顔は洗ったか? ハンカチ忘れずに持ったのか?

 

 

「――話が長くなって悪かったな。とにかく皆健康に気を配って、来年もまた元気よく教室に顔を出すように。米屋、号令」

「うぃーす。きりーつ」

 

 

 気怠いながらもテンポ良く応じたクラスメイトの声に続いて、がたがたと椅子を揺らす音があちこちから響き渡り、視界一帯に制服の山が生えてくる。突如として雑木林の中に一人取り残されたような気分を味わっている中、僕が立ち上がるのを待つことなく「れい」の二文字が発せられる。

 

 

『ありがとうございましたー!!』

 

 

 そりゃそうだ。皆早く帰りたいよな。今日から冬休みだもんな。

 

 

 

 

「『着席! ……と、思うじゃん?』ってボケでも最後にかまそうかと思ったんだが、間違いなくスベるからやめといた」

「てめーにしちゃ空気読んだ判断したじゃねーか」

「いやいや、オレはいつだって空気の読める男だぜ? 読み切った上で相手の思惑を欺くからこそ面白いんじゃねーか。弾バカはわかってねーなー」

「うっわ、性格悪りー。いかにもスコーピオン使ってるやつの言いそうな台詞だわ」

「脳筋両攻撃(フルアタック)ヤローには伝わんねーかー、この裏切りの醍醐味ってやつが……なー葉月、おまえなら理解(ワカ)んだろ? 誰もが割れないと思ってる風船をちょこんと突っついて破裂させたときの快感みたいなやつだよ」

「スコーピオンがどうとかフルアタックがどうとかっていうのはさっぱりわかんないけど、陽介はまず座ったままの僕を無視して号令かけたことについて謝るべきだと思う」

「おいおい、『あれれー? 皆立ってるのに葉月くん一人だけ立ってないぞー?』みてーな晒し物にでもなりたかったのかよ? オレがさっさと進めて解散ムード作ったから、センセーもおまえがボケっと座ったままなのに気付かないで帰ってったんだろ。そこはむしろ感謝してもらいてーな」

 

 

 なるほど。無視した『と、思うじゃん?』というやつか。これは一本取られたな。

 学校を出ての帰り道、僕の前を並んで歩いているのは出水公平と米屋陽介の二人だ。彼らは中学3年生にして『近界民(ネイバー)』と呼ばれる怪物から三門市の平和を守る組織『ボーダー』の一員であり、たまにこうして一般市民の僕を置いてけぼりにした会話を繰り広げたりする。しかし僕も日常会話の中で二人を置いてけぼりにすることが多々あるので、関係は対等の筈だ。

 前に僕が二人に対してそんな意識を持っていることを伝えたときには、

 

 

『葉月はそうやっておれらを特別扱いしねーところが楽でいい』

 

 

 と笑われたものだが、僕からしてみればそれこそお互い様という感じであった。

 

 

「で、どうよ」

「――ま、そうだね。予期せぬ出来事に慌てふためいてる人の姿が面白いっていう感覚は、確かに理解できなくもない。自分が仕掛け人なら尚更ね」

「さっすがー、葉月サマは話がワカるっ!」

「おー、嫌だ嫌だ。こういう奴らが火事でもねーのに遊び半分で非常ベルにピンポンダッシュかましたりすんだよな」

「流石にそこまではやらないけど。――やらないよね? 陽介」

「と、思うじゃん?」

『おい』

「ジョーダンだよジョーダン。こちとら三門の平和を守る正義のボーダー隊員サマだぜ? 市民の不安を煽るようなバカな真似出来ないっつーの」

 

 

 そう言って陽介は肩を竦めるのだが、その台詞自体は割と彼なりに本気の意思を込めて口にしたものなのだろう。()()()()()()。けれどそこを冷やかすような真似はしない。この道化染みた振る舞いの中に通った一本の芯も含めて米屋陽介という友人の形なのだ。僕は彼の掲げる『と、思うじゃん?』の精神を大事にしてやりたい。

