俺は天空国家の悪徳領主!   作:鈴名ひまり

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追想 神様はいやしない

「お前が分からない。お前は──あの方のことを何だと思っている?」

 

 ランス様が座り込んで私を睨みながら問うてくる。

 

 お嬢様のことをどう思っているかなど、言葉にすれば本にできるほどになるけれど、それでも一言で言い表すなら──お嬢様は私の全てだ。

 

 お嬢様にお仕えしてきた七年間と、どれくらいかは分からないけれどこれからお側にいる年月──私の人生はその時のためにあったのだと確信できる。

 お嬢様と離れ離れになるなんて考えられないし、もしお嬢様がいなくなってしまったら、私はきっとこの世界を憎むだろう。

 

「お嬢様は──私の生きる理由です」

 

 そう言うと、ランス様は怪訝な顔をした。

 

「どういう意味だ?」

 

 再び問いかけてくるランス様に私は少し意地悪な笑みを浮かべて答える。

 

「そのままの意味ですよ。お嬢様は私に生きる目的をくださいました。ですから私のこの身全て、お嬢様を支え、お守りするために使う。私はそう誓いました」

 

 ランス様は目を見開き、反論してくる。

 

「ならなぜわざわざ危険な所に行くのに止めるどころかついて行くんだ?守ると言ったが、ダンジョンだぞ?お前一人の力など高が知れている。本当に守りたいと思っているのなら止めるべきではないのか!?」

「ええ──それが貴女──いえ、世間一般からすれば正しいのでしょうね。ですが──私が守りたいのはお嬢様のお命だけではないのです。私はお嬢様の幸せを守りたいのです」

「幸せ?このダンジョンにたった三人で無謀な挑戦をすることがエステル様の幸せにつながると、お前は本気でそう思っているのか?」

「それは私が判断することじゃありません。お嬢様にとって何が幸せか、もしくは幸せにつながることかはお嬢様がお決めになることです。そしてお嬢様が決めたことに全力でお力添えするのが私の役目です」

 

 問答の末、ランス様は黙る。

 その表情は明らかに納得しかねているが、私を説得する言葉に窮してしまっているようだった。

 

 そのまま私たちの間にはしばらく沈黙が流れ、焚き火にくべた薪が弾ける音だけが響く。

 

 やがてランス様が口を開いた。

 

「やっぱり──お前は私の知っている専属使用人とは違いすぎる。聞かせてくれないか?お前はどうしてそう思うようになったんだ?」

 

 私の身の上話を聞きたがっているらしい。

 正直、私の過去なんてあまり大っぴらに人に話せるようなものではないのだけど──まあ、ここにはランス様しかいないし、境遇がかつての私に似ていなくもない彼女になら話してもいいだろう。

 思い出して傷つきたくない一心で、必死に記憶に蓋をして周りから隠していた時期はもう過ぎている。

 ただ、それでもお嬢様の耳には絶対に入れたくない。

 

 チラッとお嬢様の方を見ると、もう眠っているようだった。

 念には念を入れて聞き耳を立てるが、確かに寝息を立てている。こうなったお嬢様はちょっとやそっとの物音では起きない。

 

 ──大丈夫だろう。

 

 決心がついた私は口を開く。

 

「ええ。構いませんよ。あまり聞いていて心地良い話ではありませんが──」

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

「どうして私にはお父さんがいないんだろう?」

 

 物心ついた頃から何度も抱いたその疑問は、八歳を過ぎた頃には指でなぞり過ぎた本の文字のように掠れてしまっていた。

 

 何度聞いても、お母さんはお父さんがいない理由を教えてくれなかったし、下手に食い下がると怒られた。

 というか、逆に泣きながら「なんでお父さんは()()()()()()んだ」って問い詰められることすらあった。

 当然、そんなの私に答えられるわけがない。

 するとお母さんは私をぶった。ぶった後でまた泣きながら私を抱きしめて何度も何度も謝っていた。

 そんなこんなで私はお母さんには聞かないことにした。

 

