俺は天空国家の悪徳領主!   作:鈴名ひまり

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狩人の祈り

 最初に撃ったのはまだ若い牝鹿だった。

 

 夕方にねぐらの山から餌場の山へと移動するところを待ち伏せて、見事に心臓を撃ち抜いて仕留めた。

 

 その時の牝鹿の目に最後の最後まで抗って生きようとする意志を感じ取って、思わず膝をついて祈りの印を切ったのを覚えている。

 

 それからしばらく鹿ばかり撃っていたが、ある時家畜を襲った狼の群れを駆除することになり、猟犬を従えた狩人たちと行動を共にした。

 

 最終的に狩人たちが猟犬と連携して群れのリーダーを仕留め、自分は特に何もできずに終わってしまった。

 

 生来負けん気の強い性格故に、このことはかなり悔しかった。

 だからそれ以降、猟犬を連れて狩りをするようになった。

 

 すぐに猟犬は欠かせない相棒となった。

 初めて熊を仕留めた時も、猟犬の足止めがなければ逃げられていたし、吠え声と牙で気を逸らしてくれなければ落ち着いて急所を狙えなかった。

 

 犬というのは実にいいものだ。

 鼻が利き、耳も良く、足も速いのはもちろん、過酷な道のりにも凶暴な獣にも臆することなく立ち向かい、それでいて文句も愚痴も罵倒も垂れない。

 

 人間だとこうはいかない。

 隙あらば人の地位や手柄を掠め取ろうとする者、大した能もないくせに口だけは達者で態度が大きい者、綺麗事を嘯いて他者を非難するくせに自分が同じことをされると被害者ぶる者──全くもって美しくない。

 

 だから騎士の務めとして軍に入ってからはひたすらに上を目指して手柄を積み上げた。

 美しくない者の下で働くなど我慢ならなかったからだ。

 

 その過程で美しいと思える者にも出会えたが、やはりそうでない者の方が多かった。

 そして、陪臣騎士家の中でもさほど格が高いわけでもない家の出では上がれる高さにも限りがあった。

 

 その限りに達して程なく、負傷を理由に軍を辞めた。

 

 美しい空と海を黒煙と金属片と聞くに堪えない罵詈雑言で汚す殺し合いはもううんざりだった。

 軍隊生活で荒んだ心を癒してくれたのは、雄大な山野とそこに暮らす美しい獣たち、そして相棒の犬だけだった。

 

 その頃にはもう連れ合いもいたし、子供だって生まれていたが、自分の全てを捧げる対象ではなかった。

 

 仕事の他は山に入って狩りばかりで、父親らしいことと言ったら、狩ってきた獣の肉を振る舞うくらいしかせず、子供たちには申し訳ないことをしたと思う。

 

 実際、後を継いだ長男はずっとそのことを根に持っているようで、孫娘のイリヤが生まれた時も知らせてはこなかった。

 それどころか、彼女が自分に近づくことを禁じた。

 

 だが、子供が親に反発するなら、その子供の子もまた自分の親に反発するのはある種の必然だった。

 

 家人や民たちから祖父の武勇を聞いたイリヤは、自分も騎士になりたいと言って弟子入りを求めて押しかけてきた。

 

 冗談言うなと思った。

 人間の戦は嫌いだ。怒り、憎しみ、蔑み、虚言妄言、差別区別──余計なものが混じり過ぎてもはや醜悪な混沌と化している。

 

 だが、そんなことを幼子に言っても分かるまいと思い、女では騎士になれないと言った。

 

 するとイリヤはじゃあ狩人になると言った。

 

 そして事あるごとにボリスの所へ訪れ、獣や山や森について質問攻めにし、猟犬を懐柔し、狩りに勝手についてきた。

 

 とうとうボリスは根負けし、狩りを教えてやることにした。

 

 本物の狩りの過酷さを知ればすぐに嫌になって逃げ出すだろうと思っていたが、その予想に反してイリヤはのめり込んだ。

 

 いつしかボリスも本気で教えることが楽しくなっていた。

 

 そして五代目の猟犬が老いて引退し、六代目のカッルがやって来ると、かつてないほど獲物がよく獲れるようになった。

 

 ボリス自身は老いてあちこち動きにくくなり、目が霞み始めていたが、それを補って余りあるほどにカッルは有能で、イリヤは狩人の才能を開花させつつあった。

 

 これまでなら諦めるしかなかった足の速い獲物にもカッルは難なく追いつき、イリヤは若くしなやかな健脚でボリスより遥かに速く山を駆け抜け、正確な射撃で獲物の急所を撃ち抜いた。

 

 もはや自分の役目が師匠ではなく、彼らが逸って突っ走った時に止める手綱になったことをボリスは悟った。

 

 そろそろ銃を置く時が近づいているのかもしれない。

 だが、その前にもう一度、自分の狩人としての生涯のトリを飾る大物を仕留めたかった。

 

 だから今までに見たことのない凶悪な熊を見た時、震えたのは恐怖だけが理由ではなかった。

 

 武者震いだった。

 

 この熊は絶対に殺さなくてはならない。そして殺すのは狩りに生涯を捧げた自分でなくてはならない。

 

 現実問題として女の味を覚えた熊にイリヤを近づけるわけにはいかなかったが、そういう功名心が湧き上がっていたのだ。

 

 そういう雑念が眼を曇らせ、時として命取りになることは知っていたはずなのに。

 

 

 

 目の前に巨大な鉤爪が迫る。

 

 もう次の瞬間には皮を破り、肉を切り裂き、骨を砕いて、命を刈り取るだろう。

 

 ──終わりだ。

 これが自分の迎える結末。数えるのも面倒になるほど多くの敵と獲物の命を奪い喰らってきた。そして今、自分の番がやって来たのだ。

 それが空に山に森に──生涯殺すか死ぬかの戦場に身を置き続けた者の運命。

 

 別に悔いはない。好きなようにしてきたし、年月としては十分長く生きた。

 

 それでも──あともう少し、あともう少しだけ、イリヤと狩りをしたかった。

 

 ──そうだ、イリヤに伝えなければ。

 

 彼奴はただの熊ではない。

 

 老獪な牡鹿や、狡猾な群狼の頭相手にも一度たりとも不覚を取ったことはなかったカッルが匂いを正確に追えずに不意打ちを喰らい、傷の一つも負わせられずに殺された。

 

 急所に三発撃ち込んだはずの弾は一滴の血も流させることはなかった。

 

 誰か──誰かあの子に伝えてくれ。

 

 決して復讐心に任せて彼奴に挑むなと。

 

 どうか──あの子を──

 

 願いを口にする前に鮮血が飛び散り、ボリスの意識は途絶えた。

 

 

◇◇◇

 

 

 ファイアブランド領は広さだけなら伯爵領ほどはある。

 

 にも関わらずロードリックの代以来陞爵がないのは、目立った功績がないのもあるが、何より住める場所が少なく、伯爵家規模と認められるほどの人口を有していないからだ。

 

 北部の山岳地帯はただでさえ険しい地形に鬱蒼とした森がどこまでも続き、気候は寒冷でしかも荒れやすい。

 

 開墾したところで作物はロクに育たず、希少な資源が産出するわけでもなく、旨味はまるでない。

 誰もがその地に毛皮と木材の産地以外の価値を見出していなかった。

 

