なんでも許せる人向けです。
やや日が傾きかけた寒空の下、昨日一気に積もった雪を踏みしめる音だけが私の耳に届いてくる。
視界の多く塞ぐ帽子のひさし先には誰の足跡もない雪道がただひたすらに続いている。息を吸い込めば刺すように冷たい息が、足を動かせばブーツの隙間から入り込んでくる雪が、私の体温を奪っていく。
右手に持っている手提げ袋をあまり揺らさないようにと気をつけながら歩いているが正直なところかなり辛かった。荷物自体は重くないが、状態の悪い雪道に、ここまで来るのに時間を掛けすぎてしまったこと、最近はろくに食事や睡眠を取らなかったせいでもう体力が残ってない。少し進んでは立ち止まりまた進んでいる。
眠けが私を完全に止めようと抵抗してくる。あともう少しで辿り着くから起きろと言い聞かせ、感覚の鈍い頬を抓った。
何か考えていないと寝てしまう。本格的に不味いと思い何か考えることを探し……結局何も思い浮かばずここに至る経緯を脳内で反芻させる。
何度も何度も反芻しているうちに気がつけば目的の場所に着いていた。去年から見慣れていた光景は、稀に見る大雪のせいで全てが雪に包まれていた。特に中央に立っている石柱には書かれている文字が見えないほどに。
「すまない、遅くなった。今綺麗にするから少し待ってて欲しい」
どうせこうなっているだろうと考えた私は、持ってきた手提げ袋をゆっくりと雪の上に下ろしてその中から雪払いのブラシを取り出して丁寧に雪を払う。陽の光で僅かに溶けていた雪はまだ凍結せず、払い除けやすい。あっという間に石柱からは雪が取れるが、地面の雪は取り除くのが大変だ。持ってこれた園芸用の小さなスコップでは狭いとはいえそれなりの面積を雪掻きしないといけないというのに、全く効率が悪かった。仕方がないから手で雪を取ると手袋をしていても指が悴む。さらに制服のまま膝を着いて作業していたから、厚手のストッキング程度では防げない寒さが足を襲う。
手足が凍傷になりそうだ。しかし、それでもいい。私はもうここから動くことなないんだから。
そっと
「なあ、今はどんな気分だ? アクィラ」
真下にいる彼女へそう語りかける。掘り起こした彼女の体を納めている棺の蓋はとても冷たかった。雪に埋もれていたから当然とも言えるが、それ以上に死というものの冷たさを醸し出している。
まだ風化していない墓標に刻まれた刻銘にそっと触れる。彼女の名前が、下にひっそりと刻まれた短い碑文が私の心の傷を、一年前の今日の記憶を揺さぶってゆく。
全てはあの時に始まった。
あの時、私達の部屋で死んでいたことから始まった。あの時、私は出撃帰りでドックに立ち寄ったあとだ。アクィラと同室だった私が彼女がいるはずの部屋のドアをノックしても反応がなかった。その時に気付くべきだった。不思議に思いながらもドアノブを回すと扉が開き中に入る。彼女の名前を呼びながら奥の寝室に進むと黒い影が見えた。天井から伸びている縄と共に。
首吊り自殺だった。アクィラはたった一枚の綿密な書き置きを残して自ら死という手段を選んだ。理由は自身が秘密裏にやらされていた数々の行為を悔やんだため。私やみんなに魔の手が及ばないようにするためと書かれていた。
命令者は軍内でも悪名高かったある高級将官、この件で法律や軍規をダース単位で破っていたことが判明し当然ながらあのクズはもう極刑が実行された。
ただ、私が何か話したり、もっと一緒に居てあげればこんなことにはならなかったと今でも考える。アクィラに一番近くいたのは私だった。アクィラが私のことをなんでも知っていたように、私もアクィラのことはなんでも知っていたつもりだった。なのに……。
