彼女に撃てと命じられた時、自分でも驚くほどあっさりと引き金を引いた。
まるで自身が彼女の部下であったかのように、その命令に自然に従っていた。
裏切り者の男は自分が撃った弾で後頭部──脳幹を撃ち抜かれて即死した。
頭に空いた穴から血を流す男の死体を見た時、湧き上がったのは歓喜でも恐怖でもなく、虚しさだった。
自分は一体何をしているのだろう。
またしても自分はただ彼女に引っ張られていただけだ。
間者と裏切り者が潜んでいると目される店に乗り込もうとした時、自分は尻込みしていたのに、彼女はすぐに踏み込んでいく決断をした。
後ろは任せるぞ──そう言われた時、嬉しかった。
しかし、結局彼女の背後を守ることはなく、やったことは恐怖に震える男に拳銃を突きつけて一方的に射殺しただけ。
出会った時には小さくて頼りなく見えた彼女の背中が今ではとても大きく見える。そしてそれに反比例して自分の存在の矮小さを思い知らされる。
彼女の指示で手首を斬り落とされた間者の手当てをしながらアーヴリルは葛藤していた。
やがて兵士たちがやってきて間者を屋敷に連行していき、アーヴリルは彼女と共に屋敷に戻ったが、葛藤は東の空が白み始めるまで続いた。
◇◇◇
気絶させたスパイ野郎を屋敷に連れ帰り、少し
スパイ野郎の正体はオフリー伯爵家の傘下にある大商会のメンバーで、表向きは服飾品を扱う商人としてファイアブランド領で商売しつつ、その裏で役人を買収して色々悪どいことをしていたようだ。
そしてここ最近はオフリー家からの命令でファイアブランド家の戦力規模や作戦に関する情報を集めていたらしい。
こんな奴の跳梁跋扈を許すとか、やっぱりファイアブランド家ってガタガタだわ。内憂外患と言うのだったか?とにかく内も外も問題が多過ぎる。
これは一度大掛かりな掃除が必要だな。
その後、慈悲を乞う立場のくせして図々しくも表向きの立場を利用して俺を脅そうとしてきたスパイ野郎は苛々したので、騎士たちに命じて地下牢にぶち込んだ。
あとは騎士たちがきっちりと落とし前を付けさせてくれるだろう。
それよりアーヴリルだ。
あいつを是非とも俺の騎士として召し抱えたい。
裏切りや理不尽を憎み、見て見ぬ振りをすることもできた状況でそれをしなかった騎士道精神溢れる人柄、裏切り者を真っ先に見つけた観察力と勘の鋭さ、鍛えられた身体能力と信頼できる射撃の腕前、どれをとっても実に素晴らしい逸材だ。
あと、顔もスタイルもなかなか良い。
さて──望むだけなら簡単だが、どうやって引き抜いたものだろうか。
全てが終わればアーヴリルは実家に帰るだろう。
リックへの復讐を果たした後は如何様にも裁かれる覚悟だったようだが、思いがけず俺が代わりにリックを殺したことで、アーヴリルは大手を振って実家に戻れるようになったのだ。
だから彼女が実家に帰る前に仕官の誘いをかけなければならない。
ただ、いきなりストレートにファイアブランド家に仕官しないかと誘っても断られる可能性が高い。
アーヴリルの実家が仕えているノックス子爵家だが、ファイアブランド家とは因縁浅からぬ仲のようだ。
今まで知らなかったが、両家の寄子になっている零細領主たちの領土争いがしょっちゅうあって、両家の介入が度々行われていたらしい。蔵書室にその記録がどっさり保管されていた。
──ということは俺がリックを殺った時に捕まっていたら、それこそファイアブランド家とノックス家の戦争になる可能性もあったってことか。笑えないな。
まあそれはさておき、アーヴリルにとってファイアブランド家は主君のライバル──敵も同じだ。
敵の家の娘にヘッドハントされてあっさり仕官先を変えるなど、あの高潔な騎士の娘はするまい。
だが、付け入る隙はある。
アーヴリルの中にはまだ主君であるノックス家に対する遺恨は残っているはずだ。
仇討ちは果たされても、アーヴリルの妹が元通りになることは期待できないだろうし、ノックス家が強姦事件を隠蔽したという事実も消えない。
そこを徹底的に突く。
ゆっくりと溶かしてほぐすような説得で、今まで仕えてきたノックス家から心を離れさせる──あれ?これって人妻を寝取るのに似ていないか?