 他の人に聞いても答えは「分からない」だった。

 ただ、お父さんは私が乳離れして間もない頃に島を出て行ったらしいことは馴染みのパン屋のおばちゃんがこっそり教えてくれた。

 王国本土まで「出稼ぎ」に行ったっきり戻ってきていないんだって。

 どこにいるのか、そもそも生きているのかも分からない。

 

 お父さんが無事に帰ってこられますようにって毎晩祈った時期もあった。

 明日になればお父さんが帰ってきて会えるって、根拠もなく漠然と信じていた時代もあった。

 

 そして何度目かの春に祈るのをやめた。

 いくら待ったってお父さんは帰ってこない。

 

 ──お父さんがいなくたって別に不満なんてない。私にはお母さんがいる。

 ちゃんとご飯は食べられるし、寂しくなんてない。

 お母さんと二人でいい。

 

 ──そう思っていた。

 

 

◇◇◇

 

 

 私が十二歳になる直前の雪降る夜、お母さんは死んだ。

 

 働き詰めで身体が弱っていたせいで風邪を拗らせて肺が駄目になっちゃったってお医者様は言っていた。

 

 私は十一歳でひとりぼっちになってしまった。

 島にはほかに頼れる親類縁者もなく、私を引き取ってくれる人もいなかった。

 当然だ。雪と寒さの厳しい冬で、どこの家も蓄えを細々と切り崩しながらカツカツ状態で生活しているのに、もう一人子供を養う余裕なんてあるわけがなかった。

 

 結局私は冬の間お医者様の家で厄介になった。

 

 薪割りをしたり、料理を手伝ったり、ゴミを処分したりといった雑用をするだけで家に置いてもらえて、食事も用意してもらえたのはかなり恵まれていたのだろう。

 毎日の雑用はキツくって、お医者様の息子さんたちにはご飯の取り分が減ると不平を言われて、居心地は悪かったけど、背に腹は代えられなかった。

 誰もいない寒い家で凍えるよりはよっぽどマシだ。

 

 

 

 春になると私はお医者様に働き口を紹介され、働きに出ることになった。

 

 勤め先は島の外から仕入れた品物を売っている貿易商の店だ。

 お医者様がそこの店主──獣人の住むこの島では珍しい人間の住民だった──と古い付き合いで、私を雇ってやってくれと頼んだらしい。

 

 そして私はお医者様の家を出て、去年までお母さんと一緒に住んでいた家に戻った。

 冬の間誰もいなかった家は風雪に晒されてボロボロで、おまけに空き巣まで入ったらしく、家具や食器の殆どがなくなっていた。

 それでも他に住むところなんてなかったから、私はそこで寝起きした。

 

 ゴミ捨て場から拾ってきた汚れた毛布と脚の欠けた小さなテーブル、古道具屋さんが山積みしていたガラクタの中からこっそり取ってきた鍋とお皿とコップ──そんなものしかなかったけど、それで我慢するしかない。

 お金を貯めてもっと良いのを買うまでの辛抱だ。

 

 

 

 とにかく少しでもお金が欲しい──その一心で私は必死で働いた。

 その甲斐あって、夏が来る頃には新しい毛布と食器をいくつか、そして服を二着ほど買い揃えることができた。

 やっとひと心地ついたと思って安心できたのはほんの一時の間だけだった。

 

 ──寂しい。

 ──一人は嫌だ。

 ──とにかく寂しい。

 

 そんな風に心が悲鳴を上げ出した。

 

 お母さんがいなくなって、生きていくために働かなければならなくなった私の周りには気付けば誰もいなくなっていた。

 朝起きても家には私一人。

 一緒にご飯を食べる人もいない。

 遊んだり、おしゃべりする相手もいない。

 誰も──いない。

 

 その心の悲鳴から目を背けようと仕事に打ち込もうとしたけど、駄目だった。

 特に仕事で外回りをしている時に目に入る空き地や広場で遊んでいる子供たちを見ていると、胸が苦しくなった。

 

 私も少し前まではあの子たちのようにそれなりに楽しく生きていたのに──朝お母さんに叩き起こされて朝ごはんを食べて、学校に行って読み書きと算数を習い、学校が終わったら子供達同士で集まって遊んだりおしゃべりしたりして、夕方になると家に帰って家族と一緒に晩ごはんを食べて、温かい布団で眠りに就いていたのに──今では仕事ばかりで、誰かと一緒に遊ぶこともなくなった。以前よく一緒に遊んでいた友達も私を誘わなくなった。

 

 どうして──どうして私だけこんなことになってしまったの?