 我が三門市立第三中学校の二学期最終日は昼前に終わりとなり、遊び盛りの生徒たちは早速午後から自由な時間を与えられた。といっても六頴館(進学校)を目指しているような三年生にとっては受験に向けて最後の追い込みをかける大事な時期にあたるのだろうが、少なくとも目の前の二人には一切関係のない話だ。彼らは既に第一(普通校)への進学が決定している。

 六頴館も第一も共にボーダー提携校ではあるのだが、公平はまだしも陽介が進学校など目指す筈もない。彼の学力は悲惨の一言に尽きるのである。それはもう、そこらの5歳児か何かとタメを張るようなレベルで。

 かくいう僕は一応六頴館を志望しているのだが、何しろ中学の初めからずっと六頴館を目指して勉強()()()()()いるので今更慌てる筈もない。

 

 

『お前は陽花の命を背負い、あの娘が送る筈だった人に誇れる人生を歩まなければならないんだ』

 

 

 というのは父の口癖の一つである。彼の中にある大庭陽花というのはそういう存在らしい。勝手にそんな理想を背負わされる羽目になったこっちとしてはいい迷惑にも程があるのだが、そういう不満を口にすると父もまた僕に手を上げる始末なのでどうにもならない。

 あーあ、僕も一度言ってみたいなあ。父さん母さん、僕六頴館に受かったよ!

 

 

 ――と、思うじゃん?(笑)

 

 

 ああ畜生、そんなの絶対に面白いじゃないか。勝手に脳が(笑)とか付けちゃった時点で、どう考えたって痛快なんだ。これこそまさに遊び半分で非常ベルを鳴らしたくなる子供の気分ってやつだろう。

 けれど僕がそれをやった場合、非常ベルを押した後で火の手が上がるという一種の未来予知になってしまうのは間違いない。父と母による憤怒の炎は大庭葉月とかいういたずら小僧の身も心もたちまち焼き尽くしてしまって、後にはきっと燃えカスだけが残るのだ。むーざんむざん。

 

 

「カラオケに行こう!!」

「えらい唐突だな」

「まーた葉月お坊ちゃんの発作が始まったか」

「うるさいな。僕は今とにかく歌いたい気分になったんだよ。シャウトのある曲だと特にいい――そうだな、『Painkiller』なんか曲名もぴったり合ってる。この痛みを殺せるものが欲しいんだ。He is the Painkiller(彼はペインキラー)...This ih the Painkiller(これがペインキラー)...ア――――――――――!!

うるせえのはてめーだよ! ……あーくそ、危うく足が出るとこだったじゃねーか。おれに()()を蹴らせんなよな」

「生身?」

「気にすんな、業界用語だよ業界用語。とにかく葉月、いきなり路上で奇声をあげんのはやめろ。帰り道が一緒のウチの生徒とか買い物帰りかなんかのおばちゃん方が皆ぎょっとしておまえのこと見てたぞ」

「悪いね公平。君らも僕の同類だと思われちゃったかな」

「それは別にいいんだよ。他人(ひと)サマに迷惑掛かるようなことすんなっつってんの。さっきの非常ベルの話もそうだぞ、おまえちゃんと理解ってんのか?」

「ワカってるワカってる」

 

 

 理解している。そうやって真剣に僕を叱ってくれる君は、とてもいい友人であるということを。周りの目を気にしろと言いながら、僕みたいな頭のおかしい奴と未だに交友関係を育み続けてくれている君たち二人は、僕にとって何物にも代え難いものなのだと。

 帰り道が一緒というのは当然僕とこの二人に関しても例外ではなく、放課後は大抵こうしてだらだらと中身のない会話を繰り広げながらつるんで帰るのが恒例だった。

 去年の9月に公平が、今年の5月に陽介がボーダー隊員になって以降はちょくちょくその恒例に狂いが生じることもあったが、今日はこうして三人で集まって帰ることが出来ているので、てっきり二人ともこの後の予定は空いているものだとばかり思っていた。それ故の提案だったのだが、

 

 

「で、わりーけど今日はパス」

「あれま」

「いや、12月はマジで予定詰まってんだよおれ。またしばらく三門離れなきゃなんねーし、今日も早速基地行ってそこら辺の打ち合わせしねーといけねーし……おれに冬休みってやつは存在しないもんだと思え」

