葉月の異常な愛情~または僕は如何にして心配するのを止めて近界民を愛するようになったか~ 作:Amisuru
12月の夜はよく冷えるなあ。手がかじかんで凍ってしまいそうだ。
もっと言うと、写真立てを殴ったときに切れた、手の甲から流れる血が固まってしまいそうだ。でもそれはそれで一種の止血になるのかな? どうなんだろう? そういう知識がないからさっぱり分からない。
確かなことは、僕はとうとう帰るべき家を失ってしまったということだけだ。大庭陽花とかいうあの家の神様をぶち殺してしまった結果、母はその場で昏倒し、僕はブチ切れた父からそれはもうボッコボコに全身を叩きのめされた末、スマホも財布も没収の上で勘当を言い渡されてしまった。
正直に言うと今すぐにでもその辺にぶっ倒れてしまいたいのだが、この寒空の下でそんなことをすれば、間違いなく朝方には大庭葉月15歳の惨めな凍死体が完成することだろう。だから僕は歩かなければならない。歩いて、歩いて――
――どこに行けばいいというのだろう? 交番にでも駆け込めばいいのだろうか? 僕の身体には真新しい暴力の証が残っているから話半分にあしらわれるようなことはないのだろうけれど、別に僕は両親を犯罪者にしたいわけではないのだ。何だかんだでこの歳になるまで育ててもらった恩はあるわけだし、彼らを哀れに思いこそすれ、恨む気持ちは微塵もなかった。
ただ僕は、あの僕の顔をした僕ではない何かと付き合って生きていくことは出来ないと思った。これ以上あの家の中にいたら、僕まであのおぞましい
僕と両親は道を違えた。違う世界の住人になることを選んだ。だからもう――両親とのことは、終わったのだ。これ以上は何も求めないし、関わり合いになるつもりもない。同じ理由で親戚筋を頼るのも駄目だ。縁を切るならとことんやらなければいけないし、それに元々僕の親類縁者に僕の味方など一人もいない。
ああ――でも、母方の祖父だけは割と僕に同情的な態度を見せてくれていたっけな。小さい頃はよく将棋に付き合わされたり、碁の方はよくルールが分からなかったから単純な五目並べに興じたりして楽しんだものだ。
去年の春に亡くなってしまったけれど。
歩く。歩く。警察の世話にはならないと決めた以上、人目の付くような道はなるべく避けなければいけない。ただでさえ今日は冬休み初日ということもあって、夜遊びをする悪い子はいねえかと言わんばかりにお巡りさんの数は普段よりも多いことだろう。制服姿に加えて手の甲からぽたぽたと血を垂らし続ける僕なんかは、彼らにとって絶好の餌以外の何物でもない。
――陽介の家に行ってみようか。公平でもいい。
『恥を知れ!!』
ああもう、分かってますよ父さん。縁を切るって言った傍から出てこないで下さいよ。
親も親戚も頼れないから友達を頼るというのは順序で言えば正解なのだろうが、親元に帰ることの出来ない身で頼るとなれば、事はもう一宿一飯とかその程度の厄介では済まないレベルになっているのだ。それに義侠心に厚い二人のこと、事情を話した途端に怒り心頭で大庭家へと殴り込みをかけ、父と一戦仕ってしまいかねない。
二人が誰かと喧嘩したりしているようなところは見たことがないが、公平は何やら足癖が悪いのか頻繁に陽介の尻を蹴っ飛ばしているところを見かけたりする。そして陽介が反撃でヘッドロックをお見舞いし、そのままなし崩し的にプロレス技の応酬が始まるのだ。
僕はそんな二人をバカだなあと思いつつ眺めているのが常だったのだけれど、今にして思えば、何故眺めているだけに留めていたのだろう。あんなに楽しそうだったのに。
僕と彼らの間には確かに友情が存在していたと信じているけれど、それでも何処か、僕の方から一方的に線を引いていたところがあったような気がする。その
――ボーダー、か。
僕がそれに興味を抱くことが出来なかったのは、自分は防衛機関などという格式ばった集団の中で上手くやっていけるタイプの人間ではないという自覚があったからだ。
