葉月の異常な愛情~または僕は如何にして心配するのを止めて近界民を愛するようになったか~   作:Amisuru

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Thou shalt love thy neighbour as thyself(後編)

 

 

 ――『()()()』。僕が住まうことになるボーダーの仮設住居は、近隣の住民からはそう呼ばれているのだと、ウィルバー氏は話してくれた。

 こうして間近で目の当たりにしてみると、改めて僕のイメージする仮設住居とはかけ離れた建物だなと思わされる。そもそも建物と呼べる規模の広さがある時点で何かがおかしい。仮設住居って言ったらアレだよ、()()でしょ。プレハブ小屋。或いはユニットハウスとかいうのかな。基本的に家っていうより倉庫みたいな見た目をしていて、やっつけのように扉と窓を拵えただけの、無骨な代物。

 そういう建物に案内されるものだと思っていたのに、この貴族か何かでも住んでいそうな佇まいは一体何なのか。いや実際に住んでたのか。貴族っていうか紳士が。そう考えたら、なんだか急に全てを許せるような気になってきた。紳士は仮住まいも紳士的。うん。そんな感じで。

 ただ、その豪勢な見た目に反して、なんとも寂れた印象もあるのが、その屋敷の奇妙なところであった。人の気配が感じられない。これだけ広い建物であれば何人もの隊員が利用していてもおかしくなさそうだというのに、まるで()()使()()()()()()()()()のようである。

 そもそも、外観からしてなんか浮いてるんだよなこの建物。ファンタジーの世界から迷い込んできたみたいというか、こんなものが三門市(ワールドトリガー)に存在するのはおかしいというか――うーん、何だろうかこの感覚は。

 

 

「……本当に、ここが、そうなんですか?」

「ええ」

 

 

 不安になって思わず訊ねてしまったのだが、返ってきたのはあっさりとした肯定であった。

 

 

「ただ、一つ訂正をしておきましょう。先刻、私はこの建物をボーダー設営の仮設住居と申し上げましたが――実際はこの『白屋敷』、()()()()()()()()なのです」

「――は?」

「一説によれば、この屋敷は近界(ネイバーフッド)由来の建物だという話もあります。(ゲート)の向こうから現れた、近界民(ネイバー)達の()()――そんな曰く付きの建物であるが故に、便宜上はボーダーの所有物という扱いにして、管理・運営が為されているという訳です」

「……仮にそれが正解だとしたら、その近界民(ネイバー)達、今は何処で何やってるんでしょうね」

「さて、意外と我々の身近におられるかもしれませんよ? なんといっても隣人(neighbor)ですからな」

 

 

 急に英国紳士らしいネイティブな発音で言うものだからちょっと笑ってしまった。いや、その人本来の言語を喋っているのに笑うというのもおかしな話なのだが。そうだな、欧米人のウィルバー氏が流暢な日本語で僕とコミュニケーションを取れているように、人間の見た目をして僕らと同じ言語を用いていれば、近界民(ネイバー)の一人や二人がその辺に紛れていたって誰も気付きはしないだろう。そもそも本当の近界民(ネイバー)がどんな見た目をしているのか僕は知らないのだけれど。

 

 

「……どうしてボーダーは、自分たちの敵に隣人(ネイバー)なんて名前を付けたんですかね」

「――ふむ」

 

 

 そんなことを考えていたせいか、ふと思ってしまった。

 隣人。或いはお隣さんとかご近所さんっていったら、普通はもっと親しみやすい存在を連想する筈だ。けれど、この三門市で生まれ育った僕は、すっかり隣人(ネイバー)という単語に良い印象を抱けなくなってしまっていた。『貴方の親愛なる隣人(Your Friendly Neighborhood)』だなんて名乗っている蜘蛛の力を使うヒーローなんかも、この三門市で活動しようと思ったら毎日の如く地元マスコミからのパッシングに苦しむ羽目になったりするんじゃないだろうか。いや、それって案外いつも通りか? 詳しくないけど。

 

 

「実は敵という訳でもない、と言ったら少年は信じますかな?」

「――まさか。侵略者でしょう、あいつらは」

 

 

