ベッドの傍に畳んで置かれていた制服へと着替えて(当然ながら着替え中カーテンは閉めた)、僕は病室を出た。本部基地の廊下を歩く僕の隣にはウィルバー氏と、彼の押す車椅子に座った那須さん。
自力で歩けないほど状態が悪いのかと心配になったが、目的の場所までそれなりに歩くので大事を取って、とのことらしい。歩くと言えば僕の方もまだ父に受けた暴力の爪痕が体のあちこちでぎゃあぎゃあ騒いではいるのだが、彼女の抱える負担に比べれば些細なことだ。
「今更の確認になりますが、少年は『トリガー』の存在については把握しておいでですかな?」
「まあ、ある程度は」
今年の夏頃からちょくちょく三門のローカル番組でお茶の間に顔を出すようになった広報部隊の面々が、拳銃のカートリッジみたいな掌サイズの機械を握り、カメラに向かってこう唱えるのだ。
『トリガー起動!』
するとたちまち彼らの格好が赤と黒を基調とした見栄えの良いジャージ姿へと変貌し(この派手なカラーリングの隊服も広報部隊故なのだろうか?)、突撃銃やら狙撃銃やらを構えたいっぱしの兵士へと早変わりするのである。
それにしても、あの広報部隊のいかにも三枚目然としたニヤケ顔が基本みたいな隊員は何故毎回二丁の狙撃銃を構えてドヤ顔を決めているのだろうか。芸人枠で起用されたのだろうか? カメラ慣れしているのかそのドヤ顔が様になっていて広報部隊の隊員としては文句の付け所がない振舞いなのがこれまた評価に困るところである。
でもそうか、僕がボーダーに入るとなったら彼らとも同僚の間柄になるのか。嵐山隊はまだ世に出て日が浅いものの、隊長の嵐山さんやオペレーターの綾辻遥さん(音痴)なんかはその華のあるビジュアルと爽やかで親しみやすい雰囲気も合わさり、早くも三門市ではちょっとしたアイドルのような扱いを受け始めている。もう一人の隊員も眠そうな眼付きなのに毅然として見える不思議な印象の子で、なんとも個性的な面々だ。お近づきになれたら良い自慢話になるだろう。肝心の話をする相手がいないという事実はさておいて。
「なんていうか、言ってしまえば、変身アイテムですよね」
そう、僕の抱いている『トリガー』への印象というのはそれに尽きる。どうやら隊員たちが使用している武器、例えば先に挙げた突撃銃や狙撃銃なんかもこのトリガーから生み出されているものらしいのだが、どうにもおもちゃ感が否めないのだ。軍事兵器という感じがしない。
実際に使っている隊員の大半が子供だからというのも、その認識に拍車を掛けている節がある。例の二丁狙撃銃の子や眠そうな子なんか確か僕よりも年下だもんな。今更ながら凄いな、そんな歳からカメラの前で怪物と戦うための武器を背負って町の皆に笑顔を振り撒いているなんて。僕にはちょっと真似出来そうにない。風の噂によると嵐山隊には広報部隊になる寸前で脱退した幻の5人目がいたという話なのだが、そのひとも僕と似たような気持ちを抱いたのではないだろうか?
「言い得て妙ですな」
そう答えるのはウィルバー氏だ。横目で見ると、那須さんも同調するようにいつものくすくすとした笑みを浮かべている。悪口のような言い方になってしまったんじゃないかと思っていたのだが割と的を射た感想だったようだ。ちょっと安心。
「トリガーを起動すると、使用者の体は『トリオン体』と呼ばれる戦闘用のものへと変容します。起動中、生身の肉体は向こう側の空間へと移され、トリオン体がどれだけ傷ついたとしても生身の肉体が影響を受けることはありません。言ってみれば、トリガーを起動することによって使用者はもう一人の自分に生まれ変わる訳です。それは少年の言う通り、変身以外の何物でもありません」
あ、そういう仕組みになってたのか。単なる早着替えだとばかり思っていた。体の中身からして別物になってたんだな。
……うん? ということはひょっとして。
「それじゃあ、那須さんを健康にするための研究っていうのは――」
「そう、トリオン体を利用したものよ。生憎と今はこんなだけれど、トリオン体になった時の私は――まあ、ちょっとしたものよ?」
