俺は天空国家の悪徳領主!   作:鈴名ひまり

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剣豪と特待生

「オリヴィアか──良い名前だな」

 

 不思議とその名前は彼女にぴったり合っている気がした。

 

「ありがとうございます。エステルさんも素敵なお名前ですよ」

 

 オリヴィアがにっこり笑う。

 その笑顔がどことなくティナに似ていて、こっちまでつい口元が緩んでしまう。

 

「ありがとう。ところで、オリヴィアはどこから来たんだ?その感じじゃ都会の出じゃないよな?」

「はい。南の方の小さな浮島から来たんです。周りに畑と森しかないような田舎で、外との行き来も殆どなくて──私も生まれてからこれまで一度も島を出たことがなくて、この学園に入れるなんて思ってもいなかったんですけど、どういうわけか入れることになって」

 

 なるほど──娘を学園にやれないくらい財政的に厳しい田舎の貧乏領主の家の出身ってところか。

 上級クラスにいるのだから少なくとも男爵くらいの爵位ではあるのだろうが──爵位はあっても実はなし、というやつなのだろう。

 数年前までのファイアブランド家もそうだった。

 

「そうか。大変だったんだな」

 

 言葉だけの薄っぺらい同情をしてやると、オリヴィアはかぶりを振って力強く答える。

 

「家族がいて、優しい顔見知りの人たちもいましたから。私が学園に行けることになった時も皆すごく喜んで、応援してくれたんです。だから、ここでいっぱい魔法の勉強して、いつか故郷に帰ったらお返ししたいって、そう思っています」

 

 頑張るぞ!という気迫に満ちたオリヴィアの顔は見ていて眩しかった。

 

 暮らしは貧しくとも、周りの人間に恵まれて、愛情と優しさに囲まれて育ってきた──そんな感じがする善良で真面目な良い子ちゃんだ。

 

 見たことのないタイプだからどんな娘かと思いきや、こんな娘だったのかと失望感が湧き上がる。

 前世の何も知らずにまやかしの幸福の中で呑気に生きていた頃の俺を見ているようで、嫌になる。

 

 溜息を吐きたいのを我慢して、俺は心にもない応援の言葉を口にする。

 

「──そうか。その意気ならきっとできるよ」

 

 オリヴィアはそんな言葉にも喜んで満面の笑みを浮かべていた。

 

「ありがとうございます」

 

 その笑顔を直視していられなくて、俺は目を背けた。

 

 灼けそうなくらいに眩しくて、そしてどこまでも透き通った涼やかなその瞳の深さに呑み込まれてしまいそうな気がしたのだ。

 

 このオリヴィアという娘には何か、人を虜にして従わせるような力がある。

 それがただの人間的な魅力なのか、ある種の超能力のようなものなのかは分からないし、そもそも普通の人間には感じ取ることもできないだろうが──長年の鍛錬で研ぎ澄まされた俺の直感はそう言っている。

 

 これ以上話しかけられても面倒だと思っていたが、すぐに教室の扉が開いて教師が入ってきた。

 

 教室の喧騒が静まっていく。

 

 オリヴィアも正面の黒板の方に向き直って真剣な顔をしている。

 

 その横顔を見ていると、また嫌な気分にはなるが──なぜか嫌うとか憎むとか、そういう気にはならなかった。

 

 

 

 チャイムが鳴り、午前の授業が終わりを告げる。

 

 基礎科目の最初の授業だったが、殆ど説明だけで終わってしまった。

 

 学生たちはそそくさと席を立ち、食堂へと向かい始める。

 

 俺も混雑が収まるのを待って出ようとすると、オリヴィアが呼び止めてくる。

 

「あの、エステルさん」

「何だ?」

 

 話していても良い子ちゃんぶりに辟易するだけなら、無視すればいいはずなのに──なぜか、思わず返事をしてしまう。

 

「えっと、よかったらお昼一緒に食べませんか?」

 

 あざとく握った手を胸に当てているのは、狙って媚びているのではなく、本当に勇気を振り絞っているからだろう。

 