 二年前、三門市を襲った正体不明の怪物による、未曽有の大災害。『大規模侵攻』。その危機に立ち向かったのが皆さんご存知、界境防衛機関ボーダーである。そのボーダーが世間に向けて明言したのだ。この町を襲った者の正体は、近界民(ネイバー)と呼ばれる異世界からの来訪者である――と。それを今更になって実は悪い奴じゃないんだよと言われても、正直反応に困ってしまう。

 一度植え付けられてしまった価値観というのは、そう容易く塗り替えられるものではない。僕にとって近界民(ネイバー)は敵だ。決して相容れることの出来ない存在だ。大規模侵攻で直接的な被害を被った訳でもない僕ですらこんな考えを抱いているのだから、実際に何かを――身近な誰かの命を奪われたりした人なんかは、死んでも近界民(ネイバー)を許すことなどないだろう。それこそ近界民(ネイバー)への強い復讐心を抱いて、ボーダーに入った隊員もいるかもしれないのだ。

 

 

「まあ、少なくとも二年前に三門を襲った者達についてはそうでしょうな」

「……まるで、他にも近界民(ネイバー)がいるような口振りですね」

「さて、どうでしょうな? それこそ実は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 さらりとそんなことを言うので、僕は思わずウィルバー氏の心を()てしまう。けれど相変わらずその内面は僕にとっての()()()()()で満ち溢れていて、故に冗談とも本気とも区別が付かない。

 ウィルバー氏との出会いの瞬間を思い出す。病室の扉を開きながらも、僕が招き入れるまでは決して踏み込んでくることのなかった紳士。

 自称、部外者(ネイバー)

 

 

 ……え、マジなの?

 

 

「冗談です」

「……心臓に悪いですよ」

「ですが、()()()()()()()だとは言っておきましょう。私は本来、三門市(ここ)にいる筈のない存在――おそらくは、この『白屋敷』もそうなのです。招かれざる客であり、()()()()()に過ぎませぬ故」

 

 

 ウィルバー氏の物言いに何となく、()()()が近づいてきているのを感じた。言葉の端々に漂う、終わりの気配。幕引きの気配。或いは、()()なんて言葉に、言い換えてもいいのかもしれない。

 

 

「過去、ですか」

「ええ。過去です。私の物語も、白屋敷にまつわる物語も――或いは少年、あなたの物語もまた、()()にとっての過去を描いている最中なのかもしれません」

 

 

 『()()』という単語がまた、僕の脳裏に浮かび上がってきた。

 ……この感覚の正体は、一体何なのだろう。この世界(ワールド)には引き金(トリガー)のようなものがあって、ゆくゆくは誰かがその引き金を引くことで、全ての歯車が回り出して、物語が動き出すのだろうけれど――その()()というのは、間違っても僕ではないのだという確信。これと似たようなものを、紳士も感じているのだろうか? だから氏は今、こんなことを口にしているんじゃないだろうか。

 それでも、僕の人生が本物(誰か)にとっての偽物(過去)でしかないのだとしても、僕にとっては今が本物(いま)だ。

 だから。

 

 

「僕にとっては、あなたもまた今を生きている、()()ですよ。紳士ウィルバー」

 

 

 ――だから僕は、心の底から、そう言える。

 たった一日、ほんの一日。それだけの繋がりしかないけれど、僕は目の前の紳士から、返しきれないほどの恩を受け取った。こんな言葉一つで返せるなどとは勿論思っていないが――それでも、僕はこの人を過去の存在だなんて思いたくはないし、思えない。僕がそう考えていることだけは、どうしても伝えておきたかった。

 

 

 ……ああ、でも。

 どの道これから、過去に()()()()()()のかもしれない。

 お別れするって、()()()()って、そういうことだもんな。

 しんみりするつもりはなかったのだけれど、寂しいな、やっぱり。

 

 

「――では、私が少年にとっての現在(いま)であるうちに、心残りを二つほど晴らしておきましょうか」

 

 

 紳士もまた、そのことに気が付いていたのか。

 忘れ物を思い出したとでも言うように、そんなことを口にした。

 

 