そう言って笑う那須さんの言葉に嘘はない。視れば理解る。なるほど、たとえ生身の肉体が病弱だろうが何だろうが、トリオン体になってしまえばそんなことは関係がないのか。
「今我々が向かっているのは、お美しいお嬢さんがトリオン体を動かすための訓練で利用しているトレーニングルーム的な場所です。本日は少年にも彼女の訓練に立ち会っていただき、トリオン体を操るとはどういうことか、ボーダー隊員になるというのはどういうことなのか――というのを、実際に肌で感じていただきたいと思いましてな」
なるほど。急にウィルバー氏が『場所を変えましょう』と言い出した時は何を始める気なのかと思ったのだが、そういう目論見があったのか。採用面接の後に職場体験というのも何ともちぐはぐな感じだが、今はこの流れに身を任せるとしよう。
しかし、ふと思ったのだが――これは果たして、不躾に聞いていいことなのかどうか。ちょっと遠回しに確認してみようか。
「あの、トリオン体での活動っていうのは、何か制限みたいなものがあるんでしょうか」
「ふむ」
僕が気になったのは、那須さんは普段からトリオン体でいる訳にはいかないのだろうか? ということだ。しかし、それを直接訊ねるには正直タイミングが悪い。まるでウィルバー氏に車椅子を押してもらっていることを責め立てるような言い草になってしまう。なので逆に考えてみたのだ。しないのではなく、出来ないのではないかと。この質問はその仮説から生まれたものだ。
「お察しの通り、トリオン体には活動限界というものが存在します。それに至る原因は大きく分けて二つありまして、一つが『トリオン伝達脳』『トリオン供給器官』と呼ばれる主要器官の破損、もう一つが『トリオン切れ』――トリガー武器を使用したり、主要器官以外の部分を損傷すると、トリオン体を動かすためのエネルギー源である『トリオン』が失われます。その残量が尽きた時、トリオン体は崩壊します」
僕の疑問に丁寧な解説で応じてくれるウィルバー氏。しかし、今更ながらボーダーの内部事情に随分と詳しいなこの人。本当に部外者なんだろうか? なんかもう普通に職員さんみたいだ。
「逆に言うなら、トリオンを消費する行動さえ控えれば半永久的にトリオン体でいることも可能ということです。基地の中でも平時からトリオン体で活動しておられる方は多いですし、食事や睡眠をとることだって出来るのですよ」
「へえ……」
そりゃ凄い。もう一人の自分という表現は伊達ではないらしい。素直にそう感じる一方、ならば何故――という疑問もより強くなっていく。表情には一切出していないつもりだったのだが、不意に那須さんが「あ」と漏らした。
「大庭くん、もしかして今『どうして那須さんは普段からトリオン体で活動しないんだろう』って思ってる?」
うっ、と声が出た。完全に図星だったからだ。二の句を継げずにいる僕の前で、那須さんは特に気を悪くした様子もなく解説する。
「理由は単純よ。まだ許可が出ていないから、それだけ。来年の1月に正式入隊を果たすまでは、私個人のトリガーは所有出来ないことになっているの。訓練室に行けば担当の職員さんが待っているから、今日もそのひとから訓練用のトリガーを受け取って、そこでトリオン体に換装する手筈になっているわ」
……ああ。
病室を出る寸前の会話で何となく察しは付いていたけれど、やっぱり、そうなのか。
「……那須さんもボーダーに入隊するんだね」
「ええ。今受けている訓練というのも、トリオン体の操り方に慣れるという段階はもう終わって、トリガー――近界民と戦うための、武器の使い方を覚える段階に入っているのよ」
心を視る。嘘を吐く者特有の疚しさは微塵もない。冗談で語るような話でもない。真実だ。彼女も自分と同じように、ボーダー隊員として近界民と戦う仕事に就くと言っているのだ。いくら生身の体調がトリオン体とは無関係であるといっても、それは――なんというか、どうなのだろうか?
「あまり宜しくない表現になってしまうかもしれませんが、ボーダーも慈善事業ではない、ということですな」
そう語るのはウィルバー氏だ。いつの間にか手元にはスマホが握られていて、親指がせわしなく画面をタップし続けている。誰かと連絡でも取り合っているのだろうか?
