葉月の異常な愛情~または僕は如何にして心配するのを止めて近界民を愛するようになったか~ 作:Amisuru
嘘を吐きました。
「おにーいちゃーん」
本格的な一人暮らしに向けての準備は明日からやるとして、小腹が空いたので近所のコンビニで早速幾らかの軍資金を下ろした後、カスクートと紙パックの牛乳を買ってきた。ついでに歯ブラシやタオル類、シャンプーその他諸々も。ある程度の日用品は部屋にあるようだったが、流石にこの辺は自前のものを用意しなければなるまい。
まあ、僕のお目当てはとにかくカスクートであった。別に好みの商品という訳でもないのだが、何故か
親の敵のように(僕がこの言い回しを使ってもあまり響かないのは理解している)齧りついて、流し込んで、束の間の呆然と虚無に身を任せた後、シャワーを浴びた。僕の身体にこびり付いた、
「ねー、あけてー。あーけーてーよー」
で、風呂場から出て身体を拭いて、歯を磨いてうがいをして眠りに就いた。寝床は個室にベッドがあったのでそれを利用させてもらった。ウィルバー氏もこのベッドを利用していたのかなあとか若干気になるところはないでもなかったが、まあ引き継ぎにあたって清潔な状態を保ってあることだろう。特に変な匂いとかもしなかったし。
そして、布団を被ってすぐに思った。
音の出所は当然、クローゼットの中からだ。ただしリビングのではなく、
リビングを離れさえすればこっちの勝ちだと思っていた僕が甘かった。掛け布団と枕だけ持ってクローゼットの無い別の部屋にでも移動しようかとも思ったのだが、ベッドの寝心地が最高過ぎるために正直もう動きたくない。それ程までに疲労を極めているにも拘らず肝心の睡魔だけが訪れてくれない。完全に不眠症だなこれ。或いは、陽花の意識が覚醒している間は僕も眠りに就くことが出来ないとか――いやいや、そんなまさか。
「おにいちゃーん、お喋りしようよーう。ステキな一日だったでしょー? 一緒に振り返ってみようよー、きっと楽しいよー?」
「黙れ」
「お、やっと反応したよ。めげずに呼びかけ続けた甲斐があったねー。何分くらい開けて開けて言ってたっけ? 分? 分で済むかな? ひょっとして1時間とか経ってる?」
「黙れと言ったぞ。いいか、これだけは言わせろ。僕は眠いんだ。そして今日はお前の言う通り、素敵な一日の
「うわー、間接的に死ねって言ってるー。もう死んでるのになー。つらいわー」
「そう言うおまえも、僕を殺そうとした」
「悪かったよう。私ね? ちょっと欲張り過ぎちゃったの。妥協するって大事だよね。相手と主張をぶつけ合った上で、意見を擦り合わせて、お互いに納得のいく着地点を見つける――そう、妥協だよお兄ちゃん! 今のお兄ちゃんにはその姿勢が足りない! 私の意見を尊重しようという意識が見えない! 憤慨です! 妹は怒っています! ぷんぷん!」
こいつのキャラが理解らない。今ぷんぷんって言ったか? ぷんぷん。
誰の影響だ? まさか僕か? 僕なのか? 確かに僕もぬるぬる……ぬるぬる……とか言ってたけれど。というか、自分の意見を尊重しろと言う割には僕の眠いという意見を尊重する気配が見えないのはどういうこった? あァ? ――あ、今の僕ちょっとカゲさんっぽい。そういえば、僕もカゲさんが眠い眠い言ってたのに平気な顔してヒカリやゾエさんとくっちゃべってたなあ。やっぱり謝ろう。僕の目にはこれっぽっちも眠気を感じているようには
ウィルバー氏、受付の女性、そしてこの
駄目だ。これ以上頭を使いたくない。余計なことを考えたくない。無だ。無我の境地に至ろう。心頭滅却すれば火もまた涼しけり。この耳障りな妹の声も、まっさらな心で受け入れれば子守歌に早変わりするかもしれない。ほら、
「――むー。もういいよ、私一人で勝手に言いたいこと言いまくるから」
ああそうしてくれ。こっちもこっちで勝手に暗示を掛けるから。いいですかー? あなたはこれから妹の声を聞くと不思議と眠くなってしまいまーす。それではまずは深呼吸から。吸ってー……吐いてー……吸ってー……吐いてー……。
「ねえお兄ちゃん? 今日は本当に楽しかったよねえ。可愛い女の子ふたりと仲良くお喋りして、紳士のおじさまに出会って、
あ、なんか割と普通に浸れそうなこと言ってやがるこの妹。良いじゃないか。そのまま肩の力を抜いてー……イメージして下さい……あなたは今、心地いい風の吹く草原の中にいます……空気があなたに囁いていますよ……おやすみ……葉月くん……おやすみ……。