が、そもそもボーダーというのは本当に、
自分には縁のない場所だと思っていた。僕が目指していた(過去形だ、もう。今更通えるはずもない)六頴館もボーダー提携校の一つであったが、おそらくはそのまま県外の大学にでも進んで、そういえば僕の地元って三門でさあ、ほら、知らない? ボーダーっていうんだけど――みたいな感じで、地元ネタの一つとして持ち出される程度の、たまたまそこにあったもの、くらいの距離感を保ち続けるものだと思っていた。
けれど、その未来へと繋がる門はもう、閉ざされてしまった。
今なら進めるのだろうか? この
目の前の現実はそう言っている。けれどなんだろうな、カリギュラ効果って奴なんだろうか? 入ってはいけない、そう言われているからこそ、今の僕はそこへと辿り着きたくて仕方がなくなっている。僕は本物ではない。出来損ないの紛い物でしかない。その認識は変わらないのだけれど、それでも少しだけ、
なのに――ああくそ、何だってこんな鉄線なんてものを張り巡らせていやがるんだ。ペンチでも持っていれば断ち切って通れたのかもしれないが、当然僕の手元にそんなものはない。或いは僕が本当に女の子だったなら、小さい小さい女の子だったなら、隙間を潜って通り抜けるくらいのことは出来たのかもしれない。
かもしれない。かもしれない。全部仮定の話ばっかりだ。やはり意志の力だけで現実に打ち勝つことなんて出来ないのだろうか? ここで行き止まりなんだろうか? そろそろ痛みと寒さが限界に近付いてきた。座り込んでしまいたい。
ああ――なんてみっともなく、それでいて甘美で強い衝動なんだろう。ほんの一瞬前まで抱いていた、本物になれるかもしれないとかいうささやかな希望が、疲れたからもう休みたい、それだけのことにいとも容易く押し流されていく。
やっぱり僕は偽物なんだ。こんなちょっとしたことですぐに揺らいでしまうような精神なんて、本物じゃない。何の価値もない。目指すこと自体が間違っていた。届かないものに手を伸ばそうとしていた。だから僕はここで終わりなんだ。何者にもなることが出来ないまま、こんな中途半端な形で、全部投げ出してしまうんだ。
――――――――。
――強いなあ。
こんなにも軽くて扱いやすいのに、何だってこの言葉は、こんなにも力強いんだろうか。
どれだけどん底まで追い詰められても、この一本の槍さえ手放さないでいれば、僕たちはどんな相手とだって戦い続けることが出来るんじゃないだろうか?
「……あれ」
この鉄線、握れるところを握ってみると何ていうか、思いの外、緩い。もしかしたら、多少強引に捻じ曲げてしまえば、広くなった隙間から普通に通れるんじゃないか?
うわあ、どうしよう、誰に見られているわけでもないのに死ぬほど恥ずかしいぞ。なんで僕は、試しもしないうちから通れないだなんて決めつけてしまっていたんだろうか。疲れで思考が鈍っていたにしても、あまりにもお粗末に過ぎる。こんなにもあっけなく乗り越えられる壁の前で、先に進める可能性がないだなんて決めつけて、馬鹿みたいじゃないか。なんて滑稽な絶望を抱いていたんだろうか?
――でもまあ、なんだろうな。
案外、何もかもが、
一つ確かなことは、進もうと思ったところで進めるかどうかは分からないが、進めないと思ってしまったらそこで全てが終わってしまうということだけだ。
今回はどうやら、もう少しだけ進んでもいいらしい。
だから僕はこの先へ行く。
この
人気のない夜の街を歩くのってワクワクするよね!!
お分かりいただけるだろうか? 今の僕が抱いている興奮の度合いというやつが? あのね、誰もいないんだよ。道のど真ん中で鼻歌混じりに踊っても誰にも文句言われないんだよ。無意味に道の端から端をうねるように走ったところで車なんか来ないし、何なら唐突に月に向かって吠えたっていいんだ。アオ――――――――ン!!