「夏休みにも似たような台詞を聞いたような気がするなあ」

「ははは、しょうがねーんだよ。こう見えて弾バカ様もれっきとしたA級1位部隊の一人だからな。ボーダーの頂点(トップ)ってやつは忙しーんだ」

「1位っつったって、東さんのとこが解散して空いた席をぶん取ったってだけだしなー……もうちょい長く順位キープすりゃ実感ってやつも湧いてくるんだろーけど、正直まだピンとこねーわ」

 

 

 A級1位。ボーダーでは隊員同士が2~5人くらいの規模で部隊を組み、チーム同士で模擬戦を行うことによって順位付けをする独自のシステムが存在しているという。

 そしてこの出水公平という男、入隊早々に『天才』と謳われるほどの有望株だったそうで、その評判に恥じぬ働きっぷりを見せた結果なのか、今年の夏頃に行われたランク戦でとうとう所属部隊が頂点の座を勝ち取ったのだという。

 が、どうやら彼の部隊が1位を取る前には東某なる人物の部隊が不動の1位に座っていたそうで、公平や彼の部隊の隊長なんかは東某の部隊が勝ち逃げのような形で解散してしまったことにちょっとした悔しさを抱いているとかなんとか。

 まあその辺りの彼の事情は置いておくとして、問題なのは公平がカラオケに付き合えないということだ。既に脳内で三人揃ってヘドバン決めながら『people=shit(人間なんてクソだ)!! people=shit(人間なんてクソだ)!!』と叫び続けるイメージが出来上がっていたのだが、いやはやどうしたものか。

 

 

「おれは付き合ってもいいけど、どーする?」

 

 

 と、陽介。そうだな、陽介は盛り上げ上手でノリもいいので二人っきりでも退屈しない相手だ。入れる曲はラップばかりだし歌唱力も褒められたものではないが、そんなことは重要じゃない。

 音楽っていうのは心で奏でるものなんだ。僕の(音楽)に付き合ってくれる相手なら、ジャイアンだろうと綾辻遥(ボーダー屈指の音痴と評判らしい広報部隊の美人さん)だろうと大歓迎だ。が。

 

 

「おいおい、学校終わったらすぐに基地行って明日のランク戦に備えてのミーティングだって三輪から言われてんじゃなかったのかよ? あいつを怒らせたら後がこえーぞ」

「あ、このバカ! 弾バカでしかもバカ!」

「うるせーぞただのバカ。……なんかこれだと普通に悪口っぽくてアレだな、スコピバカって言うほどこいつスコーピオンに愛着ねーし……うーん……」

「陽介も忙しいんだね」

「あー、まーそうなんだけどよ。ボーダー入ってから葉月と遊ぶ時間めっきり減っちまったし、せっかくの冬休み初日くらい付き合ってやるのがダチの心意気ってやつじゃねーのかって思ったわけだよ。聞いてるか弾バカ?」

「うっ……バカの癖して一理どころか万理あること言いやがる」

 

 

 ああ、なんてことだろう。公平までもが揺らぎかけている。それは駄目だよ二人とも。君たちは三門市の平和を守るボーダー隊員なんだろう? 僕みたいな取るに足らない奴のためにその職務を投げ打つ必要なんかないんだ。

 僕はそう口にしたかったのだが、そんなことを言ったら逆に意地でも僕との時間を捻出しようと躍起になってしまうような友達(バカ)がこの二人なのだということを、僕は知っている。

 ()()()()()()()()

 ――そんなものがこの世の中にあるのだと信じられるうちは、僕はきっと大丈夫の筈なのだ。

 だから僕は、心の底からこう言える。

 

 

「二人とも気にしないでいいよ。漫画の台詞じゃないけど、その気持ちだけで充分ってやつ」

「……わりーな葉月。帰ってきたら絶対時間作るからよ、おまえの歌いたい気持ちってやつもそん時までとっといてくれ」

「いや、カラオケは普通に僕一人でも今から行く」

「ええ……」

「ぷっ――ははははは!!」

 