 だからこそ、人間と野生動物の領域は殆ど重なることなく、両者は平和的に棲み分けできていたのだろう。

 

 だが、数少ない重なった領域に折悪く例年より早く冬が来た。

 それによって冬籠りのための蓄えを得られなかった熊が食べ物を求めて人里に下りてきた──ってところか。

 

 カルティアイネン家の屋敷に降り立った俺は、現当主の【グスタフ】の出迎えを受けた。

 

「これはエステル様、直々にお越し頂けるとは恐れ入ります」

 

 へつらうように頭を下げるグスタフだが、その顔には冷や汗が浮かんでいた。

 

 無理もない。

 今この領地に粛清の嵐を吹かせている張本人が現れたとあっては気が気ではないだろう。

 

「挨拶はいい。それより熊害の状況はどうなっている?」

「は、はい。一昨日夜再度の襲撃があり、犠牲者は十人を超えたとの報告があったと聞いております。ですが、現在我が父ボリスが討伐のためアッカに出向いております。父は生粋の狩人故、すぐに朗報をお届けできましょう」

 

 自分の管轄している場所で立て続けに十人以上も死んだのに、どこか他人事のような被害報告。軍の派遣要請までしておいて、俺を前にするや根拠のない楽観論。聞いていて苛々する。

 息子がこうでは生粋の狩人とかいう父親も能力に疑問符が付くな。

 

「そうか。だが、私も明日現地に向かう。手早くそして()()()片付けたいからな」

「さ、左様でございますか。でしたら今夜は我が家にてお過ごしください。手狭ではありますが、食事と寝床の用意をしてございます」

「結構。では案内してもらおう」

 

 グスタフに通された屋敷は質素な木造の平屋だった。

 

 それだけなら見るべき所もないが、あちこちに飾られた骨や剥製が目を引く。

 

 察したグスタフが教えてくる。

 

「全て父が仕留めた獲物です。この頭骨の鹿は、その脚の速さから誰も仕留められなかったのを一週間に及ぶ追跡の末捕らえたものと聞いております」

 

 自慢げだが、どこか蔑んでいるような感じもする複雑な表情。

 

 どうやらグスタフは父のことを快く思ってはいないらしい。

 

 それはグスタフのみならず、彼の妻子も同じようだった。

 

 夕食の席でそれとなく訊いてみたが、どうにも腫れ物に触るような雰囲気が感じられた。

 

 結局俺もそれ以上の追及はすることなく、出された肉料理に舌鼓を打った。

 

 

◇◇◇

 

 

 ケルンドの村は静まり返っていた。

 

 アッカやケルンドでもその名が知られていたボリスが──優れた騎士にして百戦錬磨の狩人が熊に殺された。その知らせに皆が茫然としていた。

 

 そして広がるのは更なる恐怖である。

 

 もはやあの化け物熊に対抗できる者などいない。出動を要請した軍隊が駆けつけてくるまでの数日間、いつ熊が襲ってくるかもしれないこの村で籠城しなければならないのか──

 ケルンドからも逃げ出してもっと下流の街まで避難した方が良いのではないか──

 

 どちらの村も男たちの半数近くが出稼ぎに行っており、女子供や老人しかいない家が多かった。

 そんな状態で残った男たちが頼りにならないと来ている。

 

 何人かの村人は慌ただしく家に戻って逃げ支度を始めた。

 次の夜明けと共にケルンドを出るために。

 

 ウルフは彼らを止めなかった。

 いつあの熊が襲ってくるか分からない以上、足手纏いになる女子供や老人はさっさと避難させた方が得策だと考えたのだ。

 

 自分たちにできるのは軍隊の到着までここで待つことだけ。

 それと明日陽が昇ったらボリスの遺体を回収しなければならない。

 

 人手を集めなければ──

 

 ケルンドの男たちを呼び集めて今後の方針を話し合うウルフをイリヤは虚ろな目で見ていた。

 

 その胸中に渦巻くのは膨大な疑問と怒りである。

 

 ──なぜボリスとカッルは死んだのか。

 

 アッカで見た熊は確かに大きかった。のみならず、人間の無力さを理解し、気が大きくなって大胆な戦い方もできただろう。

 そしてボリスの方は老いて目は霞み始め、足腰も鈍っていた。

 

 だが、その程度でボリスとカッルを返り討ちにできるはずはない。

 

 ボリスは雪の中でも疲れにくい歩法を編み出して若いイリヤに追従するほどの健脚を維持していたし、イリヤより遠くから正確に的を撃ち抜く射撃の腕前も健在だった。

 

 そしてカッルは複雑に入り乱れた止め足も難なく見破り、不意打ちなど一度たりとも許さなかった。

 

 その二人が敗れるということは、あの熊が隠密と知略で優っていたということを意味する。

 

 普通ならそんなレベルの賢さを持つ獣は人里になど寄りつかないものだ。

 

 それがなぜ村に何度も襲来し、人を喰い殺し、手の付けられない化け物と化したのか──その答えは村人たちを見ていて分かった。

 

 コイツらが対応を間違えたせいだ。

 

 最初に果実が食われた家で待ち伏せた時、功名心に逸って急所を外した挙句取り逃がし、そのまま逃げていったと勝手に思い込んで追跡をやめたアッカの村人。

 

 熊の討伐に行くというのに銃の整備もロクにせずに不発だらけにしてしまったケルンドの猟銃持ち共。

 

 おかげで熊は人間を侮ると共に、相対する術も急速に学習していったのだ。

 

 賢い獣は数少ない経験からでも成功要因を抽出し、あっという間に知恵や技術としてしまう。

 

 村人たちを蹴散らし、追跡を撒いて確立した知恵と技術がボリスとカッルの命を奪った。

 

 二人はこの村人たちに殺されたも同じだ。

 

 イリヤの怒りは、畑を耕してひっそりと生きてきた農夫でしかない村人たちには酷で理不尽なものではあったが、そうとでも思わなければ気持ちのやり場がなかった。

 

 そんなイリヤの内心を余所に、ウルフはすっかり意気消沈した村人たちを励ますのに腐心していた。

 

 あと一度。あと一度だけ、ボリスの遺体回収のために一緒に山に行ってくれたら、後はここで軍の来援を待つ。

 軍は必ず来る。新領主のエステルは年若いながら名君と聞く。その彼女が十二人もの死人が出たと聞いて放っておくはずはない。

 

 そう言葉を並べ立てるウルフだが、途中でイリヤの一言がそれを遮った。

 

「試し撃ち」

 

 一斉に視線がイリヤへと集まる。

 

 だが、彼女の言葉の意味するところを測りかねて、村人たちは沈黙したままだった。

 

「イリヤ、それはどういう──」

「今すぐこの村にある銃全部持ってきて!試し撃ちするの!」

 

 問いかけるウルフに対して食い気味に叫ぶイリヤ。

 

 その剣幕に押されてウルフは村人たちに銃を持ってこさせた。

 

 最初にウルフが撃ち、猟犬を連れていた二人のライフル所持者が続いた。

 

 乾いた発砲音が夜空に響き、硝煙の匂いが漂う。

 

 村人たちの表情が確かに和らいでいくのがウルフには分かった。

 

 この音と匂いは熊に対する威嚇としても効果的だろうという安心感を自身も感じる。

 