 人間不信の俺の心がざわつくほどのこの可愛さは裏表のない良い子ちゃんなればこそ──こういうのに弱い所はまだ男なんだな。

 そう呆れつつも、彼女に近づかれると突き放せない。

 

「ティナを待たせているから合流してからな」

 

 オリヴィアの顔がまた花みたいに輝く。

 そういう所、卑怯だと思う。

 

 彼女を連れて教室を出ると、廊下でティナが待っていた。

 

「お疲れ様でした。お嬢様。あら?ご友人の方ですか?」

 

 オリヴィアを見て生温かい目になるティナから目を逸らし、鞄を押し付ける。

 

「違う。席が隣同士になっただけだ。さっさと飯に行くぞ」

「ふふ。はい」

 

 心なしかいつもよりも嬉しそうなティナが後ろを歩きながらオリヴィアに話しかけている。

 

「エステルお嬢様の専属使用人をしておりますティナと申します。どうぞお見知り置きください」

「い、いえそんな。えっと、私はオリヴィアです」

 

 丁寧な挨拶をされて、慣れていないのかあたふたしているオリヴィアをティナが微笑ましいといった表情で見つめている。

 

 ──どうしよう。

 完全にティナに友達ができたと認識されている。

 俺からすればあんな良い子ちゃん、友達どころか邪魔者なのだが、かといって邪険に扱えばティナが怒りそうだし──どうしたらいい?

 

 こうなったら友達付き合いはしておいて、セルカみたいに悪に染めて仲間にするか?

 

 そんなことを考えているうちにティナとオリヴィアはすっかり打ち解けてしまったらしく、話が弾んでいた。

 

 

 

 食堂にやって来ると、オリヴィアは無料メニューの列に並びに行った。

 

 やはり実家が貧しく、小遣いもロクに貰えていないらしい。

 

 ま、学園の食事は無料メニューでもけっこう豪勢だから、彼女にとっては贅沢だろうけどな。

 

 そして俺は迷いなく有料メニューの方へ行く。

 

 慎ましく無料メニューを食べるオリヴィアの前で、更に豪勢な料理をこれみよがしに味わって食べて優越感に浸る、というのも悪徳領主らしかろう。

 

 思わず笑みを溢しながら食事を受け取り、席を確保してオリヴィアを待つ俺だったが、合流してきた彼女が持っていたメニューを見て衝撃が走った。

 

(何──だと?)

 

 オリヴィアの持ってきたトレーに載っていたのは魚料理。

 それも縞模様のある青魚の切り身にどろっとした茶色いソースがたっぷりかかったやつ。

 ──見た目が鯖の味噌煮に似ていた。

 

 思わず生唾を呑み込んでしまう。

 

 転生前の酷かった時期、仕事からの帰り道に定食屋の前を通りかかった時いつもその匂いに腹を鳴らしていた。

 だが、当時はコンビニの安いおにぎり一つ買えないような貧乏暮らしでついぞ食べられなかった。

 

 そんな鯖の味噌煮が今目の前にある。

 もちろん、見た目が似ているだけで実際には別物なのだろうが、それでもどんな味がするのか興味をそそられる。

 

 そんな俺の内心など知らずに、オリヴィアは目を輝かせて「いただきます」と言って、食べ始める。

 

 好きな物は後に取っておくタイプなのか、魚には手を付けずに周りの野菜から先に食べている。

 

 ──言うべきか?

 今、「ちょっとおかず交換しようぜ」とオリヴィアに持ちかければ、鯖の味噌煮のような何かを食べられるかもしれない。

 幸いこちらのおかずというか、メインは見るからに高級なサーロインステーキ。

 取引の材料には十分過ぎるほどだ。

 

 だが、今日席が隣同士になって知り合ったばかりの女子にそんなの持ちかけるのってどうなのだ?