……声が出ない。そういえば今の僕の喉は死んでいたのだった。いやしかし、何だってこんなにテンション上がってるんだろうなあ。来るところまで来てしまったせいでヤケになっているんだろうか?
とにかく、何故か知らないが絶好調だ。世界を支配したような気分になっている。夜だからこそ味わえる感覚だな、これは。大庭葉月は陽の光を浴びないと生きていけない生き物だなんて言ったけれど、やはり本来の生息地というか、体に馴染む場所というのはこうした暗闇の中なのかもしれない。
ああでも、流石に何も見えない真っ暗闇だとこうはしゃいでいられないか。
――ボーダーの中にも、こういう居場所があると助かるんだけどな。
ボーダー本部基地を訪ねる。そうと決めたはいいのだが、こんな時間に手から血を流した中学生が一人で押しかけていったところで、警察に駆け込んだときと大差のない結果が待っているような気がしないでもない。いや待て、ボーダーはあくまで近界民と戦うのが仕事であって、家庭の事情に首を突っ込む権利までは持ち合わせていない筈だ。黙秘権を行使させてもらう。
当面の問題は、僕という存在をボーダーが受け入れてくれるのか否かということだ。ボーダーの入隊式というのは確か1月、5月、9月の4ヶ月ごとに行われていた筈だが、その前にも当然試験のようなものはあるだろうし、それに最悪、親の同意がなければ入隊は許可出来ないなどと言われてしまう恐れがある。というか確実に言われるだろう。となるとやはり、ある程度の事情は明かしてしまうしかないのか。早速方針がブレ始めたな。こんな調子で大丈夫か?
試験。一体何を試されるというのだろう。少なくとも学力ではない筈だ。いや、仮に学力を試すとしても、それは大して重要視されないに決まっている。何故なら陽介が受かっているから。陽介が受かる試験に僕が落ちる筈がない。これは純然たる事実を口にしているだけであり、僕らの友情に何ら罅を入れる発言ではないということを断っておく。
となるとやはり体力試験か。戦うための組織なのだから、当然そっち方面の能力も求められるんだろう。そして悲しいかな、僕の運動能力は同学年男子の平均を遥かに下回っているのだ。
言い訳が許されるのであれば、ホルモンの差だと思っている。単純に、筋量で劣っているのだ。今からでもリカバリは間に合うのだろうか? 持久力になら自信があるんだけどな。速度さえ求められなければ、這ってでもゴールまで辿り着いてみせるのだけれど。まさに今、こうして寒空の下ボーダー本部基地へと進んでいっているように――
!?
何だこの音。めっちゃ近所迷惑じゃん。夜更けってほどの時間でもないけど市民の生活を考えて――などとすっとぼけたいところなのだが、むしろ
と言っても、これほどまでに近くでこの音を聞いたのは初めてだ。何故ならそれは、僕にとって
ご注意くださいと言われても、一体何を注意すればいいというのだろう。床にでも伏せていればいいのだろうか? まさにその発生したゲートとやらは、
虚空にバチバチと穴を開けて、夜空よりも更に暗く底知れぬ闇の中から、そいつは降りてくる。
ちなみに僕は、酔っ払いが大の苦手である。故にきっと、この門の中から出てくるやつのことも好きになれないに違いないのだ。嫌だなあ、関わり合いになりたくないなあ。けれど、ボーダーに入るっていうのはこの酔っ払いの面倒を見る仕事をするという意味になるのか。最悪だ。やっぱり帰りたくなってきたな。帰る場所なんてもう何処にもないんだけど。
そんな声が聞こえた。
は? と思って頭上を見てみると、黒塗りの門から這い出るように、
欲情など出来る筈もない。何故ならそいつは、
『まやかしなんかじゃないよ』
そんなことを言って、目の前の
『葉月、お姉ちゃんが本当のことを教えてあげる。私はね、ずっと