 そして四人目のライフル所持者が引き金を引いた。

 

 カチ、と引き金と撃鉄の金属音が発せられたが──それっきり。

 

「もう一度撃て」

 

 ウルフの命令で再び引き金が引かれるが、結果は同じだった。

 

 またしても不発である。

 

 その場に不穏な空気が漂い始める。

 

 イリヤが近づき、ライフルを取り上げて地面に放り捨てた。

 

「次」

 

 有無を言わせない口調で指示を出すイリヤに慌てて五人目が応えた。

 

 再び発射音が響き渡り、辛うじて空気は持ち直した。

 

 そのまま試射は続けられ、ライフルから散弾銃まで今ケルンドにある全ての銃が動作確認を受けた。

 

 結果は──半分が不発だった。そこには熊の討伐に動員された七挺のライフルのうちの二挺も含まれていた。

 

「──銃の整備ちゃんとやったの?」

 

 イリヤが蔑みの込もった目で不発銃の所持者たちを睨みつける。

 

「は、はい。一昨日確かに手入れしました」

 

 一人のライフル所持者が弁明したが、それがイリヤの神経を逆撫でした。

 

「その結果がこれ!?それじゃもう殆どスクラップだよ!そんなんでよくあんなのに挑もうと思ったね!おかげであの熊は人間への畏れを完全になくした。そのせいでじいちゃんが──」

「やめろイリヤ」

 

 聞くに堪えずウルフはイリヤの肩を掴んで制止した。

 

「放して叔父さん。この人たち──」

「今それをしてどうなるんだ!?」

 

 怒鳴りつけると、イリヤは黙った。

 

「確かにこの結果を見ればお前の怒りは尤もだ。だが、今彼らを責めたって問題は解決しない。今やるべきは、今ある戦力でこの村を守る方法を考えることじゃないのか。お前が父上と一緒にここに来てくれたのは何のためだ?熊を狩って、村の民を守るためだろう。なら、そのために何をするべきかをこそ考えるべきだ。父上が生きていたら、そうするはずだ。違うか?」

 

 そんなこと偉そうに言えた義理ではないのは百も承知だったが、誰かが言わなければいけないと思った。

 そしてイリヤが辛うじて聞く耳を持ってくれそうなのは親族であり、ボリスを喪った悲しみを理解できる自分だけだった。

 

 能動的に動いて熊を狩れるボリスがいなくなった今、残った者たちで力を合わせて軍の来援まで持ち堪えなくてはならないのに、人間関係の不和など起こすわけにはいかなかった。

 

 それにボリスには及ばずともイリヤとて熊を仕留めた経験のある狩人。その知識と知恵は村の防衛のために是非とも役立ててもらいたい。

 

 そう思って、正論で諭す嫌われ役を買って出た。

 逆上した女性に正論など言っても無駄だと言うのは経験で知っていたので、殆ど賭けのようなものだったが、どうやらイリヤは頭を冷やしてくれたらしく、か細い鼻声で謝罪した。

 

「──ごめんなさい」

「分かってくれたならいい。これからどうする?どうすればいい?」

 

 ウルフの問いかけに、イリヤは溢れ出た涙を拭って答える。

 

「明日夜が明けたらあの作りかけの氷橋を完成させて。さっきの銃声であの熊も一日か二日は警戒して寄ってこないはずだから、その間に工事を済ませるの」

「ち、ちょっと待ってください。氷橋を完成させてしまったら──その上を熊が渡って来ませんか?」

 

 村人の一人が不安げに問いかけるが、イリヤはかぶりを振る。

 

「むしろ好都合だよ。渡ってきた所を待ち伏せできるでしょ?」

「──なるほど」

 

 イリヤの答えに村人の顔が明るくなる。

 

「それに来なかったとしても兵隊と馬が渡れるようにはしておいた方がいいから」

「そ、そうですね!分かりました」

「それと銃は全部一旦私に預けて。今夜中に私が点検する」

 

 すぐに不発だったものも含めて全ての銃が集会所に集められた。

 

 イリヤはそれらを一つ一つ確認し、時には分解して的確に整備調整を施していく。

 弾薬も明らかに劣化しているものを見分けて取り除き、まとめて廃棄袋に放り込んだ。

 

 その手際の良さに村人たちは見入っていた。

 

 彼らの中でイリヤに対する評価が生意気で煩い小娘から頼れる狩人へと変わっていくのが分かって、ウルフは安堵した。

 

 東の空が白み始めた頃に再度の試射が行われ、今度は不発の銃は三分の一ほどに減っていた。

 ただ、不発だった二挺のライフルのうち一挺は遂に機能を回復せず、廃銃と判断された。

 

 それでも一挺使えるようになっただけマシだと切り換えて、イリヤは一旦ウルフの家で眠りについた。

 

 入れ違いに動き出すのはウルフ率いる村の男たちである。

 

 銃を持った射手たちの護衛を受けながら枝を敷き詰め、雪を被せて踏み固めた。

 

 工事が一段落し、あとは一晩待つだけというタイミングで一人の村人が知らせを持ってきた。

 

 その内容は領主エステルがカルティアイネン家からの応援を引き連れてケルンドに到着したというものだった。

 

 

 

 ウルフは目の前の光景が信じられなかった。

 

 やって来たのは軍ではなく、ファイアブランド領の現領主【エステル・フォウ・ファイアブランド】だった。 

 

 彼女のことを直接見たことはなかったが、その噂はよく聞いていた。

 

 曰く十二歳の時に冒険の旅に出て財宝を発見した。

 曰く冒険から帰って来た直後に港を占拠していた空賊を殆ど一人で皆殺しにした。

 曰く攻め込んできたオフリー伯爵家の艦隊相手に一番槍を付け、少なくとも二隻の飛行戦艦を一人で撃沈した。

 曰くオフリー伯爵家の罪状を暴き、数多の妨害を全て跳ね除けて王妃様に直接証拠を届けてオフリー伯爵家を取り潰しに追い込んだ。

 曰く冒険で得た富を全て使って港や道路の拡充、治水工事に架橋、電力網の構築や学校の設立といった社会インフラの整備を推し進めている。

 曰くファイアブランド領の富を狙って攻め寄せてくる空賊や、阿漕な商売で荒稼ぎしようとする犯罪組織、自身の進める事業や投資に抵抗したり、資金の一部を不正に掠め取ろうとする輩を片っ端から捕らえては地獄の強制労働に叩き込んでいる。

 

 聞いた限りでは果断にして苛烈な改革者であり、領民たちの希望の星という感じだったが、正直半信半疑だった。

 上げた戦果はまるで現実味がなかったし、推し進めているという公共事業もケルンドやアッカにはまだ及んでいなかったのだから。

 

 だが、いざ本物を前にすると、それら全てが事実だと直感で分かった。

 

 すぐにウルフは跪き、最上級の敬礼で彼女を迎えた。

 

「お初にお目にかかります。ケルンドの駐在騎士ウルフ・カルティアイネンでございます」

「お前が駐在騎士か。グスタフからはアッカに熊の討伐に出向いたと聞いているが?」

 

 なぜここにいるのかと問うてくるエステルに対してウルフは更に頭を深く下げた。

 