 それに何だか俺が魚欲しさに頭を下げる物乞いみたいじゃないか。

 

 悶々とする俺を見て、テーブルの脇に立っていたティナが横に来て耳打ちしてくる。

 

「お嬢様。そうして物欲しげに見つめている方がよほど物乞いみたいですよ。分けてもらいたいのであれば、はっきりそう申されるのがよろしいかと」

 

 な、何だと!?

 そんな物欲しげな顔をしていたのか俺は?

 恥ずかし過ぎるだろうが!

 

「あれ?どうかしましたか?エステルさん」

 

 ショックを受ける俺をオリヴィアがきょとんとした顔で見ている。

 

 するとティナが「チャンスですよ!」とでも言いたげに目配せしてきた。

 

 ──やはり言うしかないか。既にティナに恥ずかしいところを見られた以上、他の恥は掻き捨てだ。

 

「なぁ、オリヴィア。おかず、ちょっと交換しない、か?」

 

 上手く言えたかどうか微妙だったが、オリヴィアは目を輝かせて快諾してくれた。

 

「いいんですか?ぜひお願いします!」

 

 ステーキを見て今にも涎を垂らしそうな顔になっているオリヴィアを見て、なんか犬っぽいと思った。

 尻尾があったらぶんぶん振り回していそうである。

 

「半分ずつでいいか?」

「はい!」

 

 頷いて魚を切り分けるオリヴィア。

 

 フォークとナイフを使い慣れていないのか、若干苦戦していたので、代わりにやってやった。

 

 そして俺もステーキを半分に切り、オリヴィアの魚と交換した。

 

 トレード成立である。

 

「よかったですね」

 

 ティナが可愛いものを見るような目で俺を見てくる。

 

 ちくしょう。これではますます妹扱いされるじゃないか!

 

 だがやってしまったものは今更仕方がない。

 

 そう思いながら食べた鯖の味噌煮みたいな何かは──見た目だけで味は全く別物だった。

 

 普通に美味しかったが、オリヴィアにあげたステーキの半分に見合うものではなかった。

 

 結局俺の期待は裏切られ、ティナに恥ずかしい姿を見られて、トレードは俺の大損に終わってしまった。

 

 こんなの酷い!

 

 泣きたい気持ちを堪えて鯖の味噌煮もどきを切り刻んでやけ食いする俺をよそに、幸せそうにステーキを頬張るオリヴィアが恨めしくて──やっぱり可愛かった。

 

 

◇◇◇

 

 

「おいおい──今度は主人公様かよ」

 

 人気のない中庭の一角で相棒の報告を受けた彼は顔を顰めた。

 

 早朝クリスと接触したエステルだが、その後あろうことか()()()とも接触してしまった。

 

「これ出会いイベントに影響あったりしないだろうな?」

『主人公と攻略対象が出会う強制イベントでしたか?』

「そう。何もしなきゃもうすぐ起きるはずなんだけど──オフリー家の件があるからな」

 

 意図してか、そうでないかはともかく、以前エステルの取った行動によって()()がいなくなり、それによって本来起きるはずだった重要な出来事もなくなった。

 

 その前例がある以上、彼女が主人公と接触したともなれば、その影響を疑わずにはいられない。

 また重要なイベントが潰れるのではないか、そうでなくとも時期や内容が大きく変化するのではないか、と。

 

『現時点ではその予測は情報不足により不可能です。警戒監視を続けるほかないかと』

「──そうだな」

 

 既に変化が起こってしまっている以上、自分が下手に首を突っ込んで更にややこしいことになるのは避けたかった。

 

 ただ──

 

「だけどもし影響があったら、あいつと一度話をする必要があるな」

 

 オフリー家を取り潰しに追い込んだこと、立て続けに主要人物二人と接触したことだけでも十分大きな変化なのに、この上出会いイベントまで潰れるようなら──エステルが自分と同じ存在で、意図的にストーリーを改変しようとしている可能性を疑わなければならない。

 そしてそうでなかったとしても、それ以上の改変につながる行動をやめさせなければならない。

 