 私の何がいけなかったの?

 お母さんが死ぬ前は悪いことをした覚えなんてない。

 綺麗な服が欲しいとか、もっと美味しいものが食べたいとか、我儘を言ったことだって殆どない。

 なのになんで──なんで私はお父さんだけじゃなくお母さんまでいなくなって、一人ぼっちになってしまったの?

 

 その疑問はかつて抱いた「どうしてお父さんがいないのか」という疑問同様、誰も答えてくれない疑問だった。

 そして皮肉なことに時間が経つに連れて掠れていく所まで同じだった。

 

 朝早くから勤め先の店に仕事に行き、重たい袋をいくつも積んだ荷車を押して街を歩き回って日がな一日納品と売掛金の回収をし、割り当てられた仕事を終えてお店に戻ってきた頃にはもうすっかり日が暮れている。

 誰かと遊ぶ暇なんてないし、そんな気力も体力も仕事の後には残らない。

 お休みの日は疲れを取るためにずっと寝ているし、起きたら溜まった掃除やら洗濯やら、買い物をして、気が付いたら夜になっている。

 そしてまた忙しく働く日々が始まる。

 

 そんな暮らしをしていたら嫌でも心は擦り減って、無気力になって、何も感じなくなっていく。

 そんなこと考えたって何になる?そう自分に言い聞かせて過酷な現実を受け入れてしまう。

 感情が死んでいく。

 

 それでも、完全に心を殺すこともできなかった。

 時々心が息を吹き返して、自分の置かれている現状が堪らなく嫌になる。

 私だって友達と一緒に遊びたい。色んな楽しい話がしたい。誰かと一緒に食卓を囲みたい。──誰かと一緒にいたい!

 心がそう叫ぶ。

 

 それで何度も夜に毛布の中で泣いた。

 呼吸が荒くなって、涙が止めどなく溢れてきて、無性に外に飛び出してどこかに逃げたくなる。

 そして落ち着くまで毛布に包まったまま床を転げ回る羽目になる。

 

 そして落ち着いたら、今度は自分が嫌になる。

 頼れる親も養ってくれる人もいない私は──弱い。とても弱い。

 貰えるお金が雀の涙でも、働いて稼がないと生きられない。

 ずっと一人ぼっちの貧乏暮らしから抜け出せない。

 そんな自分の無力さが嫌いだ。

 私は──私が嫌いだ。

 

 

◇◇◇

 

 

 十五歳になって、成人しても私は変わらず貿易商の店で朝から晩まで働いていた。

 三年以上も働いているとそこそこお金が貯まってきて、私はお母さんがいた頃と同じ程度の暮らしを取り戻していた。

 もうすぐまた冬がやって来るけれど、今年も何とか越せそうだ。

 

 ただ、暮らしはマシになってもまた別の問題が出てきていた。

 

「おいコラ!もう八時を過ぎてるぞ!どんだけかかってやがるんだ!日曜だってのにこっちの仕事がちっとも終わらないじゃないか!」

 

 店に戻ると新しい店主が怒鳴ってくる。

 

 彼は私がこの店で働き始めた頃の店主は今年の春に引退して、息子さんが後を継いでいた。

 だけどその息子さんは何かと私に当たりがキツかった。

 

 理由は私の仕事が遅いせいだ。

 他の従業員と比べると、十五の少女である私はどうしても非力で同じ時間でこなせる仕事の量は少なくなる。

 すると割り振られた分の仕事を終えるのに時間がかかり、終えた頃には夜になっているってわけだ。

 

