葉月の異常な愛情~または僕は如何にして心配するのを止めて近界民を愛するようになったか~ 作:Amisuru
「では場所を変えましょうか」
またですか?
反射的にそう突っ込みかけてしまった。どうしたんだウィルバー氏! 何のための訓練室だ!
「……移動するんですか? ここ以外の施設となると、個人ランク戦のロビーとか……は、まだ
「確かに
「ああ、なるほど」
代わりに突っ込んでくれた那須さんは何やら納得しているようだが、こちらとしてはさっぱりである。が、那須さんの感情がその『納得』とか自分の記憶に対する『回想』やらで占められていくのを
そう、ウィルバー氏は『困惑』を殺そうと頑張ってくれている。彼の中にも確かにそれはあるというのに、使命感なのか何なのか、とにかく彼の中にある
なんてことは。
「少年。あなたにはこれより、お美しいお嬢さんと共に
それはそれとしてまたSFな話になってきたぞ。正直トリオン体に変身した時点で僕の常識が通用しない世界に来てしまったことは理解しているので多少のことではもう驚かないけれど。ちょっと本格的なVR体験みたいなものだと思っておけばいいんだ、うん。
「戦場っていうと、アレですか。銃弾が飛び交い、空からは爆弾が降り、味方は倒れ、血を流し、意識を失いつつある戦友を腕に抱きながら『
「典型的な戦争映画のイメージですな。しかしボーダー隊員の戦場といえば、基点はあくまでこの三門市……まあ、
なるほど。確かにボーダー隊員が三門市の外で戦闘を行ったなんていう話は聞いたことがない。あれ、でも確か昨日公平は
「さて――マップ選択は『市街地A』、天候は特に変更なし、そして時刻は……と」
おそるおそる、といった感じでウィルバー氏が手元のタブレットを弄っている。左手にはいつの間にか『やさしすぎるボーダー』とかいう解説書のようなものが握られている。解説の方は今まであれほど流暢にこなしていたというのに機材の方を扱うのは意外と不慣れなのだろうか。
などと僕が氏の様子を見守ることが出来たのは、彼が満足げに額へと手をやり、「これでよし」と呟くまでのことだった。
そう言ってウィルバー氏が勢いよくタブレットを弾いた瞬間、僕の
――唐突な話になるのだが、僕は三日月が好きだ。
満月以外の月をよく『欠けた月』だなんて言うけれど、別に何も欠けてなんかいないよなあ、と僕は思っている。単に太陽光の当たらない部分が見えないだけで、月そのものはいつだって丸いのだから。言ってみれば三日月というのは
閑話休題。
僕が何故いきなりこんな話を始めたのかというと、僕の頭上に今、
「言いたいことも言えないこんな世の中じゃ……」
「ポイズン?」
よく知ってますね那須さん。僕がこの歌を知ったのは公平がカラオケで歌ってるのを聞いたからなのだけれど。という訳で隣に那須さんがいる。そして僕らは夜空の下にいる。一体何が起こったというのか。今立っているのも路上ではなく、どうやら高層マンションか何かの屋上のようだ。
『聞こえますかな、少年』
声はすれども姿は見えず。耳には何も付いていない筈なのだが、受話器越しみたいなウィルバー氏の声が鼓膜をつついてきている。これもトリオン体の機能の一つということか。
『今少年とお嬢さんがいるのは『市街地A』――ランク戦で使用されている
「――ええ、いいですね。夜っていうのが特にいい。この時間はセンスで決めたんですか?」
『それもありますが、なんと言っても夜というのは光が映えますからな。
「私はいつでも。準備――というか、
『ふむ。確かに』
いま覚悟って言いましたか、お美しいお嬢さん。見れば那須さんはまた例のくすくすとした笑顔を浮かべ始めている。
「大庭くん。あなた、高いところは平気なひと?」
「……恐怖症ってほどのことはないけど。こういう高い建物から下の景色を眺めたりすると、心臓がきゅっとするくらいの苦手意識はある、かな」
「じゃあ、
嫌な予感しかしない。
すたすたと屋上の端へと歩いていく那須さん。柵もなければ塀も低い、
「
不意に那須さんがそんなことを言った。言葉の意味は分かるが何故唐突に英語なのか。
「……映画か何かの台詞?」
「ええ。自由に出歩いたり出来なかったから、家で映画を見るのが趣味だったのよ、私。今のはちょっと古い映画の台詞だから、通じないわよね、やっぱり」
「いや、そもそも映画自体をあまり見たことがないんだ」
「そうなの? スターウォーズとか、ターミネーターとか、バックトゥザフューチャーとか……」