「Mr.唐沢は大変よくやっておられるようですが、それでもボーダーの資金力には限りというものがあります。トリガーを一つ生産するのにもそれなりのコストが要求されますし、仮にも防衛組織である以上、兵器の持ち主をただ遊ばせておくわけにもいかない――故に、お美しいお嬢さんとボーダーは協力関係なのです。彼女にトリオン体という健康な肉体を提供する代わりに、お嬢さんには嵐山隊とはまた別の形で広告塔を務めてもらう……両者の間では、そういった契約が結ばれておりましてな。話によれば、既にテレビ出演の誘いなども来ているそうで」
「……那須さんがボーダー隊員として活躍すればするほど、それが研究の実績となって、新たなスポンサー候補へのアピールに繋がる……みたいな話なんでしょうか」
「そういうことです」
なんとも世知辛い話だ。使えるものは何でも使えと言ったところだろうか。僕としてはただただ訓練だのテレビ出演だの防衛任務だのの数々が那須さんの生身に悪影響を及ぼさないことを祈るばかりである。再三トリオン体と生身は別物だと言われてみても、こうして車椅子に座る那須さんと隣合っている身としては気が気でない。
……そんな風に考えてしまうのも、僕がまだトリオン体というものを本当の意味では理解出来ていないからだろう。要するに、実感が足りない。
「言っておくけど、大庭くんが思っているほど大変な思いはしていないのよ、私」
そんな僕の心境を見透かすように、またしても那須さんはくすくすと笑う。まったく、どっちに才能があるのかわかったもんじゃない。
「私の活躍がボーダーにとっての実績になるということは、ボーダーとしてもある程度は私に結果を出して貰わないと困るということ――とりあえず、正隊員になることは最低条件ね。そのための手厚いサポートも受けている分、私は他の訓練生よりも優遇されている立場にあるとも言えるわ。正隊員に昇格するための初期ポイントもそれなりに……ああ、この辺りの話も今聞いておく?」
「いや、それはまたの機会でいいんだけど……那須さん、凄いな。なんていうか、大人って感じ」
「まあ、確かに中学生らしくない話してるわよね、私達」
それだ。
僕が本当に知りたいのは、君がそうやって笑顔でいられる理由なんだ。
大人ぶったフリなら誰だって出来る。僕だってそうだ。さっきの僕とウィルバー氏のやり取りだって、傍から見たら少しは僕が15歳らしくないものにでも見えたのかもしれない。けれど、そんなものはただの上っ面だ。僕の内面はいつでも落ち着きのない好奇心で溢れ返っている。これっぽっちも大人らしくなんかない。それこそ覗いて見てもらいたいくらいだ。ひどいもんだろう?
真面目な話を真面目な顔ですることなんて簡単だ。僕は本当の大人というやつは、真面目な話を余裕をもって出来る人間のことだと思っている。大人=余裕というイメージが僕の中にあるのだ。その認識自体が子供染みていると言われてしまえば返す言葉もないのだが、とにかくそういう意味でもこの那須さん、そしてウィルバー氏からは『大人』というものを強く感じるのである。二人の前では、僕なんかはただのこまっしゃくれたガキでしかないのだ。いやまあ、ウィルバー氏は実際に大人なんだけれども。
「でも――そうね。大庭くんがそういう目で私のことを見ているのなら、ちょっとガッカリさせてしまうかもしれないわね」
「え」
僕としては那須さんの言い回しにガッカリというよりもドッキリさせられた訳なのだが、思わず間の抜けた反応をしてしまった僕の前で、
「だって私、これから子供みたいにはしゃいでしまうんだもの」
そう言って照れくさそうに頬を手で覆う那須さんを見たときのドッキリに比べれば、大した衝撃ではなかったと思う。
……僕は今、一体何を感じたのだろう。自分の感情も覗き見ることが出来れば楽なのだけれど。
「着きましたよ、少年」
ウィルバー氏の呼びかけに応じて、僕は足を止めた。
開けた扉の先、あの病室に似た白く殺風景な空間が広がっている。奥行きも天井の高さも段違いだけれど。中では例の玩具を手にした職員らしき人物が待っていて、こちらに向けて軽い会釈をしている。ウィルバー氏と那須さんが頷き返す。僕もなんとなくそれに倣う。
少年。ウィルバー氏は、僕のことをそう呼称する。那須さんのことはお美しいお嬢さん、ヒカリはお元気なお嬢さんで、唐沢営業部長はMr.唐沢。ウィルバー氏の中にも、一つの境界線というものが存在するのだろう。大人と子供の。
僕もいつかはウィルバー氏からMr.大庭と呼ばれることを目標にしたいのだが、じゃあ今の僕は一体何なのだろう? 少年。ただの少年。何者でもない。早く大人になりたい、ミスターと呼ばれたい。ウィルバー氏の僕に対する呼称は、まるで僕の逸る気持ちに待ったを掛けているみたいだ。いきなり大人を目指す前に、まず少年としての何かを身に付けなさい、と。そう言われているような気がするのは、僕の勝手な思い違いなのだろうか?
「ここがお嬢さんの遊び場です」
――そんなところに僕を招き入れるということは、やっぱり、そういうことなんじゃないか?