「はっ、三日前ケルンドの村民から三十六名を選抜し、アッカに向かいましたが、山狩りは失敗致しました。のみならず、最初の犠牲者二人の葬儀の場への闖入を許し、十名の死者が出ました。アッカには女子供老人が多く、彼らの安全を守りきれないと判断し、一昨日この村に退避するに至りました。申し訳ございません。全て私の責任です」

 

 無能と罵倒されることを覚悟していたが、意外にもエステルは落ち着いた様子だった。

 

「そうか。賢明な判断だな」

 

 彼女の言葉にウルフは思わず顔を上げた。

 まさか褒め言葉を言われるとは思っていなかった。

 

 そしてエステルの顔を見たウルフは戦慄した。

 

 その目はゾッとするほど冷たく、どこまでも昏かった。

 そこに渦巻いているのは底知れない怒りだ。

 

 それは周囲の村人たちにも伝わったようで、皆が皆言葉を発するどころか息をすることすら憚っている。

 ある意味熊に匹敵するその威圧感を前にウルフは何も言えなかった。

 

 そしてふと気付いたエステルが問いかけてくる。

 

「ところでボリスはどこにいる?ここに熊の討伐に来ているはずだが?」

「は、父は──」

「死にました」

 

 言い澱むウルフを遮って代わりに答えたのはイリヤだった。

 

 彼女の方を振り向いたエステルが少し目を見開く。

 

「お前は──昨日聞いたグスタフの娘か?」

「はい。イリヤといいます」

「ではイリヤ、ボリスが死んだとはどういうことだ?」

「昨日の朝、猟犬を連れて単身熊の討伐に向かいました。ですが失敗し、返り討ちに遭いました。夕方に私と叔父が確認しています」

 

 そしてイリヤはエステルの前で片膝をついて頭を下げる。

 

「エステル様、お願いがあります。どうか、どうかあの怪物の駆逐に力をお貸しください!」

「やめんかイリヤ!」

 

 ウルフが制止するが、イリヤは止まらない。

 

「私に作戦があります!どうか!お願いします!」

 

 エステルは先程よりも大きく目を見開き、イリヤに問うた。

 

「面白いな。その作戦どういうのか聞かせてくれよ」

「陽動作戦です。ケルンドとアッカの男衆とカルティアイネン家からの応援、そしてエステル様でここにある全ての銃を持って、アッカから東の斜面に入ってもらいます。大勢の人間と銃が山に入れば熊は察知して逃げていきます。それを逆に利用して奴を追い込み、尾根の手前で私が待ち伏せ、仕留めます」

 

 イリヤの作戦を聞いたエステルは首を傾げる。

 

「奴が逃げていく先が分かると?」

「はい。私は祖父と共に五年間狩りをして来ました。山の獣の習性は知っています。地形と風を見れば、奴の通りたがる場所は読めます」

「なるほど」

 

 エステルは納得したようだったが、他はそうはいかないようだった。

 

「でも、陽動といってもそう上手くいくものですかね?俺たちが最初に山に入った時、あの熊は俺たちに向かってきましたが──」

「それは食べ残しをそこに埋めてたからだよ。食べ物を奪われるのは獣にとって命に関わることだからね。それがなければいきなり戦いを挑んできたりはしないよ」

「ですがイリヤさん、追い詰められたとして、一人であの熊を仕留められるんですか?」

「そうだぞイリヤ。危険過ぎる!父上でもできなかったんだぞ?」

「それは── 信じてもらうしかない。他にできる人はいないでしょ?」

 

 村人たちとウルフの追及にやや言葉を詰まらせるイリヤだったが、エステルがそれを遮った。

 

「私が一緒に行こう」

「「「「「えっ?」」」」」

 

 その場にいた全員が静まり返り、一斉にエステルの方を見る。

 

「熊を撃つところを見たいからな。もしイリヤがしくじったら私が代わりにやる。陽動の方にはセルカをつける。これでいいだろう」

 

 彼女の提案にウルフは慌てた。

 

「お、お待ちください!エステル様!危険過ぎます!」

「そうです!」

 

 ついさっきまで意見が対立していたウルフとイリヤが一緒になって反対する様子が滑稽だったのか、エステルはフッと笑った。

 

「見くびらないでもらおうか。これでも熊よりヤバいモンスターと戦ったことだってある。任せろ」

「そう言われましても、山での獣相手の狩りはモンスターを相手にするのとは違うんです。狩りは戦いじゃなくて──」

「隠れんぼ、だろ?」

 

 言い当てられて、イリヤは目を見開く。

 

「意外か?知ってて」

「いえ、そんなことは──」

「なら決まりだ」

 

 エステルの鶴の一声でイリヤの考案した作戦は実施が決定された。

 

 

◇◇◇

 

 

 なかなかどうして、面白いことになってきた。

 

 慌ただしく準備に走り回る男たちを余所に、俺は優雅に出された白湯を飲みながら一息つく。

 

 グスタフが急いで集めてきた五十人近くの応援はカルティアイネン家の屋敷がある街と付近の村から呼び集められた烏合の衆に過ぎなかった。

 

 こんなの何人いたところで役に立ちそうもない、隙を見て俺とセルカだけで山に入って熊を探すかと思っていたら、思わぬ逸材がいた。

 

 小柄で幼く見えるが、相当鍛えられているのが分かる身体つき、領主相手にも物怖じせずに要求を伝える度胸、そして──主君たる領主を村人たちごと囮にしてでも自分の手で仇を討ちたいという強烈な復讐心。

 

 イリヤには俺と似たものを感じた。

 だから彼女の作戦に乗ってやることにした。

 彼女の復讐がどんな結末を迎えるかこの目で見届けてやる。

 それに万が一にも彼女が祖父と同じように返り討ちにされたら寝覚めが悪い。

 

 作戦の実施は氷橋が完成する明朝と決まった。

 

 日が昇るのを待ってから陽動部隊が氷橋を渡ってアッカに入り、東側の山を登る。

 俺とイリヤは山裾の所で陽動部隊と別れ、渓流の上流の方へ向かい、そこから連なる丘陵を越えて尾根の前に出る。

 あとは俺の空間把握で逃げてきた熊を見つけ出し、必中距離まで近づいて撃ち殺す。

 

 なかなか良い作戦だ。

 一対一の勝負で勝てないのなら、こちらの人数を活かして気を逸らし、疲弊させ、弱らせてから叩く。

 

 あのイリヤという娘、怒りで頭がいっぱいなのに頭は冴えているらしい。

 それは普通なかなかできることではない。

 優秀な騎士の資質を感じるな。

 

 ことが終わったら仕官の誘いをかけてみても良いかもしれない。

 

 そう思いながら白湯を飲み干した時、外が騒がしくなった。

 

 何事かと思って外に出ると、近くに人だかりができていた。

 

「あの娘たちが帰ってきたみたいね」

 

 隣にやって来たセルカが教えてくれる。

 

 そういえば、イリヤとウルフが山中に放置されていたボリスの遺体を回収しに行くと言っていたな。

 

 村人たちは即席の棺に収められたボリスの遺体に口々に別れを告げていた。

 

「私たちも行きましょう。ちょっと確かめたいこともあるし」

「分かった」

 

 村人たちに道を開けさせ、棺の前に来ると、セルカがボリスの遺体にそっと触れた。

 