 加えて彼は生真面目というか、融通が利かないというか、とにかく物事が自分の思った通りに上手くいかないことが我慢ならない質だった。

 彼は日中他の従業員と一緒に外回りで営業の仕事をやっていて、それを終えてから店に戻って帳簿をつけていた。

 また、繰り越した作業が溜まっていくことを嫌っていて、その日の取引の記録はその日のうちにつけておくようにしていたから、私が仕事から戻るのが遅いと自動的に彼の仕事も終わるのが遅くなるのだった。

 

 前の店主の時とは打って変わって私は毎晩のように小言を言われ、時には今日のように怒鳴られる羽目になってしまっていた。

 

 しかも定休の月曜日を明日に控えた今日は特に虫の居所が悪いようで、私目掛けて帳簿をいくつか投げて寄越してきた。

 

「お前もやれ!計算くらい習っただろ」

 

 ──とんだ無茶振りだ。

 私は神殿がやっている庶民向けの学校で基本の読み書きと足し算引き算を習っただけだ。

 一丁前に帳簿なんてつけられるわけがない。

 

「そ、そんな──私にはできません」

 

 そう言うと、店主は額に筋を浮かべて怒鳴ってきた。

 

「あ"?お前人の仕事遅らせといて自分はさっさと帰る気か?いつからそんな良い御身分になった?」

「いえ、そんなことは──」

 

 そういう意味で言ったんじゃないのに、店主は気に障ったようで、立ち上がってつかつかと私の方に歩いてきた。

 

 湧き上がる恐怖で思わず後退りする。

 数歩で壁に背中がぶつかった。

 

「お前みたいな学も能もない親なしの小娘が生きていけるのは誰のおかげか言ってみろ!」

「ひっ!ごめんなさい!──ごめんなさい」

 

 身が竦んで涙が溢れ出る。

 私はみっともなく泣きながらひたすら店主に謝るしかない。

 でも、それは余計に店主の神経を逆撫でしただけのようだった。

 

「泣いて謝れば何でも許してもらえると思ってんのか?チッ、これだから色気付いたガキは──」

 

 そう言って店主は私を張り倒した。

 左の頬に鋭い痛みが走り、じんじんと熱を帯び始める。

 

 それを見てなぜか店主がニヤリと笑う。

 

「お前が人の仕事を遅らせたんだから、お前が埋め合わせをするのが筋ってモンだよなぁ。帳簿が無理なら別のやり方でしてもらうぞ」

 

 そして店主は私の手を強引に引いて奥の方の部屋へと入っていく。

 

 その先で何をされるのか──分からなかったが、何かとんでもなく嫌な予感がして私は必死で踏ん張って抵抗した。

 

「い、いや!放して!やめてください!」

 

 少女とはいえ私も獣人だ。人間よりも力は強いはずだった。なのに店主の腕力にまるで逆らえなかった。

 踏ん張り虚しくズルズルと引きずられていく。

 

 ドアをくぐった直後に手を伸ばし、ドアの枠を掴んで逃れようとしたけれど、次の瞬間思い切り脚を蹴られた。

 走る痛みに膝をつき、ドアの枠を掴んでいた手も離してしまい、私は店主の方に引き寄せられる。

 

 店主は私の下顎を掴んで顔を近づけて、凄んできた。

 

「暴れんじゃねえ!クビにされたいのか?また露頭に迷うことになるぞ」

 

 この店をクビになったら他に行くところなんてない。

 

「それは──い、いやです──でも──」

「口答えするな!このままここにいたかったら言う通りにしろ!」

 

 店主は本気のようだった。

 逆らったら本気で私をクビにするつもりだ。

 

 嫌だ。

 仕事を失うのは嫌だ。

 仕事──お金を稼ぐ手段はそのまま私の命だ。

 失えば生きられない。なければ死んでしまう。

 

 ベッドで冷たく横たわるお母さんの姿が脳裏に蘇る。

 あの姿はステュクスの河を渡って神様のもとへ召された後の姿じゃない。

 何も見えず、何も聞こえず、身体は動かない──暗く、冷たい虚無の世界に呑み込まれた魂の抜け殻だ。

 あんなことにはなりたくない。絶対に。

 

 手足から力が抜けてしまい、抵抗する気力が失われる。

 そのまま私はなす術もなく店主の私室に引っ張られていった。

 