 主人公と攻略対象の誰かがシナリオ通りに恋をして、それを実らせなければ、その先に待つのはゲームオーバー──世界の破滅だからだ。

 

『話──ですか。彼女に睨まれただけで震え上がるマスターが面と向かって彼女と話などできるのですか?』

 

 言外に消した方がいいのではないかと匂わせる相棒に、彼は溜息を吐いて釘を刺す。

 

「それはそうなった時に何とかする。だから勝手なことをするんじゃないぞ?」

 

 

◇◇◇

 

 

 翌日。

 

 昨日と同じように朝の鍛錬をやっていると、訓練場に木剣を持ったクリスが現れる。

 

「おや、おはようございます。昨日より少しお早いですね」

 

 木剣を振る手を止めて目隠しを外して挨拶すると、クリスは恥ずかしそうに目を逸らす。

 

「君の剣を見てみたかっただけだ。──いつもそんな風に目隠しをしてやっているのか?」

「ええ。目にばかり頼るべからず、というのが師匠の教えでして」

「──聞いたことのない教えだな。鍛錬ならともかく、実際目隠しなどして戦えるのか?」

 

 首を傾げるクリスはきっと正統派の剣術しか知らないのだろう。

 王家の剣術指南役をしている家となると、有名流派の家元といったところか?

 流派を受け継ぐために純粋培養されたようなお坊ちゃん剣士なら、視界を奪われた時のことを想定して視覚以外の感覚を研ぎ澄ます訓練などされていなくても仕方がない。

 

 だが、だからといって忖度は一切しない。

 鏡花水月の力を疑うなど、不遜にも程がある。

 俺と師匠に対する不遜な態度には、相応の返しをせねばなるまい。

 

 ちょうど昨日ティナに生温かい目で見られて屈辱を味わったばかりだ。

 その分も叩きつけてくれよう。

 

「信じられないのでしたら、今ここで目に焼き付けて差し上げましょう。掛かり稽古で」

 

 そう言い放って、目隠しを着け直し、木剣を構える。

 

「準備はよろしいですか?」

「あ、ああ。だが──」

 

 クリスが何か言うよりも早く、地面を蹴って打ちかかる。

 

 避けるか流すかしなければ間違いなく脳天に直撃してノックアウト──そんな一撃をなんとクリスは防ぎやがった。

 

 そればかりか、体重をかけて押し込んだ衝撃力すら巧みに関節を駆使して殺し、少しずり下がっただけで完全に俺の勢いを止めた。

 

 こいつ──やはりできるな。

 剣豪の名は伊達ではないらしい。

 

 素早く距離を取って木剣を構え直す。

 

 こいつは思った以上に手強い。

 だが、肉体強化や鏡花水月を使うことなくこいつを下せるくらいになれば──それは魔力なしでは不利という俺の弱点の克服を意味する。

 

 さて、目標ができたのは良いとして、どうやって倒したものか。

 

 クリスはさっきの一撃を喰らって本気になったのか、その構えに隙はなく、全身から闘気が滲み出ているのを感じる。

 

 普通に斬りかかっても全て捌かれるイメージが浮かぶ。何ならそこからカウンターすら喰らいかねない。

 向こうから仕掛けてくるか、何かしら動いて隙が生じるのを待つしかない。

 

 自分で視界を封じてしまった以上、視線の向きから狙っている箇所を読み取ることはできないので、音と空気の流れと魔力に傾注する。

 僅かな起こりも見逃さないように意識を集中する。

 

 

 

 エステルと相対するクリスは驚き、焦っていた。

 

 先程まであった目隠しをして掛かり稽古など挑んできたエステルに対する疑念や不快感は消し飛び、代わりに恐怖が湧き上がっていた。

 

 こんな恐怖を感じることはそうそうあることではない。

 

 幼少期から剣聖の称号を持つ父に厳しく鍛えられてきたクリスは、誰が相手であろうと戦うことを恐れはしないし一歩も退かない、という自負を持っていた。

 実際、剣を握れば勝てない相手は殆どいなかったし、同年代などそれこそ赤子の手を捻るように打ち負かせた。

 

 それがどうだ。

 

 目の前の同い年の女子が先程かましてきた一撃は今まで相対した中で最も速く、重さも五指に入るほどだった。

 受けた時に一瞬手の感覚がなくなって骨が砕けたかと思ったし、その後の体当たりで吹っ飛ばされなかったのは奇跡とすら思える。

 

 しかも彼女は目隠しをしたままそれをやってのけた。

 自分には逆立ちしても不可能である。

 

(一体どうしたらそんなことができるんだ?古武術の一種なのか?)