「ふざけるな」
『ふざけてなんかいないよ。だって私たち、誰からも愛されることなんか出来なかったでしょう? 本当のお父さんとお母さんにすら見向きもされなかったのに、こんな私たちを一体誰が受け入れてくれると思ってるの? 何に期待をしているの? あなたの大好きなお友達が、また助けてくれるとでも思ってる?』
「僕は最初から、
期待っていうのはただの願望だ。他人に対して、一方的に押しつけるだけのものだ。
父さんと母さんが僕に抱いていたものであり、僕が二人に抱いていたものでもある。
きっと、そんなものを互いにぶつけ合っていたから、僕たちは最後まで分かり合うことが出来なかったんだろう。そのことに気付いていながら、期待することを止められず、二人の期待に応えることも出来なかったという意味でいえば、大庭家をバラバラにしてしまった一番の戦犯は僕であるとも言える。
理解っていたけれど、どうすることも出来なかった。僕は子供だった。どうしようもなく、僕はただただ子供だったのだ。最後の最後まで、欲しがることを止められない、甘ったれの子供。それが僕だった。
僕は友情に期待をしていない。
『なれるもんか』
「それを決めるのはお前じゃない」
『なれるもんか。私を見捨てるような人でなしが、そんな立派なものになんかなれるわけがない。私のことを可哀想だって思ってくれたでしょう? 二人一緒が一番だって、あの写真を壊すとき、そう思ってくれたでしょう? だったら一緒にいてよ。
「それも願望だ。僕に何も期待するな」
『どうして? どうしてそんなひどいことを言うの? おとうさんとおかあさんの期待に応えられなかったことを悔やんでいるのなら、今度こそ私の期待に応えてよ。悟った風なことを言って、子供
そうだ。どうやったってもう、陽花は大人になんかなれない。こうやって今、僕と同じ顔をして泣いていることだっておかしいんだ。だからこそ、僕はそんな、
「僕はボーダーに入る。
いや――これは目なのか? だって
いや、本当は最初からそうだったんだろう。むしろ何故、首から下だけは未だに人の形を保っているのだろうか。趣味の悪い幻覚にも程がある。これを見せているのが僕の深層心理とかそういうものであるのなら、人でなしの化け物呼ばわりされるのも無理はないな。
僕がそんなことを思っていると、目の前の化け物が同調するように、『そうだよ』と言った。
『私と葉月は二人で一つなんだから、私が化け物に見えるってことは、葉月も化け物なんだよ』
なるほど。
それは面白い解釈だなと感心した僕の頭を、大口を開けた
楽しい妄想劇場、おわり。
――あ、言っておくけど、僕の首じゃないよ?
デカい。
真っ先に思ったのはそれだった。何の話かって、すぐ傍で口から煙を吐いてぶっ倒れている
「アホかてめーは」
おかげさまで今、僕はこうしてボーダー隊員の方から直々にお説教を食らっているのだ。
ボーダー隊員――なんだよな?
とはいっても、その点で言えば陽介や公平も似たようなものだ。そうだな、この人からもまた、彼らと似たような空気を感じる。自由を好むアウトローの匂いだ。そしてその外見も中々に尖っている。具体的に言うと髪が尖っている。ツンツンしている。ついでに言うと目つきも尖っている。鋭くて実に男前だ。うらやましい。こういう顔の男に生まれたかったな。
風邪でも引いているのか(そんな状態で防衛任務に出るとは大したものだと褒めるべきなのか、ボーダーってのは思った以上にブラック体制なのかと恐れるべきなのか)口元はマスクで覆われてしまっているが、きっと歯もギザギザに違いない。そういう確信がある。
「こんな時間に一人で警戒区域に忍び込むわ、バムスターに食われる寸前だってのに気ィ抜けた面して動きゃしねーわ、どういう神経してんだ? あァ?