前世で寝取られたのだから、今世では寝取る側の気分を味わいたい。
まずはお茶にでも呼び出して、改めてもてなしてやるとするか。
◇◇◇
翌日、エステルに呼び出されたアーヴリルは目元にできた微かな隈を気にしながらも、指定された部屋に赴いた。
案内のため前を歩くティナはシックなメイド服に身を包んでいる。
これまで冒険の旅で見てきた実用性重視の衣服とはまるで違う、一目で高級品と分かる衣服。アーヴリルが持っているよそ行きの服よりも上等な品である。
奴隷にこのような高級な衣服を用意できるあたり、やはりエステルは大きな貴族家のお嬢様──自分とは住む世界が違っていたのだと思い知らされる。
そしてさっぱり分からない。子爵家令嬢としてかしずかれ、守られてぬくぬくと育ったであろうエステルがなぜああも貴族令嬢らしくないのかが。
習う必要もなさそうな剣術や鎧の操縦を学び、十二歳でそれなりに鍛えた男を剣で圧倒し、数千のモンスターを一人で蹴散らし、果ては軍を指揮して空賊を殲滅するほどの力を持つに至っている。
ついでに言うと、望まぬ結婚を避けるために一攫千金を狙って冒険の旅に出るという選択をした理由も分からない。
いつだってそうだ。エステルは何を考えているのか分からないし、予測不能だ。
今こうして自分を呼び出している理由も分からない。
──分からないから不安になる。
ティナがある部屋の前で立ち止まり、ノックする。
「ランス様をお連れしました」
扉が内側から開かれる。
開けたのは口髭を蓄えた老齢の執事である。
「ようこそお越しくださいました。エステル様が中でお待ちです」
ティナが道を開け、先に入るよう手振りで示す。
アーヴリルが扉をくぐると、そこは明るいサンルームだった。
窓際にケーキスタンドとティーセットの載ったテーブルが置かれ、そこにエステルが着いている。
彼女の反対側にもう一つ席があり、そこは空いていた。
エステルが座ったままアーヴリルを手招きした。
「よく来てくれたな。ティータイムだ。付き合ってくれ」
微笑を浮かべて尊大に宣うエステルの格好は今まで見てきたものとはかけ離れていた。
赤いクロスタイの付いた白いブラウスを着て、下には濃紺色のロングスカート、髪は垢抜けたオールバックにセットされている。
その姿は可愛らしくもあり、美しくもあり、アーヴリルは思わず見惚れてしまう。
「お掛けください。ランス様」
執事がアーヴリルの座る椅子を引いた。
ティナはエステルの後ろに移動し、そこで待機に入っている。
「──どうも」
礼を言って椅子に腰掛けると、程なく芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。
執事がポットに茶葉を入れ、素早く湯を注いで蓋をし、脇の砂時計を返す。
「サイラスの淹れるお茶は美味いんだ。楽しみにしてていいぞ」
エステルが自慢げに言うが、サイラスと呼ばれた執事は肯定するでも謙遜するでもなく、粛々と仕事に勤しむ。
サイラスがケーキスタンドの前に移動するとトングと皿を手に取った。
「お茶請けはどれになさいますか?」
その言葉はアーヴリルに向けられたものである。お茶請けは客人であるアーヴリルが先に選ぶのだ。
アーヴリルは口の中に唾が湧いてくるのを自覚する。
ケーキスタンドに並んだお菓子はどれも美味しそうだ。
アーヴリルは少し迷ったが、下の方の段にあった好物に目が留まった。
「では──そのロールケーキを」
綺麗に切られたロールケーキが一切れ皿に移され、前に置かれる。
エステルには三角形に切ったチーズケーキ。
そしてサイラスは無駄のない動きでポットからカップへと紅茶を注ぎ、二人の前に出した。
その光景にアーヴリルは学園にいた頃を思い出す。
上級クラスの男子たちが女子たちをお茶会に誘っていて、女子たちは誰彼のお茶会はどんなだったかという話で盛り上がっていた。
普通クラスに所属していたアーヴリルはお茶会に招かれることはなく、人伝に聞いて想像するしかなかったが──今自分がいるのはまさにそのお茶会だ。
エステルが手振りで合図すると、サイラスとティナは一礼して部屋を辞した。
サンルームにはエステルとアーヴリルの二人きりになる。
「帰ってきてからずっとバタバタしててゆっくりお茶してる暇もなかった。それにお前にもロクなもてなしができなかったからな。楽しんでくれ」