 

 尋ねてみたいが、口を聞く余裕もない。

 ほんの少しでも意識を逸らせば、その瞬間にエステルは打ちかかってくるだろう。

 

 ただの掛かり稽古のはずなのに、まるで真剣での斬り合いをしているかのようだ。

 

 速さでは明らかにエステルの方が上で、力はほぼ対等。

 重さはこちらが上だろうが、速さと力で埋められている。そうでなければあんな一撃は繰り出せない。

 そして感覚において彼女は圧倒的にこちらを上回っている。目隠しこそしているが、間違いなくこちらが見えている。

 

 こちらから仕掛けても勝てない──直感でそう思う。

 どうにかして相手から仕掛けさせて隙を作るか、油断が生じるのを待つしか勝ち筋を見出せない。

 

 心臓が破裂しそうなほど鼓動が高まり、汗が頬を伝って流れ落ちる。

 

 そのまま永久に紛うような睨み合いを数分続けた後──

 

「お嬢様!遅刻しますよ」

 

 突然割り込んできた声によって掛かり稽古は中断される。

 

 声の主はメイド服を着た獣人の女性──専属使用人だった。

 

 専属使用人に呼ばれたエステルは慌てて目隠しを外し、一緒にその場を去っていく。

 

 取り残されたクリスはどっと息を吐いた。

 

(何だったんだ?あの子は──)

 

 エステルが去って恐怖から解き放たれた──そのはずなのに一向に動悸は収まらない。

 

 どこか、頭から水を浴びせられたように身体が冷えて総毛立っている。

 

 久しく出会わなかった、自分と同等かそれ以上に強い同い年の剣士──しかも女子。

 その存在がどこか澱んで湿気っていた心に強い風を吹き込んだ。

 

 ──負けられない。

 

 今度戦う時は必ず勝たなければ。

 彼女の剣を見て、対策を立てて、そのための鍛錬をして、そして再戦を申し込む。

 

 これまでクリスは剣の道に人生のほぼ全てを捧げてきた。

 

 その剣で負けることだけはプライドが許さない。

 

 

◇◇◇

 

 

「いやそれどうなっているの!?」

 

 映像を見た彼は思わずツッコミを入れずにはいられなかった。

 

 目隠しをした状態で木剣を振るい、あまつさえ剣豪と呼ばれるクリスと渡り合うなど、もはや驚きを通り越して何かのギャグではないかと思えてくる。

 

『おそらくですが、聴覚によるエコーロケーションと皮膚の感覚による空気の振動や流れの変化の感知、そして相手の魔力の変化の感知を同時並行で行なっているものと思われます』

「律儀な解説どうも」

 

 仮説を述べてくる相棒に投げやりな礼を言う。

 

 相棒の言うことが本当だとしても、あれはとても人間業ではない。

 自分は彼女の力を桁三つか四つほど読み違えていたのではあるまいか。

 

 クリスですら一撃喰らった後は勝ち筋が見えなかったのか、あるいは恐怖したのか、完全に動けなくなっていた。

 そこそこ鍛えているとはいえ、凡人の域を出ない今の自分ではとても相対して立っていられる気はしない。

 

 故に彼は祈る。

 どうかこれ以上のシナリオの変化が起こりませんように、彼女を止めるために介入する必要がありませんように、と。

 

 だが、彼はただ祈るだけでは何も変わらないことも知っていた。

 