 

 せっかくの決意を宙ぶらりんにされて困惑する公平。その公平の顔を見て爆笑している陽介。

 僕のささやかな『と、思うじゃん?』が、本家本元のツボにハマったようで何よりだ。

 

 

 

 

 

 で、結果的に言うと、僕のこの抑えきれない歌唱欲というやつが全ての引き金(トリガー)になった。

 

 

 

 

 

 まさかヒトカラで夕方まで粘ってしまうとは思わなかった。自分で自分にビックリだ。

 

 

「た゛だ゛い゛ま゛ー゛」

 

 

 なんだこの声。喉から吐き出した音の全てに濁点が付いている感じがする。純度の欠片もない。風邪をこじらせたおじいちゃんの寝起きの第一声の方がまだ奇麗な音をしているんじゃないか? これは当分の間のど飴が手放せない、もとい舌放せないな。

 そんなことを思っていると、玄関に並んでいる靴の数がいつもより一足多いことに気が付いた。この場合のいつもというのはこうして家に帰ってきた時の『いつも』を指しており、ウチにあってもおかしくはないのだけれど夕方とはいえこの時間にあるのはちょっとおかしいぞ、という意味で靴が多いのだ。

 ――父が帰ってきている。

 まずいな、と思った。六頴館を目指すにあたって今更慌てる必要などない、というのはあくまでも僕個人の認識であって、両親、とりわけ父はもう少し悲観的な見方をしているのだ。

 これは僕が勉強出来る雰囲気を出してるだけで実際のところはパーだとかそういう意味ではなく(ホントだよ?)、単に僕は学業に限らず、あらゆる面で両親からの信を得ていないのである。『どうしてお前は当たり前のことが出来ないんだ』というのが、父の口癖の一つだ。

 ……なんだか、僕の知っている父の口癖というのはこんな台詞ばっかりだな。どうしてだろう。父は僕に当たり前を求めるけれど、そういう貴方の振る舞いはいわゆる当たり前の父親というものに合致しているのだろうか?

 

 

「何処に行っていたんだ」

 

 

 父親っていうのは、皆が皆、実の子供に対してこうも威圧的なものなのだろうか?

 

 

「……と゛し゛ょ゛か゛ん゛で゛」

「嘘を吐くな」

 

 

 うん。そりゃバレるだろうな。誤魔化しようがない。とはいえ流石にこの声だけでも何とかしておきたい。駄目元で二、三度咳払いをしてから、

 

 

「カラオケに行っていました」

 

 

 おお、思ったよりもマシな声になったぞ。そりゃ普段と比べたら酷いものだけれど、少なくとも文字で表す分にはギリギリ何とかなるだろうくらいの状態まで淀みを抑えられたような気がする。

 などと内心で満足げな気持ちに浸っていたのだけれど、そのささやかな満足感は直後に張られた頬から伝わる強烈な痛みでたちまち吹き飛んでしまった。

 ぱーんと弾ける感じがした。実際、そんな感じの音も鳴ったような気がする。

 たまにテレビでプロレスラーが闘魂注入とか言ってビンタを貰った後に『ありがとうございます!』とか言っているけれど、あれは覚悟が出来ているからそう言えるのであって、本来いきなり頬を張られたらこうも気力が失われるものなんだな。別に初めて味わう感覚でもないのだけれど。

 

 

「恥を知れ!!」

 

 

 ……知ってますよ。

 単に僕にとっての恥と、貴方にとっての恥が違っているだけです。

 貴方はきっと、僕が六頴館に落ちたらこの世の終わりだと言わんばかりに嘆いた後、その嘆きの全てを暴力に変えて僕にぶつけるのでしょうけれど、僕はそれより今日カラオケに行けないような自分になることの方が嫌だった。歌いたいのに歌えもしない自分になることの方が嫌だった。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 ――ああ、もう少し立派なことでこの言葉を口に出来たら、少しは格好も付くんだろうになあ。この状況だと薄っぺらも良いところだ。この言葉の価値まで汚してしまいそうで良くない。そう、僕はきっとこの言葉を口にする資格のない人間なんだ。

