俺は天空国家の悪徳領主!   作:鈴名ひまり

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エマちゃん枠を登場させたいなーと思っていたら未完成だったマタギマリエちゃんのエピソードが流用できた


慟哭の狩人

 山で、森で、獣を狩って生きる者たちの古い言い伝えがある。

 熊を仕留めたなら、必ずその魂を森の神エンテの下に送る儀式をせねばならない。さもなくば怨念に濁った魂が現世に残って祟りをなし、七日七晩続く嵐がやってくる、と。

 

 しかし、その儀式というのがどんなものなのかは誰も知らない。

 

 故に狩人たちはその猛獣を仕留めた後にこう唱え、祈りを捧げる。

 

 

「偉大なる森の狩人、山つ神の仔の末裔よ。その魂はエンテの下へ。肉体は現世に残り、我らの糧となりたまえ」

 

 

◇◇◇

 

 

【アッカ】と呼ばれたその村はファイアブランド領の中でも最も小さな集落の一つだった。

 

 村民は元々ファイアブランド領の黎明期の終わり、森を切り拓いて居住地と農地を北へ北へと広げた過渡期の頃に移り住んできた者たちだった。

 

 新天地での平和で豊かな暮らしを夢見てやって来た彼らは当時のファイアブランド家当主【ロードリック】から北の山岳地帯の入り口に当たる土地を居住地として与えられ、そこを開墾して村を作った。

 

 皆で話し合ってそれぞれの持分の土地を決め、木を伐って家を建てた。切り株と石を取り除いた後に鋤を入れて畑を作り、渓流から水を引いて作物の種を蒔いた。

 

 春に麦の種を蒔き、秋には実った麦を収穫し、山に入って山菜やキノコや果実を採り、川で魚を獲って乾燥し、冬には男たちは出稼ぎに行き、女子供や老人は暖炉の火を囲んで保存食で飢えを凌ぎながら春を待つ。

 そんな生活が何年も続き、少しずつ人が増えて村は大きくなっていった。

 

 だが、両脇に山肌の迫る僻地であるが故に、大きくなるにも限度があり、また他の集落とも距離が離れた所謂陸の孤島であることは変わらなかった。

 

 

 

 その年は例年よりも早い十月に冬が来た。

 

 紅葉が終わらないうちに山肌は白く覆われ、村には粉雪が舞った。

 

 村人たちは皆、殆ど家の外に出ることなく、暖炉の周りで身を寄せ合って過ごした。

 

 そして雪の積もった十一月下旬、ある一戸の家で異変が起こった。

 

 夜中に突然馬が激しく嘶き、床を踏み鳴らして暴れ回った。

 これまで見たことのない異様な怯えぶりに家の主人が起き出して外の様子を窺ったが、何も見つからず、主人は寝床に戻った。

 

 だが、次の朝外に出てみると、軒先に干されていた果実が半分ほどなくなっており、その真下の雪には見たことのない異様な大きさの足跡が残っていた。

 

 すぐに村人たちが集まり、その足跡に群がった。

 

「熊だな」

 

 足跡を見た村の長老はそう断じた。

 

 居合わせた村人たちは思わず身を竦ませた。

 

 熊──地上最大の肉食獣。大自然の猛威を体現する森の支配者。

 

 その力強い四肢は深く積もった雪をものともせずに巨体を馬よりも速く走らせ、振るえば牛の頸すら容易くへし折り、爪で皮も肉も紙切れのように切り裂く。

 そしてこれまた強力な顎と牙で骨ごと噛み砕き、哀れな獲物を無惨な肉片に変えてしまう。

 

 彼らの纏う分厚い毛皮は雪も寒さもものともせず、ナイフはおろか、鎌も斧も通さない。

 さすがに銃弾ともなれば通るが、それとてそんじょそこらの猟銃では余程の至近距離から撃たない限りその下の脂肪に止められるか、骨で弾かれるだけ。

 殺すどころか傷を負わせるのも至難の業だ。

 

 そんな下手なモンスターよりも恐ろしい猛獣がつい昨夜家の外にいたと知って、恐怖を覚えないわけがなかった。

 

 しかも奪われたのは冬を越すためのなけなしの蓄え──それだけならまだいい。

 味を占めてまた来て、今度は馬を襲って喰うかもしれない。

 畑を耕すのに不可欠な馬を殺されてしまえば、生活が成り立たなくなってしまう。

 

 すぐに長老の指示に従い、村人の中で銃を持っている者が呼び集められた。

 その中に狩人から熊について聞いたことがあるという老人がいた。

 

「巣ごもり前の奴だろう。腹を空かしとるんだ」

 

 老人の見立てに村人たちは蒼褪めた。

 

「きっとまた来る。ここで待ち伏せして仕留めるぞ」

 

 その言葉に従い、老人ともう二人銃を持った若い男の計三人が被害を受けた家に張り込んだ。

 

 果実が吊るされている軒下に面した窓からでは射線が確保できなかったため、斧で壁の一部を壊して銃眼を二つ開けた。

 

 目が良い若い男二人が銃眼に、熊の習性を知る老人は窓から様子を見つつ指揮することでどの方向から熊が来ても確実に仕留める作戦だった。

 

 だが、その晩熊は来なかった。

 

 その次の晩も、その更に次の晩も熊は来なかった。

 日中家の周囲を調べても痕跡すら見当たらず、食い荒らされたものもなかった。

 

 当初こそ張り詰めていた男たちだったが、次第に緊張が緩んでいく。

 熊はもうとっくに飢えを満たして冬眠に入ったのではないか──そんな考えがその場を支配し始める。

 

 そして一人の若い男が仕事を理由に抜けると言い出した。

 

 不安は拭えないながらも、善意で泊まり込んでもらっている立場故引き止めることもできず、家の主人はその申し出を受けた。

 そして心ばかりの礼として少しばかり豪勢な夜食を振る舞った。

 

 寒村では貴重な肉を使った料理に男たちが舌鼓を打っていたその時だった。

 

 ゴリッ、ゴリッという妙な物音が家のすぐ外から聞こえてきた。

 

「き、来た!」

 

 若い男の一人が慌てて銃を取ろうとするのを老人が制止する。

 

「静かにせんか!親父さん、ランプをこっちに」

 

 小声で家の主人に指示を出し、窓際にランプを持って来させる。

 