「少年。進学のご予定は?」

「え。……六頴館、でした、けど」

「ふむ、ボーダー提携校の一つですな。でしたら話は早い」

「い、いやちょっと待って下さい」

 

 

 流石にもう、紳士の行動パターンというのも読めてきた。彼がこれから一体何を言い出すのか、()なくても理解る。しかし、いくら何でもそこまでは――()()()()()じゃないのか。転生(入隊)にあたり神様から受け取ったボーナスなんて何もないだなんて言ったけれど、僕にとっての()()()()()()がいるのだとしたら、間違いなく、目の前の紳士が()()なのだ。そして、これから彼がやろうとしていることも金銭で解決出来る問題なので、このまま行けば先程と同じように『I am gentleman.(私、紳士ですので)』の一言で押し切られてしまうに違いない。

 ――しかし、しかしだ。今度ばかりは、まず、前提として。

 

 

「……お気持ちはありがたいのですが、僕にもう、進学の意思はありません」

「ふむ。それは何故ですかな?」

「将来ボーダー職員になるために最低限の学歴が必要だというのであればともかく、僕は既に、ボーダーへの就職を果たしつつあるので」

 

 

 要するに僕は、()()()()()()()()というものを感じられないのである。

 面接の際、ウィルバー氏に語った志望動機は本気のものだ。今となってはそれが全てではないとはいえ、僕の中にある確かなものだ。()()()()()()()()()()()。当然、紳士と那須さんの二人から教わった大切なこと(楽しむこと)は忘れないつもりだが、それはそれとして、僕はもうボーダー以外の道に進むつもりはないのだ。わざわざ高校生活などという()()()をする理由が見当たらない。これはもう、純粋に、そう思うのである。

 が。

 

 

「高校へと通うことで、新たな知見を得られることもあるかもしれませんよ」

「……そうでしょうか?」

「そうですとも。学び舎という舞台がなければ、あなたは米屋陽介(陽気な少年)と出会い、ボーダーへの関心を抱くこともなかったのではありませんか?」

 

 

 

『と、思うじゃん?』

 

 

 ――それを言われてしまうと、ぐうの音も出ない。

 確かに僕は、学校という環境においても、人生を変えるきっかけが得られることを知っている。不要のものだと切り捨ててしまうのは、早計だったかもしれない。高校生とボーダー隊員、二足の草鞋を履くことによる苦労もあるだろうが――まあ、続けていくのが困難だと思ったら、その時になってから考えよう。変化弾(バイパー)こそ我が人生なり。

 ……この言葉に頼り過ぎるのも、あまり良くないことかもしれないが。

 

 

「……学費は借金に上乗せでお願いします」

「結構。卒業式の日にでも取り立てに赴かせていただきましょう」

 

 

 ああ、ついにウィルバー氏の口からも『卒業』という単語が出てきてしまった。いや、僕の言う()()とは意味が違うということは理解しているけれども。ていうか、考えてみれば中学生活もまだ三ヶ月残ってるんだよなあ。三学期からは授業を終えても陽介と公平に別れを告げることもなく、そのまま三人で駄弁りながら本部基地に行ったりも出来る訳だ。それは中々に楽しみだ。

 ――うん、やっぱり大事だな、学校。蔑ろにするところだったけれど、真面目に考えてみよう。()()()()()()()()()()()

 

 

「では、最後にもう一つだけ」

 

 

 一体いつの間に何処から取り出したのか、ウィルバー氏の手に帽子が握られている。漢字でいう『皿』の形状をした、いわゆる、そう、紳士帽だ。最後まできっちりと決めてくれる人だ。

 ……ああ、これで()()なのか。次に出会うのは三年後、僕が高校を卒業する時の話になるのだ。てんで想像が付かない。その時の僕は、今よりも少しは自立した大人の男になれているだろうか? 自立した大人の男。なんて魅力的なフレーズなんだろう。早く胸を張って言えるようになりたい。『僕は自立した大人の男だ』と。

 けれど今は、その気持ちをぐっと堪えて、ウィルバー氏の次なる言葉を待つ。

 『そう焦ることはありませんよ』と言ってくれた、紳士の言葉に耳を傾ける。

 

 