 それはほんの一瞬で、すぐに手を放し、険しい表情で礼を尽くしていた。

 傍目からは何かしたとは分からなかっただろう。

 

 だが、俺には彼女がサイコメトリーを使ったのだと分かった。

 そして、それで見たものが余程のものだということも。

 

 やがて棺が馬橇に載せられ、運び去られていった。

 

 村人たちが解散し、周りに人がいなくなったタイミングでセルカが耳打ちしてくる。

 

「襲撃時の状況が見えたわ。彼は確かに不意打ちを喰らっていたけれど、それで死んだのは猟犬だけよ。彼は猟犬の犠牲で銃撃に成功していたわ」

「何?ならなんで倒せなかったんだ?」

「魔力よ。その熊がどういうわけか魔力を持っていて、それで体毛と皮膚を強化していたの」

 

 それはつまり──

 

「魔獣か」

「考えられる可能性はそれくらいね」

 

 魔獣──モンスターに比べると遭遇頻度こそ少ないが、脅威度はそこらのモンスターを遥かに上回るとされる存在。

 体内に魔力を宿し、普通の獣とは比較にならない強い力を持ち、時に原初的な魔法すら操ると言われる。

 

 一説ではその正体は魔力を豊富に宿した人間を喰った獣が変質したものだというが、詳細は不明。

 

 過去に出現した時にはほぼ例外なく甚大な被害をもたらし、討伐に多数の騎士や冒険者が動員されたのだとか。

 

「今ある装備では致命傷を負わせることは困難よ。あの娘には気の毒だけれど、貴女がやることになると思うわ」

「──そうか」

 

 イリヤの銃では魔獣と化した熊の身体を貫けない。

 それは即ち、彼女自身の手で仇を討つことは不可能ということだ。

 

 俺が熊を倒す──元々そのつもりだったとはいえ、やり切れない気分になる。

 前世で自分を破滅に追い込んだのが誰か知りながら、結局何もできずに死んだことを思い出してしまう。

 アーヴリルのように仇は死んだという結果だけ見て受け入れてくれるならいいが、イリヤはそのような割り切りができる人物ではなさそうだ。

 

 ──どうしたものか。

 

 イリヤに恨まれることは承知でさっさとやってしまった方が良いのは分かっている。

 

 そもそも俺は悪徳領主を目指す身だ。悪徳領主たるもの人に恨まれ、憎まれるのが本懐。

 

 なのに──らしくもなく考えてしまう。

 

 

◇◇◇

 

 

 翌朝。

 

 氷橋はしっかり芯まで凍り、頑丈な橋になっていた。

 

 その上を村人たちが渡り、アッカへと進撃する。

 

 そして先頭を進むイリヤが雪に残った足跡を発見した。

 

「まだ新しい。昨夜ここに来ていたんだ」

 

 足跡は渓流に沿って上流へと上っていった後、山の斜面へと消えていた。

 

「多分昨夜の試射の音を聞いて逃げたんだ。やっぱりまだこの近くにいる」

 

 イリヤの言葉に男たちが表情を強張らせる。

 だが、熊が銃の音で渓流を渡るのを諦めた、即ち自分たちを恐れているということは確かに彼らを勇気付けていた。

 

 そしてイリヤは積もった雪を少し手に取って撒き、風向きを確かめる。

 東向きの風。陽動部隊がちょうど潜んでいるであろう熊の風上に出る。

 

 予定通り、陽動部隊は足跡を追って山を登り、俺とイリヤは渓流をさらに上って待ち伏せの場所へ向かうことになった。

 

「気を付けて。必要だと思ったら躊躇なくやってね」

 

 セルカが別れ際に念を押してくる。

 

「ああ。分かっている」

 

 頷くと、セルカは陽動部隊の先頭へ向かって歩いていく。

 

 万が一熊がこちらの作戦を見破り、陽動部隊の方を襲ったら彼女に対処してもらうことになる。

 

 木々に紛れて見えなくなっていく陽動部隊を背に、俺とイリヤは雪の中を進んでいく。

 

 やがてイリヤの言っていた丘陵が迫ってくる。

 

 イリヤが丘陵の頂上付近に目を凝らしているので、空間把握でその方向を索敵してみたが、いくつかの小動物らしい反応があるだけだった。

 

 本当に熊はこちらに来ているのだろうか。

 

 そんな不安が頭をもたげるが、イリヤは丘陵の縁に沿って歩き始めた。

 

 俺は黙って彼女の後をついていく。丘陵の裏に回り込み、尾根へ出るルートを塞ぎに行くというのが当初の予定だ。

 そこまではまだ距離がある。

 

 やがて丘陵の向こうに隠れていた尾根が見えてくると、イリヤが足を止めた。

 

 そして俺の空間把握が一つの反応を見つけ出す。

 大型の動物。しかも微弱ながら魔力を発している。

 間違いなく、標的の熊だ。

 

 どうやら待ち伏せするつもりが先を越されてしまっていたようだが、幸いにもこちらは風下。

 匂いを気取られずに近づくことは可能だ。

 

 距離はおよそ二百メートル。

 

 イリヤの方を見ると、彼女も熊の存在に気づいているらしく、そっと斜面の上の方を指差していた。

 

 どうやらもっと近づいて高所を取るつもりのようだ。

 

 足音を立てないように細心の注意を払いながら、俺たちは熊ににじり寄っていく。

 

 そして遂に距離百メートルを切った所でイリヤが足を止め、ライフルを構えた。

 

 近くにあった木に身を寄せ、背筋を伸ばし、足を軽く開いて姿勢を安定させて照準器を覗き込む。

 その姿勢は逞しく、そして美しく見えた。

 

 イリヤの口から白い吐息が漏れ、直後に引き金が絞られる。

 

 凄まじい発砲音が凍てついた空気を切り裂き、山にこだまする。

 

 熊は目測で二、三メートルほどは跳ね上がったように見えた。

 

 着地の衝撃で舞い上がった無数の雪片が太陽光を反射して光り輝く。

 

「ッ!心臓外した!?」

 

 イリヤが毒づいて次弾を装填するが、俺は次の銃撃が通用しないと見て剣を抜いた。

 

 案の定、雪煙を突き破って熊はこちらに向かって突進してきた。

 

 吠え声を上げるその口から血が迸る。

 

(効いた!?)

 

 俺は内心驚いた。

 

 先程の初撃は魔力強化に阻まれることなく熊の身体を穿ったようだ。

 どうやら魔力による防御力強化は常時発動しているものではなかったらしい。

 珍しくセルカの読みが外れたな。

 

 だが──それもさっきでもうお終いだ。

 

 イリヤが熊の頭部目掛けて二発目を撃ったが、甲高い音を立てて弾かれる。

 

「なっ!?」

 

 イリヤは驚愕し、一瞬動きを止めてしまう。

 

 熊がイリヤに狙いを定めて襲いかかるが、それよりも早く俺の剣が熊の後脚を切り裂く。

 

 悲鳴を上げて雪に倒れ込む熊。

 

 そのまま首を刎ねてトドメを刺そうとしたが──

 

(危ねぇッ!)