 そしてそっと窓から顔を出して外の様子を窺うと、軒下で何かを貪り食っている巨大な獣の後ろ姿が見えた。

 

「手筈通りにやるぞ。銃眼につけ。慌てずにちゃんと頭を狙うんだぞ」

「わ、分かった」

 

 小声で短くやりとりを交わし、男たちは銃を手に配置についた。

 

 獣はむしり取った果実を食うのに夢中で彼らの動きに気付いていないようだった。

 

(む、角度が悪いな。どこからも頭が見えん)

 

 獣はどちらの銃眼からも直接頭を狙えない姿勢で座り込んでいた。

 

 老人にしてみれば少々計算が狂ったが、作戦が破綻したというほどのことでもなかった。

 

 頭を上げるまで待てばいい。

 

「まだだぞ。顔を上げるまで待て」

 

 老人は小声でそう言った。

 

 だが、その声は若い男たちには届いていなかった。

 

 初めて巨大な熊を目にした興奮と緊張感で頭に血が昇っていた彼らは、熊が身を捩った拍子に頭をはっきり視認しないまま発砲してしまった。

 

 獣は弾かれたように立ち上がって森へ向かって走り出す。

 

「馬鹿者!あれほどちゃんと頭を狙えと言ったのに!」

 

 老人が毒づいて窓から銃を突き出し、逃げていく獣目掛けて撃った。

 

 だが、どうやら外れたらしく、獣はそのまま走り去った。

 

 老人たちは日の出を待って足跡を追ったが、運悪く山が吹雪き始め、追跡を断念せざるを得なかった。

 

 それっきり熊は姿を見せず、結局老人たちは熊が遠くへ逃げていったか冬眠に入ったのだろうと判断し、解散した。

 

 危険は去ったと思った村人たちだったが、それから数週間が過ぎた十二月半ばに、事件は起こった。

 

 

 

 それを最初に見つけたのは木樵の【オーロ】だった。

 

 早朝から山に入って売り物にする木材の切り出しを行い、昼食を食べに寄宿先である農夫【ウォラフ】の家に帰ってきた彼が暖炉の方を見やると、ウォラフの末の息子が寝転がっているのが見えた。

 その近くにはいくつかの芋が転がっていた。

 

 芋を放ったらかして眠っている子供に苦笑しながら、オーロは起こそうと近づいて──次の瞬間、血の気が引いた。

 

 子供の顔面が削ぎ落とされたかのようになくなっていて、暖炉の方に向かって赤黒い血と桃色の脳が飛散していた。

 

 オーロは目を見開き、慌てて玄関に立てかけていた斧を手に取った。

 流れ者や賊の類が食べ物を奪うために家に押し入り、子供を惨殺したのだと思ったのだ。

 

 斧を構えたままオーロは家の中を見て回ったが、動くものはなく、もぬけの殻のようだった。

 

(おい、待て。それじゃカミラはどこだ?)

 

 子供と一緒に留守番していたはずのウォラフの妻【カミラ】の姿がない。

 

 オーロは大声でカミラの名を呼んだが、返事はなく、人の気配は感じ取れなかった。

 

 静寂と冷気が身体にのしかかってくるかのような感覚に襲われ、オーロは斧を手に家を飛び出した。

 

 

 

 村のすぐ側を流れる渓流はアッカに恵みの水をもたらすと同時に、外の世界との行き来を制限していた。

 

 下流へと下った先の本流には木製の橋が架けられているのだが、そこは冬になると雪が積もって通行できなくなってしまう。

 

 その対策として、アッカでは毎年氷橋と呼ばれる簡易の橋が渓流に架けられる。

 

 丸太で骨組みを作り、枝を敷き連ねてその周りを雪で固めると、すぐに雪が凍って固い氷となり、馬橇の往来にも耐える頑丈な橋となる。

 そうして氷橋が完成したら、秋に収穫した作物を馬橇に積み込んで街に売りに行き、得た現金で衣服や日用品を調達して村に帰ってくるのだ。

 

 そんな氷橋の架橋工事の現場は昼休憩に入り、男たちは焚き火を囲んで談笑していたが、そこに顔を真っ青にしたオーロが駆け込んできた。

 

「た、大変だ!う、う、ウォラフの!ウォラフの末の子がやられた!そ、それと、カミラが、いねえ!」

 

 息を切らしながら叫ぶオーロに男たちは皆驚愕した。

 

 真っ先に血相を変えてウォラフが走り出し、他の男たちも斧や木槌を手に後に続いた。

 

 粉雪の舞う中を全力で走ってウォラフの家に辿り着き、家探しを開始した彼らが見つけたのは、オーロが見たものを更に上回る惨状だった。 

 

 寝室が赤黒く染まっていた。

 引き裂かれた掛け布団と荒れた敷き布団に大量の血が染みつき、床や壁のそこかしこに大小の血痕が残っていた。

 

 ウォラフが虚ろな目で床にへたり込み、すぐに狂ったように泣き喚き出した。

 

 二人の男がウォラフの両脇を抱えて寝室から運び出したが、その声は止むことなく、家の中に響き渡る。

 

「お、おい、あれは──」

 

 一人の若い男が指差した先には窓があった。

 

 その枠板が剥がれ、裂け目に血が染みついていた。

 

 近づいてみると、血に混じって糸のようなものがこびりついているのが見つかった。

 

「これ、カミラのじゃねえか」

 

 根本から抜けて、赤黒く染まった長い髪──それは確かに彼らの知るカミラの特徴的な金髪に違いなかった。

 

 おそらく、カミラは窓から引きずり出され、その時に髪が板の裂け目に挟まって抜けたのだと思われた。

 

 そんなことが人間にできるとはとても思えなかった。

 

 やがて彼らの視線が窓の外、降り積もった雪とその先の森へと移る。

 

 微かな窪みと何かを引きずったような跡が山肌へと続いていた。

 

「熊だ」

 

 誰かがそう呟く。

 

 思い起こされるのは先月の下旬、軒先に吊るされていた果実が熊に食い荒らされた事件。

 

 彼らはここに村を作って以来、野生動物による死者を出したことはなかった。

 

 他の村から熊が家畜を襲っただの、猟師が殺されただのという噂を聞いて、熊が恐ろしい猛獣であるということは知っていた。

 

 だが、不必要に刺激したり、それこそ狩り殺そうとでもしない限り、熊が人間を襲うことはないと漠然と信じていたのだ。

 