まだ記憶を消されてはいない筈なのに、僕は何処か、忘れ物を取りに来たような気分でそこへと足を踏み入れた。
ウィルバー氏と軽く業務的なやり取りを交わして、職員さんは部屋を出て行った。しかし、訓練の立会人まで任されているとかもう完全に1スポンサーの扱いを越えているような気がしないでもない。そろそろ考えたら負けの領域に入ってきた感がある。
広々とした空間のど真ん中にぽつんと佇んでいる僕ら。観客のいないスケートリンクにでも取り残されているような格好だ。
「さて、まずは少年にこれを渡しておきましょう」
そう言ってウィルバー氏は、職員さんから受け取ったらしいトリガーを僕に差し出した。
……え、ちょっと待った。
「……僕が使ってもいいんですか?」
「ええ。スタッフの方にも予め話は通してあります。これからお美しいお嬢さんと入隊希望の少年を連れてそちらへ向かう故、人数分のトリガーを用意しておいてほしい、とね。なに、トリガーと言ってもあくまで訓練用です。正規のものに比べれば、玩具のようなものですよ」
すみません、その正規品も心の中で玩具呼ばわりしてました。とは流石に言えない。とりあえず大人しく受け取っておく。
しかし、そう、入隊希望。やはりまだそれ止まりなのか。面接を途中で切り上げたような形になってしまったなと思っていたが、どうやら僕の採用試験はまだ続いているものだと思っておいた方が良いらしい。むしろ今からやろうとしていることこそ、肝心要の実技試験なのではないか? これはまだまだ気が抜けなさそうだ。
「では、トリガー使いの先達としてお嬢さんに手本を見せてもらいましょうか」
「あら。責任重大ですね――」
ウィルバー氏の声に応じて、那須さんが肘掛けに力を込めてゆっくりと立ち上がる。ふう……と深く息を吐き、氏からトリガーを受け取る那須さん。そういえば、立っている那須さんの姿を見るのはこれが初めてなのだ、が。
「はあ……」
……早くも疲れが垣間見える。本当に大丈夫なんだろうか? そんな僕の心配を他所に、彼女は引き金に指を掛け、事も無げにそれを引いた。
「トリガー起動」
――それは、まさしく変身だった。
ごく普通のパジャマ姿だった那須さんの服装が、袖の先から白地のボーダー隊服へと塗り替えられていく。服だけじゃない、手や顔の表面にも全身を覆うように光の波が流れていく。これがいわゆるトリオン光というやつなのだろうか? バチバチと粒子を放ちながらその波が頭から爪先までくまなく走り抜けた後、そこに立っていたのは――
「それじゃあ、改めてご挨拶させてもらうわね」
そう言って、ステップでも踏むような軽さで僕の頭を飛び越えてみせる超人だった。
「は――」
跳んだ。
那須さんが跳んだ。
ほんの一瞬前まで車椅子から立ち上がるだけでも疲弊していた女の子が、跳んだ。
しかも優雅に空中で身体を捻り、こちらに視線を向けて微笑む余裕すら見せている。体操選手も裸足で逃げ出す身のこなしだ。僕らは知らぬ間に月にでもワープしていたのだろうか? 彼女の跳躍は羽のように軽く、兎のようにしなやかで、羽ばたく鳥のように――
「はじめまして、大庭葉月くん。界境防衛機関ボーダー、現在仮入隊中の――」
――解き放たれていた。
重力だとか、病気だとか、彼女を縛り付けている、あらゆるものから。
「――那須玲よ。よろしくね?」
――なるほど。
息一つ切らさず華麗な着地を決め、ふわりと髪を揺らしながら、改めて名乗ったそのひとは――
紛れもなく、僕の知らない女の子であった。
「……元気になるとは聞いていたけど、想像以上に元気だった」
「言ったでしょう? ちょっとしたものよ、って」
ちょっと。ちょっとの概念が壊れる。小さじ一杯と言いながらバケツ満杯の調味料をぶち撒けられたような気分だ。確かにウィルバー氏はトリオン体のことを戦闘用と言っていたが、身体能力がここまで向上するのは流石に予想外だ。言い方は悪いが、素の那須さんがああだっただけに衝撃もひとしおである。
「では、あなたの番ですよ。少年」
で、その衝撃が抜けきっていないところでウィルバー氏がこんなことを仰るわけだ。
……なるのか。これになるのか、この僕が。理解っている。今更尻込みするわけじゃない。あるのは少しの緊張と、それから――
――なんていうか、正体不明の、ゾクゾクとした思いだ。
「と、トリガー起動」
はづきはじゅもんをとなえた。
しかしなにもおこらなかった。
「……!?」