「バムスターっていうんですか、これ」
「ナメてんのか?」
「いえ、すみません。助けていただいてありがとうございます」
「……ケッ」
いけないいけない。初対面の人を相手についついいつもの調子で接しようとしてしまった。
……いや待て。ボーダーに入ったら、ゆくゆくはこの人ともお近づきになる機会が生まれるかもしれない。となると、今のうちから僕という人間を知ってもらった方が何かと捗るんじゃないか? ただでさえこの人は、僕にとって命の恩人にあたるわけなのだ。恩人に嫌われるというのはとても辛い。というわけで僕が脳内でテキトーな話題のとっかかりを探していると、
「どひー、誤差8.02は流石にしんどい! 移動するだけで一苦労だよ」
デカい。
そんな第一印象の人が現れた。思わず
「遅せーんだよゾエ。もう終わっちまったぞ」
「いやいやカゲ、ゾエさんこれでも急いできたのよ? おかしいよねえ、トリオン体に生身の筋力は関係ない筈なのに、なんでゾエさんとみんなで走る速さに差が付くんだろうなあ」
「普段から走る動きが身に付いてねーからトリオン体になってもまともに走れねーんだろ。A級の……あー、名前出てこねーな、なんかゴリラみてーなのが訓練のときにんなこと言ってたぞ」
「木崎さんでしょ? うーん、ゾエさんむしろ人より動けるタイプの筈なんだけどなあ、トリオン体っていうのは奥が深いねえ」
「もうすぐ入隊してから1年経つってのに、入りたての
「うん? そっち?」
マスクの人こそカゲさんが顎をしゃくって、丸い人こそゾエさんが釣られて僕の方を見る。
どうも、と右手を上げてみると、ゾエさんはその手に視線をやって再度「どひー!」と軽い悲鳴を上げた。何ともこの人によく似合う悲鳴である。
「大変大変、ケガしてるじゃん! 大丈夫? 痛くない? どうしようカゲ、ゾエさん治療用の道具とか何も持ってないよ!」
「俺だってんなモン持ってねーよ。ほっとけ、立入禁止っつってんのに警戒区域に入ったこいつが悪りーんだ」
あ、そういえば右手を切ってるんだった。正直大した傷ではないのだけれど、かなりの時間放置していた上に流しっ放しの血で真っ赤になっているから、見た目は確かに『どひー!』と言いたくなる感じではある。しかし真っ先にそこを心配してくれるとは、この人は、いや、この人
「そういうワケにもいかないでしょ――ごめんね? このおにーさん見た目こんなだしワルぶったこと言ってるけど、悪いヒトじゃないから、ホントに」
「
「ね、悪いヒトじゃないでしょ」
「うるせー」
「……
すみませんゾエさん、聞き捨てならない単語に思わず反応してしまいました。しかしそんな僕の反応を失礼とは捉えず「あー、えっとね」と解説の姿勢になってくれるのだから、やはりこのゾエさんは人が出来ていらっしゃる。ちなみに口を滑らせた当のカゲさんは既にこっちを見ていない。
「キミ、お名前聞いてもいい?」
「葉月です。大庭葉月」
「あのね葉月くん。キミにはこれからウチの基地まで来てもらわなきゃいけないんだけど、そこで手の傷を治療した後にね、その、ちょーっと言い方が悪いんだけど、
怖い。
え、アタマを弄るって何? ロボトミー? 改造手術? ワタシハナニカサレタヨウダ?
知ってはいけないようなことを知ってしまったような気がする。ああでも、
――などと、全てを聞く前に納得しかけていたのだけれど。
「
心臓が破裂するほどの恐怖だ。動悸が、呼吸が、生きるための器官の全てに狂いが生じている。今日のことを全て忘れる?
あり得ない。そんなことは、あってはならない。
「は、葉月くん!? しっかり、しっかりして!」
「……おいおい」
駄目だ。拒絶されるなら別にいい、それならそれで諦めもつく。現実なんてこんなモンかと溜息を吐いて、月に向かって中指の一つでも立てて野垂れ死ぬ、そんな自分なりに見た目だけは格好の付く最期を選ぶことくらいは出来る。けれど、それは、
今の僕はもう、昨日までの僕じゃない。僕がそう思っているだけかもしれない、それでも、この記憶を捨ててしまったら、
僕はそう叫んだ。叫んだつもりだった。なのに――ああ、どうなっているんだ?
