死体が喋っている。
そういえば、例の漫画にはそんな台詞もあったことを、思い出した。
「おかえり、お兄ちゃん」
クローゼットに体育座りで収まって、にたにたとした笑みを浮かべている、僕の顔をした女。
私。
僕はてっきり、またまやかしを見ているのかと思った。バムスター君を僕にとっての侵略者へと置き換えたように、僕は再び何かからの侵略を受けていて、そいつを殺しやすくするために、目の前の何かに、大庭陽花の外見を与えているのではないかと。しかし――
「……お兄ちゃん?」
「そう、お兄ちゃん」
その言動に違和感があった。大庭陽花が僕のことを、兄だなんて呼ぶ筈がない。こいつが僕の姉なのだ。そういうことになっているのだ。弟、或いは妹呼ばわりされることはあっても、僕が陽花の兄である筈がない。故に僕の妄想が作り上げた陽花が、僕のことを『お兄ちゃん』だなんて呼ぶのはおかしいのだ。
「私、今日産まれたばっかりだもの。お兄ちゃんよりも後に産まれたんだから、私が妹になるのは当然のことだよね」
その言葉に、僕は那須さんとウィルバー氏の前でトリオン体へと換装した時の感覚を思い出す。
ずっと自分の傍にいながらも姿の見えなかった存在が、あの瞬間に初めて姿を現したような――僕の中で何かが産まれた感覚。
紳士は言った。寄生性双生児。僕のトリオン体が女性の姿をしているのは、その源となっている見えない内臓が、消えたと思われていた水子のものだからなのではないかと。
仮にそうだとしたら、あの時、僕がトリガーを起動したこと――言ってみれば、トリオン器官の電源を起動したことで、眠っていた水子の意識が目覚めた――そういうことなのだろうか?
「……ありえない」
馬鹿馬鹿しい。それっぽい理屈を並べているだけでツッコミどころが満載だ。内臓に自我が芽生えるだなんて、そんなオカルトありえません。
それにあえてウィルバー氏には言わなかったが、僕と水子は一卵性双生児なのだから、ほぼ確実に水子の性別も男である筈なのだ。確かに例外も存在する。存在はするが、異性一卵性双生児+双胎一児死亡+寄生性双生児の三連荘というのは――稀少例のジェットストリームアタックか? 公平の家のアニメで見た必殺技だ。僕と水子と大庭陽花で黒い三連星だ。僕が踏み台にされて、水子が死んで、最後に陽花が美味しいところをもっていくのだ。おや、冗談のつもりだったのだけれど意外としっくりくるな。ははは。
……ははは。
僕今ちょっとおかしくなっているな? 元からかな?
「ねえ、ここから出してよ、お兄ちゃん」
座ったままの私が、そんなことを言って手を伸ばしてくる。
――OK。百歩譲って奇跡の三重奏が成立し、クソみたいな偶然の末に産まれたのがこの私だとしよう。しかしそれが肉体を得て、訪れたばかりの部屋のクローゼットに入っていたのはどういう理屈なのか? この謎はもう、一切解ける気がしない。
無理矢理こじつけるとすれば、ここがそういう部屋だからだ。クローゼットに死体が入っている部屋だからだ。先程のメモ帳は、この部屋のルールブック的な存在だったのだ。ルールで決まっている以上、クローゼットの中には死体が入っていなければならない。そして、その死体役として、私が選ばれた――とか。
何もかもが非科学的だ。トリオン体やトリガーというやつは確かに非現実的ではあったものの、僕が知らなかっただけで、紛れもなくこの世界の科学によって生み出されたものだった。しかし、今この部屋で起きているのは、そういうものじゃない。もっと得体の知れない何かが絡んでいる。
例えば――そう、魂、とか。
「ねえ、無視しないで? 自分じゃ出られないの、私」
「……そうなのか?」
「そういう決まりみたいだね。私にもよく理解らないけど」
さあ困った。僕の妄想を後押しするようなことを言い出したぞこの自称妹。
というか――出せるのか? 出していいのか、こいつを? 『クローゼットの死体』がルールによって定められた存在であるとするなら、こいつをクローゼットの外に出すのはルール違反ということになるんじゃないか? ルールを破ると何が起こる?