 だが、事ここに至って彼らはその認識を改めなくてはならなかった。

 熊にとっては人間とてただの餌である、と。

 

 夕暮れが迫り、森は既に暗くなっていた。

 

「すぐにここを出よう。日が暮れてはどうにもならん。一旦引き上げて、明日カミラを探そう」

 

 長老のその言葉で、彼らはすぐにウォラフの家を離れ、家族を案じて自分たちの家へと急いだ。

 

 その夜は村の誰もがまんじりともできず、ひたすらに薪を暖炉に放り込んだ火を燃やし続けていた。

 

 銃を持たない者が大半で、持っている者も精々が鳥撃ち用の散弾銃であるアッカの村人たちにとって、熊に対抗できる手段といえば火しかなかった。

 

 そして、長い夜が明け、明るくなってくると、男たちが集まって今後の方針を話し合った。

 

 その結果、隣村の【ケルンド】に一人を派遣してそこの駐在騎士に応援を要請することとなったのだが、その役目を引き受けたがる者はいなかった。

 ウォラフの妻子が殺された直後で、家族を置いて村を離れる気にはなれなかったのだ。

 

 結局隣村に行くことが多かった【ネスキル】という男が推され、彼は自分の他にもう一人隣村へ行くことと、残った家族を村人たちが責任を持って守ることを条件に承諾した。

 

 話がまとまると、ネスキルともう一人の男【ミカル】はすぐに馬に乗り、村を発った。

 

 

 

 ケルンドの駐在騎士は名を【ウルフ・カルティアイネン】といった。

 

 彼はファイアブランド子爵家の陪臣騎士としてこの一帯の地を管轄するカルティアイネン騎士家の出であり、現当主の末弟に当たる男だった。

 

 実力不足とされファイアブランド家の軍に入ることが叶わず、家族の計らいで駐在騎士に収まっていたが、それでも燻ったりせずに誠実に職務に取り組む男だった。

 それ故にケルンドの村人たちからの信望も篤かった。

 

 そんなウルフの所に息を切らした二人の男がやってきたのは、彼が家族と共に朝食を食べている時だった。

 

 アッカから来たネスキルとミカルから事情を聞いたウルフはすぐに自分の銃を持ち出し、家人に命じて村中の男を呼び集めさせ、救援部隊の編成に取りかかった。

 

 集まった男たちの中から屈強な者が選抜され、総勢三十七人がアッカへと赴くことになった。

 その中には旧式ながらもライフルを持つ者が六人含まれており、また、そのうちの二人が猟犬を連れていた。

 そしてウルフの分も入れれば、七挺のライフルと索敵に優れた犬二頭。

 これならば熊とて敵ではないという確信が男たちの間には生まれていた。

 

 ネスキルたちに先導されて雪道を進み、氷橋の側の渓流を渡ってアッカに到着した彼らはそこでアッカの男たちと合流し、六十人に増強された。

 

 もはや軍の小隊ほどの規模にまで膨れ上がった彼らはウルフの指揮の下、全員で熊の足跡を追うことになった。

 

 一塊となって渓流に沿って山の方へと登っていくと、半分雪に覆われたウォラフの家が見えてきた。

 

 家の中の様子は昨日と変わらないようだった。

 

 荒れた寝室も、子供の遺体も、窓に残った毛髪も、凍りついている以外の変化は見当たらない。

 その裏、熊が消えていった山肌は白さを増し、足跡は消えていたが。

 

 ウルフは家の中の惨状に顔を歪めて、祈りの印を切った。

 どうか彼らの天国への旅路が安らかであるように、と。

 

 そして、仇は必ず取ると改めて誓い、男たちに向けて合図を発する。

 

「よし、行くぞ」

 

 男たちは力強く頷き、銃を持った者を先頭と殿に置いて山肌を登り始める。

 

 雪は深く、男たちは全員膝のあたりまで雪に埋もれ、そのせいで歩みは遅かった。

 おまけにどこに熊が潜んでいるか知れない以上、少しの物音にも注意を払わなければならず、度々行軍は止まった。

 

 だが、それでも彼らは着実に山の奥へ奥へと侵攻し、アッカの村は遥か下に沈んで見えるようになっていた。

 

 そしてかれこれ三、四十分ほどは登り続けたかと思われた頃、突然猟犬たちが激しく吠え始めた。

 

 すぐに全員足を止め、犬たちが吠えている方向へと視線を向ける。

 

 三十メートルほど先の大きな針葉樹の根本にあった茶色い枯れ草の塊のようなものが盛り上がったかと思うと、向きを変え、真っ黒な毛に縁取られた黄色い瞳が男たちを捉える。

 

 その獣の巨大さに男たちは瞠目した。

 それは馬よりも遥かに大きく、逞しい巨躯だった。

 

「ッ!怯むな!撃て!」

 

 我に帰ったウルフの号令で射手たちが一斉に引き金を引いたが、起こった銃声はウルフのものともう一人の計二つのみ。それ以外は不発だった。

 しかも気が動転して十分に狙いを付けられず、放たれた二発の弾丸も獣に当たることはなかった。

 

 銃声に獣は一瞬硬直したように動きを止めたが、すぐにその毛が膨れ上がったかと思うと、雪を蹴散らしながら駆け下ってきた。

 

 男たちは悲鳴を上げて我先にと麓へ向かって走り出した。

 

 その後ろから地響きのような足音と荒い呼吸音が迫る。

 

 統制は完全に失われ、男たちは大混乱に陥って雪の中を逃げ惑った。

 

 獣は四散した男たちを追い回すかのように駆け回っていたが、やがて元来た方向へと走っていき、針葉樹の向こうに姿を消した。

 

 獣が去ったのを見たウルフは必死で散った男たちを呼び集めた。

 

 二十分ほどかかって再集結した男たちは雪まみれで得物を失っている者も多かった。

 

 彼らの間にはすっかり恐怖と無力感が蔓延しており、とても追撃は不可能と見たウルフは撤退を決断した。

 

 男たちは力なく斜面を降り、村に戻った。

 

 

 

 アッカに戻ってきた男たちはようやく落ち着きを取り戻し、村の集会所に集まって対策を話し合った。

 

 真っ先に出てきたのはライフルの整備だった。

 

 熊に対抗できる武器はライフルしかないにも関わらず、それらが殆ど不発に終わったのは明らかに整備不足──つまりは持ち主の怠慢によるものであり、責任は明白だった。

 