視界がぐるぐると回っている。世界が反転していく。ああ――意識が飛ぶ。僕が消えてしまう。忘れてしまう。死んでしまう。嫌だ。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ! 助けてくれ。誰でもいいから、僕を助けてくれ!
僕は何かに期待した。期待してしまった。願望を抱いてしまった。戦う力のない、ただの子供に戻って、しまった。
そんな僕を嘲笑うように、
僕はそいつを見た。見てしまった。縋りつくべきではない、
ああ――そうだ。それが僕だ。大庭葉月だ。そうなることを決めた。そうやって生きていくと、僕は、誓ったんだ。
僕は絶望した。
今度こそ、本当に、絶望した。
陽花が笑っている。
だから諦めよう。絶望しよう。
「――おい。こっちを見ろ」
陽の中に、影が差した。
「何も喋らなくていい。ただ、願え。お前が今本当に、心の底から望んでいることを、願え」
その影は全てが尖っていて、触るものみな傷付けそうな見た目をしているのに、それでも誰かを――誰のことだろう? わからない。ただ、誰かを助けようとしていた。本当に、ぱっと見ただけではわからないのだけれど、必死になって手を伸ばしているような、間に合え、間に合えと、閉じてしまいそうな隙間を無理矢理にでも抉じ開けようとするような、闇雲で、力任せで、強引で――
――頼り甲斐のある、ギザギザの歯をした、影だった。
僕はただ、それだけを、願った。
陽の中の影に向けて。
北添尋は狼狽していた。少しばかり
それが今はどうだ? 目の前では真新しい吐瀉物の上で全身を痙攣させ、今にも意識を手放してしまいそうな民間人の少年と、
――この親友の
『――おいカゲ、ゾエ! 返事しろこのバカ!! 何ボーっとしてんだよ!? さっさとそいつ担いで基地まで連れてこいよ! いりょーはんとか呼ぶよりその方がはえーだろ!?』
耳元で響いたオペレーターの怒鳴り声に、ハッと我に返る。
そうだ。突然のことに不覚にも気が動転してしまったが、とにかく少年を基地へと運び込まなければならない。しかし――この少年の記憶は、一体どうなってしまうのだろうか?
ボーダーが保護した民間人は、機密保持のために記憶を消されてしまう。北添が知っているのはその大まかな事実だけで、具体的にどういった手段で記憶の抹消を行うのかまでは把握していないのだ。ふと見ると少年は完全に意識を失っており、今は隊長の手によって支えられている格好だ。このまま彼を運び込んだとして、記憶処理が行われるのは少年が目覚める前なのか? 後なのか? その時に自分たちは、一体どういう対応をすればいい? 何が出来る? そもそもこの少年の記憶を守るために、ボーダーの規則に逆らうような真似をする必要まであるのか――
「行くぞ」
隊長――影浦雅人が、気を失った少年を背中に担いでそう言った。少年の口から零れた吐瀉物で、影浦の襟元が汚れている。
トリオン体なら気になどならないか――いや、今の彼はきっと、たとえ生身であったとしても、そんなことなど気にも留めないだろう。そういう目をしている。
「……カゲ、その子の記憶、どうすんの? いくらその子が忘れたくないって思ってても――」
「
「え?」
「そう
親友が何を考えているかまでは
故に、北添はただ、
カゲがそう言ってるんだからそうなんだろう。親友の持っている
それだけで充分だった。
「――なるほど。そういうことなら、忘れさせるわけにはいかないよね」
「そういうこった。医療班だか記憶処理担当だか誰の仕事だか知らねーが、何なら上の連中だって脅しつけてやる」
平時であれば、ケケケと笑いながら冗談半分で口にするような台詞だったかもしれない。しかし今の影浦の表情は、真剣そのものだった。剥き出しの歯を固く食い縛り、逆らう奴は誰であろうと噛み千切ってやると言わんばかりの、獰猛な顔付きだった。
「この町のやつが
2020/11/25
改行の増加、内容の分割、それに伴う文章の微修正等を行いました。