 そして店主がズボンを脱いで私に迫ってくる。

 

「いや──いやぁ──」

 

 私は目に飛び込んできた景色から顔を逸らし、必死で這って逃げようとした。

 でもそれも虚しく、すぐに店主に押さえつけられる。

 

「早くしろよこのグズが!こっちはただでさえ溜まってんのにお前の仕事が遅いせいでスッキリする暇もねーんだよ!」

 

 その怒鳴り声で頭が真っ白になった。

 叫びたいのに声が出ず、逃げたいのに身体が動かない。

 力の抜けた腕が私自身を支え切れなくなり、私は床に倒れ伏す。

 

 店主が私を抱えてベッドの上に投げ出した。

 衣服が乱暴に剥ぎ取られていくのを感じる。

 そのまま私は私の身に起こったことをまるで芸やお芝居でも見るかのように無表情に、それでいて涙を流しながら眺めていた。

 

 

◇◇◇

 

 

 ──痛い。

 ──歩く度に身体中が痛い。

 

 肌寒い夜道をよろめきながら家に向かって歩く。

 目の前を踊る白い息──いつもなら手に吐きかけて温めるところだけど、今はそれすら億劫だった。

 私の頭を満たしていたのはひたすらな疑問だった。

 

 ──なんで?どうして?

 ──私そんなに悪いことした?

 ──仕事が遅いから?それで店主に迷惑かけたから?

 ──終わるのは遅かったけど、仕事は真面目にやっていた。

 ──それなのに、どうしてこんな目に遭わなくちゃいけないの?

 

 答えてくれる人はいない。

 いや、尋ねたくもない。こんな酷い私を見られたくない。

 

 不意に足がもたついて、バランスを崩してしまう。

 咄嗟に手をついた。でも地面が硬く、手に力も入らなかったせいで虚しく倒れてしまった。

 擦りむいた手に血が滲む。

 

 溢れ出た涙で視界がぼやける。

 

「もういや──もういやぁ──誰か──誰か、助けてよぉ──」

 

 私は地面に倒れ込んだまま啜り泣いた。

 

 

 

 それからどうやって家に帰ったのか分からない。

 目が覚めた時には家で毛布に包まっていた。

 ずっと泣いていたせいか、毛布が所々濡れていた。目の周りもヒリヒリ痛む。

 

 できればもうずっと動きたくなかったけれど、腹立たしいことにお腹は空く。

 なんにも食べたい気分じゃないのに、お腹はぐうぐう鳴って食事をせっつく。

 何時間か毛布の中で攻防を繰り広げた末に、耐えかねて毛布を出た。

 

 せっかくだし、温かいものを作るかと思って、燕麦の袋とミルクの瓶に目が留まる。

 

 ──ミルク粥にしよう。

 そう思って立ち上がった途端、股に違和感を覚えた。

 この年で漏らしてしまったのかと思って、溜息混じりに下着を下ろす。

 

 そして私は()()を見た。

 瞬間、全身に悪寒が走り、猛烈な吐き気がして、私は外に飛び出して嘔吐いた。

 昨夜から何も食べていなくてお腹の中は空っぽだったのに、吐き気は止まず、なけなしの唾と胃液を絞り出すように吐き出した。

 

 そして必死で息を吸いながらも、かぶりを振って蘇る忌まわしい記憶を追い払おうと試みる。

 

 でも無駄だった。

 あの時、お芝居のようにぼんやりと見えていた光景が今になって鮮明に思い出される。

 脚を掴む大きな手、のしかかってくる大きな丸い腹、太くて黒い毛が無数に生えた生白い胸、汗に濡れた首筋、そして私を親なし能なしと貶しながら私の身体の具合は褒めてくる顔──それらを無言で見上げていた時の記憶はどんなに追い払おうとしても、頭から消えてくれない。

 

 そして追い討ちをかけるようにまたその元凶が流れ出てきて、地面に落ちた。

 

 

「ひっ!う、うわああああああああああああああ!!」

 

 