 不発だったライフルの持ち主たちは男たちの非難に項垂れ、彼らの見ている前でライフルの分解整備に取り組んだ。

 

 それが終わると、ウルフの指示で試射が行われ、今度は全てのライフルから発射音が響いた。

 

 男たちにライフルへの信頼が戻り、議題は次へと移る。

 それは優先順位の話だった。

 

 今いるメンバーだけであの巨大な熊を仕留めることは難しいというのが男たちの総意であり、更なる応援が必要だという意見で一致した。

 

 そこでウルフがカルティアイネン家の現当主である自分の兄に連絡を取り、応援を寄越してもらうことを提案し、すぐに使いの者が選ばれて出発した。

 

 熊の討伐はカルティアイネン家からの応援を待ってからということになったが、それまで何もせずに待つというわけにもいかない。

 

 無人の家に残されたウォラフの息子の遺体と、山に持ち去られたカミラの遺体を回収し、きちんと弔わなければならなかった。

 放置するのは死者に対する冒涜であり、あってはならないことだった。

 

 熊への恐怖こそあったが、その義務感の方が上回り、アッカの村人の一人がカミラの遺体を回収したいとウルフに申し出た。

 

 ウルフは同意し、自分と射手六人、そしてネスキルとミカルの九人と猟犬二頭で山に入ることに決めた。

 

 男たちの見送りを受けて九人は再び山肌へ足を踏み入れた。

 

 既に日が傾き、斜面の雪が赤みを帯びていた。

 

 ウルフたちは警戒しつつも登坂を急ぎ、十五分ほどで朝熊に出会した大きな針葉樹の所まで辿り着いた。

 

 猟犬たちは吠えず、近くに熊はいないようだった。

 

 針葉樹の周りを観察したウルフは根本に不自然な盛り上がりを見つけた。

 まるで何かを埋めたかのようなその盛り上がりをネスキルとミカルと共に掘り起こしてみると──

 

「ッ!」

 

 ウルフは思わず総毛立った。

 ネスキルとミカルもまた絶句している。

 

 雪と枯れ葉と土の下から出てきたのは、遺体と呼ぶにはあまりにも無惨な切れ端──左脚の膝から下と僅かな髪だけだった。

 

「これだけ──だと」

 

 ウルフは乾いた声で呟いた。

 

 しばし放心状態だった彼はライフルを持った男の一人に促されて、遺体の収容に取りかかった。

 

「──袋を準備してくれ」

 

 頷いたネスキルとミカルが遺体を運ぶための袋を取り出して開けた。

 

 左脚と髪、そしてもう少し雪を掘り起こして出てきた少量の骨片を収容し、ウルフたちは山を下った。

 

 

 

 収容されたカミラの遺体と残っていた子供の遺体はすぐに荼毘に付されることになった。

 

 狩人から熊について聞いたことがあるという老人によれば、熊は自分の獲物に執着する、わざわざ埋めて隠していたのがその表れだ、早く焼かないと熊が取り返しにやって来るかもしれない、とのことだった。

 

 死者は土葬し、その地の土に還すのが慣わしであったが、熊がまた襲ってくる危険を放ってはおけなかった。

 

 代わりにカミラと子供を弔うための儀式はケルンドの村の者も交えて盛大に行うことになった。

 

 集会所から五百メートルほど離れた場所にあるアッカで最も広い間取りを持つ【トリグベ】という男の家が会場に選ばれ、酒と大鍋が運び込まれた。

 村の死者は大勢で鍋をつついて語らって送り出すのだ。

 

 鍋には麦と野菜が入れられ、塩漬けや燻製にした魚が添えられた。

 

 アッカの村は慎ましやかな賑わいに包まれることになった。

 

 葬いは夜になっても続き、村は家々で盛んに焚かれる火で明るかった。

 その明かりと人数が村人たちに安心感をもたらした。

 

 やがて葬いがお開きとなり、ケルンドの村の者たちが集会所へと引き上げ、アッカの村人もそれぞれの家に帰り始め、静けさが戻ってきた頃。

 

 突然大きな音を立てて家が大きく揺れた。吊るされていたランプが落ちたのか灯りが消え、家の半分が闇に包まれた。

 

 女子供が悲鳴を上げ、酔っ払っていた男たちが大慌てで立ち上がり、得物を求めて右往左往する。

 

 そして闇の中に目が光り、巨大な獣が姿を現した。

 

「熊だぁぁぁ!!」

 

 誰かが叫び、その声を聞いて村人たちはパニックになってその場から逃げ出そうと走り出した。

 

 十人ほどが玄関に殺到して将棋倒しになり、残りは物陰に飛び込んだり、梁に登ろうと柱に取り付いた。

 

 暖炉の側にいた数人の男たちが燃える薪を投げつけたが、獣は怯んだ様子もなく、男たちに突進してあっさり薙ぎ倒すと、暖炉に掛けられていた大鍋を叩き落とした。

 

 大鍋の中身が溢れて暖炉の火が消え、家の中は完全に真っ暗闇になってしまった。

 

 そして獣の巨体が大きな音を立てて駆ける気配がしたかと思うと、子供たちの悲鳴が上がった。

 獣の腕が振るわれ、空気を切り裂く音に肉が潰され、骨が圧し折れる音が続く。

 

 その悲鳴の中に我が子のものが混じっていることに気付いた【エルサ】という女性がたまらず声を上げてしまった。

 

 子供の名前を呼ぶ声に反応した獣はすぐに彼女に狙いを変え、襲いかかった。

 

 エルサはたちまち隠れていた物陰から引きずり出され、獣の巨体に組み伏せられた。

 

 そして獣は前脚でエルサの纏う衣服を引き剥がし始め、巨大な鉈のような爪が衣服を貫いてエルサの身体を切り裂いた。

 

 激痛にエルサは悲鳴を上げ、命乞いをしたが、それは自分のではなかった。

 

 

「いやあああああ!!やめて!やめてえええええ!お腹破らないでえええええ!!」

 

 

 臨月を迎えていたエルサは自身の死を悟ってなお、お腹の子供を守ろうと叫んだ。

 

「エルサ!エルサァァァアアア!!」

 

 エルサの夫が真っ暗闇の中で妻の名を呼ぶが、真っ暗闇の中でどうすることもできず、すぐにグキリと嫌な音が響いてエルサの悲鳴が止まった。

 