「少年。仮に私の説が正しく、あなたの中に亡くなられた筈の水子が潜んでいるのだとしても――即座に切り捨ててしまうのではなく、まずは一度、向き合ってみることです」

「――向き合う?」

「ええ。本来であれば共に生まれてくる筈だった命なのです。それこそあなたの半身――隣人(ネイバー)とでも言うべき存在なのですから、疎むのではなく、親しみを込めて接してあげるのが宜しいかと」

「……僕にとって、隣人(ネイバー)は敵ですよ」

「おや、それはいけませんな。世界で最も売れている本にも、こう記されておりますよ?」

 

 

 そう言って、紳士はついに帽子を被り、僕に背中を向けて――

 首だけでこちらを振り返り、口元に笑みを浮かべて、一言。

 

 

「――自分自身を愛するように、汝の隣人(ネイバー)を愛せよ、とね。――では少年、御機嫌よう」

 

 

 そんな言葉を残して、僕の神様(Jesus)は丘を下り、沈みゆく夕日を背にして町の中へと消えていった。

 遠ざかっていく彼の背中が完全に見えなくなったとき、空の色も紅から黒へと変わり、そうして僕は、宵闇の中で独りきりになった。

 

 

「……御機嫌よう、紳士ウィルバー」

 

 

 ――()()()

 さあ、これからが大変だぞ、大庭葉月。

 

 

 

 

 確かに大変だとは言ったが。

 のっけから、こんなところで躓く羽目になるとは思わなかった。

 

 

 僕の住む部屋って一体何処やねん。

 屋敷の門を潜り、エントランスと思しき空間まで辿り着いたはいいが、そこで見事に詰まった。肝心なことを聞きそびれたまま卒業してしまった。今からでも留年する(引き返す)べきだろうか。そんなことを思っていると、

 

 

「――迷った?」

 

 

 と、受付係らしき女性に声を掛けられた。猫科の耳みたいにぴょこんと跳ねたくせっ毛と、襟足ともみあげが一体化して『J』の字を描いているようなもっさりとした髪型(失礼)が特徴的な、美人のお姉さんだ。那須さんが大人になったらこんな感じになるだろうか。でもその髪型は如何なものかと思いますよ。まるで()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

「ええと、すみません。ここの一室を借りていたという方から、部屋を引き継がせていただいた者なんですけど」

 

 

 そんな感想はおくびにも出さず、しれっと訊ねる僕である。受付の女性は「ああ」と短く相槌を打って、

 

 

「紳士さんから話は伺っているわ。ついて来て、案内してあげる」

 

 

 言うが早いか、フロントの脇からすたすたと歩み出て、そのまま僕を先導するように屋敷の廊下を進み始めた。ありがとうございますと背中に告げつつ、その後に続く。

 長い廊下を歩いている間に幾つかの部屋の前を通ったのだけれど、やはりというか何というか、住人の気配がない。まさかとは思うのだが、今この屋敷に住んでるのって僕一人だけだったりするんじゃないだろうな。

 階段を上り、1階から2階、2階から3階へ。そこから更に二つの部屋を通り過ぎていく。301。302。そして――

 

 

「ここがあなたの部屋よ」

 

 

 ――ROOM303(3 0 3号室)

 そこが、僕の辿り着いた部屋の名前であった。

 

 

「すみません、助かりました。……ええと、今日からお世話になります」

 

 

 そう言って女性に頭を下げてから、なんか大家さんへの挨拶みたいだなと思った。

 というかこの女性、随分とラフな格好をしているけれど、本当にボーダー職員なんだろうか? 鎖骨のくっきり見えるカットソーに薄手の黒い上着を一枚羽織っただけ、おまけに上着のボタンもお腹の一ヶ所しか留めていない。下は下で太股が際立つショーパン+ブーツスタイルだし。これが大人の女性のファッションというやつか。間違っても僕が参考にする機会など来ないけれど。

 

 

「そう畏まる必要はないわ。――そんなことよりも」

 

 