そう言ってエステルがフォークを手に取った。
アーヴリルも慌ててフォークを手に取り、ロールケーキを口に運んだ。
口の中に広がる甘さに思わず頬が緩む。
エステルの方を見ると、ご満悦なのか今まで見たことのない緩んだ表情をしている。初めてエステルが年相応の少女に見えた。
アーヴリルの視線に気付いたエステルが「何だ?」と問いかけてくる。
「いえ──その──エステル様のそのようなお姿は初めて見たもので──」
どう言えばいいのかいまいち分からず、言葉に詰まるアーヴリルだが、エステルは悪戯っぽく笑って言う。
「おいおい、私はこれでも子爵家令嬢だぞ?女物の服くらい着るし、おめかしだってするさ」
そのことを言ったのではないのだが、アーヴリルは訂正しなかった。
代わりに媚びるような褒め言葉を発する。
「ええ、そうですね。とてもお綺麗ですよ。まるで──そう、妖精のようです」
エステルは一瞬目を逸らしてふっと息を吐いた。
「妖精か──じゃあ、お前は凛々しい女騎士だな」
え、とアーヴリルは思わずエステルを見返した。
いきなり何を言い出すのか、というアーヴリルの疑問にエステルは笑顔で答える。
「出会った時、追われていた私を助けてくれただろう?知らんぷりもできたろうに──おかげで私は冒険を続けられて、そして成功させられた。ちゃんと礼を言っていなかったな。あの時はありがとう。嬉しかったぞ」
今まで見たこともないような屈託のない笑顔で感謝を伝えられて、アーヴリルは面食らい、そして罪悪感が胸を支配する。
「いえ──礼を言われることではありませんよ。ただの──気まぐれです。貴女が誰かも私は知らなかった。知っていたら──」
エステルの正体をあの時知っていたら助けたかどうかは疑わしい。
彼女は──自分が仕える家の敵なのだ。
リック殺害の咎を自分の代わりに敵が背負い、自分の目的は果たされた状況──間違いなく見て見ぬふりをしていただろう。
「助けたさ」
エステルは力強くアーヴリルの主張を否定した。
「お前なら私を助けたよ。たとえ正体を見抜いていたとしてもな」
違う──違う、私はそんな高潔な人間じゃない。
自分の本性を隠して、自分さえも騙して高潔に振る舞っていただけだ。その本質は粋がるガキと変わらない。
否定し返そうとするが、言葉にならない。
エステルの美貌と笑顔で言われたことを否定したら、取り返しがつかない所まで堕ちてしまいそうで、それ以前に彼女に軽蔑の目を向けられるのが怖くて──だからアーヴリルはまた嘘を重ねるしかない。
アーヴリルの内心など露知らぬ風でエステルはアーヴリルを煽ててくる。
「お前は立派な騎士だ。理不尽を憎む真っ直ぐな心も、弱い者を自ら助ける優しさも、一人で妹の仇討ちに旅立つ行動力と逞しさも、全て持ち合わせている。お前のような騎士の鑑を育てたランス家も実に素晴らしい。ノックス子爵家が羨ましいよ。──豚に真珠な気もするけどな」
最後の言葉は嘲りか、はたまた同情か、含みのあるものだった。
「何を仰りたいのですか?」
思わずアーヴリルは語気を強めたが、エステルは気にした風もない。
「お前は──ノックス子爵家が仕えるべき主だと、今でもそう思っているか?」
「ッ!それは──」
あっさり「いいえ」と言えたならどれだけ楽だっただろうか。
だが、アーヴリルにはできかねた。辛うじて残っていた騎士の娘としてのプライド──主を貶めることを許さない──がアーヴリルの口を閉ざす。
しかし、エステルは容赦なく踏み込んできた。
「言いにくいなら当ててやろう。お前の答えは否だ。でなきゃノックス子爵家の嫡出子の命を狙うなんてするわけがない。違うか?」
──言い返せない。
妹の【シェリル】が傷つけられた時、それまで当たり前だった価値観が崩れた。
ノックス子爵家はシェリルを拐かし、辱めた者たちに殆ど罰を与えなかった。シェリルが主犯だと証言したリックに至っては、関与していなかったとされ、お咎めなしだった。
ランス家はこれまでノックス子爵家に忠実に仕えてきたのに、なぜこんな酷い仕打ちを受けなければならないのか。
当主である父にそれを訴えもした。だが父は教えを繰り返すだけだった。
「暗君であろうと名君であろうと仕えた主君には忠義を尽くせ」