「名前だけは流石にどれも聞いたことあるけど、見たことはないな」
そういうのに触れることを禁じられていたので、とは言わない。今話すようなことじゃないし、そもそもその気があるなら直接映画館にでも行って見に行けば良かったのだ。確か前の二つは最近も新作が出ていたと思う。しかし那須さん、挙げる映画のチョイスがなんというか、年頃の女の子らしくないのではないだろうか。いや、詳しくないけど。
「ちなみに今の、どういうシチュエーションで使われた台詞なの」
「映画の
「――は?」
「つまりね大庭くん。あなたはこれから、バットマンになるのよ」
そう言って那須さんは不意に僕の手を握り締めると、仰向けの姿勢で倒れ込むように塀の外へと身を投げた。
「夜の街を翔けるヒーローよ」
踏ん張っていれば普通に支えられたのだと思う。多分。でもその時の僕は突然手を握られたことへの動揺とか那須さんの言葉の意味を考えたりとか僕がバットマンなら君はジョーカーなのか? 詳しくないけど。詳しくないけど――とか、そういう余計なことにばかり気を取られていたので。
無抵抗のまま引っ張られて、普通に一緒に落ちました。
さて。
人間がパニックに陥った時、そこから脱するにはおおよそ20秒ほどが必要になるという。
それに対して、約30mの高層マンションから飛び降りた人間が地面に激突するまでの時間は――
うん。
だから仕方ないよね。
こんなみっともない悲鳴を上げて、受け身を取る発想すら湧かずに顔から落っこちても。うん。
「へぶし!!」
この感覚をなんと表現すればいいのだろうか。
衝撃はあった。間違いなく。脳だって揺れた、と思う。頭だけじゃない、全身が強く打ちつけられたという感覚も確かにある。何ならショックで息も乱れているし胸だってバクバク言っている。
けれど、
「お……おぉ……」
……落ち着いてきた。多分20秒経ったんだな、うん。
指先は動く。体に力も入る。というか別に、何処も不調を感じない。
手をつき立ち上がってみる。地面とキスした唇とか、鼻とかその周辺を擦ってみる。異常なし。血とか骨とか出てはいけないものがあれこれ出まくっていてもおかしくない筈なのだが、どうやらそういうスプラッタ的な事態は免れたらしい。すごいね、人体。いやトリオン体。
「どうだった?」
足元から声がする。見ると、四肢をだらーっと投げ出して大の字みたいになった那須さんが、相変わらずの薄い微笑みで僕を見ていた。ドッキリを成功させた時の子供みたいな目をしている。
「……死ぬかと思う余裕すらなかった」
「あら。真っ白になっちゃったのね」
「というか、普通はもっと事前に説明とか、あるよね」
「怒ってる?」
「那須さんに少しでも悪気があったらそうなってたかもしれない」
「そう? 悪気はあったわよ、普通に」
「悪気っていうか、悪意かな。ちょっとした悪戯心なんかは、僕にとっては悪意のうちにカウントされないんだよ」
「大庭くんは心が広いのね」
「いや、目が悪いんだよ」
那須さんが寝っ転がったまんま立ち上がろうとしないので、とりあえず僕も座り込む。尻をついたら隊服が汚れるかなとか一瞬気にしてしまったが、そもそもこの隊服だって作り物というか
「……とりあえず、トリオン体になると高いところから落ちても平気ってことはわかった。でも、前もってある程度聞くべきことは聞いておきたかったな。トリオン体に痛覚がないこととか」
「そうね。そこは失敗したわ、ごめんなさい。そういう心配を取り払ってからじゃないと、楽しむどころじゃないわよね」
「楽しむ?」
「あら、おかしい?」
僕の反応が意外だったのか、那須さんはきょとんとした顔で、
「だって、高いところから落っこちるのって、とっても気持ちがいいものよ?」
そんなことを言った。
……健康だったらバンジージャンプとかスカイダイビングなんかにハマってた口だな、これは。
『怪訝そうな顔をしておられますが、少年にも彼女と同じ素養はあると私は思っておりますがね』
マジですか。というか
「……いつか慣れたらそう思えるのかもしれませんが、流石に一発目から楽しめる度胸はなかったですね」
『では、
視界の下からうっすらとした光が差し込んでくる。見ると尻の下、地面に何かの模様が浮かび上がっている。これは……僕らの隊服の肩にも刻まれている、ボーダー公式のエンブレ――
――唐突な話になるのだが、僕は三日月が
「さ、もう一回行きましょ」
そんな遊園地の乗り物に並び直すような気軽さで紐なしバンジーに誘うのやめてくれませんか?