 半狂乱になって、水場を求めて走った。

 皆がよく使う井戸や貯水池は駄目。人目につかない水場といったら──川だ。

 

 走りながらその結論に行き着いた私は家の近くを流れる小川に向かい、そこに飛び込んだ。

 冬の近い川の水は冷たく、浸った下半身が悲鳴を上げる。

 それでも、飛び込まずにはいられなかった。

 早く、早く、一刻も早く、身体から流れ出てくる悍ましいモノを洗い流さなければ──その一心で、私は冷たさを堪えて水浴びをし、必死で股を手で擦り続けた。

 

 

 落ちろ!落ちろ!落ちろ!落ちろ!落ちろ!

 

 

 どれくらいそうしていたかは分からない。

 疲れて岸に上がった時には陽が傾いていた。

 

 私はなけなしの体力を水浴びで身体を洗うのに使い果たし、フラフラのまま家に帰って毛布に倒れ込み、また泣いた。

 

 

 

「神様はいつもあなたたちを見ていらっしゃいますよ」

 

 昔読み書きを教えてくれた神官の女の人がそう言っていたのを思い出す。

 悪いことをしたら神様が天罰を下すんだって。逆に日頃から良い行いをしていれば、困った時に神様が助けてくれるんだって。

 

 ──そんなの嘘だ。

 私は悪いことなんてしていないのに、こんな貧乏暮らしをしていて、おまけに身体も傷つけられて、汚された。

 そして私をこんな目に遭わせた店主を誰も罰しない。咎めもしない。

 

 ──神様はいやしない。

 

 

◇◇◇

 

 

 神様に縋ったって助けは来ない。

 なら無力な私は誰に、何に縋ればいい?

 

 答えは簡単だ。人に縋る。

 私が泣きつくことにしたのは私にあの店を紹介したお医者様だった。

 

 もう限界だった。

 あれから店主は私の身体に夢中になって、何かと難癖をつけては私を襲った。

 何度やられても慣れるなんてことはなく、私は痛みと恐怖に必死で耐えて、ただただ早く終わってくれと願いながらされるがままにされていた。

 終わった後の夜とその翌日はいつも精魂尽き果てて何もする気になれない。

 

 そして頻繁に悪夢を見る。

 うなされて、夜中に飛び起きて、そこから明け方までまんじりともできない時間を過ごす羽目になる。

 

 ──私、このままじゃ壊れちゃう。

 ある朝に急にその思いが湧き上がって、居ても立っても居られなくなった。

 

 そして私は生まれて初めて仕事を勝手に休み、お医者様の家に行った。

 そして診療を待つ人々に混じって長椅子の端に座り、呼ばれるのをじっと待った。

 

 

 

「おや、ティナちゃんじゃないか」

 

 その声を聞いて目を覚ました。

 いつの間にか眠ってしまっていたらしい。

 

「先生──」

「どうした?具合悪いのか?どこが悪いんだね?」

「う──あの、その──」

 

 お医者様の顔を見た私は言葉に詰まった。

 私がされたこと、私が受けた仕打ち、それで私が今どんな有様か──それらをお医者様に言うことは躊躇われた。

 自分の窮地を訴えにきておいて、いざ話せるとなると言葉が喉につっかえたように出てこない。

 

「や、やっぱり大丈夫です!失礼します!」

 

 そして私は居た堪れずにそう叫んで出て行こうとしたけれど、お医者様が私の手を掴んだ。

 反射的に身体が震え、足が竦んでしまう。

 

「待て。そうあからさまにおかしな様子を見て大丈夫とは納得できない。何かあったなら、話してくれ」

「いえ、あの──本当に──」

 

 できればその手を放して欲しいのだけど、うまく言えない。

 変に強い言い方をしてお医者様を不快にさせたら──助けを求める人はいなくなる。

 でもやっぱり──男の人に手を掴まれると怖い。

 

 だが無情にも私が数秒逡巡している間にお医者様はさらに距離を詰めてきた。

 

「話しにくいことなのか?でも話してくれないと助けにもなれないぞ」

 

 思わず半歩後退りしてしまう。

 冷や汗が浮かび、心臓の鼓動が激しくなっているのが分かる。

 身体も若干震えているかもしれない。

 

「教えてくれ。どこが悪いのだね?」

 

 視線が交錯する。

 思わず目を逸らした。

 お医者様のことは良い人だって──私を一冬養ってくれて、働き口を用意してくれて、生きていけるようにしてくれた──そう分かっているのに、彼が怖い。

 

 なんで?お医者様に助けを求めに来たのに、どうしてそのお医者様がこんなに怖いの?どうして!?