 家の中は静まり返り、肉が引き千切られる濡れた音だけが響き始める。

 

 

 

 一方その頃、ウルフはケルンドの男たちと共に集会所で寝泊まりの準備をしていた。

 

 しかし、突然外に繋いでいた猟犬たちが吠え始めたかと思うと、鳥の鳴き声のような鋭い声が聞こえてきた。

 ウルフはすぐに異変が起こったことを確信し、そしてそれは熊の襲撃ではないかと思った。

 

 遺体は荼毘に付したので熊が取り返しにやって来ることはない、そもそも遺体を収容した時も熊はいなかったのだし、とっくに腹を満たして去ったのではないか──その予想が完全に外れたことに驚愕しつつも、ウルフはライフルを手に取り、周囲に武器を持てと命じて外に出た。

 

 射手たちがウルフに続いて外に出ると大急ぎで弾を装填し、他の男たちもそれぞれの得物を手にし、松明に火を灯した。

 

 ウルフは悲鳴がトリグベの家の方から聞こえてきていることを見て取ると、急いでそちらへ向かって走り出した。

 

 後に続く男たちの顔には困惑と恐怖の色が浮かんでいた。

 

 遺体を取り返しに来ないよう荼毘に付したにも関わらず、熊はまた村に現れ、死者を送る行事をしていた場所に襲いかかってきた。

 食い荒らした餌の残り香を嗅ぎつけてか、はたまた新たな餌を求めてか、人間の営みや感情など何ら気にも留めずにその場に踏み込んで猛威を振るう熊が不気味で、恐ろしかった。

 

 そしてトリグベの家に辿り着いた彼らが目にしたのは、意味不明な声を上げて雪の上を這いずり回る数人の男たちの姿だった。

 

 ウルフは彼らを助け起こさせ、一人に声をかけた。

 

「おい、何があった?」

 

 だが、その男は無表情のままうわ言を叫び続けるばかりで、ウルフを認識しているのかも怪しかった。

 

 やむなくウルフは男の頬に思い切り平手打ちを喰らわせた。

 

「しっかりしろ!何があったんだ!一体どうなっている?」

 

 男が黙り、その目がウルフを捉えると、顔に表情が戻る。

 それはたちまち歪み、震え始める。

 

「──熊が出たのか?」

 

 ウルフが問いかけると、男は激しく頷いた。

 

 そしてトリグベの家を指差し、震える声で言った。

 

「熊が──食ってる」

 

 ウルフと周囲の男たちは一斉にトリグベの家の方を振り向いた。

 

 その直後、何か固いものが砕けるような音が家の中から聞こえてきた。

 へし折るような乾いた音と、細かく砕いて混ぜ合わされているような湿った音が、続いて聞こえる。

 明らかに熊が骨を噛み砕いている音だ。

 

 ──熊は家の中にいる。

 

 居場所が分かった以上、やることは明白。

 熊を殺すか追い払うかして、まだ中にいるはずの村人たちを救出することだ。

 

 だが、家の中に踏み込めば、自分たちも今骨を噛み砕かれている者と同じ運命を辿るだろう。

 

 その恐怖が彼らの足を竦ませていた。

 

「う、ウルフさん、どうするんですか?」

 

 ライフルを持った男の一人が問いかけるが、ウルフは答えを出せなかった。

 

「火だ。火をつけるんだ」

 

 誰かがそう言ったが、そうすれば中に残っている者たちも焼け死んでしまう。

 仮に生存者が一人もいなかったとしても、遺体を損壊するような真似はできなかった。

 

 別の男が遠慮がちに提案する。

 

「て、鉄砲を一斉に撃ち込むのはどうだ?全員で撃てば一発くらい当たるんじゃ──」

「だが、生き残っている者がいるかもしれんのだぞ?」

 

 先程ウルフにどうするのかと問いかけてきた男が難色を示した。

 

 どうする──ウルフは葛藤した。

 

 たしかに家の中に踏み込むのは自殺行為で、熊を殺せる可能性があるとすれば盲撃ちくらいしかないが、それをやると生存者を射殺してしまうかもしれない。守るべき民を攻撃に巻き込んで殺すなど、騎士としてあるまじきことだった。

 

「どうすれば──」

 

 思わず弱音を吐いたウルフだが、ふと、最初に熊と遭遇した時のことを思い出した。

 

 たしかあの時は一斉射撃を命じて、それで熊は怒り狂ってこちらに突進してきた。

 

 ならば──

 

「ライフルで入り口を固めろ。一発空に撃って、それで驚いて飛び出してきたところを仕留める」

 

 すぐにウルフの指示に従い、六人の射手たちが配置についた。

 

「用意はいいか?」

 

 問いかけに射手たちが頷いたのを確認し、ウルフは空に向けて発砲した。

 

 素早く次弾を装填し、入り口に狙いを定めると、土が揺れるのが感じられた。

 

 山で聞いたのと同じ足音がしたかと思うと、扉を吹き飛ばして黒い巨獣が躍り出た。

 

 ウルフが発砲し、他の射手たちも続こうとしたが、獣はそれよりも速く家の軒下を駆け抜け、闇へと溶け込んでしまった。

 

 二人が獣の消えていった方向に撃ったが、何も起こらなかった。

 

 しばらく呆然と立ち尽くしていたウルフたちだったが、静寂が戻ってくると、松明を手にトリグベの家に足を踏み入れた。

 

 火に照らし出された家の中は凄惨だった。

 

 入り口付近に十人近くが折り重なって倒れており、居間にはあちこちに肉と骨の残骸が散らばり、血が床を覆っていた。

 

「おい、誰か生きているものはいるか?」

 

 込み上げてくる吐き気を堪えながらウルフが問いかけると、上から梁に掴まっていた数人の村人たちがそっと降りてきた。

 皆、放心状態なのか、虚ろな目をしていた。

 

 ウルフは彼らの保護を命じると、倒れている者たちの中にも生きている者がいないか、確かめにかかった。

 

 何人かがウルフに続いて家の中を捜索し、気絶していた三人の男と一人の老婆、そして瀕死の少年一人を発見した。

 

 彼らを連れてウルフたちは集会所へと戻った。

 

 そこにはトリグベの家から逃げてきていた三人が身を潜めていた。

 トリグベの妻とその幼い子供、そして木樵のオーロだった。

 