ああ、でもなんか女の子にぐいぐいと手を引っ張られて
ああ、やっぱり今回も
『神は言っています。ここで死ぬ運命ではないと』
そうだな。次はこれを見ている
大丈夫じゃない……問題だ……。
「心の準備運動をさせろや!!」
『ふむ。ごもっとも』
「大庭くんは怒ると口が悪くなるタイプなのね……意外だわ……」
君の見かけによらない強引さの方がよっぽど意外だったよ、とは言わない。それこそ皮肉で返されそうだ。『あら、本当に目が悪かったのね』いや那須さんはそんなこと言わない。落ち着け僕。心に波が立っている。別に怒っている訳じゃない。ただちょっと冷静さを失っているだけだ。
「……というか、さっきから僕らを
『"スイッチボックス"という名前のトリガーにございます。設置した場所の上にいる相手を任意の場所へと転移させたり、地面から突き出る刃で攻撃すること等が可能です。
初めて学ぶトリガー兵器がそんなんか、僕。まだ銃の撃ち方も教わっていないのだが。
「とりあえずね、手を繋いだまま飛び降りるっていうのが良くないと思うんだよ」
「そう? 一人で落ちるよりも安心出来るんじゃないかと思ったのだけれど」
「どっちかといえば無理心中に付き合わされてるみたいな気分だった」
「それは確かに怖いわね」
那須さんは顎に指を添えて「んー……」と唸ったかと思うと、閃いた! と言わんばかりに顔の横に星を瞬かせた。いや、本当に見えたんだって。星。
「大庭くん。鬼ごっこしましょう」
「はい?」
また突拍子もないことを言い始めたぞ。
そしてこの人、やると決めたら迷いがない。遠方へと視線を投げたかと思うと、那須さんは勢いよく地を蹴って駆け出し、走り幅跳びの要領で塀を飛び越えて宵闇の中へと消えていく。
「な、ちょ――」
慌てて追いかける。が、彼女に続いてダイブを決めるほどの度胸はまだ僕にはない。塀の手前で立ち止まり、彼女が跳んでいった方に目をやると、
『言い忘れていたけれど、大庭くんが鬼よ』
僕のいるマンションよりもやや低い建物の屋上に降り立った那須さんが、こっちを見て言った。離れているのに声が耳に届く。ウィルバー氏と同じように、通信機能を使っているのか。
……結構な距離がある。優に10mは離れていやしないか? 走り幅跳びの世界記録が確か8mとかそのくらいだったと思うのだが、着地点が現在高度より低いことを考慮しても生身の中学生が飛び移るにはいささか無理のある距離だ。しかし、現に那須さんはそこへと飛び移ってみせている。
そう、それが出来る。トリオン体ならば。
「……こういうのでいいんだよ」
なるほど。確かに僕にも素養はあるのかもしれない。転落願望はさておくとして、こうして明確な形で
「うん、いいね。鬼の気持ちになってきた。絶対捕まえてやる」
『あら怖い。捕まったら何をされてしまうのかしら、私』
「そりゃ勿論、攻守交代だ。僕が全力で逃げ回る番」
『……そっちの方が楽しそうね。わざと捕まってしまおうかしら?』
またまたご冗談を、と思いながら彼方の那須さんを覗いて
……半分くらいは本気っぽい。視なかったことにしよう、うん。
「……さて」
すう、と息を吸い込む。自分の意思で飛び越えるのであれば、こうして覚悟を決める余裕も出来るというものだ。
落っこちたって死にはしない。それどころか傷一つ付きやしない。痛みもない。何も怖くない。そう――
助走を付けて、全力で跳んだ。
「うお――――」
――
唐突に僕は、一つの理解を得た。
空を飛ぶという行為は、
全身が
こいつを受け入れて一つになることで、この世のありとあらゆるものは空を舞うことが許されているのだ。
そして僕も、この一瞬、そいつの
鳥みたいに立派なものじゃないけど、仮初の翼によって、確かに僕は夜の街を翔けていた。
屋上が迫る。那須さんはもうそこにはいない。より低い建物の屋根へと飛び移るのが見えた。
三回目にして初めて、足から着地することに成功する。当然のように痛みはないが、勢い余ってつんのめってしまう。そのまますっ転ぶ寸前で強引に足を前に出す。再びつんのめる。足を出す。その繰り返しが結果的に走るという動作になっていた。まるっきりケダモノの走り方だ。不格好もいいところだが、それでいい。beauty & beast。美女を捕まえるからには野獣にならなくては。
