葉月の異常な愛情~または僕は如何にして心配するのを止めて近界民を愛するようになったか~ 作:Amisuru
仮想の戦場から訓練室へと
生身の身体に戻った瞬間、真っ先に――
ただ立っているだけだというのに、あちこちの筋肉に負荷が生じているような気がする。
父から受けた暴力の痛みも戻ってきた。トリオン体へと変身している間、トリガーの中で勝手に傷が癒えている――とか、そういう都合の良い話は流石にないらしい。
共に帰ってきた那須さんの方も、疲れたように胸を抑えてふう……と溜息を吐き、ウィルバー氏の押してきた車椅子に腰掛けて身体を休めている。
病人という訳でもない僕でさえも生身に戻った途端こんな感覚を抱いてしまうのだから、彼女に生じている『重み』たるやいかほどのものか。心配になって、思わず声を掛けた。
「大丈夫?」
「ええ。ありがとう」
彼女は気丈にも笑みを浮かべてそう言うのだが、僕には彼女の中に生じた『疲労』という感覚が視えている。トリオン体で動き回った反動が生身に戻った途端一気に戻ってくるとかそういう話ではなく、単純に僕らの生身とトリオン体の
普段からきちんと身体を鍛えているような人なら多分こうはなるまい。やはり筋肉こそが全てを解決する――そんなことを思っていると、那須さんが未だに視線を他へと逸らすことなく、僕の顔をまじまじと眺めているのに気が付いた。
『困惑』が視える。
「どうしたの?」
「いえ――その、大庭
「――――」
「ごめんなさい。意味が理解らないわよね」
「いや、うん。言いたいことは理解るし、僕の顔が
そう告げると、もう一度「ごめんなさい」と謝られてしまった。僕の勝手な都合だというのに、那須さんに気を遣わせてしまった。大変申し訳ない。
しかし――僕の想像通りのことが起こっていたのだとしたら、流石に少々、心の整理をする時間が欲しい。確かに僕の身体は女性
……ああ、でも。
そういえば、確かに
うん。
やっぱり那須さんの前で出来るような話じゃないなこれは。ダメ、ゼッタイ。
「それでは、本日の訓練はここまでと致しましょう。少年は正式な入隊手続きが御座いますので、私と共に別室の方へ」
「あ、はい」
紳士の言葉で我に返る。入隊手続き――そうだ、トリオン体にナニが生えていようがなかろうがそんなことはどうだっていい。僕は受かったのだ。今日からボーダー隊員の一員として、
「お美しいお嬢さんはいつもの通り、訓練後の検査へ。後は職員の方に引き継がせて頂きます」
「わかりました。――それじゃあ、今日はここまでね? 大庭くん」
今日はここまで。
……そうか、今日で終わりの関係じゃないのか、もう。先輩と後輩――いや、同じタイミングで正式入隊を果たすのだから、僕と那須さんはボーダーの同期ということになるのだ。これから何度も顔を突き合わせ、交友を深め、技術を競い合い、そして時には肩を並べて
「――うん。今日は本当に、ありがとう。お世話になりました」
そう思ったら、何だかやたらと畏まった物言いになってしまった。『なりました』って、なんでそこで敬語なんだお前は。案の定那須さんがまたくすくす笑っている。おのれ。
「今生の別れってわけでもないのに、随分と念の入った挨拶をするのね、大庭くんは」
「いや、うん。言ってから自分でもそう思ったよ。……あー、次に会うのは入隊式の時、かな?」
ボーダーは毎年の1月、5月、9月に正式入隊の機会を設けており、その時期になると三門市のローカルニュースなんかでも入隊式の様子がお茶の間に流れてくる。訓練生に向けて歓迎の言葉を述べる忍田真史本部長の姿やら、それを直立不動で聞いている訓練生達の姿なんかが印象深い。
あ、ひょっとしたら僕もテレビに映っちゃったりするんだろうか。もし両親がその映像を見たらどう思うだろうか。食べているご飯の一口や二口でも吹き出してくれたら痛快なのだが。