「そんなお兄ちゃんのことを、私は見ていたよ。優しい人たちに囲まれて、穏やかで、それでいて賑やかな世界――そんなところで生きるあなたを、私はあなたのすぐ
妹の声が耳をすり抜け、より深い位置へと潜り込んでくる。心の臓を掴まれているような感覚がする。彼女は僕の
大庭陽花。僕の妹。僕の
「本当に――クソだなって思いながら見てたよ」
――そんな身勝手な
「ねえ、紳士のおじさまが言ってたよね。私って、お兄ちゃんの
「……まだそうと決まった訳じゃない。紳士ウィルバーは専門家でも何でもないんだ」
「じゃあここにいる
「……おまえの機嫌を損ねたら、僕はトリオン体に換装出来ないとでも言うつもりか? 馬鹿馬鹿しい」
「そんな風に強がって、後から恥かいても助けてあげないよお兄ちゃん。もう理解ってるでしょ? お兄ちゃんはね、私がいないと何にも出来ないの。トリオン体になれない、正隊員にもなれない、お兄ちゃんを受け入れてくれた、
――
僕は再び、
ベッドから身を起こし、熱に浮かされたような足取りで、僕は個室を出た。武器が必要だった。
「――そんなお兄ちゃんがさあ、私の存在を蔑ろにして、楽しいことを独り占めするなんて、許されるとでも思ってるの? おかしいよね? ありえないよね? それは本来、
僕がリビングへと移動したのに合わせて、声の出所も個室のクローゼットからリビングのそれに移り変わっている。都合がいい。わざわざ個室に戻る手間が省けたわけだ。
「違うかな? 違わないよね? お兄ちゃんのトリオン体が私の顔をしてるってことは、お兄ちゃんは
「黙れ。お前はただの内臓だ。僕の身体の中にあるただの一器官だ。人間様の言葉を口にするな。そうだ――何が妹だ、何が本当の大庭陽花だ! お前は化け物だ、
クローゼットに向けて、手にしたバットを投げつける。扉とバット、どちらも木製。同じ木から生まれたものたちが、ぶつかり合って、身を軋ませて、互いに傷付いている。変だよなあ、バットはボールを打つために作られたもので、クローゼットは服を仕舞うための場所なのに、こいつらは何でこんな目に遭わなくちゃいけないんだろう。かたや命を奪うために振り回されて、かたや死体を隠すために使われて、普通じゃないや、こんなの。
「……ねえ、本当に思わないのかな。
からんからんと音を立てて転がったバットには目もくれず、今度は木製の椅子を手に取り、持ち上げる。そのまま投げつけてから、思った。
どうして僕は、
腹の底に鉛が乗ったような重たさを感じる。
――どうして僕は、
「お願いだよ、お兄ちゃん。扉を開けて。私を見て。気付かないフリしないでよ。私はね、
「……何がズルいって言うんだ? だって、こんなの、おかしいじゃないか。僕は今、苦しむ必要のないものに苦しめられているんだ。おまえは確かに可哀想な奴だよ。おまえが普通の妹だったら良かったのにって、心の底から思ってるよ。でも現実に生きているのは僕一人だけで、何処までいってもおまえは
「
――ああ、畜生。
この言葉がこれ程までに、僕にとって大きなものになるだなんて思ってもみなかったよ、陽介。
「――本当に、私にあげられるものなんて何もない?」
「……しつこいぞ」
「私の目の前にね、どうしても自分一人じゃ越えられない壁があるんだよ。その壁を立てている人はとても頑なで、意地が悪くて、私の言うことなんか何も聞いてくれなくて――ホントのこと言うとね? 私だってさ、
扉の向こうから、女の声がする。それは妹の声であり、内臓の声であり、
それが僕の
僕の神様は最後に言った。
想像してみてくれよ。ある日突然、内臓があなたに語り掛けてくるんだ。私と代わってよ。私がいないとあなたは生きられないんだから、その身体は私のものだよ――って。はい理解りましたと頷いて全てを差し出せる人間が、この世にどれだけいるというんだ? 少なくとも僕には無理だ。僕は決して、聖者になんかなれない。なろうとも思わない。けれど――
「……けれど、
視界の端に、最後の
砕け散ったものは、二度と元には戻らない。バットを投げて、椅子を投げても、この花瓶だけは割らなかった。そのことがいつか、僕にとっての誇りになる日が来ればいい。
そんなことを、ふと、思った。
「――陽花」
「え」
呼びかけてみると、扉の向こうから意表を突かれたような反応が返ってきた。なんでかなと一瞬考えてから、気が付いた。
そういえば、初めて名前で呼んだんだな、
「開けるぞ」
「あ――う、うん」
真の名を呼ぶ。与えられるべきものを与える。たったそれだけの行為が、こいつの仮面を引っぺがすことに繋がったのか。