いや、もっと別の視点から考えろ。私は今、僕に助けを求めるフリをして、僕のことをクローゼットの中に引き摺り込もうとしているんじゃないか? 僕を死体役にするために。そうすれば、こいつは自由になれる。僕の顔で、僕の格好で自由に外を歩き回って、私から僕に成り代わろうとしているんじゃないか――そんな考えが浮かんできて、僕は私の手を取ることが出来なかった。
暫しの沈黙が続いた後、私がはあと溜息を吐き、気だるげにその手を下ろした。
「まあ、無理だろうね。理解ってたけど。お兄ちゃん、視えないものは信じられないんだもんね。そうでしょ?」
――そう、もう一つ理由がある。
こいつの感情が視えない。こいつを理解することが出来ない。病室で那須さんが言っていた。副作用を持っているということは、僕のトリオンが潤沢であることの証明になるのだと。裏を返せば、そのトリオンが失われれば――この場合、僕のトリオンの源泉となる、私が僕から離れてしまったら、僕の副作用も失われてしまうという意味になるのではないか。
正直、理屈はどうでもいい。とにかくこいつは信用出来ない。こういう時に、副作用のない普通の人間というのはどういう対応を取るのだろう? 何の迷いも疑いもなく、こいつの手を取ることが出来るのだろうか? どうしてそんな恐ろしいことが出来るのだろう? 僕にとって、未知というのは恐怖の象徴なのに。視えないものを恐れるのは、当然のことなのに。ましてやこいつは、侵略者の顔をしているのだ。僕の全てを掠め取った、大庭陽花と同じ顔をしているのだ。
「おまえ――おまえは何なんだ? 本当に、水子なのか?」
「やだなあ、水子だなんて呼ばないで? 私にはちゃんと、私が名乗るべき名前があるじゃない。そう、これは紛れもない、私だけの名前――」
私がすっくと立ち上がる。クローゼットに押し込まれながらも、自身の存在を主張するように。
「陽花だよ、大庭陽花。私が本当の大庭陽花なの。だってそうでしょ? 私が授かる筈だった名前だもの。だから陽花は私のものなの。あんな神様が私のフリをしていた、今までの方がおかしかったんだよ。ねえ、理解るでしょう? お兄ちゃんなら、理解ってくれるよね?」
踊るように、歌うように、そいつはその名前を口にする。
そうだ。確かにこいつの言う通り、こいつにはそれを名乗る資格がある。むしろこいつ以外に、大庭陽花を名乗る資格のある者など存在しない。最早こいつは水子ではないのだ。今までの定義を全て改める必要がある。『大庭陽花』という名前の持つ意味を、僕にとっての神様から――
――大庭葉月の、妹へ。
「もう一度聞こっか、お兄ちゃん」
現状を再認識する。
僕の妹が、狭くて暗いクローゼットに、押し込められている。
妹が――陽花が真っ直ぐに僕を見つめて、訴えかけている。
「私を、ここから、出して?」
その姿が。
あの家から逃れられずにいた、自分自身と重なってしまって、僕は――
バチィッ!! と、クローゼットに突っ込みかけた手が、見えない何かによって弾かれた。
「……!?」
「――あーあ」
痺れる手を抑える僕を、期待外れだと蔑むように、酷く冷めた目でそいつは見て。
「やっぱり、ここに入れるのは死体だけなんだね。ざーんねん」
「……おまえ」
「ま、いいや。名前だけでも手に入ったし、カラダの方は諦めるよ。今はね」
そんな視線のまま、口元だけは相も変わらず愉快そうに歪んでいるのが、酷く不快だった。
こんな風にして笑う生き物を、僕は生まれてこの方、見たことがなかった。
「あ、入れ替わるのは無理みたいだけど、扉くらいは開けたままにしておいてね? おにーいちゃ」
最後まで言い切られる前に勢い良く扉を閉めてやると、受付の女性から逃げた時よりも喧しい音を立てて中の様子が見えなくなった後、「うわ、サイテー」という恨み節が扉の向こうから返ってきた。
――これが、大庭葉月と大庭陽花の、初めての出会い。
そう。
15年もの間、誰よりも近いところにいながらも、見つけることの出来なかった妹と――僕は今、最低の邂逅を果たしたのであった。
どれだけの苦手意識があっても、顔を合わせなければならない相手というのは存在する。例えば実の両親とか。そこに今度は実の妹も加わりそうな現状を打破するべく、僕は肉親以外のそういう相手を頼ることにした。
つまるところ、一度部屋を出て、あの特徴的な髪型の女性がいる受付へと戻ってみたのである。
「あら、おかえりなさい。どうかしら? 新しい我が家の感想は」
「最低、でした」
包み隠さずにそう答えると、受付の女性は愉快そうに口の端を吊り上げて。
「それは残念ね。感動の再会を演出出来たと思ったのだけれど」
などと、僕の暴言を嗜めるでもなく、さらりとぶっちゃけた。
『私が犯人です』と。
「……やっぱり、あれはあなたの仕業なんですね」
「真っ先に私を疑ったのね。あなたにあの部屋を押しつけたのは紳士さんでしょう?」
「僕はあの人を信じていますから」
