「井田さん、それは……どういう事なんですか……?」
薄暗い照明の中、かすれるような声が響く。同僚の井田鉄也の研究室で東雲諒子は、元々色白の顔を蒼白にして泣いていた。御座なりな応接用のソファにだらしなく腰を下ろした、何処となく軽薄そうな青年、井田はそんな東雲を興味なさげに見やるとわざとらしく溜息を吐いた。
「東雲君、君はもう少し利口だと思っていたんだが……」
眼鏡の奥の、人を小馬鹿にしたような瞳が東雲を嗤う。
「こんな状況で、抜け目のない緒方の爺さんが色々動いてるんで、少しは期待してたんだ。行き着くところまで来てしまった人類に生き残る術はあるのかもしれないってね」
「はい、だから私は……それを探るために、あの人に……」
俯き、唇をかみしめる東雲。秀麗な顔が嫌悪と羞恥に彩られる。手酌でボトルからグラスに合成酒を注ぎながら井田は、
「ああ、文字通り“一肌脱いでもらった”訳だ。ドロイドの相手、ご苦労だったね。まったくAIになってすら色を忘れないとは、ある意味男として感服するよ。……けど、無駄骨だった」
そう言うと、ククっと笑いを噛み殺した。それはどちらに向けた嘲笑だったのか。
「何故? あの方法なら、何百、何千……いえ、何千万年先になろうとも二人で、また過ごせる日が来るはず。ずっと、ずっと一緒だって……それなのに、何故!?」
そんな事は、どうでもいい。東雲にとっては受けた恥辱よりも、目の前の男の心変わりの方がずっと重い衝撃で、激しく彼女の心を揺さぶるのだった。
人類の歴史を未来につなぐためのノアの箱舟……いや、この場合は森村千尋の箱舟と言うべきだろう。その中核となる探査船に搭載される人工知能群。新天地でのアダムとイブになる筈の15人を育てるための仮想環境をより現実的に、地球の夢と言う揺り籠の中として機能させるためのパーツ。その中に自分たちの人格のコピーを潜ませ、来るべき日に適格者の肉体を乗っ取り、ヒトとして新生する。
――2188年の、そしてそこに至るすべての知識を持った超越者として。
そんな老人……緒方憲吾の妄執は東雲にとって何の関心も無い事だった。彼女にとって残された希望は、目の前の男と、いつの日にか再び共に過ごせるという事だけ。だから、その計画に加えて貰う事を条件に我が身を差し出したのだ。それなのに。
「何故って……そんなの決まってるだろ? AIは人間じゃない。いくら人間と同じアミノ酸で構成された肉体を持っていたとしても、AIの人格を移植された存在を人とは呼べない。そして僕は人間以外になる心算は無いのさ。そんなモノになるくらいなら……」
井田はチラリと執務机の方を見ると自嘲的に笑った。意外に整然としたそこにある物。それはナノマシン注入器と、使用済みの幾種類かのナノマシンアンプルだった。そのどれもが過剰な多幸感をもたらすブレインドラックの類。その量はゆうに致死量を超えている。
「こうして虚構の快楽の中で滅びを待つさ。どうせ人類はおしまいなんだから。そろそろ東雲君も身の処し方を考えた方がいいんじゃないか? なにやら研究者を殺して回っている“殺し屋”なんてのもいるそうだが、ご苦労な事だね……」
そう言って、井田は気だるげにとソファに身を預けると目を閉ざした。全てを諦めた抜け殻のような姿で最後を迎えようとする愛しい男。しかし彼の心には自分などいなかった。最後を供にするのは作り物の幸せ。井田にとって東雲はそれ以下のプライマリーでしかなかったのだ。
棚の上にある研究所員で撮影した記念写真。
その中の井田の笑顔は自分ではない女に向けられていた。
おさげ髪の、自分の同僚に。
「そういう……事……だったのね」
彼女は数日前に死亡していた。井田の変心が、それが理由だったのなら。きっと初めから、幾千万の時の彼方で彼の隣に立つのは自分ではなかったのだ。
(こんな滅びの淵に立たされても、人は騙し、裏切り続ける……)
知らず笑いが込上げてくる。東雲は自室に戻ると研究机の引き出しを開けた。そしてその中にある物を手に、再び井田の前に立つ。恋人だと思っていた男は、既に死に至る幸せな夢の中にいた。
「そうはさせない……井田さん、約束は守ってもらうわ……」
井田から貰った、最後を共にする為の自決用の拳銃。迷わず東雲はトリガーを引く。
――銃声が三発。
鮮血に塗れ、くたりと崩れ落ちる人の残骸。
それを冷めた目で見降ろしながら東雲は自らのこめかみに銃口を宛がった――
□
「東雲君、協力感謝する」
モニターに映る初老の男……敷島の重役の生き残り、郷登蓮也。この男の無粋な通信が無ければあの人と共に逝けたのに……そう思いつつも東雲は郷登の依頼を黙々とこなしていた。
とは言え、自らを辱めた老醜の始末などは最早どうでもいい事だった。
(人類に未来など必要ない)そう思うから。
すでに探査船は通信限界点に達しようとしていた。けれど箱舟計画の要である仮想空間には重篤なセキュリティホールがある。管理者である沖野司がゲーム世界を元に設定した仮想空間を、『絶対にクリアできないゲーム』とすることで揺り籠を無限の円環に封じ込める事は簡単だった。
円環の果てに施設が耐用年数を超えた時、人類の希望は消え去る。
(でも、それでも、人は未来を求めるのかしら?)コードを送信した後、東雲は微かに自問する。
絶望の中、作り出されたパンドラの箱。
その底に何が眠っているのか。今、それを知る者は