 ああ、けれど。

 そんな僕でも、この言葉が途轍もなく価値のあるものだということだけはわかるんだ。

 僕はそのことを誰かに伝えたいんだ。

 

 

 

『ぼくがそうするべきだと思ってるからだ!!』

 

 

 

 ――そう、きっと、世界の何処かに僕ではない本物がいるんだ。

 この言葉を叫ぶのに相応しい誰かがいるんだ。

 けれど、それは間違いなく、僕ではない。

 そうでなければ、この言葉を口にすることに、こんなにも後ろめたさを感じる筈がないんだ。

 

 

「自惚れるな。お前はそもそも生まれた時から出来損ないなんだ。葉月の名前を与えて女の服でも着せてやれば少しは妹らしくなるかと思ったが、成長していくにつれてただただ気味の悪い化け物が出来上がるばかりだった……お前は失敗作なんだ。人間として失格なんだよ」

 

 

 そりゃあそうだろう。娘ではないものを無理矢理娘に仕立て上げようとしたって上手くいく筈がないのに、何故この人はさもお前のせいで失敗したんだと言わんばかりの態度を取れるのだろう? 幼少期からあの手この手でホルモンバランスを弄られた僕の身体は限りなく男性的特徴を排除したものになっているが、それでもどうしようもなく僕の股間には男性器が生えているし、胸が大きくなるわけでもないし、ゆくゆくは髭の一本や二本でも生えてくるのだろう。今は生えていないが。

 だから僕は、どうしたって、本当の意味での大庭葉月になることは出来ない。じゃあここにいる僕は一体何なのだろうと考えたら、なるほど、確かに父の言う通り僕は失敗作なのだろう。しかし世の中には身体の性と心の性が一致していない人間、たとえば、僕と同じ立場だけれど心の底から自分を女性だと思っているような人達も存在するわけで。

 仮に僕がそういう人達と同じものになることが出来たなら、僕は今のように父に失望されることなく娘として扱われ続けることが出来たのだろうか? 僕が自分を女だと思えなかったから、父は僕を拒絶したのだろうか? やはり僕が全て悪かったのだろうか?

 ……ああもう、ワケがわからない。一体僕と父のどちらが間違っているのだろう。或いはどちらとも正しいのか、はたまたどちらとも間違っているのか。誰でもいいから、はっきりとした答えを導き出してほしい。

 無理かな。無理だろうな。最近の世の中って頻繁に、()()()()()()で揉め事になってるもんな。こういう時に答えを教えてくれるのが神様って奴なんだろうが、答えが見つからないということはこの世に神様なんかいないことの証明になるんじゃないだろうか。また別の方面に喧嘩売りそうな流れになってきたな。クソッタレ。考えたってどうしようもないことばかりで溢れ返ってやがる。

 

 

「いいか。お前はただ陽花のことだけを考えていればいいんだ。私も妻もそうやって生きている。あの子が喜ぶと思うことだけを考えろ。その意識が足りないから、今日という日が私たちにとってどれだけ大事な日なのかということも忘れてしまえるんだ。来い!」

 

 

 この世界に神様なんかいない。けれど、少なくとも我が大庭家にはそれが存在するらしい。大庭陽花という名の唯一神が。

 ついてくるのが当然だと思っているようにずかずかと居間へと進んでいく父の背中に続きつつ、僕は頭の片隅で()()()()だけをひたすらに唱え続けていた。これも僕にとっては借り物だけれど、さっきの言葉に比べたらずっと気軽で、おどけていて使いやすい。それに何より、僕にとって心の底から信じられる人の言葉だ。

 

 

 ――それでもやっぱり、借り物の刃なんていうものはいとも容易く折れてしまうもので。

 

 

「……なんだ、これは」

 

 

 父が僕に見せたのは、僕が生まれたときからずっと家に置いてある陽花の仏壇だった。水子供養といって、生まれることなく亡くなった赤ん坊に寺社で戒名を授けて弔う文化は普通に存在する。それ自体は異常なことでも何でもないのだが、しかしその、仏壇に飾られている写真に写っている人間の顔が、おかしい。