クローゼットを開いた先にいたのは、例の薄気味悪い笑みが剥がれ落ち、やや緊張した面持ちでこちらを見上げている、僕と同じ顔をした女の子だった。
――人間がいた。
少なくとも、内臓には、見えなかった。
「……おまえのこと、はっきり言って、まだ信用は出来ないよ」
その上で、僕は本心を口にした。壁を破って、正面から向き合ってみても、その認識は変わらなかった。
けれど、それは多分、こいつのせいではないんだ。僕は誰が相手であっても、心を覗き込まない限り――
人間、失格。
こいつを殺した時、僕は本当の意味で、そういうものになってしまうんだろう。
大庭陽花。僕の中にある、僕の全てを奪おうとしている、受け入れがたいもの。けれど、そんな存在の生み出す不思議な
それは、まさしく
決して役に立つだけじゃない。こいつを抱えているせいで、苦しむことだってきっとある。今日なんかまさしくそうだった。そしてこれからも、僕と陽花は何度も激しくぶつかり合って、互いに傷付き、折れそうになるのだろう。
その上で、
自分自身を愛するように、汝の
「でも――いつの日か、
そう言って、僕は見えない壁にそっと手を合わせた。
クローゼットの中に入れない、決して死体にはなれない僕が、妹に向けて差し出すことの出来る限界まで、手を伸ばした。
「……ありがと」
照れ隠しのようにそっぽを向きながらも、僕の差し出す手に向けて、陽花もまた手を伸ばした。
目には見えない
――窓の外から、燦々とした陽光が部屋を照り付けている。
そんな典型的な朝の始まりを、仰向けに寝かされたソファーの上で迎えた。何処から引っ張ってきたのか、身体には毛布も掛けられている。一体誰の仕業だろう。
視線を周囲にちらちらと動かすと、机の上にある一枚のメモ用紙が目に入った。
あなたたちも不合格。残念だわ。
ああ、早合点しないで頂戴? 悪い意味じゃないのよ。少なくとも、あなたたちにとってはね。
スッキリした魂――そう言い切っていいのかは、私にもまだ判らないけれど。
とにかく、試験はこれで終わりだということ。
紳士もいない、不思議な部屋も絡まない世界で、今度こそ始めてみるといいでしょう。
あなたたち、二人の物語を、ね。
P.S. 花瓶を割らなかったのね。偉い子。
私の趣味ではないのだけれど、お誂え向きの花を挿しておいたわ。
せいぜい枯れるまで、育てて御覧なさい。それじゃあね。
視線を上げて、机の上の花瓶に目を向ける。
――
『バカじゃないの?』
ぐっ……ちくしょう。これからはこんな感じで随時ツッコミが入るっていうのか。おちおち頭の中で羽目も外せないじゃないか。
『しょうもないこと気にしてるね。今まで通りの頭おかしいお兄ちゃんでいいじゃん、別に。散々互いにどうしようもないとこを見せ合った後なのに、今更何を遠慮しようっていうの? そういうところがみみっちいよね、お兄ちゃんは』
ククク……酷い言われようだな。まあ事実だからしょうがないけど。
これが僕と陽花の着地点。一人の身体に、二人の心。納まるべき形に納まったと言いたいところだが、あくまでこれは現時点の僕らが導き出した結論だ。これから先、僕らの関係がどう転ぶのかはわからない。未来は無限に広がっている、とでも言えばいいのかな。今のところ肉体の主導権は僕が握っているけれど、それだって陽花の気分次第で、容易く奪われてしまうような危うい舵取りかもしれないのだ。
――と僕は一抹の不安を抱いている訳なのだけれど、そこんとこどうなんですかマイシスター。
『さあ、どうかな~?』
おい。
というかお兄ちゃん思うんだけどね? 僕の思考はおまえに筒抜けっぽいのに、僕は相変わらずおまえの心がこれっぽっちも
『全っ然意味わかんない……やっぱりウチのお兄ちゃんダメだわ……ねえ、そんなことよりさ』
そう――僕は未だに、この脳内妹が何を考えているのか、ほんの少しも理解出来ていない。多分一生、理解する日が来ることなんてないんだろうなと思っている。
けれど、人間なんて元々、
そういう意味で言えば――もしかしたら、僕にとっての人間というのは、世界にこいつ一人だけなのかも、しれない。
そんな僕の意識を知ってか知らずか、僕の妹は祈るように、希うように、その言葉を口にした。
『
僕も花瓶の方を見て、燦然と輝く太陽の花に向けて、応えた。
「――大切に育てるよ、ずっと」
……花の話だよ。
僕の世界にいきなり芽生えた、季節外れの花の話だ。それだけ。
2020/11/25
改行の増加、内容の分割、それに伴う文章の微修正等を行いました。