 彼らも無傷ではなく、トリグベの妻は背中を、オーロは右の太腿を切り裂かれ、幼子の頭には酷い咬み傷があった。

 

 ウルフはオーロにトリグベの家にいた者たちの名を尋ね、二十人いた村人のうち八人が殺害された事が判明した。

 

 そしてトリグベの妻が抱えていた幼子と救出された瀕死の少年はもう息をしておらず、犠牲者は十人となった。

 カミラとその息子を合わせれば十二人である。

 

 再び無力感が彼らに重くのしかかった。

 

 ライフルを七挺と六十人もの人数を揃えてもなお、熊を倒すことはできなかった。

 もはやここは熊の餌場と化している、このままここにいれば皆食い尽くされてしまう──そう思われた。

 

「退避だ」

 

 ウルフはそう言った。

 

 このままアッカに留まって更なる犠牲者を出すわけにはいかない。アッカの住民を引き連れてケルンドに戻る。

 そう決断したのだ。

 

 それは既に犠牲になった者たちの遺体を熊の餌として置いていくことを意味した。

 カルティアイネン家からの応援が到着して熊を討伐できたら、その後ゆっくり弔うから許してくれとウルフは祈る。

 

「皆荷物を纏めろ。すぐにここを出る」

 

 ウルフの指示に男たちは頷いた。

 

 そして渓流に沿ってアッカの家々を回り、村人たちを収容して村を出たのだった。

 

 

◇◇◇

 

 

 ウルフたちに連れられたケルンドの男たちとアッカの村人たちがケルンドに辿り着いたのは翌日の朝のことだった。

 

 ケルンドの村人たちは、熊を討伐して帰ってくるものと思っていた男たちが血の気が失せて疲れ切った表情で帰ってきたことに驚いたが、アッカの村人たちの姿を見て目を潤ませ、彼らを村の集会所へと案内して介抱した。

 

 手当てと滞在の準備で慌ただしくなった集会所に、一人の老人と一人の少女が現れる。

 

 ウルフは二人に気付くと、驚いて駆け寄った。

 

「父上!?なぜここに?」

 

 カルティアイネン家前当主にしてウルフの父親【ボリス】がそこにいた。

 

 ボリスはウルフの方を見やると、少し目を細めて言った。

 

「屋敷で報告を聞いてな。グスタフが主家に軍の出動を要請したのだが、それでは間に合わぬと思って来た。見たところ、その読みは当たったようだな」

「はい。村の者を集めて討伐に向かいましたが、歯が立たず──面目次第もございません」

 

 そう言ってウルフは頭を下げた。

 

「頭を下げるならわしにではなく民にであろう。それより状況を説明しろ」

「はい」

 

 ウルフは男たちを率いてアッカに向かってから村人を連れてここに戻ってくるまでの経緯を詳細に話した。

 

 それを聞いたボリスは顔を顰めて瞑目した。

 

「アッカの者たちは災難だったな」

 

 そう呟いて祈りの印を切ると、目を開けて言った。

 

「すぐに向かおう。案内しろ」

 

 ウルフは頷いてライフルを持ち、ボリスと共に集会所の入り口へと向かったが、一緒にいた少女も来ているのに気付いた。

 

「あの、父上、その子は──」

「イリヤだよ!忘れた?」

 

 ボリスよりも先に少女が答えて防寒着のフードを脱いだ。

 

 現れたのは短く纏められた赤毛。

 それは確かに現当主である長兄の娘【イリヤ】の特徴に違いなかった。

 しばらく見ないうちに大きくなったものだとウルフは思ったが、すぐにそれどころではないとかぶりを振った。

 

「イリヤお前、なんでこんなところに来てるんだ?危ないだろう」

「なんでも何も熊を狩りに来たんだよ。私、じいちゃんから狩りを教わってるの。もうこれまでに熊を三頭仕留めたんだから」

「は?お前、狩りを?」

 

 思わずボリスの方を見ると、彼は困った顔をして言った。

 

「十の頃から騎士になりたいと言い出してな。無理だと言ったら、じゃあ狩人になると言って聞かんのだ。だからわしが教えておる。少々向こう見ずだが、筋は良い子だ」

「はぁ──」

 

 良くも悪くも豪放磊落な父親に大丈夫だろうかという思いが頭をもたげるが、その実績を思えば反論もできない。

 若い頃は空賊と戦ってその頭を討ち取った英雄として崇拝されていたし、戦場に出なくなった後は狩りに精を出し、鹿から熊まで百頭以上倒してきたのだ。

 

「さ、行くぞ」

 

 ボリスに急かされ、ウルフは考えるのをやめて外に出た。

 

 ボリスとイリヤが壁に立てかけられていたライフルを取って背負うと、その側に座っていた白い猟犬が立ち上がってついてきた。

 

「カッルだよ。じいちゃんの六代目の相棒。頼りになるんだよ。じいちゃんは歴代最強だって」

 

 イリヤの紹介を受けてウルフは軽く手を振るが、カッルはそれを一瞥してすぐに顔を背けてしまった。

 

「つれないな」

「照れ屋なだけだよ。主人に似てね」

「うるさいぞ」

 

 三人はどこか和やかに話しながら雪道を歩いていったが、氷橋の側を渡り、アッカに足を踏み入れると、異様な空気に緊張が走った。

 

 どこか気怠げな雰囲気すら纏っていたカッルが耳をピンと立てて辺りを見回している。

 吠えていないことから熊はすぐ近くにいるわけではないのだろうが、それでも気配は感じ取れるらしい。

 

 ウルフは生唾を呑み込み、背中のライフルを確かめる。

 

「まず最初に襲われた家に案内しろ」

 

 ボリスの命令で三人はウォラフの家へと向かった。

 

 トリグベの家の前を通り過ぎ、集会所を経てウォラフの家が見えてきた。

 

「あの家です」

 

 ウルフが指差すと、ボリスとイリヤは躊躇いもなく近づいていき、扉をくぐった。

 慌ててウルフも後に続く。

 

 玄関から部屋の中に視線を巡らせたボリスは目を細め、寝室へと移動した。

 

 生々しい血痕が残る部屋を見てボリスはウルフに問うた。

 

「この家の妻が食われたのだな?」

「はい。そこの窓から裏の山に運び去られて──子供の方は放っておかれていましたが」

「うぅむ──」

 