 顔を上げると、何やら女性が値踏みするような視線で僕を眺めていた。

 ……何だろう、嫌な目だな。何が嫌かって、僕が誰かを()()()()時の視線に似ているような気がする。いや、副作用(サイドエフェクト)を使っている最中の自分の顔なんて確かめたことはないのだが、何となく()()()()()()()()ような感覚がある。実際に彼女の心にも、僕への『興味』と思われる感情が浮かんでいるのが()える。しかしまあ、人の視線を批難しておきながらそれと同じ目で相手の心を覗き見る僕も大概だな。今更だけれど。

 

 

()()()()()()()()()()()()()、あなた」

「――は?」

 

 

 たましい。

 魂って言いましたか、今。この女性(ひと)

 どうやら僕は、知らない間にオカルティックな空間へと足を踏み入れてしまったようだぞ?

 

 

「羨望、嫉妬、嘲笑、侮蔑――ドロドロとしたもので溢れて、()()()()()()()()()()()()()。……いいわね、とてもいいわ。()()()()()()、すごく」

 

 

 こんな嬉しくない好意の表し方初めて見たぞおい。

 というか――ダメだ、()()()()()()()()。向き合っていると気分が悪くなってくる。境界(ボーダー)を越えて以来、初めて味わう感覚だ。内臓を舌で舐められているようなおぞましさを感じる。うーん、禄でもない喩えのせいで真面目にお腹が痛くなってきた。すみませんお姉さん、僕は貴方の好意に応えることは出来ません。

 

 

()()()()()()()()()()()()、この屋敷は役目を終えて、ただの仮宿と化していたけれど――それだけの淀んだ魂があれば、白屋敷(私の舟)は再び浮上して、新たな(ゲート)を開くことが出来るかもしれない……楽しみだわ。その魂が()()()()()()()()()、本当に、楽しみ――」

「あの、ありがとうございました。失礼します」

 

 

 口早に形だけの礼を述べてから、逃げるようにウィルバー氏から貰った鍵を差し込み、回した。回った。これで開かなかったらどうしようかと思った。

 即座に鍵を引っこ抜き、大急ぎでドアを開いて、隙間に滑り込み、閉める。バタンと大きな音がするのにも構わず、鍵を掛けて、暫し――待ち。

 何も起こらないのを確かめてから、深い深い溜息を吐いた。いやもう、完全に失礼を極め切った対応なのだが、仕方がない。身の危険を感じたのだ。しかし困った。今日は何とか乗り切れたが、明日から僕は何処を通って屋敷の外に出ればいいんだ。エントランス以外の出入口なんて存在するのか? いっそ窓から飛び降りて出るとか――馬鹿馬鹿しい、トリオン体じゃあるまいし。

 ……明日のことは、明日になってから考えよう。今日はもう、疲れてしまった。人生最良の一日だと思っていたのだが、最後の最後でえらい目に遭ってしまった。

 まあ、トータルではまだプラスの筈だ、うん。そんな大敗した後のギャンブラーみたいな思考を抱きつつ、僕は部屋の奥へと進んでいった。

 

 

 

 

 リビングに出る。真っ先に目に付いたのが、ワニの歯みたいに鋭く尖った三角形が幾つも並んだ壁の模様だ。迂闊に近づいたら()()()()()()()()()()()()()()()()、そんな見た目をしている。

 視線を移動する。机の上には布を下敷きにした花瓶と、一枚のメモ。机の周りには柔らかそうなソファーと木製の椅子、そして棚の上に芸術品の如く飾られているのは――ば、バット? 博物館に展示されている刀か何かじゃあるまいし、こんな管理の仕方をするものだろうか、バットって。

 というかこのバット、まさかウィルバー氏の私物なんだろうか。野球。ウィルバー氏が野球――スイング一回で腰をいわせるイメージしか浮かんでこない。投げる方というか、ワインドアップは割と様になりそうなのだけれど。背高いし。

 とりあえず、パッと見で目に付いたものと言えばそのくらい――いや待て、もう一ヶ所だけ気になるところがあるな。()()()()()()()()()()()()。しかしそっちを開く前に、まずはこっちを手に取ろう。机の上のメモ用紙だ。