 今更追いつけるとも思えないが、せめて鍛錬は怠らないようにしよう、と彼は決意した。

 

 そして思い立ったが吉日とはこのことか、その日は午後体育だった。

 

 

◇◇◇

 

 

 午後。

 

 グラウンドには運動着姿の女子生徒が整列していた。

 

 今日は午後いっぱい体育だ。

 

 冒険者によって建国され、尚武の気風が強い国の学園だけあって、体育はかなり重視されている。

 男子は戦うために、女子は丈夫な子を産むために、身体作りは必要不可欠という理屈だ。

 

 尤も、求められる程度や能力というのは男女で違うので、内容はまるで別だ。

 女子はスポーツや武芸、男子は実戦を想定した本格的な軍事教練。

 

 正直、俺にとっては女子の体育など準備運動くらいにしかならないだろうが、かといって男子の体育に入れてもらうのも無理だろう。

 身体能力的には余裕でついていけても、他に色々と問題がある。

 

 と、現実逃避はここまでだ。

 

 女性教師が点呼を取り、全員揃っていることが確認されると、教師の自己紹介と共に今後の授業内容が通達される。

 

 今日は身体能力測定を行い、次回からは何種類かのスポーツから選択することになるようだ。

 

 やはりというか、ヌルい。

 ヌルいならそれなりに勝負でもあれば面白いだろうが、そういう種目も殆どない。

 

「では二人一組になって準備体操からです」

 

 女性教師の号令で周囲が一斉に組を作り始めるが──困った。

 どういうわけか、周囲が俺を避ける避ける。

 

 声を掛けようと近づいたら急いで近くの奴と組んで露骨に安堵した顔をする。

 

 体格のせいか、悪人面のせいかは知らないが、口には出さないながら明らかに恐れられていた。

 

 おいおい勘弁してくれよ。

 恐れられるのは悪徳領主としては良いが、初回でいきなりあぶれてぼっちとか恥ずかしいだろうが。

 

 そう思ってまだ組んでいない奴を探していたら──

 

「あ、エステルさん」

 

 オリヴィアが駆け寄ってきた。

 

「ちょうど良かったです。よかったら私と組みませんか?」

「──そうだな。やるか」

 

 他に組んでくれる奴が見つかるとも思えなかったので、仕方なくオリヴィアの提案を受け入れた。

 

 で、準備体操を始めたわけだが──ここで問題が発生する。

 

「痛い!痛いです!」

 

「ん──うんんんんん!──すみません」

 

「あっ!ごめんなさい!痛かったですか?」

 

 ──オリヴィアは運動音痴だった。

 

 ストレッチではすぐに悲鳴を上げ、担ぎ合いでは俺を持ち上げられず、開脚跳びでは俺の横っ面に太ももを直撃させてくれやがった。

 

 ま、それはそれで役得なところもあるからまだいいが、周囲が俺たちを見てクスクス笑っているのは腹立たしい。

 

「すみません。私のせいで──」

 

 オリヴィアが耳まで真っ赤にしながら謝ってくるが、正直言って逆効果である。

 あの手の連中は下手に出たり卑屈になるとひたすら増長するのだ。

 

「謝るなよ。別に気にしちゃいない」

 

 オリヴィアには卑屈な態度をやめさせるために努めて優しく言ってやったが、それこそ真っ赤な嘘だ。

 本当は腸が煮えくりかえっている。

 

 覚えていろよ。この屈辱はいつか必ず晴らしてやる。

 

 歯軋りしながら準備体操を終えると、次はいよいよ測定だ。

 

 やることは短距離走、持久走、立ち幅跳び、そしてボール投げ。

 

 まず短距離走の測定が始まり、名簿順に名前が呼ばれていく。

 

 順番が回ってくるまで暇なので、グラウンドの反対側でやっている男子の方を見てみると、初回からいきなりグラウンドの周りを走っていた。しかも何やら大きな声で軍歌?みたいなものを歌いながら。

 

 あの中にクリスやリオンもいるのだろう。

 