そう、僕は信じている。あの人の高潔な精神を視ているから、信じられる。そして、この女性が彼と真逆の存在であることも、今ならば理解る。未だに僕の副作用は失われたままなのだが、あんな仕掛けを部屋に用意したというだけで、この女性を僕の敵と見做すには充分過ぎた。
「――ええ。あなたの言う通り、この件に紳士さんは一切関与してはいないわ。実際、彼が住んでいた時は普通の部屋だったのよ。あなたとその片割れが訪れたことで、変質した303号室の宿主に大庭陽花が選ばれた――ざっくりとした解説をするなら、そんなところかしら」
「……変質?」
「取り消されていた表の文章があったでしょう? あれが本来の303号室のルールよ。そもそもあの文章も、片桐隆明が自分のために残した単なるメモでしかなかったのだけれど――門を潜った影響かしら? あのメモもまた、ROOM303の一部になったということかもしれないわね」
正直言って、この女性の説明の意味はこれっぽっちも理解らない。実際、このひと自身もまともに伝える気がないように思える。伝わる人にだけ伝わればいい、という感じの語り口だ。宿泊施設の受付に立つ人間としては褒められた態度じゃないなと思う。客を逃がすぞ、そういう一見さんお断りみたいな対応をしていると。
「……あなたは一体、何者なんですか。もしかして、近界民――」
「この世界の者ではないという意味ではそうだけれど、いわゆるきんかいみん、とはまた別の存在だとだけ言っておきましょうか」
そう言われても、僕は未だに本当の近界民というやつを知らないので何とも言えない。
とはいえ、ウィルバー氏はこの『白屋敷』のことをボーダーによって管理・運営されているものだと言っていた。出自不明の建物であるとも。そんな屋敷を管理する立場に、目の前の自称異世界人がしれっと納まっている。これは明らかに異常な事態だ。僕はボーダー隊員として、この女性のことをボーダーに報告する義務があるんじゃないのか――
が、そんな僕を牽制するように、受付の女性がこんなことを言うのである。
「外に助けを求めるのは勝手だけれど、その時は失われた第二のルールを屋敷全体に適応するだけね」
「――第二のルール?」
「『この部屋で得た情報は外に持ち出すことはできない』――嘘だと思うかしら? あなた、気軽に電話を掛けられるようなお友達はいらっしゃる?」
「……二人ほど。でも今の僕は携帯を持っていませんので」
厳密に言えば一人かな、今は。公平の方は出張中で忙しいだろうから。
しかし――情報を外に持ち出せないというのは、どういうことだろう。例えば、今この女性から聞いたことも屋敷の外に出たら忘れてしまうとか、屋敷の中から外に連絡して事情を説明しようと思っても上手く伝わらないとか、そういうことだろうか。後日試してはみる。試してはみるが――おそらく、想像している通りのことが起こるのだろうと思っている。わざわざこんな嘘を吐く理由が見当たらないので。
「――あなたの目的は何ですか。僕と陽花を利用して、何を企んでいるんです?」
口にしてから、思った。何とも滑稽な台詞だ。『何を企んでいる』だなんて、悪役を問い詰めるヒーローか何かじゃあるまいし。もっと他に適切な言い回しはなかったのか僕。
「強いて言うなら――魂の吟味、かしらね」
――これだ。僕が真っ先にこの女性の下を訪れたのは、この単語を覚えていたからだ。
『魂』。僕の中に紛れていた陽花の魂は今、切り離されて肉体を得て、あのクローゼットの中に押し込まれている。正直言って、原理や理屈はどうでもいい。僕が知りたいのは、今は死体として扱われているあいつの生命が、本当の意味で蘇ることはあるのかどうかだ。
あいつがあいつ自身の体で蘇る分には、それは一向に構わない。むしろ、喜ばしいことだとすら思う。随分と長く回り道をしてしまったが、ようやく僕らは普通の兄と妹として、手を取り合って生きていくことが出来るかもしれないのだから。
しかし、あの時の陽花は明らかに、僕の身体と入れ替わろうとしていた。僕を死体役にしようとしていたのだ。そんな相手と仲睦まじく、兄妹ごっこを続けていけるとは思えない。やはりあいつは僕にとっての敵だったのだ。故に僕は戦わねばならない。僕の境界線を踏み越えようとする侵略者を、僕自身の手で殺さなければ――
「――ROOM303は常に好物を求めている。自分勝手で、独りよがりで、保身のために他者を踏み躙る淀んだ魂を喰らいたがる――部屋の掟が変わっても、その本質は変わらない。あなた達は今、試されているのよ。あの部屋にね」
――思考に待ったを掛けるが如く、女性の言葉が耳に入る。
女性は今、淀んだ魂の定義を口にした。自分の世界を守るために、他人を排除することは淀みであると語った。そんな魂を餌にする部屋に、あなた達は試されているのだと、そう言った。
あなた、達。
……僕も試されているっていうのか? 僕の魂が淀んでいると言いたいのか? 陽花の存在を受け入れ難い、それどころか積極的に排除したいとすら思っている、この感情は――淀んでいるのか?