 

 

 ()()()()()()()

 

 

 いや、明らかに元は僕の顔なのだが、よく見ると――見たくもないのだが、肌質や顔つきが微妙に弄られているのが分かる。僕よりも更に、女らしい顔に歪められた僕が、そこには写っている。最初はとうとう僕への嫌がらせの極致でこんな行為に走ったのかと思ったのだが、この写真の意味するところというのは、つまり――

 

 

「いいでしょう?」

 

 

 そう言って笑っているのは母だ。血の繋がった僕の母親だ。

 僕が世界の誰よりも、信じてあげなければいけない筈の人だ。

 

 

「フェイスアプリっていうんですって。便利な世の中になったものよね……ちょっと加工するだけで写真に写った人の性別を自由に変えることが出来るのよ。ああ、本当に奇麗な顔……こんな形で成長した陽花の顔を見ることが出来るなんて思っていなかったわ」

「全くだよ。世の中にこんな愛らしいものが存在するなんて信じられない……ああ、陽花……お前は本当に私たちの自慢の娘だよ……」

 

 

 

 

 

 気持ち悪い。

 気持ち悪い。

 気持ち悪い。

 

 

 

 

 

 何だっていうんだ? 僕の目の前にあるこの現実は一体何なんだ? この人たちの目には一体何が見えているんだ? 自分たちのやっていることが何なのか本当に理解しているのか?

 それは僕の顔だ。間違っても大庭陽花とかいう()()()()()()()()の顔じゃない。そいつはもう、死んだんだ。それどころか生まれてすらもいないんだぞ。そんなやつの顔に僕の顔を当て嵌めて、機械で弄り回して、出来の良さに陶酔して愛でるのか。

 間違っている。こんなものは、間違っている。何一つとして正しいものが見当たらない。それに――なあ、貴方たちは今まで一度だって、僕の顔をそんな風に褒めてくれたことなんてなかったじゃないか?

 

 

「葉月、あなたは本当に愚かな子。毎年毎年弔っているのに、どうしていつも忘れてしまえるのかしら? その頭の中には何が詰まっているの? 今日は陽花の16回目の命日じゃないの。だからお父さんも早めにお仕事を切り上げて帰ってきてくれたのよ。それなのに、お昼で学校が終わる筈のあなたが遅くまで帰ってこないというのはどういうことなの? こんなことになるなら休ませてしまえばよかったわ」

「……言ってくれれば、早めに帰ってくるくらいのことはしたのに」

「愚かな子!!」

 

 

 そうか。二度も言うのか。母にとって僕が愚か者だというのはそれほど強調して主張したいことなのだな。

 

 

「あなたは『今日はクリスマスよ』って言われるまで、12月25日が何の日か分からないような子供なの? 24日は? 1月1日、3月3日、この際2月14日でも何でもいいわ。それは常識なのよ。人として知っていて当然のことなの。私たちにとっての陽花の命日というのもそういう日じゃないの。だから教えなかったのよ。ねえ、私はこれでもあなたに期待をしていたの。当たり前のことを当たり前に理解出来る人間になってくれるんじゃないかと願っていたのよ。あなたは今日もそんな私の期待を裏切ったの」

 

 

 僕が知っているのは、貴方たちが生まれてこのかた僕の誕生日というものを祝ってくれたことは一度もないという事実だけですよ。

 当たり前って何なんだろうな。貴方が僕に期待していたというのなら、僕だって似たようなことを考えてはいたんだ。もしかしたら何かの拍子に、貴方たちの本当の子供はここにいる大庭葉月というたった一人の息子だけで、大庭陽花なんていうものは貴方たちが勝手に作り出した妄想の産物に過ぎないのだという事実を、思い出してくれるんじゃないかって。なのに、いつまで経っても、いつまで経っても、貴方たちは僕のことなんか見向きもしてくれなかった。貴方たちが()()()()に注ぎ続けた愛情のほんの一欠けらだけでも僕に与えてくれたのなら、僕だって自分の意思で、人に誇れる人生とやらを歩める人間に成長出来たかもしれないのに。