 

 熊が身を捩って姿勢を変え、前脚を振るった。

 

 禍々しい巨大な爪がすぐ目の前を掠める。

 

 俺が距離を取った隙に熊は立ち上がり、殺気の込もった目で睨んでくる。

 

 その後脚の傷がみるみるうちに再生していく。

 

(再生能力まであるのかよ。厄介だな)

 

 熊の背後からイリヤが三発目の銃弾を撃ち込んだが、直前で気付かれ、防がれてしまう。

 

 熊は唸り声と共に背後目掛けて後脚で思い切り雪を蹴り上げ、今度は俺の方へ向かってきた。

 

 ただでさえ強力な熊の膂力に魔力による強化まで乗せた渾身の殴打が放たれる。

 

 受けるのも流すのも不可能だと瞬時に判断した俺は身を屈めて回避し、ガラ空きになった脇の下から心臓目掛けて刺突を繰り出す。

 

 だが、剣の鋒は針金のような毛に阻まれ、皮膚の表面を滑って逸れてしまった。

 

(クソッ!)

 

 予想以上に学習が早い奴だ。

 こちらの狙いを読んで瞬時に脇の防御力を強化しやがった。

 

 すれ違った勢いを維持したまま、熊は雪の中を走り抜け、斜面を下って逃げようとする。

 

「逃がすか!」

 

 素早く剣を鞘にしまい、尻を地面に付ける形で斜面を滑り降りる。

 

 スキー板も橇もなかったが、下層の雪が凍って硬くなっていたおかげでとんでもないスピードで滑っていく。

 

 生い茂る木に激突しないよう注意しつつも逃げていく熊の背は見失わないように目を凝らす。

 

 落ち着け。視野を広く。

 奴の動き、奴の視線、地形、風、雪の状態、そこから奴が向かう先は──

 

 風魔法を使い、奴の向かう先に先回りすべく一気に加速する。

 

 吹き溜まりを飛び越え、立ちはだかる木を逆に足場に利用し、熊に追いついた俺はすかさず風魔法の刃を放った。

 

 不可視の風の刃が分厚い毛皮を切り裂き、その下の肉と筋を破壊する。

 

 後脚を負傷した熊が足を止めた。

 

 その間に体勢を整えた俺は再び剣を抜き、熊目掛けて突撃する。

 

 視線から狙っている箇所を読まれないよう、また逆に奴の繰り出す手を読むために奴の目を注視する。

 

 絶対に奴はまた殴打を繰り出してくる。

 そして俺がそれを掻い潜って心臓への刺突を狙うことも読んでいるはず。

 

 だから今度は上に跳び、背中から首を狙う。

 頸椎を刺せたらしめたもの、もし皮膚を強化されて弾かれてもその時は剣帯を巻きつけて絞め殺せばいい。

 

 切り裂かれた後脚がまだ再生し切っていないところに俺が来たことで熊は逃走を諦めたらしく、再び前脚を振りかぶる。

 

 渾身の魔力を込めて跳躍して紙一重で躱し、丸見えの頸目掛けて剣を振り下ろす。

 

 ──ぱきん、という甲高い音を立てて剣は折れた。

 

 さすがにこれはちょっと想定外だったがまあいい。剣帯はとっくに用意してある。

 

 すぐに剣帯を熊の首に回すと、魔力で肉体を強化して思い切り引っ張る。

 

 首が締まった熊が俺を振り落とそうと暴れ回るが、両脚で挟み込んで逃がさない。

 自慢の前脚も背中にまでは届かず、剣帯自体を切り裂こうとしてもそれはアヴァリスの鎖と同様セルカ謹製の逸品。熊の爪では破壊は不可能である。

 

 やがて熊の動きが鈍り始め、もう少しで落とせそうだと思っていると、不意に熊が立ち上がった。

 そしてそのまま後ろに向かって倒れ始める。

 

「おい嘘だろ!」

 

 俺は絞殺を断念して熊の背から退避する。

 さすがにこんな大きさの熊にボディプレスされたら死ぬ。

 

 だが、ただで放してやるわけもなく、空いた喉元と腹に風の刃を投げつけてやった。

 

 熊の首と下腹に鋭い切れ込みが入り、血が噴き出す。

 

 すぐに再生が始まったが、傷口に入り込んだ微細な風が内部を切り裂き、傷口を広げていた。

 そのせいで再生には時間がかかり、その間に大量の血が流れ出る。

 

 傷口が再生した時には熊はもうフラフラだった。

 

 明らかに魔力も減退している。

 

 ──いける。

 

 そう思って再び風の刃を放とうとしたが──

 

 熊が全身の毛を一斉に逆立てたかと思うと、俺に向かって吠えた。

 

 魔力強化された肺と喉から放たれたとんでもなく大音量の咆哮が破壊的な衝撃波と化して襲いかかってくる。

 

 あまりにも唐突かつ予想外過ぎて対応できず、俺の身体は木の葉のように吹っ飛ばされて宙を舞った。

 

 ──くそ、なんか前にも同じような手を喰らった気がする。

 あれは確か──そうだ。ライチェスが自爆しやがったんだった。

 あの時はセルカが警告してくれたおかげで爆死は免れたが、今回はセルカはいなかった。

 そのせいで衝撃波をまともに喰らってしまった。

 

 雪がクッションになって骨折や失神こそしなかったが、耳と内臓がやられたらしく、耳鳴りと腹痛が酷い。

 

 熊がフラフラになりながらも牙を剥いて迫ってくる。

 

 奴の魔力はもう枯渇したようだが、問題は今の俺の状態だ。

 何とか近くに落ちていた木の枝を杖にして立つことはできたが、もう立っているだけでキツい。

 

 ここから熊の攻撃を躱して一撃入れられるかどうかは──否、やるしかない。

 

 俺は今まであらゆる危機を切り抜けてきた。

 凶悪なロボットも、ライチェスも、空賊も、オフリー伯爵家も、案内人の加護があったとはいえ、自分の力で跳ね除けてきた。

 それをこんな獣如きに終わりにされてたまるか。

 

 さあ、来るなら来い!

 

 その思いを込めて熊を睨みつけた直後。

 

 銃声が轟き、熊の身体が跳ねた。

 

 そしてこちらに背を向けて数歩歩いたところで横倒しに倒れた。

 

 ──倒した?

 

 そういえば銃声がしたな。

 ということは──

 

「エステル様!!」

 

 狼狽したイリヤが現れ、俺の顔を覗き込む。

 

「エステル様!ご無事ですか!?」

 

 血の気の引いた顔で問うてくるイリヤを見て、全身から力が抜けた。

 

 雪の上に座り込みながらも、俺は返事をする。

 

「ああ。何とかな。吠え声で耳と腸やられたみたいだが、それ以外は大丈夫だ」

「重傷じゃないですか!早く助けを──」

 

 イリヤが周囲から木の枝を拾い集めてくると、ナイフで表面を削って火をつけた。

 

 灰色の煙が空へと昇っていき、やがてそれを見て駆けつけてきたらしい人の声が聞こえてきた。

 

 ──助かった。

 

 

◇◇◇

 

 

 熊の死骸は即席の橇に載せられ、ケルンドまで運ばれることになった。

 

 憎き人喰い熊が討ち取られたことを被害者の遺族やアッカとケルンドの村人に見せるためだ。

 

 力自慢の男三十人が橇と熊の四肢に括り付けられたロープを引っ張り、熊の身体の重さに四苦八苦しながらも何とか渓流の所まで運び下ろした。

 