「死ぬ気だったのなら、一緒に死にたかった……」
突然、置いていかれた。出撃に行く前も全くそんな素振りを見せなかった。ただ『いってらっしゃい』と言ってきた。悲しげな表情も言葉も身振りも見せず、いつも通り純欄で元気そうだった。
最後になるまで彼女の心は固い殻の中に収まっていたんだ。戦場と共にくぐり抜けたり、同じベッドで眠り体を重ねた私にも明かさずに。それが無性に悲しかった。アクィラは私を欺くためではなく、悪事に巻き込まれないようにするために明かさなかった。彼女ならそうすると分かっているし、私も同じ立場ならそうしていた。そう、解っている。
「それでも……言って欲しかった」
行き場のないやるせない感情と怒り、そして悲しみが枯れかけた私の心を激しく動かす。
この際なんでもいいからアクィラの声を聞き、匂いを感じ取り、その姿を見て抱きしめたかった。
ああ、アクィラ……。
§
顔がとても冷たい。腕が上手く動かない。足は感覚が全くなく、顔の筋肉は硬直している。それなのに震えが止まらなかった。耳は何も聞こえず、匂いも感じ取れない。目を開けようと試みるも、何かがあって上手く開かない。
意識を腕集中させて動かし、瞼を触ると固いものが引っ付いていたのでそれを剥がす。これは……氷だ。
目を開けば、霞んだ視界の中に雪が舞っているのが見える。瞬きを繰り返してピントを合わせれば薄い氷の膜が手袋に付いていた。口を動かせば氷の膜が割れる小さな音が骨越しに伝わる。体を起こせば積もった雪が滑り落ち、冷たい風が冷え切ったこの身を運んでいこうとする。
とりあえず立ち上がろうとするが、足は動かない。手でさすってもダメだ。完全に感覚がなくなっている。
「ふん、まあいいか……」
どうせもう動く必要は殆どない。ただ、どうせならもっといい姿勢になりたい。
それに向けて動く前にスコップを取り出してからずっと放置していたバッグを手繰り寄せその中から新聞紙で包まれたワインボトルを取り出した。生前、アクィラが好きだったワインだ。
それを彼女の墓石の前に供える。これで乾杯をするために。
ここからが大変だ。バッグを手に持ったまま両手だけで一メートルちょっとを動かないといけない。普段なら気にもしない距離だが、今だけは地球の裏側よりも遠く感じる。片手を前に出して反対側の手をその横に置き、腕の力で前に進む。最も一回で進めるのは十センチ程度、十回繰り返せばいい。
一回目。動きが鈍いがそれなりに進めた。
二回目。腕の動きが少しマシになってさっきより進めた。
三回目。いい感じだ。より進めるようになってる。
四回目。息が上がってきたがまだ問題ない。
五回目。腕が疲れてきた。少し進みが鈍ってしまった。
六回目。急激に疲労感が湧き上がる。が、まだいける。
七回目。息が、切れる。一度止まって呼吸を整えないと。
八回目。息が整ってから動いたが、腕から力が抜け、倒れそうになる。
九回目。腕に力が入らず、頭から倒れた。額を石蓋に勢いよくぶつけてしまい意識が混濁する。起き上がる気力がわかなかった。目と鼻の先にある目的地に片手が届いていてもだ。このまま寝たいという気持ちすらある。
それではダメだ……アクィラに顔向けができない。しかし、もう起き上がれるとは思えなかった。
ここまでか。
だから……最後の妥協をする。
残った距離を這い蹲ることで解消を狙う。体を消耗品と思えば充分行ける。バッグを握っていない、左腕に残った全ての力を振り絞り前に進む。ほんの数センチ前に進めた。
大きく深呼吸をし息を止めてもう一度、繰り返した。腹の底から唸り声が上がる。
気がつくと目的地に付いていた。頭の頂点が墓石に触れている。そうだ、これでいい。