「あら、暇さえあればいつだって病室に顔を出してくれてもいいのだけれど」
で、那須さんがまたさらりとそんなことを言っている。またいつものからかいが始まったのかと思ったのだが、よく
「それは那須さんに悪いよ」
「どうして?」
「いや、ほら。疲れるでしょ、何度も何度も僕の相手なんかしてたら」
……そう思っての発言だったのだが、那須さんの中にあるよく理解らないものが、何故だか更に淀みを増していく。なんていうか、
「そんなことはないわ」
「いや、でも」
「……ううん、こう言い換えましょうか。大庭くん、そんなことは、
中々難しい注文である。気にするな、と言われても
しかし、彼女が『疲労』を表に出したがらないのは、必要以上に他者から体調を気遣われたくはないという意思の表れなのではないか――という考えに思い至って、即座に自身の言動を恥じた。
そうだ。気付いていても、触れる必要のないことというものは存在するのだ。僕は昔からちょくちょくこうやってずけずけと人の心に土足で踏み込むような真似をしては顰蹙を買い、そのせいで集団から孤立するという経験を繰り返してきたのだ。
とりわけ相手は女子が多かった。表向きには気が強めで自分を強く持っているように見える女の子ほど、気軽に人には言えないようなもやもやとしたものを抱えていて、そのもやもやが
しかし、那須さんの抱えている
「大庭くん。私は今日、楽しかったわ」
彼女が改めて、そんなことを言った。
「ベッドの上で身体を休めることしか出来ない日々というのは退屈なものよ。出来ることといえば想像だけ。あれが出来たら、これが出来たら――
彼女はそんな風に自嘲するのだが、僕としては腑に落ちたような気持ちだった。僕はそれこそ、
「とにかく、私は楽しかったのよ大庭くん」
「それはさっきも聞いたよ」
「やっぱり理解っていないわ。私はね、
それは中々の暴論だ。僕がそう感じたのに那須さんも気付いたのか、「勿論限度はあるけれど」と付け加えた上で話を進めていく。
「疲れるから今日は一日何もしないでぼーっとしていよう。それで確かに身体は楽になるけれど、
車椅子に背中を預けた華奢な身体の白い肌をした少女が、本気の目をしてそう語っていた。
「今はまだ、訓練以外でのトリオン体による活動は許可されていないけれど……誰かと話が出来るだけでも、退屈よりはずっとマシだわ。だから、あなたが嫌でないのなら――」
「わかった」
二つの意味で、僕は了解した。彼女の誘いと、彼女の抱いている
要するに。
彼女はきっと、
那須さんの中に視えたものは、『寂しい』という名前の感情だったのだ。
「入隊式の前にも、何度か顔を見せに行くよ。那須さんを退屈させないような話題を提供出来るかどうかは、分からないけれどね」
僕は別に、頼みごとをされたからといってどんな願いでも引き受けるようなお人好しではない。ただ、那須さんには恩義がある。彼女は僕に教えてくれた。僕が知らない、ボーダー隊員の
無論、
那須さんの心に巣食う
そう思っていたのだけれど。
「ありがとう大庭くん。これでくまちゃんや
…………。
熊ちゃんと。
……
「那須さん、とーちゃんってn「お待たせ玲ちゃん。さ、行こうか」
「はい――それじゃあ、大庭くん。またね?」
僕の疑問を軽やかにスルーするかの如く、やって来た職員さんに車椅子を押され至極あっさりとその場を後にしていく那須さん。
取り残される格好になってしまった僕は、隣で佇む紳士に向かって、とりあえず根本的なところから訊ねてみた。
「……あの。那須さんって普通に病室に会いに来てくれる人とか、いるんですか?」
「ええ。去り際に彼女が名前を出した方々がそれに当たりますな」
さらりと答えてくれる紳士。理解した筈の感情の正体が再び視えなくなって困惑する僕。