それが騎士として当然だとアーヴリルも思ってきた。
でもこれはあんまりだ。私たちは騎士であって奴隷ではない、そして騎士である以前に尊厳と誇りのある人間なのだ──だからそれをリックに分からせてやりたいと思って、復讐に乗り出した。
結果リックは思いがけずエステルの手にかかって死んだ。エステルとその連れを拐かそうとして斬られたと人伝に聞いてアーヴリルは溜飲を下げた。
そして同時に自分の復讐の落とし所に達したと思った。
「事はもう済んでいます。妹を辱めたリックは死に、復讐は果たされました。これ以上は等価報復を過ぎます。それは──騎士の道に悖ります」
騎士の復讐は【等価報復】が大原則である。
感情や正義に任せて際限なく復讐すれば先に待つのは破滅のみ。
だから等価報復の手段として【決闘】制度があるのだが、それはまた別の話である。
アーヴリルは半ば自分に言い聞かせるようにそれをエステルに伝えたが、彼女は引き下がらない。
「本当にそう思うか?リックが死んだだけで事は済んだと」
「違う──そう仰りたいのですか?」
「私からしてみれば、な。お前は身の上を話してくれた時こう言ったはずだ。事は揉み消され、妹は泣き寝入りを強いられた、と。強姦事件をノックス子爵家が権力で揉み消した。違うか?」
──違わない。
妹を傷つけたのはリックだが、ノックス子爵家が彼を庇った。
元凶はリックであって、彼が死んだ以上はもう手打ちとすべき──そう結論づけたはずなのに、エステルはそれを揺さぶってくる。
「沈黙は肯定と取るぞ。つまりお前の家に起こったことはノックス子爵家のドラ息子が犯した過ちなんかじゃない。ノックス子爵家の裏切りだ。ランス騎士家が捧げた忠誠とこれまでの貢献に対する恩を仇で返されたということだぞ?」
アーヴリルは言い返す言葉もない。
「お前の騎士道精神は素晴らしいが──忠誠と盲従は違う。ノックス子爵家はお前を、そしてお前の家族を都合よく利用して搾取しているだけだ」
そしてエステルは一息ついて、紅茶を一口飲んだ。
「私なら絶対に、お前のような素晴らしい騎士をぞんざいに扱ったりはしないのにな」
「──え?」
その言葉にアーヴリルは激しく動揺した。
なぜかは自分でもよく分からないが、一瞬凄まじい高揚感が湧き上がったかと思うと、その後すぐに大きな抵抗感が湧き上がった。
まるでエステルが自分に仕官しないかと誘っているかのように思えた。
何と返せばいいのか分からなくなるアーヴリルだが、エステルの関心は既に別のことに移っていた。
「お茶がぬるくなってしまったな。淹れ直させよう」
エステルがベルを押すと、サイラスが入ってきてカップを回収していった。
またしばし、サンルームには二人きりになる。
だがアーヴリルは何としても先程の発言の真意を問わなければならなかった。
この機会を逸してしまえば、二度と訊けなくなるような気がしたから。
エステルは先程までの饒舌さはどこへやら、口を閉じて窓の外を見ている。
「あの、エステル様」
「何だ?」
エステルがアーヴリルに向き直る。
その瞳は何かを期待しているようにも見えるが、相変わらず読めない。
「先程の言葉は──」
どういう意味で言ったのか、と続ける前にエステルは答えを返してきた。
「ああ、お前を召し抱えたい。そう思ったのさ」
「私を──?」
「そうだ。アーヴリル、私に仕官する気はないか?」
ああ──私をお茶会に呼んだ本当の用事はそれだったのか。
昨夜の葛藤がまたぶり返してくる。
いつの間にかアーヴリルは泣いていた。
「私には──貴女にお仕えする資格などありません」
「なぜだ?」
涙でぼやけた視界に映るエステルは憎らしいほど落ち着いた表情だった。
「私は!──私は、恩人である貴女を恨みました」
アーヴリルは抱えていた罪悪感と自己嫌悪の元凶となった出来事をエステルに告白した。
自分がダンジョンで捕まって一つ目の怪物に拷問されたことで気付いた醜い感情は、今でもありありと思い出せる。
否定しようとすればするほど強く脳裏に刻みつけられたそれを告白したことで、解放感が訪れたのも束の間、恐怖が心を支配する。
エステルが席を立ったのが音で分かった。
浴びせられるであろう罵倒と軽蔑の眼差しからのせめてもの逃避としてアーヴリルは俯く。
不意にアーヴリルの頭が柔らかく温かいものに包まれた。