 そこから先はケルンドから連れてきた馬に橇を牽かせる手筈だったのだが、馬は熊の死骸を恐れ、橇を牽くのを嫌がって暴れた。

 

 やむなく、その先も人力で運ぶことになり、馬には代わりに俺が乗せられた。

 

 熊にやられた耳と内臓はセルカの治療魔法で元通りに治っていて、歩くのに支障はなかったが、セルカや村人たちは聞き入れてくれなかった。

 

 そうして渓流を下り始めて間もなく、濃い灰色の雲が山の方から出てきてたちまち空を覆い尽くし、雪が降り始めた。

 おまけに風も強くなり、森の木々が激しく揺れていた。

 

「山の天気は変わりやすいというけど──これはちょっと異常じゃないか?」

 

 セルカに訊いてみると、彼女は目を細めて空を見上げた。

 

「ただの嵐じゃないわね。微細だけど魔力が混じっているわ。魔法が使いにくくなるわね」

「それって──祟りみたいなやつか?」

「分からないわ。あの熊はとっくに死んでいるし、何かしたとは思えないけれど──」

 

 彼女の言い方はどこか歯切れが悪かったが、追及しても意味はないと思って俺はそれ以上何も言わなかった。

 

 やがて見えてきた氷橋を渡り、渓流沿いに更に下って、俺たちはケルンドに帰還した。

 

 あたりはすっかり日が暮れて暗くなっていた。

 

 熊の死骸が運び込まれた集会所の前には大勢の村人たちが集まった。

 

 彼らは死してなお巨大で力強い熊の身体に圧倒されて遠巻きに眺めているだけだったが、不意にその中から一人の老婆が進み出た。

 

 誰が止める間もなく、老婆は熊の死骸に近づいて杖を振りかぶり、熊の身体を叩いた。

 

 それが引き金となって複数の男女が熊の周囲に群がった。

 皆一様に泣き喚きながら、拳で、足で、熊の身体を痛めつけようとする。

 彼らはアッカの村民たちで、犠牲になった十二人の遺族たちだった。

 

 ふと、その光景を肩を震わせて見ているイリヤに気付いた。

 その手には大きな山刀が握られており、目は怒りと憎悪に満ちていた。

 

 そしてイリヤが熊の方に向かって一歩踏み出したその時、彼女の肩に手をかける者がいた。

 

「やめておきなさい。それは狩人の道ではないわ」

 

 

 

 研ぎ上げた山刀を手に熊のところへ向かおうとしたイリヤを諭したのはセルカだった。

 

「何を──知ったような口を利かないで!」

 

 イリヤは叫んでセルカの手を振り払ったが、セルカはすぐにその手を捕まえた。

 振り解こうとするが、セルカはその細腕に反して異様に力が強く、できなかった。

 

「よく考えてみて。貴女がしようとしていることは復讐でも死者への手向けでも何でもない、ただの冒涜よ」

「うるさい!アイツはじいちゃんを殺した!私の師匠で──お父さんよりもお父さんみたいな人だった!そのじいちゃんをズタズタに引き裂きやがって、許せない!同じ目に遭わせて、バラバラにして森に撒いてやる!」

「その敬愛する貴女の祖父は貴女の立場だったらそうするのかしら?」

「ッ!」

 

 セルカの問いかけにイリヤは言葉に詰まった。

 

 いつかのボリスとのやり取りが頭を過ぎる。

 

『ねぇじいちゃん。じいちゃんはなんでそんなに山のことが分かるの?』

『──聞こえるんだよ。山の声が』

『えーそんなの聞こえないよ』

『そう簡単には聞こえんさ。邪念や俗念を払わんとな』

『じゃねん?ぞくねん?』

『余計な考えや感情のことだ。特に──怒りと憎しみは耳を遠くして目も曇らせる。絶対に捨てねばならん。難しいことだが、捨てねばいつかそれに殺される』

 

 ああ、そうだ。

 

 あの時は牛を襲った狼を駆逐して、それでじいちゃんは殺した狼を──

 

「思い出したようね。ならば貴女が何をするのが一番貴女の祖父への手向けになるか、貴女はもう分かっているでしょう?」

 

 それは──だけど──それじゃ私はどこに行けばいいの?

 

 もうじいちゃんはいない。

 何をしたってもう帰ってこない。

 一緒に狩りはできないし、教わりたかったことももう聞けない。

 じいちゃんみたいな狩人になりたいと思って生きてきたのに、進むべき道が案内役ごと消えてしまった。

 

 死んだのはじいちゃんだけじゃない。

 私の夢と未来もだ。

 

 それなのに今更何したって──

 

「大丈夫。貴女は大丈夫よ」

 

 セルカのその言葉に思わず顔を上げた。

 

 血のような赤い瞳に縋るような顔をした自分が映る。

 

「貴女の祖父の教えは貴女の中で生き続ける。貴女がそこから目を逸らさない限り、貴女が迷った時、自分を見失った時、必ず導いてくれる。だから、信じて。貴女の祖父と貴女自身を」

 

 彼女の言葉は不思議と心の奥深くまで届いた。

 

 その赤い瞳を見ていると、心の靄が晴れていくかのような不思議な感覚になる。

 

 いつの間にか、自分の目から涙が溢れていることに気付いた。

 

 ──駄目だ。

 こんなこと、もうやめにしないと。

 私が本当に完全にじいちゃんを殺してしまう。

 

「分かり──ました」

 

 洟声で何とかそれだけ言って、イリヤは泣き崩れた。

 

 その肩をセルカはそっと抱きしめて支えていた。

 

 

 

 熊の死骸に群がっていた遺族たちだったが、その中で妻子を全員失ったエルサの夫が遂に大型の鎌を持ち出した。

 

「クソッタレ!俺の家族を返せーッ!」

 

 そう叫んで熊の死骸に切りつけようとしたが──

 

「やめろッッ!!」

 

 イリヤの怒鳴り声が雪風を切り裂いて響き渡る。

 

「そいつは私が仕留めた獲物だ!それ以上触るな!」

 

 彼女の剣幕と手にした山刀に村人たちは一瞬凍りついた。

 

 だが、大鎌を持ったエルサの夫が顔を歪めてイリヤに反論する。

 

「何で止めるんですか!妻も息子も皆こいつに食い殺されたんですよ!死体でも八つ裂きにしてやらねェと気が収まりませんよ!!」

 

 彼の叫びに村人たちは無言で頷き、イリヤを睨みつける。

 

 だが、イリヤは全く怯まず、落ち着いた口調で彼らに語りかける。

 

「儀式をしなくちゃいけないの。獣を仕留めたなら必ず、その魂を森の神様の下に送る。その獣がどんな罪を犯していても、関係ない。魂が神様の下に行けないまま現世に残ったら、災いをもたらすんだよ。現に今この嵐でしょ?」

 

 村人たちの間に動揺が走る。

 

 既に雪が降り始めてから数時間が経過しているのに、その勢いは全く衰える気配がない。

 そして吹き荒ぶ風はまるで熊の唸り声のようにも聞こえた。

 

 ケルンドや他の街や村から来た者たちはもちろん、遺族たちも皆ちらほらと空や山の方を見て不安げな表情を浮かべる。

 