なんだ? 故障か? 不良品か? トリガーっていうくらいだからやっぱどこかスイッチ的なの押さないと駄目なのか? でも何処にそんなもん付いてるんだこんにゃろカチカチと指先を捏ね繰り回していると、
「ふむ、気持ちが籠もっていなかったようですな」
まさかの精神論が返ってきた。ええ……と唸りかけた僕を諭すように、ウィルバー氏が続ける。
「トリガーを起動するための条件は、使用者が最低限のトリオン能力を保有していること――少年がこれを満たしていることは、既にこちらの方で確認が済んでおります。であれば、足りなかったのはトリガーを起動するという明確な意志です。実際のところ、『トリガー起動!』という掛け声すら不要なのですよ。音声認識で起動している訳ではございませぬ故」
まさかじゃなかった。使用者の感情を読むとか、いよいよもってオカルト染みてきたな。僕が言えた義理でもないが。というか、僕のトリオンがどうとかそんなのいつの間に調べたんだろうか。昨日基地に運び込まれた時かな。
心を籠める。ウィルバー氏は掛け声不要と言ったが、やはり何かしらの合図があった方がやりやすいと個人的には思う。とはいえ正直、この『トリガー起動!』というやつはちょっと恥ずかしいものがある。それこそ土日の朝にやってる変身ヒーローのそれみたいだ。見たことないけど。トリガー……トリガー最後に押すの……。
押忍。
「いきます」
とりあえず。
それだけを、言った。
――産まれるという感覚を、理解している人間など存在しない。けれど誰もが、確かにそれを体験している。何故ならば、あなた達は紛れもなく、生きているから。
私にはそれすらなかった。私は産まれたことがないから。誰も私のことを知らない。私ですら私を知らない。私。私――私って何? 何も理解らない。理解らないということだけが理解る。疑問符こそが答えであり、私の心を埋め尽くす全てのものだった。その中に、瞬間、閃光が走って――
世界で唯一、私はその感覚を理解した存在となった。
そう。
私はきっと、今初めて、産まれたのだ。
――今の感覚は、一体何だったのだろう。
僕の中の何か――そいつはきっと、ずっと僕の傍にあったものだったと思うのだけれど、明確な形はなく、おぼろげで、姿の見えなかったものが、この瞬間に産声を上げたような――何を言っているのかわからないと思うが、僕にもわからないので安心してほしい。変な電波でも受信したんだな、うん。
それよりも変身だ。僕の変身は今度こそ成功したのだろうか? 大庭葉月の生身を脱ぎ捨てて、もう一人の自分へと成り代わることは出来たのだろうか? ひとまず那須さんの方を見てみると、彼女は何やら眉間に皺を寄せながら目を細めてじっと僕の顔を見つめている。
なんだなんだ。小さい文字を読む時のおばあちゃんみたいな目つきになっているぞ、那須さん。一体全体、僕の何をそんなに確かめようっていうんだ?
「……大庭……くん、なのよね?」
「? そうだけど、何か変なとこあるかな」
「いえ……でも、これは……」
視る。困惑。先のトリオン兵事件の比ではない数のそれが、那須さんの心を覆い尽くしている。彼女は明らかに、僕の顔を見て戸惑っている。
え、ええ……何なの、僕の顔いま一体どんな風になってんの? 視線を下に向ければ格好自体は那須さん同様のボーダー隊服に変わっているから、トリオン体への換装自体は成功した筈だ。
何より、そう、痛みがない。父から受けた暴力の爪痕が、奇麗さっぱり消えているのが理解る。そんなものは全て、生身の身体に置いてきたのだ。
僕は自由を得た。那須さんと同様に、僕を縛っていた全てのろくでもないものから解き放たれた筈なのだ。そうでなければおかしい。そうでなければいけない。だって僕はそいつと戦うために、そいつを殺すためにボーダーに入ることを決めたのだ。近界民と、そいつと戦うためのこの体が、未だにそいつと繋がっている筈がない。
――この体は誰でもない、僕だけのものでなければいけないんだ。
「少年」
そんな僕のことを、ウィルバー氏は確かに、そう呼んでくれた。
ああ――そうだ。
僕は少年だ。
それ以外の何者でもない。
今はきっと、それだけでいい。
「結構。すみなすものは心なりけり――今はただ、面白くすることだけを考えましょう」
彼の言葉に従って、僕はそれ以外の全てを考えないようにした。
そう、例えば。
今の二人の目に、私の顔は一体どう映っているんだろう――とか。