 

 固まったままその疑問を頭の中で叫ぶ。

 

 体感にして数十秒の硬直状態を突き破ったのはしゃがれた声だった。

 

 

 

「何してんのあんた!」

 

 お医者様の奥様がお医者様の頭をはたいていた。

 

「この娘怯えてるじゃないの。あんたまた怖がらせるようなこと言ったのかい?」

「い、いや違う!どこが悪いのか聞いていただけだ」

「そんなの見て分かんないのかい?ここよここ!」

 

 奥様は自分の胸を示した。

 そしてお医者様を追い出しにかかる。

 

「ここはあたしが話を聞くからあんたは出て行って。早く!」

 

 お医者様が背中を押されて部屋から出て行き、奥様がドアを閉めた。

 

「ごめんねティナちゃん。怖かったよね」

 

 そう言って奥様は私の前に来ると、屈んで視線の高さを合わせて問うてきた。

 

「話しにくいことなら無理してすぐに話さなくてもいい。でもいつ何があったのか、それだけ教えてくれる?何聞いても怒ったりしないから。ね?」

 

 奥様には恐怖は湧き起こらなかったけれど、それでもやっぱり不安だった。

 今まで人に何かを打ち明けたり、疑問に思ったことを聞いたりしたら、怒られることの方が多かったから。

 

 お母さんにお父さんがいない理由を尋ねた時、お医者様の家に置いてもらっていた時に雑用がキツいと泣き言を漏らした時、売掛金の回収に失敗したと打ち明けた時、帳簿なんて付けられないと言った時──私が我儘だとか、立場を分かっていないとか、私のせいだとか、とにかく私がいけないんだと言われてきた。

 今回も同じことを言われるんじゃないかと不安だ。

 

 それに──私の身に起こったことはできれば誰にも知られたくない。

 

 やっぱり私が我慢すればいいんじゃないのか?

 

 具合が悪いだけだって言っておけば──

 

 そこまで考えた時、不意にベッドに横たわるお母さんの姿が頭をよぎった。

 痩せこけて血の気が失せ、身体は冷たくなって二度と目覚めることのない孤独な眠りに落ちていったお母さん──今まで見たものの中で一番怖いもの。

 

 悪寒に身体が震える。

 

 

 ──嫌だ。死にたくない。お母さんみたいになりたくない!

 

 

「──誰にも──他の誰にも言わないでください」

 

 私は絞り出すような声で言った。

 

「絶対に言わない。約束する」

 

 奥様は真剣な表情で頷いた。

 

 それを見てようやく私は決心がついて、私の身に起こったことを包み隠さず話したのだった。

 

 

 

「──なんて酷いことしやがる」

 

 奥様が歯を食い縛って低い声を上げる。

 その顔に浮かんでいたのは怒りの表情だった。ただ、その怒りは私ではなく店主に向けられていた。

 

「ティナちゃん。仕事にはもう行かんでいい。わざわざそんな酷いことされるって分かっていて行くことなんてない。しばらくはうちにいな。新しい仕事先も探してやる。それと、あの馬鹿店主を懲らしめてやらないとね」

 

 奥様の話を聞いて私は血の気が引いた。

 

「あの店を紹介した私らの落ち度もある。この落とし前はきっちりと付けさせてやるから──」

「いや──!そんなのいや!」

 

 私は引き攣った喉で懸命に叫んだ。

 私は店主に復讐したいんじゃない。そんなことしたら店主が私を恨んで殺しに来るかもしれない。

 私は──逃げたいだけなのだ。

 