 エルサの夫はしばらく無言で佇んでいたが、やがて持っていた大鎌を取り落とした。

 そのまま地に両膝をつけて嗚咽を漏らし始める。

 

 イリヤは彼の隣に寄り添って肩に手を置いた。

 

「こいつが憎いって気持ちは分かるよ。私もじいちゃんを喪った。だけど──もうこれくらいにしてあげて。この雪と風に免じて」

 

 涙を浮かべながら最後の説得をするイリヤにようやく村人たちは折れた。

 

 村人たちが熊から離れると、イリヤは熊の正面に膝をついた。

 

「偉大なる森の狩人、山つ神の仔の末裔よ。その魂はエンテの下へ。肉体は──肉体はぁぁぁ──」

 

 また新たに溢れ出た涙を拭い、洟をすすり上げて、イリヤは祈りの句の続きを唱える。

 

「現世に残りッ──我らの、糧と、なりたまえ」

 

 直後、一層強い風が吹きつけて一際大きく不気味な音を響かせた。

 

 だが、それを最後に強く吹いていた風は段々弱まり、山の方で雲が僅かに切れて月光が差し込むのが見えた。

 

 イリヤは立ち上がり、熊の解体に取り掛かった。

 

 熊の身体が橇から降ろされ、雪の上に仰向けに転がされた。

 

 イリヤが山刀を熊の胸部に突き入れ、下腹部まで一直線に切り開く。

 

 分厚い皮下脂肪と筋肉を切り裂いて内臓を露出させると、食道と腸を縛って切断し、内臓を一塊に全て取り出した。

 

 胆嚢を切り取って雪を詰めた革袋に収めると、次に胃を切り開いた。

 

 中から取り出された犠牲者の衣服の切れ端や髪、骨片に村人たちが悲痛な顔をする。

 

 あちこちですすり泣きが起こり、地面に拳を叩きつけている者もいた。

 

 その光景を見て俺はセルカに尋ねた。

 

「なぁ、なんでわざわざイリヤに止めさせたんだ?あいつの祖父さんの仇でもあるんだから好きなだけやらせておけばよかったと思うんだが?」

 

 セルカはイリヤたちの方を向いたまま視線だけ俺の方に向けて言った。

 

「怒りと憎しみに身を任せてあの熊の身体を切り刻んだところであの娘の心は癒されないわ。そして荒んだままの心では持った才能は腐るだけ。それじゃ困るでしょう?せっかく引き抜こうとしているのに」

 

 その答えに俺は得心がいく。

 

「やれやれ。お見通しか」

「これくらい念話なんて使わなくたって分かるわよ。貴女顔に出やすいもの」

「そ、そうか──」 

 

 赤面する俺をセルカが微笑ましいものを見る目で見つめてくる。

 

 その間にも熊の解体は順調に進み、毛皮が剥がされて頭が切り離された。

 

 頭を調べた結果、熊に致命傷を与えたのはやはりイリヤが最後に撃った弾であり、眉間に命中して頭蓋骨をぶち抜き、脳を破壊していた。

 

 剥がされた毛皮は脂肪が取り除かれ、広げられて板に張り付けられた。

 この毛皮と胆嚢は熊を仕留めたイリヤが所有することになっている。

 

 残った内臓と骨と肉は森に還されることになった。

 動物や虫に喰われ、やがて朽ちて養分となり、巡り巡って森の恵みとなるだろう。

 

 熊の解体が終わった頃にはすっかり夜が更けていた。

 

 村人たちはそれぞれの家や宿泊場所に戻り、集会所でアッカとケルンドが使い果たした食糧と燃料に対する援助と被害者の葬儀について話し合いがなされた。

 俺はその場で消費した分の倍の食糧と物資を両村に送り届ける旨の書類を二つ作って片方をウルフに持たせた。

 

 民たちには一刻も早く日常生活に戻って経済活動に励んでもらわなければならない。

 

 そのためなら援助という名の投資は惜しまないつもりだ。

 

 

 

 翌朝、アッカに残された遺体の回収と犠牲者たちの合同葬儀が行われた。

 

 遺体は荼毘に付され、遺骨はアッカの共同墓地に埋葬された。

 その上に慰霊碑を建てることも決定された。

 

 葬儀が終わると、カルティアイネン家から派遣されてきた応援は引き上げていった。

 

 そしてイリヤ率いる数人のケルンドの男たちが熊の残骸を橇に載せて山に向かっていった。

 

 彼らがケルンドに帰ってきたのは昼頃だった。

 

 男たちに労いの言葉をかけた後、ボリスの遺品であるライフルと毛皮の帽子の前で佇むイリヤに声をかけた。

 

「イリヤ、お疲れ様。大変だったな」

「エステル様──お気遣いありがとうございます。討伐の際も助けられましたね。このご恩はいつか必ずお返しします」

 

 丁寧に頭を下げるイリヤの姿は昨日までとは別人のようだ。

 

「それはお互い様だ。私はあいつにやられるところだった。お前があいつを仕留めて、助けを呼んでくれたおかげで助かったんだ。しかし、見事な腕だったな」

「いえそんな。エステル様が奴を弱らせてくださったおかげです。私一人では絶対に仕留められませんでした。まさか本当に剣で熊と戦われるとは思いませんでしたけど」

 

 どちらからともなく微かな笑みが漏れる。

 

 そして俺は話すのは今だと思って切り出した。

 

「イリヤ──お前、これからどうする気だ?」

「え?」

 

 イリヤが顔を上げて俺の顔を見る。

 

 そして悲しげに視線を落として呟く。

 

「──分かりません。仇討ちで頭がいっぱいで考えていなくて。でも──きっともう狩りは続けられないと思います」

 

 拳を握り締めて唇を噛むイリヤ。

 

 やはり実家の家族との関係はあまり良くないようだ。

 ボリスは彼女にとって狩りの師匠であると同時に、他の家族の干渉から守ってくれる後ろ盾でもあったのだろう。

 

 その後ろ盾を失って狩りができなくなったイリヤの行くところといったら──限られてくる。

 

「ならさ、落ち着いたら私のところに来ないか?腕の良い射手は大歓迎だぜ?」

 

 イリヤが目を見開いた。

 

「それって──」

「お前の腕とタフさなら優秀な騎士になれるぞ。訓練を受けて、私直属の騎士になる気はないか?」

「私が──騎士に?」

 

 自分を笑わせるための冗談ではないのかとでも言いたげな目で俺を見てくるが、俺は本気だ。

 

 優秀な人材は見つけたらすぐに取り込むに限る。

 立場や身分などというくだらない理由で貴重な才能を埋もれさせるなど、計り知れない損失だからな。

 

 俺が本気だということは視線と頷きだけで伝わったらしい。

 

 昏く澱んでいたイリヤの瞳に再び光が宿る。

 

 出会った時の灼熱の炎のような輝きではなく、夜空の星のような優しく美しい光。

 

 そして、イリヤは目を潤ませて頷いた。

 

「はい!よろしくお願いします!」

 

 

 

 エステル・フォウ・ファイアブランド直属の護衛騎士【イリヤ・カルティアイネン】──後に三百を超える敵を射殺し、ファイアブランド軍の最精鋭【ナンバーズ】への加入を果たす女性騎士が誕生した瞬間だった。

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