 ボリスは更に渋面を深くして外に出た。

 

「おそらく奴は下流の方にいる。一軒ずつ調べるぞ」

 

 その指示で三人は村中の家を全て見て回った。

 

 ウルフにとって驚いたことに全ての家に熊が侵入した痕跡があった。

 

 蓄えられていた穀物や保存食が食い尽くされ、鶏小屋が壊されて血と羽が散乱し、扉は残らず破られて家具が破壊されていた。

 そして例外なく女物の衣類や寝具が引き裂かれていた。

 

「コイツ、女の味を覚えてる?」

 

 イリヤが強張った声で呟く。

 

 その隣のボリスも明らかな恐怖の色を浮かべていた。

 

「ああ。五十年狩りをやってきたが、こんな奴は初めてだ」

 

 そして二人は背負っていたライフルを下ろして構えた。

 

「外の足跡が新しくなってきている。まだ四、五時間ほどしか経っていない」

 

 そして三人は昨日の惨劇が起きたトリグベの家に向かった。

 

 入ってみると、入り口の遺体はそのままだったが、昨夜見た時はまだ原型を留めていたはずのエルサの遺体がなくなっていた。

 代わりにその場所には僅かな髪と骨片が散らばっているだけだった。

 

 イリヤの言う通り、熊は女の味を覚え、女の身体を食い漁っているのだとはっきり分かった。

 思えば他の家で女物の衣服が引き裂かれていたのも、熊が匂いを嗅いで女の身体を探し回り、見つからないことに苛立って暴れたからであろうと思われた。

 

「恐ろしい奴だ。絶対に生かしてはおけん」

 

 ボリスが重い声で言った。

 

 その直後、カッルが毛を逆立てて唸り声を上げた。

 

 外に出てみると、カッルは下流の方を向いて唸っている。

 

 その視線の先にあるのは渓流の対岸にある家──ネスキルの家だ。

 

 その家から不意に巨大な茶色い獣が現れる。

 

 カッルが遂に牙を剥き、吠え出した。

 

 獣はビクッと身体を震わせたかと思うと、一瞬こちらを見やり、そしてすぐに駆け出して森の中へと消えた。

 

 それを見たボリスが歯軋りする。

 

「不味いな。あの様子では明日にでも沢を渡りかねんぞ」

「それは──あの熊がケルンドに来るということですか?」

「そうだ。わしらを見て一旦は逃げたが、しばらくしたらまた下ってくる」

 

 ボリスはしばらく思案した後、引き上げを決めた。

 

「今日はもう日が傾いている。一旦ケルンドに戻り、明日奴を追う」

 

 その決定に従い、ウルフたちはケルンドへの道を急いで戻った。

 

 

 

 翌日。

 

 ボリスは自分一人でカッルだけを連れて山に入ると言い出した。

 

「今回の相手は危険過ぎる。イリヤ、お前はここで待て」

「じいちゃん!?そんな、一人でなんて──」

「駄目だ!ここにいろ。お前を連れたまま狩れる相手ではない」

 

 ボリスの尋常ならざる剣幕にイリヤは黙った。

 その顔は昨日と同様蒼白で切羽詰まっているのがありありと見てとれた。

 

 そしてボリスはやや表情を緩めてイリヤの肩に手を置いた。

 

「心配するな。日暮れまでには必ず戻る」

 

 それだけ言ってボリスはカッルと共に氷橋の側を渡り、山へと消えていった。

 

 残されたイリヤとウルフを静寂が包み込む。

 

「あんなじいちゃん、初めて見た」

 

 イリヤが呟く。

 

 それはウルフも同じだった。

 

 恐れ知らずで鳴らしたボリスがあそこまで血の気の引いた顔をしているのを見たのは、覚えている限りでは初めてだ。

 

 いくらベテランの騎士にして狩人といえども、あのような惨劇を見たら恐怖を覚えるのだろうか。

 

 きっとそうだ。

 あれは戦場とは種類の違う恐ろしさだと思う。

 

「でもなんかムカつくなー。私もうじいちゃんの足引っ張ったりしないし、こういう時こそ頼って欲しいのに」

 

 イリヤが頬を膨らませるが、ウルフはそれを窘める。

 

「馬鹿を言うな。お前はまだ十三かそこらだろう。父上の言う通り、あの熊は尋常じゃない。お前が行ってもどうにもならない」

「私もう十六なんだけど?それに熊だってもう一発で仕留められるし」

 

 反論するイリヤを見て、ウルフはボリスがイリヤを置いていった理由を察した。

 

 彼女の向こう見ずさは「少々」どころではない。

 もちろん才能はあって、熊を仕留めた実績も本当だろうが、それで得意になって相手を見くびっている。

 

 そして熊相手にそれは命取りだと、ウルフはアッカで思い知っていた。

 

 だが、それを言ったところでイリヤは納得しないだろう。子供というのはそういうものだ。

 

「だからこそ、父上はお前にこの村の守りについていて欲しいんじゃないか?もし父上が山に行っている間にあの熊が村にやって来たら、村の誰にも、俺にも倒せない。だが、熊を一発で仕留められるお前なら倒して村を守れる。父上はそう考えたんじゃないか?」

 

 ウルフの説得にイリヤは半信半疑なようだったが、文句を言うのはやめた。

 

 そのまま二人は無言のまま氷橋の近くでボリスの帰りを待ったが、日が傾いて雪が赤みを帯び始めても彼は戻ってこなかった。

 

「──遅い。やっぱり何かあったんじゃないの」

 

 イリヤが懐中時計を見ながら苛立っている。

 

「父上が言っていたのは日暮れまでだ。まだ時間はあるだろう」

 

 ウルフはそう言ってイリヤを宥めようとしたが、イリヤはかぶりを振った。

 

「ここじゃどうだか知らないけど、狩人は日暮れまでに帰ると言ったら、その二時間前までには帰ってくるものなの。今までだってこのくらいの時間にはとっくに帰ってきてたのに」

 

 そう言ってイリヤが山の方を見上げた直後。

 

 微かな銃声が響いた。

 

 それを聞いたイリヤは目を見開き、次の瞬間走り出していた。

 

「おい!イリヤ!待て!どこに行く!?」

 

 ウルフは驚いてイリヤを制止しようとするが、イリヤは聞かずに未完成の氷橋を走って渡り、山の方へと駆けていく。

 