感覚が切れてしまった左腕の代わりに右手を使い、体を捻ることで横を向いていた体を仰向けに持っていく。
今、丁度真下にアクィラの"頭"がある。ほとんど同じ体勢で彼女は眠っている。だから、私も同じようになれば会えるかもしれないと考え、ここまで来た。
残っていることは一つ。ここまで大事に持ってきたバッグの中から手探りで探す。似たようなものがあって少し混乱したが直ぐに見つかった。それを握りしめ取り出す。
鈍黒いプラスチックが光を吸収し、わずかな反射だけを返す。小口径のオートマチック拳銃はこの色のでいで雪に覆われたここではよく目立つ。これを使えば、一発でアクィラと一緒になれる。それに検死も楽だろう。
死ぬことに恐怖は無い。それどころか今、死にたい。刑の執行や各種引き継ぎ、荷物の整理に処理。艤装の解体や私の方の整理も何もかも終わって残っていることはもう何も無い。それに今日は一周忌だ。これ以上にいい日はないし、アクィラがいないことにもう耐えきれない。
私は一年間充分耐え切った。だから私へのご褒美に彼女と永遠に併さる。
一つ心残りがあるとすれば、止められないように
最終確認とも言える気持ちの整理を終えて、ボーッと空を見上げた。寝ていた間に低く暗い雪雲が立ち込めて粒の細かい雪を延々を降らせている。この様子じゃあもっと寒くなるだろう。雪も一晩で私を覆い隠すほど降るに違いない。雪の下で一緒になれると考えれば嬉しく思える。
さあ、いこう。
取り出した古い9mm拳銃のスライドを引こうと思ったが、左手が使えないのを思い出して悪態をつきたくなる。想定なり対策なりをするべきだった。幸いにもこの拳銃は古いお陰でスプリングが非常に軽い。だから服に引っ掛けて装填できないか試してみる。
何度やっても上手くいかない。これは服に雪が付いているのか。口でやろうかとも思うが、口を開くのも辛い。
首を少し回して周りを探すと石の蓋が地面と段差があるお陰でやりやすそうに見えた。早く死にたいと、直ぐに行動に移す。スライドを蓋に押し付けながら押すとスライドが若干ズレていくのが感じ取れた。しかし、装填できずに戻ってしまう。角度を変えても戻ってしまう。
どうしてもできず怒りに任せたくなるが、一度手を下ろして、深呼吸をする。焦っても無駄だし、どうせ今日、私はここで死ぬ。
拳銃を蓋に対して立てて上手いことスライドだけが引っかかるように気を使って手を動かす。
これで駄目なら凍死だが……上手くいった。
一番奥までスライドが動き、弾が装填された。ハンマーもしっかりと下がっている。
ようやく準備が終わった。
そう思うと笑いが止まらなかった。嬉しさが身体中を駆け巡り、自然と元気が出てくる。
ああ……、今は幸せだ。
負の感情は欠片すらもない。喜びで満ち溢れている。
さあ、アクィラ。今から行くよ。
拳銃をこめかみに突きつけて引き金を──。
……最後に見えたのは天から迎えに来てくれたアクィラだった。
§
夕日が大地に投げかけていた光が完全に消え、あたりが闇に包まれた頃。午後になって降り出した雪は吹雪に変わっていた。
荒れ狂う暴風が極寒の冷気と無数の雪を運び、まだ雪に覆われていなかったものを白く染め上げ、覆われていたものをその固い体の下に閉じ込めてゆく。
ある一角の凍った桃色の液体も、白と黒の服も次第に雪に覆われてしまう。背の高かった墓石や掘り起こした蓋もその暴力的な雪からは決して逃れられない。
やがて、そこには何もなかったかのようにただただ雪原が広がっていた。
最近こういうの書いてなかったんでノリと勢いで書き上げました。楽しい。
ただそろそろ罪悪感がやばいんで次の投稿は明るいものにしたい。