「納得がいかない、という顔をしているわね」
そんな僕の顔を眺めながら、目の前の女性は薄ら笑いを浮かべている。その顔立ちも笑い方も、雰囲気だけなら那須さんに近いものがある。あるというのに――何故こうも、不快に感じてしまうのだろう? 今の僕が、淀んでいるからか? それともまさか、副作用を失った状態で那須さんと出会っていたら、僕は彼女の笑顔にさえも不快感を覚えていたんだろうか――そんなおぞましいことは、考えたくもない。
「納得というのは受け入れること。物事と向き合い、自身の中で咀嚼すること――さて、あなたが今『納得』出来ていないのは、本当にあなたが正しいからなのかしら? あなたは彼女の主張を、存在の意味を、果たして何処まで理解しているのか――理解しようとする意思を持っているのか」
「……それはお説教ですか?」
「いいえ、忠告よ」
おもむろに、女性が受付カウンターの下から何かを取り出した。
掌サイズ程度の大きさをした、球体関節型の人形だった。糸のように細い目と、やたらにやにやと吊り上がった口元が印象的な、脳天をかち割られている人形だ。よく見ると胸元に、うっすらと文字が刻まれている。半ば消えかけているけれど、それは今の僕にとって、最も馴染み深い三桁の数字――
――303。
「あなたが彼女を叩き割るのは勝手だけれど、その時にあなた自身は、あなたを許せるのか――」
鋭く尖った女性の爪が、人形の傷跡をなぞる。撫でるように、愛でるように。僕の副作用は未だに働く気配を見せないのだが、何となく、女性の仕草にそういうものを感じたのだ。けれど、彼女が人形にそんな意識を抱いている理由は微塵も想像が付かない。僕とは価値観の違う存在――そういう意味でも、やはり彼女は僕にとっての異世界人だった。
「――その答えを出せないまま事に及べば、ROOM303は大庭陽花ではなく、あなたこそを餌だと認識するかもしれない。受付嬢から言えることは、そのくらいかしらね」
「……そのくらいだと言われても、こちらとしてはまだまだ理解らないことだらけなんですが」
「贅沢な注文ね。これでも一条雪丸らに比べたら親切な対応をしてあげているのよ? ……ああ、そう考えてみると――私の在り方もまた、変質しているのかもしれないわね。世界を跨げば、個の存在も変質して然るべきもの――結束夏凛も随分と雰囲気が変わったようだし、最近なら何処ぞの御姫様が良い例かしら? うふふふふ……」
……駄目だこれは。いよいよもって話の通じる雰囲気じゃなくなってしまった。普段から独自の世界を築き上げては周りの人間から白い目で見られることに定評のある僕だが、いざ他人にそれをやられてみるとこうも気分が冷めるとは思わなかった。人の振り見て我が振り直せだな、うん。
とりあえず、仕掛人に詰め寄っても事態の解決は望めそうにないということだけは理解できた。例えば僕が正隊員に昇格して、トリガー武器で直接この女性の排除を目論んだとしても、おそらく良い結果は得られないだろう。当然、単純に屋敷を出ていったり引っ越したりすることで解決する問題だとも思えない。何というか、この女性との戦い方は――勝ち方は、そういうものではない。
僕と陽花はROOM303に試されていると、彼女は言った。ならば僕のやるべきことというのは、その試験に合格することなんじゃないのか? こんな思考になるのは、さっきまで僕が面接なんてものを受けていたせいだろうか――
――まったく、とんだ二次試験だ。
「あの、最後に一つだけ、いいですか」
踵を返す直前、肝心なことを聞きそびれていたことに気付いて、そう言った。
そう、これが何よりも重要な案件だった。ともすればあの部屋の異常よりも、陽花の存在よりも気に掛けなければならない問題が残っていたのだ。
「あら、何かしら?」と女性が意識をこちらに戻してくれたことにほっとしつつ、僕はその最重要案件を口にした。
「僕の通帳とカード知りませんか?」
「個室の机の上よ」
ああ――安心した。
金さえあれば、ちょっと部屋に死体が住んでようがどうってことないな。そう思った。