 ──やっぱりちょっと無理言ってでもあっちに入れてもらえるよう交渉すべきだっただろうか。

 

 そう思っていると、聞き覚えのある名前が呼ばれる。

 

「次!アンジェリカさん、アナベルさん、アントニアさん、アリエルさん」

 

 見ると、やはり公爵令嬢アンジェリカが短距離走レーンに出て行くところだった。

 

 運動着だと余計に目立つ豊満な胸と、しっかりした安定感のある腰回り、そこから伸びる肉感的な太ももが目を惹く。

 オリヴィアも大概だが、アンジェリカはそれ以上にセクシーである。

 

 そしてそれがただ魅せるための身体つきではないことはすぐに分かった。

 

 実際、笛の合図で走り出した四人の中でアンジェリカはずば抜けて速かった。

 走る姿勢も動きも滑らかでしなやか、無駄がなく美しい。

 

 そして彼女が叩き出したタイムにどよめきが上がる。

 

 五十メートルを六・七秒。当然今の所一番だ。

 

「マジか。アンジェリカ凄いな」

 

 俺も思わず感嘆の声が漏れた。

 あんな二、三キロはありそうな大きな()()を抱えて六秒台は素直に驚きである。

 

「凄いですよね!あんなに綺麗でスタイル良くて、運動も──憧れちゃいます!」

 

 隣に座るオリヴィアも瞳に星が浮かびそうな勢いで興奮している。

 

 それを見てなぜか対抗心が湧いた。

 どうせ俺にとっては準備運動くらいにしかならないし、適当にやろうと思っていたが、気が変わった。

 魔法なしで出せる全力を出してやろう。

 元より負けるのは嫌いだ。どうせなら圧倒的トップを狙ってやる。

 

 そして何組かが走った後、俺の番がやって来る。

 

「次!エリスさん、エミリーさん、エノラさん、エステルさん」

 

 呼ばれた他の三人と一緒にレーンに入り、スタートラインに並ぶ。

 

「よーい!」

 

 女性教師の合図でスタートダッシュの姿勢を取り、笛が鳴ると同時に走り出す。

 

 鏡花水月の会得のために幼少期から厳しい修行を積んできた俺が本気で走れば、誰もついてこられないだろうと思っていたが、予想に反して並走してくる奴が一人いた。

 

 ダークグレーの髪を編み込んだ小柄な女子──たしかエリスと呼ばれていた──が前傾姿勢を保ったまま目にも止まらない速さで脚を動かして、俺の殆ど真横を走っている。

 

 負けじと俺もギアをもう一段上げるが、向こうの方が先にトップスピードに乗ったせいか、引き離せなかった。

 

 結局ゴールラインを越えたのはほぼ同時だった。

 

「エステルさん五・九!エリスさん六・〇!」

 

 辛うじて俺が五秒台でエリスが六秒ぴったりだが、誤差みたいなものだ。

 リベンジしたいが、残念ながら測定はやり直しなしの一発勝負。タイムはこれで確定だ。

 

 エリスが呼吸を整えながら話しかけてくる。

 

「いやー早いね君。私駆けっこには自信あったんだけどな」

「──それはどうも。そっちこそよく追いついてこられたな」

 

 驚愕と悔しさ、それと馴れ馴れしく「君」と呼ばれた苛立ちでつい口調が荒くなる。

 大差を付けて勝利して然るべきところで一般人に追いつかれるなど、鏡花水月の名折れである。

 

 だがエリスは気にする様子もなく飄々としていた。

 

「まあ昔から必死こいて足腰鍛えてきてるからね。君もそうでしょ?」

 

 ──ほう。只者じゃないとは思っていたが、やはりそうか。

 何かの目的のために必死に努力している奴は意外といるものらしい。

 このエリスという女子の場合は何を目指しているのだろうか。

 

「面白そうだし、また今度話をしよう」

 

 そう言ってエリスは去って行く。

 

 周囲から避けられていたと思えば、話をしたがる奴も出てくる──不思議なものだと思いながら俺も座っていた場所に戻った。

 