 一人で行かせるわけにもいかず、ウルフは後を追った。

 

 イリヤは信じられないスピードで森の中を走り抜け、ウルフは見失わないために魔法による肉体強化を使わなければならなかった。

 

 そのまま三キロほど移動したかと思った時、ようやくイリヤは立ち止まった。

 

 追いついたウルフはイリヤの視線の先を見て息を呑む。

 

 雪が赤く染まっていた。

 

 その中心には見覚えのある毛皮の防寒着と──

 

「ちちう──」

「違う」

 

 イリヤが抑揚のない声で呟く。

 

「じいちゃんは私が何年経っても追いつける気がしない凄腕の狩人なんだ。どんなに素早い鹿も、賢い狼も、でかい熊も、一発で仕留めてきたんだ。そんなじいちゃんが外すわけない」

 

 そう言いながら、イリヤはゆらゆらと血溜まりに近づいていく。

 

「だからさ──嘘、でしょう?ねぇ、嘘だって言ってよ」

 

 血溜まりの中心に転がるボリスの亡骸にイリヤは縋りつく。

 

「ねぇ!冗談キツいよ!そういうのやめてよ!ねぇ!さっさと──さっさと起きてよぉぉぉ!!」

 

 溢れ出る涙を拭うこともできずに鼻声で呼びかけ続けるイリヤだったが、ふと微かな声が聞こえてそちらを振り返る。

 

 少し、彷徨った視線が倒木の近くで止まる。

 そこにカッルが横たわっていた。

 

 白い身体の殆どの部分が紅に染まっていて、一目で重傷だと分かる。

 

「カッル!」

 

 思わず駆け寄ったイリヤだったが、一目見てカッルはもはや助からないと分かってしまう。

 

 膝をついたイリヤの目から更に大粒の涙が溢れ出した。

 

「あ、ああ──なんで──お前──最強だったんじゃ──ないのかよ」

 

 カッルの身体には深い傷がいくつも刻まれ、後脚が左右ともなくなっていた。

 

 猟犬として獲物を探し、見つけたなら吠えて教え、獲物が逃げれば追いかけ、脚に噛みついて足止めする──その役目を全うしようとしたのだろう。

 

 そして力及ばず、巨大な爪と牙にズタズタに引き裂かれたのだ。

 

 役目を果たせなくて申し訳ないという風にカッルが弱々しく鳴く。

 

 かろうじて無事なままの頭を膝に乗せてやり、両手で包み込んでやると、カッルは安心したかのようにふーっと息を吐いて──それっきり動かなくなった。

 

 イリヤは息絶えたカッルの頭をかき抱き、嗚咽を漏らし始める。

 

 ウルフはそんなイリヤにかける言葉が見つからなかった。

 彼も突然突きつけられた父親の死という現実に頭が追いついていなかったのだ。

 

 言葉が出てこないまま、ウルフは周囲を見渡し、いつの間にか夕闇が迫っているのに気付いた。

 

 一刻も早く戻らなければ、夜の山に取り残されてしまう。

 そうなれば、間違いなく自分もイリヤも熊によって殺される。

 

 イリヤの身体を熊が貪り喰らう様を想像したウルフはそれだけはあってはならないと気を奮い立たせる。

 

 カッルの亡骸の側で泣き続けているイリヤの方へと歩み寄ると、防寒着の袖を引っ張って怒鳴った。

 

「泣いてる場合じゃない!すぐにここを離れるぞ」

 

 だがイリヤは駄々っ子のように反発する。

 

「嫌!じいちゃんとカッルを置いていけるわけないでしょ!」

「いいから来るんだ!!」

 

 やむなくウルフは力ずくでイリヤを引き離し、暴れる彼女を担いで走り出した。

 

 イリヤは降ろしてと泣き叫んでいたが、血溜まりが見えなくなると徐々に静かになった。

 

 嗚咽を漏らすイリヤにウルフは何とか慰めの言葉をかけようとした。

 

「お前まで熊に襲われて喰われたんじゃ父上も浮かばれない。ここは生き延びるんだ。じきに軍が応援に来てくれる。それで──」

「私がやる」

 

 ウルフが言い終わらないうちにイリヤが冷たい声で言った。

 

「許さない。あの化け物は絶対に許さない。私が、この手で──」

 

 そしてイリヤは担がれたまま目を見開き、身体を外らして背後の山を睨みつける。

 

 

「絶対に殺してやる────ッッッ!!」

 

 

 イリヤの絶叫が山にこだました。

 

 

◇◇◇

 

 

「熊だと?」

 

 セルカから報告を受けた俺は思わず聞き返した。

 

「ええ。北部のアッカという小さな村で女性が襲われたそうよ。その隣のケルンドの駐在騎士からカルティアイネンに応援要請が来て、そのカルティアイネンから軍の派遣の要請が来ているわね」

「熊一匹に軍まで動かすとか大袈裟過ぎないか?猟師にでも頼めばいいだろうに」

 

 そう言うと、セルカはかぶりを振る。

 

「そうしたけれど、倒せなかったみたいよ。駐在騎士と合わせて七人が同時に撃ったけど、蹴散らされたって。まあ、駐在騎士ともう一人以外は銃が不発だったらしいけれど。とにかく、その村に熊を倒せる者はいないってことよ」

「マジかよ」

 

 俺は溜息を吐いた。

 

 軍は多くの部隊がまだ錬成中でおいそれとは動かせない。

 

 もちろん動ける部隊もあるが、それらは近頃やたらと増えた空賊の襲撃に対処するため沿岸部に張り付けたままだ。

 彼らを動かせば即応に支障を来しかねない。

 

 俺が動いて穴を埋めるか?

 だが俺にもやることがあるし、この屋敷から長くは離れられない──だったら。

 

「分かった。俺が行こう」

 

 俺がアッカに行ってさっさとその熊を片付ける。

 そして後処理は任せてすぐに戻ってくる。

 

 そうするのが一番費用も手間もかからないだろう。

 それに鍛錬にもちょうどいい。

 

「そうと決まればすぐ出発だ。セルカ、一緒に来い」

「はいな」

 

 既に日が傾いていたが、俺はすぐに飛行船を用意させた。

 

 冒険の時に使った軽貨物船──今では燃費のいいプライベートヨットだ。

 

 それにセルカと二人だけで乗り込んで、俺はアッカに向けて出発した。


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