「懲らしめたり、仕返ししたり──そんなのいらないから──私、もう出て行きたいの──ここから──どこか、遠くに行って──あの人と二度と会わない所に行きたいの──」

 

 いつの間にか溢れ出てきた涙を拭いながら、私は必死で訴えた。

 

「それって、この島を出たいってことかい?」

 

 頷くと、奥様が困った顔をする。

 

「こう言っちゃ酷だけど、この島を出ても今よりもっと大変だよ?やめときなさい。それに島の皆があの馬鹿みたいな奴じゃない。そもそもあいつは──」

「人間──で、私たち獣人とは違う、でしょ?でも、あの人を懲らしめたって、私はここにはいられないよ。それとも──あの店主をこの島から追い出せるの?あの店がなくなったら、外からの品物が入ってこなくなるんだよ?」

 

 そう──あの店主がやっている店はこの島の人たちの生活に欠かすことができない。

 特に主力商品である小麦粉。これはあの店が取引を独占している。いや、独占しているというより、あの店以外取引をやらないのだ。

 前の店主が言っていたけど、卸先が少ない上に運んでくるだけでものすごい費用が掛かるんだとか。

 

「でもティナちゃん。島の外は本当に危ないんだよ。悪いことは言わない。考え直して」

 

 奥様がなおも止めてくる。でも私はかぶりを振った。

 この島を出たいという願いは口に出したことでより強くなった。

 

「私はもうここにはいられないの。外の世界がどうでも、ここで怯えながら生きるよりマシだよ。ここにいたら私、いつか壊れちゃう」

 

 でも奥様はしぶとかった。

 

「ティナちゃん、あんたは分かってない。意地悪したくて言ってるんじゃないんだ。本当にティナちゃんのために言ってるんだよ」

 

 そして奥様は今まで聞いたこともなかった彼女の過去を話し始める。

 

「あたしゃこう見えて若い頃はこの島が狭苦しいと思って本土に行ってそこで暮らしてたんだ。でも行った先での暮らしは酷いもんだった。仕事はキツい仕事か汚れ仕事ばっかり。這い上がろうと思っても学も金も技術もないせいでなかなかうまくいかない。で結局、ここに戻ってきて嫁入りしたのさ。あたしにはここにしか居場所はなかった。それに気付くのに十年もかかっちまって、随分いらん苦労をしたもんさ。最初から島を出なければって今でも思うことがある。それでもティナちゃんはこの島を出たいと思うのかい?」

 

 私は頷いた。

 このままここに残っても地獄、出て行った先も地獄が待ち構えているのなら、出て行った先でうまくいく方に賭けたい。

 こんなところになんてもう一日だっていたくない。

 

 奥様は私の目をしばらくじっと見ていたけれど、やがて溜息を吐いて折れた。

 

「分かった。それでも行くなら止めはしない。ちょうど三日後に本土への定期船が来るよ。それに乗って行くといい。まあ、ティナちゃんは昔のあたしと違ってまだ成人したばっかりだし、働いた経験もあるから、仕事は見つけやすいかもしれないしね。ただし一つ、忠告しておく。間違っても犯罪ギルドに入るのと身体を売ることだけは絶対にするんじゃないよ。でないと十年、いや、五年と経たずに殺されるか、病気を貰って死ぬことになるからね。あたしと一緒に島を出た子たちはそれで死んだ。ティナちゃんはそうならないで」

 

 私はその言葉をしっかり心に刻みつけて、頷いた。

 

「──うん。約束する」

 

 

◇◇◇

 

 

 三日後、私は衣服と歯ブラシとコップ、そして毛布を袋に詰めて定期船に乗り込んだ。

 

 お医者様が親切にも切符を買ってくれたおかげで、なけなしの貯金をいきなり切り崩さずに済んだのは幸運だった。

 

 飛行船の甲板からどんどん離れていく浮島を眺めていると、思っていたよりもずっとちっぽけだったんだな、と思った。

 

 ──そうだ。私は間違ってない。

 こんなちっぽけな島にしがみついて何になる。

 

 風で髪がなびく度、清々した気分が広がっていく。

 

 ──さようなら。忌まわしき私の生まれ故郷。

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