 ウィルバー氏の話によれば、机の上には僕のための通帳やカード類が用意してあるとの話だったのだが、それらしいものは見当たらない。となればこのメモ用紙に、その件に関する説明が載っているものだと思ったのだが――そこに書かれていたのは、まったくもって意味不明の内容だった。

 

 

 

 

 

ルールその① この部屋では考えたことを隠すことはできない

 

 

ルールその② この部屋で得た情報は外に持ち出すことはできない

 

 

 

 

 

 ……なんじゃこりゃ。一体何の()()だ、これは? 両方ともに斜線が引かれているあたり、無視して差し支えない内容なのだとは思うけれど。或いは、()()()()()()()()()()()()()()()()のが、今は何らかの理由でその効力を失っているだけなのかも――いやいや、そんなアホな。

 それよりも、どうやら裏にも別の文章が記載されているようだ。うっすらと文字が透けている。

 きっとこっちが本題なのだろう。表側の文章に意識を割かなかった分、僕は殆ど流れるままに、用紙を捲って――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

クローゼットに死体が入っている 2/7 12/■■

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――その一文のインパクトに、思わず持っていた用紙を取り落としてしまった。

 ……なんてタチの悪い悪戯だろう。何が卑怯かって、表の文章に取り消し線を引くことで、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、人間心理を利用したやり口が汚い。断言する、こんな悪意に満ちた行為を、間違ってもあの紳士がする筈がない。

 いや待て、そもそも僕を驚かせるために用意されたものだという前提がおかしいのだ。何かこう厨二病的な、自分の住んでる部屋にこんな秘密があったら面白いよね的なノリで書いたメモを後日恥ずかしくなって取り消したとか――うん、我ながら苦しいのは理解っている。

 それにしても――12/■■。日にちの方は何故だか黒く塗り潰されていて確認出来ないのだが、とにかく今は12月だ。そして僕の身近にも、1()2()()()()()()()()()()()()

 考え過ぎかもしれない。ただの偶然かもしれない。それでも僕は、確かめなければならないと思った。僕は今クローゼットを開くという行為に若干の恐怖心を抱いているけれど、こんなものは正体が判らないから怖いだけなのだ。幽霊の正体見たり枯れ尾花。蓋を開けてみればそんなところだろう。

 そう、心と同じだ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。この間公平から借りた漫画の中に『この世でハッピーに生きるコツは無知で馬鹿のまま生きる事』だなんて台詞があったけれど、理解する(知る)ことによって生きてきたのがこの僕だ。

 ――ああ、その漫画で言えばもう一つお誂え向きな台詞があったな。扉の向こうから()()()()()()()()()()()が語りかけてくるのだ。『開けちゃダメだ』と。

 あの漫画、本誌の方はどういう展開になっているんだろう? デンジ君は扉を開けてしまったのかな? 開けてしまったとして――その先に、一体何が待っていたのだろうか。

 僕はまだその答えを知らない。早く続きを読みたい。その衝動と同じくらいに、()()()()()()()()()()()()()()()。そう、理解さえすれば、安心出来るのだ。僕は今、2つのことを願っている。クローゼットに死体なんかない。そして――

 あったとしても、その死体は、()()()()()()()()ではない。

 

 

 

 

 

 クローゼットの扉に手を掛ける。

 

 

 開く。

 

 

 正体が、露わになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ばあ」

 

 

 ――()()()()

 

 




~立てばジェントル座れば紳士、歩く姿はマジ紳士~
・紳士ウィルバー
『賢い犬リリエンタール』からのゲスト出演。
葉月くんの入隊にあたって面接役は必要だけれど水沼さんではパンチに欠ける、
かといって忍田さんみたいな大物が出てくるのも不自然だしどうしようかと考えた結果、
作者の趣味によって捻じ込まれたライブ感の象徴。
読み切り版要素(紳士強盗)を混ぜることで紳士力がやや減退した代わりに強引さが増した模様。
リリエンタール未読者にも伝わるように書いたつもりではあるけれど、
『相手がもっと弱ければいいんじゃないかと……!』の元ネタはこの人である。
勝手に唐沢さんと同年代にしてしまったが、原作では年齢不詳。


2020/11/25
改行の増加、内容の分割、それに伴う文章の微修正等を行いました。
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