『ふふ――』
屋根から屋根へと飛び移りながら、那須さんが笑っている。息一つ切らしていない。それは僕も同じだ。精神的動揺で呼吸が乱れることはあっても、心肺機能への負担で同じことは起こらないということか。
『かけっこを始めた途端に元気になるだなんて、
そうだ。
僕は男だ。
女として育てられようが。
女の服を着せられようが。
女のような
たとえ今、那須さんの目に映っている僕の顔が、
「そうだ――僕は男だ! ずっとこうやって、自由に走り回ったり友達と追いかけっこをするのに憧れていたんだ!」
『それは奇遇ね』
那須さんが跳ぶ。僕も跳ぶ。小さかった背中に少しずつ迫りつつある。那須さんにはまだ余裕があるな、と思った。僕は僕なりのフォームで全力疾走しているつもりなのだが、那須さんの走りには必死さというものがまるで感じられない。それでも充分に速い。生身の体では満足に動くことも叶わない彼女がこれほどの洗練された走法を身に付けるまでに、一体どれだけの訓練が必要だったのだろう? 僕には到底、想像もつかない。
ただ、彼女を突き動かしたものの正体なら理解る。それはきっと――
『私もずっと、
――そうだ。
彼女の心に視える輝きの正体はきっと、
自分の内に秘めた願望を、現実のものにしてみせる力が彼女にはある。
彼女の走りが美しいのも、彼女の飛び回る姿に目を奪われるのも、彼女の中に満ちている意志の光によるものなのだ。
僕は今、
本当にいいのかな、と少しだけ思ったけれど。
不意に、そんな声が聞こえた。
……誰の声だろう? 那須さんでも、ウィルバー氏でもない。勿論僕の声でもない。ないのだけれど――
――ああ、そうだな。
そういえば、そうだった。
けれど、なんでお前が、そんなことを知っているんだ?
お前は――何だ?
理解らない。
理解らないのだが、一つ、理解ったことがある。
こいつには、何一つとして、
消し飛ばしてやる。
そう思った瞬間、僕の手元に
「――な」
なんじゃこりゃ!?
突然の事態に理解が追い付かない。いや、頭の中に響いているこの謎の声も意味不明なのだが、こっちは更にワケがわからない。なんで立方体? なんでキューブ? なんで四角いの? 豆腐か? それとも寒天か? 怖い。なんでこんなものが僕の手からいきなり出てきたんだ。
『おや。それの使い方はまだ説明していなかった筈ですが』
紳士の声がする。謎の声はもう聞こえない。気配もいつの間にか消えている。一体あいつは何だったのか――いや、何
「なんか、消し飛ばしてやりたいって思ったら、出ました」
『えっ……』
「違う。誤解だ。那須さんを吹っ飛ばしたいと思った訳じゃないんだ」
だからそんなガチでショック受けているような声を出すのは止めていただきたい。心臓に悪い。トリオン体に心臓があるのかどうかは知らないが。というかいつの間にか那須さんの足が止まっている。僕が先に止まったせいか。楽しい鬼ごっこに水を差しやがって、あの声、許すまじ。
『それはトリオンキューブと言いまして、
武器。武器なのかこの豆腐は。意外とこう見えても硬いのか。角に頭をぶつけたら死ぬ系のアレなのか? ちょっと触ってみようかな。つんつん。
『ちなみに少年のトリガーには
つんつん。
……つんつん?
『おや、これは失敬。一手遅かったようですな』
瞬間、目の前で熱した餅のように豆腐が膨らんで、そいつから放たれる輝きが、より一層眩しさを増し――
炸 裂 し た 。 消 し 飛 ん だ 。 全 て が 。
指先からあらゆる細胞が消し炭になっていく感覚
その声が聞こえた頃にはもう耳とか吹き飛んでたんだけどね!
どこで聞いてたんだろうね!
爆発オチなんてサイテー! と思ったんですけど
少しでも平均文字数を減らすために必要な犠牲でした
バットマンは超人じゃなくてコウモリのコスプレしてるただの男だろうがとかいう
頭グリーンランタンなツッコミはご遠慮下さい