 『立派になれ』『立派になれ』と一方的に押しつけられる度に、僕は()()()()()()になるのが、嫌で嫌でたまらなくなってしまったんだ。

 

 

「謝りなさい。私じゃないわ、あなたのお姉ちゃんに謝るのよ。不出来な()でごめんなさいって。あなたのいなくなった日さえも忘れてしまうような、どうしようもない大庭葉月でごめんなさい。お姉ちゃんの顔をしっかりと見て、そう言うのよ。さあ」

 

 

 僕は見る。僕の顔をした何かを見る。この世で最も正面から見据えたくないものと向き合う。

 大庭陽花。すごいなあ、大庭陽花。お前がこの世で成し遂げたことなんか何もないのに、お前は僕が欲しかったものの全てを手に入れてしまった。それってまるっきり奇跡みたいなものだよな。僕とお前の立場が逆だったなら良かったのに。そうしたら僕は、両親からの愛情という子供にとって何よりも必要なものだけは失わずに済んだんだ。たとえ引き換えに自分自身を失っても。

 

 

 死にたいって言ってるわけじゃない。僕はただ、愛されたかっただけなんだ。

 

 

 

 

 

『――本当に、こんなものが欲しいの?』

 

 

 

 

 

 写真の中の()が、そんなことを言ったような気がする。

 ――そうだな。確かにお前だって可哀想だ。ひょっとしたらもう、両親が愛しているのはお前ですらないのかもしれないんだから。母の腹の中、僕のすぐ傍でひっそり消えていっただけの水子、それがお前の全てなのに。

 大庭陽花って何なんだろうな? 大庭葉月は? 僕たち二人、揃いも揃って意味不明だ。逆だったなら良かったなんて、馬鹿なことを言った。謝るよ。どっちが良かったかじゃない、僕もお前も、二人で一緒に生きることが出来たなら、それが一番幸せだったに決まっているんだ。

 普通の姉弟――兄弟? 姉妹? 何だっていい、とにかく()()だ。僕だけじゃない、父も母も多分それを望んでいた。けれど僕たちの誰もが、()()のやり方を知らなかった。忘れてしまった。もうそれには戻れないまま、来るところまで来てしまった。その象徴がこの写真なんだ。僕ではない、水子(お前)でもない、この世で最もおぞましいものが、父と母の信仰する大庭陽花(かみさま)なんだ。

 

 

「ごめんなさい」

 

 

 僕は謝った。僕にとっての『陽』に向けて謝った。それは花なんて奇麗なものじゃないけれど、それがいないと生きていけないくらいに大切なもので、この吐き気を催す現実の中でも縋りついてしまうようなもので、何物にも代え難く、手放しようのないものだ。

 だってそうだろう? 葉は陽を浴びなければ育たないものだし、月というのは陽を浴びなければ輝けないものなんだ。『葉月』()が生きていくためには、どうしたって『陽』が必要なんだ。

 

 

「不出来な妹でごめんなさい。あなたのいなくなった日さえも忘れてしまうような、どうしようもない大庭葉月でごめんなさい」

 

 

 だからごめんな。今こそ僕は、君に借りた一本の槍を振るうよ。僕にとって唯一信じられる陽の光を浴びて、この汚れた太陽を撃ち落としてやるんだ。『陽花』なんていう偽物の陽(かみさま)は、僕の人生には、いらないんだ。

 頭の中で音楽が鳴っている。それは痛みを殺すもの。この苦痛を取り除くもの。裏切りの醍醐味と彼は言っていた。僕はそんな彼の掲げる教義に従おう。この出来損ないの大庭陽花(かみさま)を殺すため、喜んで僕は裏切り者の信奉者(Judas Priest)になってやるのだ。

 

 

 

「――と、思うじゃん?」

 

 

 

 そう言って写真立てを叩き割った瞬間に母の喉から吐き出された悲鳴は、ロブ・ハルフォードを彷彿とさせる超高音域のハイトーン・ヴォイスであったとさ。Terriflying Scream!!

 

 






2020/11/25
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