 

 

 身体測定が終わり、生徒たちは更衣室へと向かって行く。

 

 結局短距離走の後の三つは俺が大差でぶっちぎって、どうにか鏡花水月の矜持を守ることができた──と思う。

 オリヴィアがアンジェリカの走りを見た時以上に驚き、褒め称えてきたので気分も良い。

 

 ちなみにオリヴィアの測定結果は──まあ酷かった。

 どれも下から数えた方が早く、終わった後は息を切らしていた。

 持久走が終わった後なんてぶっ倒れそうになっていたので俺が介抱してやった。

 

 そして今は疲れ切ったオリヴィアに給水所で水をたっぷり飲ませている。

 

 今まで運動といったら、近所の子と川や野原で遊ぶのと畑仕事くらいしかしたことがなかったらしい。

 悪事を働くにも何をするにも資本となる身体が全然なっていないとは、これは悪に染めて仲間にするのも時間がかかりそうだな。

 

 ようやくオリヴィアが人心地ついたらしく、大きく息を吐いて礼を言ってきた。

 

「ありがとうございます。もう大丈夫です」

「そうか。ならさっさと着替えに帰るぞ」

 

 更衣室に向かって歩き出すと、オリヴィアは慌てて後を追ってきた。

 やはり子犬みたいだ。

 前世で飼っていた犬が、どこに行くにも後についてきていたのを思い出す。

 

 そしてオリヴィアと一緒に皆より遅れて更衣室に入った俺たちだったが、またしても問題は起こった。

 

 ロッカーを開けたオリヴィアが焦った声を上げる。

 

「あれ?どうして──」

「どうした?」

 

 声をかけると、オリヴィアは狼狽した顔で言った。

 

「スカートがないんです」

「──は?」

「ロッカーの中全部空けて見たんですけど、スカートだけ見つからないんです」

 

 その言葉通り、床にぶちまけられた制服と運動着入れの中にスカートだけがない。

 他の物は揃っていることからすると、誰かが間違えて持って行ったとは考えにくい。

 

 ──盗まれたと見るべきだろう。

 なぜかは分からないが、誰かに目を付けられたのかもしれない。

 

「取り敢えずロッカー全部開けてみろ。違う所に入っているかもしれない」

 

 オリヴィアが頷いてロッカーを片っ端から開けていく。

 

 そして俺はゴミ箱を探す。

 こういう物隠しには前世で遭ったことがある。

 筆箱から靴まで色々盗られたが、大抵の場合その行き先は近くの別の場所か、ゴミ箱だ。

 

 果たして、隅っこの方にあったゴミ箱を覗き込むと、オリヴィアのものと思しきスカートが捨てられていた。

 

 ──怒りが沸々と湧き上がってくる。

 

「あったぞ」

 

 声をかけるとオリヴィアは駆け寄ってきた。

 そしてゴミ箱に捨てられていたスカートを見て息を呑む。

 

 信じられない、といった顔をするオリヴィアに俺は問いかける。

 

「オリヴィア──お前、誰かに目を付けられるようなこと、したか?」

「え?──いいえ。心当たりがありません」

「──そうか」

 

 ならばこれは悪意を持っての嫌がらせで間違いない。

 

 別に俺がされたわけではないし、俺自身に実害はないが、それでも近くで見るとやはり頭に来るものがある。

 

 どうしてくれようかと考えていると、オリヴィアが言った。

 

「ただ──私、浮いていますから」

「──どういうことだ?」

 

 気がかりなことを言い出したので訊いてみると、オリヴィアは悲しそうな表情でとんでもないことを告げてくる。

 

「私、貴族じゃないんです」

 

 ──は?

 貴族じゃないって、どういうことだ?

 

 困惑する俺にオリヴィアは若干驚いた顔をする。

 

「本当にご存知なかったんですね」

「──何をだよ?」

 

 少し語気を強めて問うた俺に、彼女が明かしたのは──

 

 

「私、特待生──平民なんです」

 

 

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