え、何なの。話相手が誰もいないから僕なんかでも必要だったんじゃないの? 普通に友達いるんだったら『寂しい』って感情はあり得なくない? 彼女は何故あそこまで僕が病室に訪れることを望んでいたんだ? あの『しんみり』の正体は一体何だったんだ? 理解らない。視えていたのに理解らない。視えるんだけど
ボーダー隊員を続けていれば、ゆくゆくはこの謎も解けるようになるのだろうか――とか。
そんなことを、思った。
那須さんと別れてから、僕はウィルバー氏に連れられて別室へと移動し、そこで改めてボーダー隊員の職務や規則についての説明を受け、それから幾つかの書類に目を通した後、契約書にサインをした。
本来であればやはり保護者の同意も必要とのことだったのだが、僕の事情を考慮してそういった手続きに関しては省いてくれた。全くもって有難い話である。法律的に大丈夫なのかは知らない。そもそも記憶の抹消とかやってる時点で治外法権的なものが働いているに決まっているのだ。
「最後に、少年にはこれを渡しておきましょう」
そう言って紳士が差し出したのは、何の変哲もない1本の鍵だった。形状は明らかに玄関用の物であり、何処かの家、或いは部屋へと入るための代物なのは間違いないのだが、はて。
「あの、これは?」
「ボーダーが設営している仮設住居、そのとある1室の鍵です。更に言えば、その部屋は私が三門市に滞在する際の仮住まいとして利用している場所なのですが――本日を持ちまして、
「はっ……ええ!?」
なんか急にとんでもないことを言われてしまった。そりゃ大声も出るってもんだ。混乱する僕に構うことなく、ウィルバー氏は平然と話を進めていく。
「それと少年が正隊員へと昇格した際、給料を振り込むための口座も用意しておきました。机の上に通帳やカード類が置いてあります。ああ、当面の生活費についてもご心配なく。三ヶ月程度は不自由なく生活出来るだけの額が入っております故。その後についてはご自身で稼いでいただくことになりますが、それだけの猶予があれば難なく正隊員への昇格を果たすことが出来るものと――」
「いやいや。いやいやいやいやいや!!」
「何、少年の技量であれば三ヶ月とも言わず1月中にでも」
「そこを否定したかったわけじゃないです!!」
「ふむ。自信満々で大いに結構」
「だからそういう意味でもなく――その、いくら何でもそこまでのご厚意には預かれませんよ!」
当然ながら、僕に一人暮らしの経験などない。故に一月あたりの生活費がどれくらい掛かるのかも正直把握出来ていない。しかし、流石に三ヶ月もの間を凌げるだけの額といったら、中学3年生の手には余るほどの大金になってくる筈だ。云十万――流石に百は行かないだろうが、その半分を越えるくらいの額が通帳に記載されていてもおかしくはない。今日出会ったばかりの相手から受け取るには、余りにも大き過ぎる金額だ。
いや、そもそもウィルバー氏には微塵も、僕に金銭を貸し与える理由などないというのに。住居にしても同様だ。大体『口座を用意しておきました』とかさらりと言っているが、一体いつの間にそんな手続きを済ませたというのだろうか。僕と那須さんが
「何、私こう見えても金銭的には余裕がある身でしてな。まあ、仮にそうでなくなったとしても、
「……強盗は犯罪ですよ」
「はっはっは」
だからそこで笑うのは辞めていただけないでしょうか。……じゃなくて!
「とにかく、理由もなしにそんな大金は受け取れませんって」
「いいえ。理由でしたら御座いますとも、少年」
そう言ってウィルバー氏は手元に置かれた紅茶入りのカップを手に取ると、実に様になる動作で口を付けてから、僕を見据えて、ニコリと笑い。
一言。
それだけを、言った。
この時になってようやく、僕は心の底から理解したのであった。
2020/11/25
改行の増加、内容の分割、それに伴う文章の微修正等を行いました。