抱きしめられたのだと気付くのに数秒かかった。
エステルが子供をあやすような声で言ってくる。
「すまなかったな」
「え──あの──エステル様?」
思わず顔を上げると、エステルは悲痛な表情を浮かべていた。
「お前の抱いた感情は間違ってなんてない。私の我儘でお前を酷い目に遭わせてしまった。苦しかったよな。痛かったよな。結果的には全員生還できたけど──お前の言った通り、無謀だった。許してくれなんて言わない。私を憎んだっていい。でも──本当に──すまなかった」
その言葉がアーヴリルを叩きのめした。
「どう──して──」
その先に続けたい言葉はいくつも思い浮かんだが、どれも喉につかえたまま出てこない。
独り善がりで助けようとして、そのくせ助けられてばかりで受けた恩に何ら報いることができなくて、挙句貴女を逆恨みして、憎んで、呪った。貴女が不幸になる未来を望んだ。
それなのに──どうして貴女が謝るのか。
どうして私を蔑まないのか。
どうして私を許すのか。
どうして私に優しくするのか。
「だから──もう自分を責めるのはやめてくれ」
そう言ったエステルの目から涙がこぼれた。
負けた──そうはっきり分かった。
目の前の少女は何もかもにおいて自分より優っていて、それでいて清浄で汚れのない存在で、自分に許されるのはただその強さと優しさに縋ることだけなのだと思い知った。
心にかかった重く粘っこいモヤが晴れていく。
涙の勢いは衰えるどころか、さらに増していき、全く止められない。
アーヴリルは号泣した。
その姿は産声をあげる赤子のようにも見えた。
◇◇◇
演技するのもそろそろ疲れてきた。
正直、「そんなことで悩んでいたのか?」と言いたい。
あの状況で俺を恨まない人間などいないだろう。
それくらい、アーヴリルに聞いたライチェスの拷問は凄まじかった。
そして俺は恨まれようが、憎まれようが、別に気にしない。
そもそも俺自身が恨みと憎悪が服を着て歩いているような人間だ。
前世から持ち越された恨みと憎悪は転生して何年も経った今でもずっと、心の底に煤混じりの油汚れみたいにこびりついている。
リックを殺したのはそれが爆発したからだし、空賊共を殲滅したのだって貴族の義務とか領民のためとかそんなご大層な理由ではない。領主の地位をものにするためと──あとは単なる憂さ晴らしだ。
俺が抱く恨みと憎悪に比べれば、アーヴリルが抱いた逆恨みなど可愛いものである。
俺のは絶対に消えずに燻り続けるが、アーヴリルのはとっくに消えている。
過ぎたことでウジウジ悩む奴は見ていて苛々する。
だがグッと堪えて俺はアーヴリルを口説き落とす最後のフェーズに取り掛かる。
「お前はやっぱり立派だよ。普通の人間ならその恨みを持ち続けるか、調子良く忘れてしまう。でもお前は違った。お前が自分を責めていたのはお前が己を顧みて律することができる特別な人間だからだ。お前はやはり騎士の鑑── 騎士道精神の体現者だよ」
アーヴリルは嗚咽を漏らすだけでロクな返事を寄越さない。
そんなアーヴリルに俺は精一杯の女神スマイルと女神ボイスで囁きかける。
「だから──やはり私はお前が欲しい。今すぐに返事をくれとは言わない。そしてどんな返事でも、お前の意思を尊重する。お前のいるべき場所は──いや、いたい場所はどこか、考えてみて、その上で返事をくれ」
そして俺はティナを呼んで泣き続けるアーヴリルのためにハンカチを持ってこさせ、入れ違いにサンルームを出た。
──終わった。
セルカとティナと一緒に練り上げたアーヴリルヘッドハント計画をやり遂げた。
あとはアーヴリルの反応次第だ。
どっと疲れが襲ってくる。
主な原因は最後の方で慣れない演技をしたことだろう。
セルカがアーヴリルは無意識的に理解者を欲していると言うものだから、アーヴリルの抱いた逆恨みを敢えて肯定し、酷い目に遭わせたことに対して謝罪する演技をしたのだ。
しかもその際は俺も泣かないといけないとティナに言われ、涙を流す演技の猛特訓を一夜漬けでやる羽目になった。
今世の肉体の涙脆い体質のおかげかコツはすぐに掴めたが、どうにも何か大事なものが失われたような汚されたような複雑な気分だ。
でもまあ、頑張った甲斐あって手応えは上々だ。
だから──良い返事を期待しているぞ。